第56話「朝焼け」
アリオストが振り返る。
その視界の端に映ったのは、やせ細るまで搾取され、捨て置かれたはずの燃料――ハルトマンだった。
彼女の手には、白銀の聖剣ミセリコルディア。
かつてアグライアが落とし、主を失って輝きを失っていたはずのその剣は、今、ハルトマンの魔力を吸い上げ、太陽のごとく燃え上がっている。
「――が、ぁ」
アリオストは防ごうとした。
だが、右腕はラインツファルトへの攻撃のために突き出されており、戻らない。
魔力防壁は前面に集中しており、背後は無防備な空白地帯。何より、予言盤は、この攻撃を予測していなかった。
彼女は弱すぎたのだ。脅威度ゼロの、極論すれば、生きているだけの死体だ。だからこそアリオストは彼女を見落とした。
ズプッ。
嫌な音がした。肉を裂き、骨を砕き、心臓を貫く音ではない。もっと根源的な、魂のへその緒を断ち切るような、湿った切断音。
聖剣の切っ先が、アリオストの背中から入り、胸へと突き抜けていた。
「カ……ハッ……」
アリオストの口から、大量の血が噴き出す。同時に、彼が纏っていた圧倒的な魔力の奔流が、風船が弾けるように霧散した。
ミセリコルディアの能力――『慈悲』。対象の魔力を強制的に鎮静化し、無へと還す。世界中から吸い上げた無尽蔵のエネルギーが、ハルトマンのひと突きによって逆流し、アリオストの体内を破壊しながら漏れ出していく。
「馬鹿、な……。ハルトマン、貴様……」
アリオストは、信じられないものを見る目で、自分の胸から生えた刃を見下ろした。
「……痛いか、アリオスト」
背後で、ハルトマンが囁く。その声は掠れ、吐息のようだった。
彼女自身、この一撃に全ての生命力を使い果たし、立っているのがやっとの状態だ。
「王国の人々が味わった痛みは、こんなものじゃない。……お前が『世界のため』と言って踏みにじった命の重さを、その身で知れ」
彼女は剣を引き抜かない。さらに深く、抉るように押し込む。
「ぐ、オオオオォォッ!」
絶叫。魔王が膝をつく。それは、帝国の支配が終わる音だった。
「お父様ァァッ!」
ラ・ピュセルの悲鳴が、玉座の間に響き渡る。 創造主の致命傷。 その事実は、機械天使の論理回路を焼き切るのに十分だった。
「保護対象の損壊を確認、脅威排除モード、リミッター解除! 全て壊す!」
彼女の全身から、制御不能な魔力光が漏れ出す。六枚の翼が赤熱し、無差別な破壊光線を撒き散らし始める。自爆すら辞さない暴走状態。
「くっ、やらせるか!」
ハロルドが前に出る。メリッサが全魔力を障壁に注ぐ。ヴェイスが撹乱の魔石を投げ続ける。
だが、暴走した神殺しの兵器は、それら全てを力尽くでねじ伏せようとしていた。
「ラインツファルト! アリオストを!」
ハルトマンが叫ぶ。彼女は限界だ。アリオストを押さえつけているだけで精一杯。
ラインツファルトは、崩れ落ちたアリオストの前に立った。
見下ろすラインツファルトと、見上げるアリオスト。八十年前、宮殿の庭で剣を交えたあの日と同じ構図。
「なぜだ……。私は、世界を救うために……。感情を捨て、悪魔になり、全てを犠牲にしたのに……」
彼は血を吐きながら、ラインツファルトに手を伸ばした。
「なぜ、お前が勝つ? 魔力を持たない、最弱の貴様が……」
ラインツファルトは拳を握りしめた。魔力はない。レティシアがくれた「最弱の拳」。そこには、死んでいった者たちの無念と、生き残った者たちの怒りが込められている。
「……教えてやる」
ラインツファルトは、静かに告げた。
「お前は強くなりすぎた。弱者の痛みが分からなかった。……だから、最弱の剣に刺されたんだ」
ドガァッ!
拳が、アリオストの頬を打ち抜いた。魔法障壁などない、生身の殴打。アリオストの体が吹き飛び、瓦礫の山に叩きつけられる。
「喧嘩は終わりだ。……夢から覚めろ」
ラインツファルトの言葉と共に、玉座の間を支えていた柱が崩れ落ちる。天井が割れ、遠い穴の向こうに本当の空が見えた。
朝焼け。
だが、まだ終わらない。暴走するラ・ピュセルが、最後の一撃――自爆コードを起動させようとしていた。
そのとき、がれきの中から這い出してきたアリオストが振り絞るように言った。
「私を殺せば、創生区画のアンデッドたちがすぐさま解き放たれる。私を殺しても、何も終わりはしない……」




