悲睡蓮後編
目覚めた私が見たのは、やはり見慣れた私室の天井だった。
(夢の中の彼女が言っていた事が本当ならば、悲睡蓮と父の事を知る一番の近道は夢の中にあるのだろう)
寝汗で湿気った身体に、僅かな疲労感。
身体は僅かに火照り、喉の痛みも強くなった気がする。
ベッドの傍らに置いたスマホは、朝の八時を指していた。
寝すぎたと思いながら身体を起こして、着替えもせずに私は緩やかな足取りで一階のリビングへ向かう。
(ゼリー買っておいて良かった)
救急箱とゼリー飲料を片手に持ち、リビングのソファーに座り込むと、安堵と気怠さの交ざった吐息が零れた。
救急箱から体温計を取り出して、熱を計る。
身体が求めるままにゼリー飲料で水分と栄養を取っていると、体温計が熱の具合を教えてくれた。
三十八度二分。完全に風邪を拗らせたらしい。
栄養をとって寝れば治るだろうか。
少なくとも今日は母の見舞いに行くべきではないだろう。
母には熱の事を伏せて、体調整えるために見舞いへ行かないとだけメッセージを送り、ソファーに背を預けて天井を見上げた。
思考が呆けて、喉が熱い。
僅かに潤んだ瞳が視界を歪める。
小さく吐息を吐いたと同時に、スマホの通知音が鳴った。
母から着た了解という返信を眺めてから、私は再び二階の私室へと向かった。
ベットに向かい崩れるように寝転がると、身体が重く沈む感覚がして、思考が眠りに染まっていくのを感じる。
(ああ、重くて熱いな)
先程水分を取ったというのに、身体の熱は変わらず弱火で身を焦がすようだ。
熱い。怠い。眠い。
思考が朧気になる中で、あの池の睡蓮が浮かんだ。
悲睡蓮。綺麗な翡翠色。
「緑色の綺麗な」
掠れた喉から零れた言葉は、懐かしさが混ざり合っていた気がした。
ああ、瞼が重いな。
何れにせよ現実に悲睡蓮の手がかりは無いのだ。
それならばこのまま、あの場所に行こう。
行って多くの話をしよう。
そう思った私はゆっくりと意識を手放した。
※※※
再び意識が浮かび上がったのは、見慣れた森の中だった。
三度目ともなると、思考は冷静になり、行動も迅速となるものだ。
柔らかな芝生を踏み、私は淡々と森を突き進んでいく。
数分も歩くと爽やかな微風が吹く広場に辿り着き、更に先へと歩き続けていく。
「やっぱり来たね」
緑色の睡蓮が咲き誇る池の端に、白いノースリーブワンピースの女性が、涼やかな表情で横座りに寛いでいた。
「父の事も悲睡蓮の事も、貴女に聞くしかないもの」
池の端に佇み彼女を見つめる私の言葉に、彼女も瞳を細め小さく頷く。
その仕草を肯定と見た私は、池に浮かぶ睡蓮について訊ねる。
すると彼女はゆっくりと穏やかな声で話し始めた。
「悲睡蓮は、此処に来たもの達の記憶の欠片なんだ。花弁のように薄れる事で淡い魅力が増していく。ゆっくりと花開き、時の流れるままに散り、最後はその記憶と共に池に沈むんだ」
そう告げる彼女の声を聞きながら、私は改めて池に浮かぶ悲睡蓮を見回していく。
水面に咲く十数輪の悲睡蓮は、三分咲きの物から、花弁の朽ちた物まで様々である。
「手前のは咲き始めなのに、真ん中に寄っているのは枯れているのね」
私や彼女の佇む池の端には、三分咲きの悲睡蓮が色濃く咲き誇っているというのに、中心部に咲く物達は今にも沈んでしまいそうな程に朽ちていた。
よく見ると池の底は柔らかな翡翠色に染まっており、幾重にも重なった悲睡蓮の花弁が沈んでいた。
空は青く、柔らかな微風は心地が良い。
一面に広がる青々とした芝生と、草木の爽やかな香りがする。
池の水は山の清流を想像させる冷たさで、本当に此処は何時までも居たくなるような過ごしやすさだ。
だからこそ、池の底の澱むような翡翠色が、何故か不気味に思えた。
見続けるのが憂鬱になった私は、彼女に父の事を訊ねた。
「三年前に私の父も此処に来たのかもしれない。少し高齢で心臓の病を患っていた。穏やかで読書が趣味の優しい人だったわ」
此処が現実ならば、父の写真も見せられるのに。
見せられるものが無い場では、言葉を搔き集めるしか術がない。
歯痒い気持ちで問う私に、彼女は意味深な薄笑みを浮かべた。
「前に話したように、此処に来るには縁が必要なんだ。君の場合は君の父なのだろう」
涼しい顔で池の中心を眺める彼女の声音に、私は無意識で息を吞む。
「縁とは繋がり。糸のようなものだ。確かに私は君の父を知っているのだろう」
淡々と発する彼女の声は、確信めいているというのに何処か頼りないものだった。
訝しむ私の表情に、彼女は苦笑を浮かべ首を小さく横に振る。
「君の父は翡翠蓮と縁があったのだろう。ならばきっと此処に来た事があるはずだ。此処に来たのならば、私とも必ず会っている。だが、此処には度々誰かが来る。君の父との記憶が埋もれてしまうのも致し方ない事なんだよ」
困ったように話す彼女の言葉は、当然といえるだろう。
日に何度か人と関わるとして、各々の出来事を問われて直ぐに答えられるほど、人の記憶とは単純ではない。
興味深いものは明確に、無関心のものは殆ど薄れてしまうものだ。
彼女の話が事実ならば、此処には多くのもの達が訪れるのだろう。
ならば三年前に会ったものを明確に思い出せというのは、難しい事である。
だが、それでも私には此処しかないのだ。
「なんでもいいの。父が此処で何を見て何を思ったのか。貴女と何を話したのか。ほんの少しでもいいから、思い出して」
追い詰められたような声と、迷子の子供が誰かに縋るような表情を浮かべる私に、彼女も一呼吸置いてから口を開いた。
「もう時間が無いな。分かった。次に君が来るまでに記憶を辿り思い出せる限りを尽くそう。その時、改めて君の父の事を話そう」
そう告げる彼女を含めた景色が、白い薄霧に包まれていく。
「必ず、必ず来るわ。だからその時は…」
霧の中で私の懸命に強く発した声は、彼女に届いたのだろうか。
ただ一つ分かった事は、霧に消える彼女が微笑んでいた事だけだった。
※※※
酷く身体が熱い。
気怠く重い身体と、寝汗による不快感。
「っ…ぁ…喉が」
声は荒れ擦れて、焼け付くような痛みを感じる。
時刻は早朝の五時過ぎ。
このまま再び眠りたいという思いが過る。
こんな時、母が居てくれたら看病を頼めるのにと考えてしまうが、それを思っても仕方がない。
ベットに手を着き、どうにか身体を起こす。
起きた瞬間、頭の奥に痛みを感じた。
(これ、明日までに治るの?)
今から病院に行くべきか。
いや、しかしどうにか身体は動き、意識も確りしているのだ。
幸い風邪薬はまだ残っており、ゼリー飲料もスポーツ飲料もある。
(もう一晩だけ)
まだ病院に行く程ではないと判断した私は、部屋着を片手に部屋を出た。
部屋を出て階段へと向かう途中、何かの気配を感じた気がしたが、振り向いた先にあったのは書斎のドアだけだった。
今この家に居るのは私だけである。
玄関には鍵を掛けているのだから、誰も入りようがない。
体力の落ちた重い身体をゆっくりと動かして、私は一階のリビングへと向かった。
リビングのソファに怠い身を預け、冷えたスポーツ飲料を喉に流し込む。
喉の渇きと焼けるような体の熱が癒されて、安堵の吐息が零れた。
体温計の数値は三十九度二分。
自宅療養の範囲無いと言えるだろう。
例え明日熱が少し高くとも、その時は体調の悪さを母に伝えて、申し訳ないが一人で帰ってきてもらえば良い。
何よりも、今自宅を離れたら、夢の中の彼女と会えなくなるような気がするのだ。
彼女は父の事を知っていると言っていた。
きっと私や母も知らない父の事を、彼女は知っているのだろう。
病で寝たきりになっていた頃の父の事も、彼女は知っているのかもしれない。
(行こう)
額に冷却ジェルのシートを貼り、半分ほど残った飲みかけのスポーツ飲料のボトルを片手にソファから起きて立ち上がる。
あと少しまできたのだ。
父の思いを知れないままは嫌なのだ。
不安定な足取りと、呆けていく思考を堪えながら二階の私室に辿り着くと、糸が千切れたように私はベットに倒れる。
傍らには投げ出された液晶の暗いスマホとスポーツ飲料のボトルが転がっていのが見えた。
鈍く響く頭痛と重い瞼に抗う事もせず、私は眠りに落ちた。
※※※
あれ程重かった身体も、頭に響いていた鈍痛も、青い草木の生い茂るこの森に立つと、初めから無かったように苦痛が無くなっていた。
この森だけではない。
きっとこの世界に居る事で、現実にある苦痛が薄れるのだろう。
夢の中では痛みを感じないと聞いた事があるのだが、この感覚は本当にそれだけなのだろうか。
「早く行かなきゃ」
池に寄り添う彼女は、父の事を知っていると言っていた。
次に私が来る時までには、思い出しておくと言ってくれていたのだ。
私と父を繋ぐのは、もう此処しか残っていない。
父が悲睡蓮を見て、此処で何を感じたのか。
父は最後に何を考えていたのか。
三年も過ぎて、記憶は砂のように少しずつ散っている。
あと数年後の私は、父の声を忘れているかもしれない。
手のひらから零れ落ちて消える記憶は、替えの利かないものだと分かっている。
時間には抗えない事も理解しているのだ。
それでも私の中に無い父の事を知る事で、記憶が消えていく時間に抗いたいと願ってしまうのは、悪足掻き以外の何物でもないのだろう。
確りと地を踏み、病が抜けた身体で歩調を速めていく。
青々とした木々の森を駆け抜け、広い芝生を更に急ぐ。
微風と青草の匂いの中、懸命に駆けてきた私に、池の端で佇む白いワンピースの彼女が困ったように薄笑みを浮かべていた。
「そんなに急がなくても大丈夫なのに」
そう苦笑する彼女に、私は真剣な表情で向き直る。
「父の事を教えて。父は悲睡蓮を見て、この世界で何を感じていたの?」
荒れた呼吸を整えながら私が問うと、彼女は頷き私と距離を詰めてきた。
「君の父、彼もある日ふらりと此処に来た。彼も何処かで翡翠蓮との縁があったんだろうね。初めて見た彼は、この池に咲く悲睡蓮を見て、時が止まったように驚いていたよ」
私を通して遠い過去を眺めているのか。
彼女の視線から目が離せず、私は静かに言葉を待った。
「彼の話では、此処に来た頃には既に心臓の病を患って、余命について戸惑っていた」
父が戸惑っていた。
私や母の前では落ち着いて受け入れていたというのに、彼女には不安を吐露していたというのだろうか。
「確か、余命数年と言っていたな。近くも遠くも無い終わりというのも、きっと不安で孤独なものだろう」
瞳を伏せる彼女の表情は、憐れを思うように見えた。
確かに父の寿命はもう少し長いはずだった。
だというのに、病の進行は思いの外に早く、一年と少しで父は無くなってしまったのだ。
「彼の命が消えるのは、随分と早かった?」
憐みの向こうで薄く笑みを浮かべて問う彼女の言葉に、私は小さく頷いた。
医者に告げられた寿命より、短く散った父の命。
確かにその事を不思議には思っていたのだ。
その疑問に答えるように、彼女は池の端に横座りをして、私を見上げた。
「此処は居心地が良いだろう?現世の苦痛は此処に無い。不安も疲労も感じず、何も恐れなくていい。そういう場所だけれど、此処と現世を通い歩くのには対価がいるんだよ」
池の端に座る彼女が水面に手のひらを重ねると、池の底から薄緑色の小さな明かりが集まっていく。
「対価は生気。生命そのもの。此処に通う者は皆、生気を対価に此処に来るんだ。それは君の父も、そして君自身も差し出している」
彼女の手のひらに小さな緑色の光球が一つ重なっていく。
悲睡蓮のような、翡翠色の柔らかな光が、ふわりと彼女の手に収まり揺れている。
悲睡蓮はここに来たものの記憶。此処に来る対価は生命。
命はいつか亡くなるものだ。
その一部を払い続けたとして、きっといつか限界が来る事だろう。
「それなら、何時かは此処に来れなくなるのかしら」
悲睡蓮の事も父の事も、そして此処に住む彼女の事も、私は未だに知らない事ばかりだ。
それなのに、時間は有限である。
戸惑う私に、彼女は小さく首を横に振る。
「確かに、現世から此処に通う事には限りがある。けれど、此処の時間は無限なんだ.」
そう話しながら彼女は水面から手を離す。
手が離れた事で、緑の光球はしゃぼん玉のように弾けて、すっと水面に溶けて消えていく。
「君の父のように、君が望むならずっと此処に居ればいい。君が望めば叶う事なんだ」
再び立ち上がり対面する彼女の言葉に、私は漸く意味を理解した。
生命には限りがあって、此処は夢であって夢では無い。
彼の世というものを見た事は無いが、此処はそれに近い気がした。
此処が彼の世ならば、彼女の言葉の意味も父の短命も腑に落ちる。
「父は、此処を選んだのね。私や母よりも、この世界を」
家族を愛していたと信じていた父は、最後には家族を捨てて此処を選んだ。
物心つく頃から楽しい事も、苦しい事も共に家族で乗り越えてきた事は、嘘だったのだろうかと思うと、私の身体から力が抜けそうになっていくのを感じる。
父が病を患った後も、母と私は寄り添い支えていたというのに、何が悪かったというのだろう。
悲しみが心に滲む私に、彼女の言葉が冷たく響く。
「仕方ないよ。何故なら、彼は生きる事にも支える事にも疲れ切っていたからね」
当然と言わんばかりの彼女は、更に言葉を続けた。
「現世って楽しい?此処よりも素敵な所かい?生きるために苦痛に堪えて、悲しみや恐怖に襲われて。絶望して、孤独や不安を懐く。そうして生きる事って此処より良いのかな」
穏やかな表情と淡々とした彼女の声は、私の心に少しずつ沁み込む。
「彼は、病が身体を蝕む事を恐れていたよ。だが、君達が不安そうにするせいで、恐怖や治療の苦痛を溢す事も出来ず、この先出来ない事が増えて、ゆっくりと朽ちていく事に堪えられないと言っていた。彼が君達を捨てたというならば、先に彼の心を捨てたのは君達ではないのか?」
私の心の隙間に、彼女の声が黒く滲み沁みてくる。
命に関わる、蝕む程の病を宣告されて、恐怖や不安を感じない者などいるわけがないのだ。
苦痛を伴う治療に、穏やかな心で立ち向かう事など出来ないだろう。
そんな事は分かり切っていたはずなのに、私も母も父の穏やかで冷静な姿に甘えて見えていなかった。
父が言わなかったのではない。私達が言わせなかったのだろう。
誰にも言えずに苦しんでいた父を本当に支えていたのは、この世界と彼女だけだったのかもしれない。
現世に希望を持てなかった父が悲睡蓮に魅入られたとしても、何ら不思議な事ではない。
沁み込んだ彼女の言葉に、私の心は染まり落ちていく。
「悲しい?悔しい?だが嘘偽りのない事なんだよ。彼は苦しんで、悲睡蓮の美しさに魅かれて、その命を対価に此処の世界を選んだんだ」
彼女はそう話しながら私との距離を詰め、私の背に触れる髪を撫でた。
何も、考えられない。彼女の声だけが私の心に沁み込んで、包まれていくようだ。
「現世は辛い事ばかりだろう。戻ったとして君の大切な父もおらず、また苦しく不安な時間が続くだけの世界だ。いつか君も彼のように、病に伏してその命が終わる瞬間に怯える時がくる。そんな世界だ」
彼女の声が、私の思考を奪い何も考えられなくなっていく。
「ずっと此処に居ればいい。此処は空気も風も気持ちよくて、草木は美しく、空も青くて綺麗だ。君の知らないお話も私がずっと話してあげよう。退屈する事も孤独になる事も無い。何の不安も恐怖も無い。だから私を選んでくれ」
彼女の言葉はきっとその通りなのだろう。
此処には何も恐れるものが無く、私が受け入れるだけで、永遠に安らぎを得られる事だと分かる。
何も考えられず頷きかけたその時、心の奥底で一瞬小さな白い光が散った気がした。
『君の人生は、君が決めなくてはいけないよ』
小さな火花のように一瞬灯った懐かしい父の言葉に、私は我に返る。
「だめ!」
何時の間にか柔らかく抱かれていた彼女を突き放して、私は強い意志を向けた。
「確かに、現実は辛くて苦しくて、悲しい事も嫌な事も溢れている。それに比べて此処は居心地が良くて、ずっといられたらきっと幸せだと思うわ」
私は不安を振り切るように、精一杯の虚勢を見せる。
今は不安が溢れた心だが、虚勢で堪える事で、私は一人で立てる。
虚勢も続ければ、自信に繋がるのだから。
突き放された彼女が、静かに私の目を見つめていた。
「だけど現実の世界は、私の大切な場所なのよ。父と母が生まれて出会ったように、私もいつか素敵な人と寄り添い合える家庭を作りたい。現実の世界で多くの物事や者を知って、縁を結んで、そこにある小さな幸せを拾い集めて、苦しくて辛い時は集めた幸せに支えられてまた歩くの」
確かに私は、父の苦しみを知らなかった。
だが、母と私と共に生きて、笑いあって、悲しい時や悩みを打ち明けて家族で支え合った日々も事実なのだ。
父が母に出会い恋をして共に生きたいと思った事も、私が生まれ育ち、悩んだ時いつも私の力になる言葉をくれた事も、本当の事なのだ。
だからこそ、悩む事も振り返る事も必要ない。
寂しそうな彼女が、薄く口を開く。
「それで良いの?君の知らない彼の話は、まだ沢山ある。この世界の事も私の事も知らないのだろう。知りたくはないのか?君が此処に残るなら全部教えてあげるよ」
あれ程強く毅然としていた彼女が、今は置いていかれる幼い子供のような表情をしている。
きっと情報は彼女の唯一持っている武器であって、彼女にはそれ以外何もないのだ。
本当の彼女はとても寂しいのかもしれない。
確かに此処には多くのものが来る。
だがそれらは何時か現世に帰るか、池の底に沈んでしまうのだ。
どれ程縁を深めても、最後は彼女が一人残るだけ。
世界はいつも残酷だ。
此処にだって苦しみや悲しみ、不安がこんなにも溢れている。
此処も現世も根本的には変わらないのだ。
突き放してしまった彼女を、今度は私が抱きしめる。
「そうね、私は知らない事ばかり。だけど、誰もが多くを知るなんて難しい事だわ。だから私は、私の記憶の中の父と悲睡蓮の世界。貴女の事を大切に信じて生きるの。いつか私も父のように亡くなる日がくるけれど、その時まで多くを経験して生きたいと思うわ」
同じくらいの背丈。どこか似ている私達。
父の余命は限られていた。
そんな時、今の私のように彼女に縋られたら、父は何を思うだろうか。
現実の娘と彼女を重ねて、離れがたくなったのではないだろうか。
彼女の言う事も事実だったかもしれないが、きっと私と母に互いの事を任せて、残り僅かな命を彼女に寄り添う事で使おうとしたのかもしれない。
悲睡蓮の管理人である、とても寂しがりな彼女のために。
「私は知らないけれど、きっと父は貴女の事に感謝していたと思うわ。私も貴女に出会えてよかった。忘れてしまっても忘れないから。だから貴女は一人じゃない。どうか寂しがらないで」
ゆっくりと彼女から離れると、彼女も諦めたように寂しく笑った。
「帰るんだね。私も貴女に会えてよかった」
彼女がそう言ったと同時に辺りから白い霧が滲んでくる。
「さようなら、ありがとう」
そう告げた私の声は彼女に届いただろうか。
気が付けば、私は白い景色の中で意識が途切れていった。
※※※
目覚めると、いつもの私の部屋だった。
あれほど辛かった頭痛は治り、身体の怠さもあまり気にならない。
「戻って…来られたのね」
喉の痛みも少し緩和されており、傍らのスマホで時刻を見ると、夜中の二時過ぎだった。
ベットから身体を起こして温くなったスポーツ飲料を飲み、小さく息を吐く。
スマホには、昨日から母の通知がたくさん着ていた。
急いで休養していたと返信を送ると、私は私室を出る。
ちらりと書室のドアの方を見るが、何の気配も無かった。
リビングのソファで熱を計ると、驚いた事に体温は平熱になっていて、あの場所に行く対価の高さに改めて恐ろしさを感じた。
「悲睡蓮」
私は何時まで覚えていられるだろうか。
あの世界と彼女の事を。
何時か忘れてしまう時が来ても、きっと私の生命は忘れない。
悲睡蓮の世界と私の生命は結ばれていたのだから。