第53話「孤児院の聖女」
「敵性体、検知。……排除します」
警告音なしの射撃。翼の一部が変形し、高密度の魔力が放たれる。
「――ッ!」
ラインツファルトは反射的に横へ跳んだ。魔力がないはずの体とは思えない反応速度。彼がいた場所の床が、音もなく消滅し、大穴が開く。
「……ほう」
アリオストの目が、わずかに興味を取り戻した。だが、それは実験動物の奇妙な挙動を見る目に過ぎない。
「ラ・ピュセル。構わん、テスト運用だ。そのゴミを掃除しておけ」
「イエス、マイ・ロード」
機械天使がふわり宙に浮く。圧倒的な火力が、最弱の英雄へと向けられた。
◇
玉座の間から伝わる振動が、石造りの床を細かく震わせている。どこかで何かが崩れる音。悲鳴のような風切り音。
だが、ここには奇妙な静寂があった。
嵐の目のような、張り詰めた空白。
アグライアは、そこに立っていた。
聖女と呼ばれるにふさわしい、神々しいまでの美貌。
だが、その足元には砕けた瓦礫が散らばり、壁には赤黒い飛沫がこびりついている。彼女が通ってきた道の痕跡だ。
彼女は、アリオストの元へ戻ろうとしていた。
その行く手を阻むように、小柄な影が立ちはだかる。
「……どいてくれっす、アグライアさん」
ヴェイスだった。
彼は短剣を構えているが、その切っ先は震えている。
無理もない。目の前にいるのは、つい先ほどラインツファルトを殺した怪物だ。
だが同時に、街角で孤児たちにスープを配り、泣いている子供の頭を撫でていた、優しい聖女でもある。
ヴェイスは、その両方を知っていた。
修道院で暮らす孤児たちに、彼女がどれだけ慕われていたか。彼女の姿を見ると、子供たちの目がどれほど輝いたか。
あの笑顔が、全部嘘だったとは思えない。
思いたくない。
アグライアは立ち止まった。だが、言葉は発しない。彼女の美しい顔は、能面のように無表情だ。
「……」
彼女は、ヴェイスを敵とは認識していない。ただの障害物。 彼女は無言のまま、ヴェイスの横をすり抜けようとする。
「待つっす!」
ヴェイスが叫び、アグライアの袖を掴んだ。
瞬間、殺気が肌を刺す。アグライアの視線が、ゆっくりとヴェイスに向けられる。その瞳は深海のように静かで、ヴェイスはそこに死を見た。
「ッ……」
指が、袖から離れかける。
だが、ヴェイスの横から、小さな手が伸びた。
「おねえちゃん、いかないで!」
孤児院の少年だった。アグライアが街で世話をし、慈しんでいた子供の一人。六つか、七つか。痩せこけた体に、継ぎ接ぎだらけの服。だが、その目だけは宝石のように輝いている。
少年は泣きじゃくりながら、アグライアの腰に抱きついた。
「なんで……なんでいい人なのに、怖い顔するの? 帰ろうよ、みんな待ってるよ!」
その言葉に、アグライアの動きが凍りついた。
「ばあちゃんが、おねえちゃんのこと心配してた。『あの子は優しすぎるから、きっと辛いことがあったんだろう』って」
「……」
彼女の視線が、少年に落ちる。それは守るべき生の象徴。
聖剣としての機能と、聖女としての人格が激しく衝突する。
彼女は、少年の頭に手を伸ばした。撫でるためか。それとも、その細い首を折って、苦界から解き放つためか。
ヴェイスが息を呑む。
だが、その手は空中で止まった。震えている。
「……まだ、あの人は生きている。生と死の狭間から、私たちに死を与えるために戻ってきます。私はアリオスト様とともに、新しい世界を守らなければいけないのです。あの人を止めなければ……この子たちの未来も、ないのです」
それは、言い訳だった。
自分自身を納得させるための、必死の言い訳。
だが、その声には力がなかった。
言葉と裏腹に、彼女の手は少年の頭に触れることができない。
震えたまま、宙に浮いている。
「……嘘っす」
ヴェイスが、静かに言った。
「え……?」
「アグライアさん、本当は戦いたくないんじゃないっすか。本当は、この子たちのところに帰りたいんじゃないっすか」
「違います。私は聖剣。私の使命は……」
「使命なんかクソくらえっす」
ヴェイスの声が、回廊に響いた。
「俺だって、昔は使命とか任務とか、そういうので生きてた時期があったっす。でも、そんなもんは誰かに押し付けられただけのもんっす」
彼は、アグライアの目を真っ直ぐに見つめた。
「アグライアさんが本当にやりたいことは何っすか。……それは、あのアリオストとかいう野郎のためじゃないはずっす」
「……」
アグライアの瞳が、揺れた。
少年を見下ろす。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。それでも、彼女の服を離さない小さな手。
その手の温かさが、彼女の冷たい体に染み込んでいく。
「おねえちゃん」
少年が、見上げながら言った。
「おねえちゃんは、悪い人じゃないよ。ぼく、知ってるもん」
「……」
「だって、スープ配るとき、お腹空かせてる子がいたら、自分の分あげちゃうでしょ」
少年は、泣きながら笑った。
「悪い人は、そんなことしないよ」
その瞬間。
アグライアの目から、本物の涙がこぼれた。
彼女の手が、ゆっくりと少年の頭に降りてきた。
撫でるように。慈しむように。
そして――
カラン。
乾いた金属音が、静寂の回廊に響いた。
彼女の手から、聖剣ミセリコルディアが滑り落ちていた。針のように細い銀色の剣が、床の上で力なく転がる。
「おねえちゃん……?」
少年が、不安そうに顔を覗き込む。
アグライアは、膝をついていた。
少年を抱きしめるようにして、崩れ落ちていた。
「……ごめんなさい」
彼女の声が、震えていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
彼女は少年を抱きしめながら、声を殺して泣いていた。
聖剣としての使命と、聖女としての心。
その狭間で引き裂かれながら、それでも最後に勝ったのは――子供を守りたいという、ただそれだけの想いだった。
「アグライアさん……」
ヴェイスは、その光景を見つめていた。
彼女は怪物だ。ラインツファルトを傷つけた仇だ。
だが同時に、彼女もまた被害者だったのだ。誰かに使われ、望んでもいない殺戮を強いられてきた。
ズズズン……ッ!
そのとき、玉座の間の方角から、凄まじい爆発音が轟いた。
床が揺れる。天井から砕けた石が降ってくる。
ラ・ピュセルの暴走が、デンドロビウム全体を揺るがし始めていた。
「ラインツファルト……ッ!」
ヴェイスは弾かれたように顔を上げた。ラインツファルトたちが、死地で戦っている。
「……クソッ! 少年、アグライアさんを頼むっす! 俺は行かなきゃ!」
ヴェイスは少年に言い残し、爆心地へと駆け出した。
背後で、動かなくなった聖女が、ただ静かに涙を流し続けていた。
少年の小さな手が、彼女の背中をさする。
「大丈夫だよ、おねえちゃん」
幼い声が、崩れかけた回廊に響く。
「ぼくがいるから。大丈夫だから」
その言葉に、アグライアの体から、少しだけ力が抜けた。
壊れかけた聖女を、一人の子供が抱きしめている。
それは、この戦場で最も小さな光景だった。




