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ミセリコルディアと罪の星  作者: 芦多羽 雲璃矢
デンドロビウム編

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第53話「孤児院の聖女」

「敵性体、検知。……排除デリートします」

 警告音なしの射撃。翼の一部が変形し、高密度の魔力が放たれる。

「――ッ!」

 ラインツファルトは反射的に横へ跳んだ。魔力がないはずの体とは思えない反応速度。彼がいた場所の床が、音もなく消滅し、大穴が開く。

「……ほう」

 アリオストの目が、わずかに興味を取り戻した。だが、それは実験動物の奇妙な挙動を見る目に過ぎない。

「ラ・ピュセル。構わん、テスト運用だ。そのゴミを掃除しておけ」

「イエス、マイ・ロード」

 機械天使がふわり宙に浮く。圧倒的な火力が、最弱の英雄へと向けられた。



 玉座の間から伝わる振動が、石造りの床を細かく震わせている。どこかで何かが崩れる音。悲鳴のような風切り音。

 だが、ここには奇妙な静寂があった。

 嵐の目のような、張り詰めた空白。

 アグライアは、そこに立っていた。

 聖女と呼ばれるにふさわしい、神々しいまでの美貌。

 だが、その足元には砕けた瓦礫が散らばり、壁には赤黒い飛沫がこびりついている。彼女が通ってきた道の痕跡だ。

 彼女は、アリオストの元へ戻ろうとしていた。

 その行く手を阻むように、小柄な影が立ちはだかる。

「……どいてくれっす、アグライアさん」

 ヴェイスだった。

 彼は短剣を構えているが、その切っ先は震えている。

 無理もない。目の前にいるのは、つい先ほどラインツファルトを殺した怪物だ。

 だが同時に、街角で孤児たちにスープを配り、泣いている子供の頭を撫でていた、優しい聖女でもある。

 ヴェイスは、その両方を知っていた。

 修道院で暮らす孤児たちに、彼女がどれだけ慕われていたか。彼女の姿を見ると、子供たちの目がどれほど輝いたか。

 あの笑顔が、全部嘘だったとは思えない。

 思いたくない。

 アグライアは立ち止まった。だが、言葉は発しない。彼女の美しい顔は、能面のように無表情だ。

「……」

 彼女は、ヴェイスを敵とは認識していない。ただの障害物。 彼女は無言のまま、ヴェイスの横をすり抜けようとする。

「待つっす!」

 ヴェイスが叫び、アグライアの袖を掴んだ。

 瞬間、殺気が肌を刺す。アグライアの視線が、ゆっくりとヴェイスに向けられる。その瞳は深海のように静かで、ヴェイスはそこに死を見た。

「ッ……」

 指が、袖から離れかける。

 だが、ヴェイスの横から、小さな手が伸びた。

「おねえちゃん、いかないで!」

 孤児院の少年だった。アグライアが街で世話をし、慈しんでいた子供の一人。六つか、七つか。痩せこけた体に、継ぎ接ぎだらけの服。だが、その目だけは宝石のように輝いている。

 少年は泣きじゃくりながら、アグライアの腰に抱きついた。

「なんで……なんでいい人なのに、怖い顔するの? 帰ろうよ、みんな待ってるよ!」

 その言葉に、アグライアの動きが凍りついた。

「ばあちゃんが、おねえちゃんのこと心配してた。『あの子は優しすぎるから、きっと辛いことがあったんだろう』って」

「……」

 彼女の視線が、少年に落ちる。それは守るべき生の象徴。

 聖剣としての機能と、聖女としての人格が激しく衝突する。

 彼女は、少年の頭に手を伸ばした。撫でるためか。それとも、その細い首を折って、苦界から解き放つためか。

 ヴェイスが息を呑む。

 だが、その手は空中で止まった。震えている。

「……まだ、あの人は生きている。生と死の狭間から、私たちに死を与えるために戻ってきます。私はアリオスト様とともに、新しい世界を守らなければいけないのです。あの人を止めなければ……この子たちの未来も、ないのです」

 それは、言い訳だった。

 自分自身を納得させるための、必死の言い訳。

 だが、その声には力がなかった。

 言葉と裏腹に、彼女の手は少年の頭に触れることができない。

 震えたまま、宙に浮いている。

「……嘘っす」

 ヴェイスが、静かに言った。

「え……?」

「アグライアさん、本当は戦いたくないんじゃないっすか。本当は、この子たちのところに帰りたいんじゃないっすか」

「違います。私は聖剣。私の使命は……」

「使命なんかクソくらえっす」

 ヴェイスの声が、回廊に響いた。

「俺だって、昔は使命とか任務とか、そういうので生きてた時期があったっす。でも、そんなもんは誰かに押し付けられただけのもんっす」

 彼は、アグライアの目を真っ直ぐに見つめた。

「アグライアさんが本当にやりたいことは何っすか。……それは、あのアリオストとかいう野郎のためじゃないはずっす」

「……」

 アグライアの瞳が、揺れた。

 少年を見下ろす。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。それでも、彼女の服を離さない小さな手。

 その手の温かさが、彼女の冷たい体に染み込んでいく。

「おねえちゃん」

 少年が、見上げながら言った。

「おねえちゃんは、悪い人じゃないよ。ぼく、知ってるもん」

「……」

「だって、スープ配るとき、お腹空かせてる子がいたら、自分の分あげちゃうでしょ」

 少年は、泣きながら笑った。

「悪い人は、そんなことしないよ」

 その瞬間。

 アグライアの目から、本物の涙がこぼれた。

 彼女の手が、ゆっくりと少年の頭に降りてきた。

 撫でるように。慈しむように。

 そして――

 カラン。

 乾いた金属音が、静寂の回廊に響いた。

 彼女の手から、聖剣ミセリコルディアが滑り落ちていた。針のように細い銀色の剣が、床の上で力なく転がる。

「おねえちゃん……?」

 少年が、不安そうに顔を覗き込む。

 アグライアは、膝をついていた。

 少年を抱きしめるようにして、崩れ落ちていた。

「……ごめんなさい」

 彼女の声が、震えていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 彼女は少年を抱きしめながら、声を殺して泣いていた。

 聖剣としての使命と、聖女としての心。

 その狭間で引き裂かれながら、それでも最後に勝ったのは――子供を守りたいという、ただそれだけの想いだった。

「アグライアさん……」

 ヴェイスは、その光景を見つめていた。

 彼女は怪物だ。ラインツファルトを傷つけた仇だ。

 だが同時に、彼女もまた被害者だったのだ。誰かに使われ、望んでもいない殺戮を強いられてきた。

 ズズズン……ッ!

 そのとき、玉座の間の方角から、凄まじい爆発音が轟いた。

 床が揺れる。天井から砕けた石が降ってくる。

 ラ・ピュセルの暴走が、デンドロビウム全体を揺るがし始めていた。

「ラインツファルト……ッ!」

 ヴェイスは弾かれたように顔を上げた。ラインツファルトたちが、死地で戦っている。

「……クソッ! 少年、アグライアさんを頼むっす! 俺は行かなきゃ!」

 ヴェイスは少年に言い残し、爆心地へと駆け出した。

 背後で、動かなくなった聖女が、ただ静かに涙を流し続けていた。


 少年の小さな手が、彼女の背中をさする。

「大丈夫だよ、おねえちゃん」

 幼い声が、崩れかけた回廊に響く。

「ぼくがいるから。大丈夫だから」

 その言葉に、アグライアの体から、少しだけ力が抜けた。

 壊れかけた聖女を、一人の子供が抱きしめている。

 それは、この戦場で最も小さな光景だった。

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