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ミセリコルディアと罪の星  作者: 芦多羽 雲璃矢
デンドロビウム編

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第52話「機械仕掛けの受肉」

 ――私の物語はこれでおしまい。これからは、あなたたちの物語だから。

 その声が、まだ鼓膜の奥で木霊していた。

 ラインツファルトは暗闘の中を落下していた。いや、落下というより、世界そのものが彼を吐き出そうとしているかのようだった。

 腕の中にはハルトマンの体温がある。それだけが、今の彼にとって唯一の現実だった。

 レティシアの最後の魔術が、彼の全身を包み込んでいる。魔力を極限まで圧縮し、存在そのものを無に近づける隠蔽の術式。かつて王家が暗殺者から身を守るために編み出した、禁呪に近い技法だ。

 代償として、彼は今、一切の魔術を行使できない。

 八十年前、アリオストと死闘を繰り広げた最強の騎士は、今やただの人間に成り下がっていた。

(それでも)

 落下しながら、ラインツファルトは奥歯を噛み締める。

(アリオストを止める。必ず)

 視界が白く染まる。次元の壁を突き破る衝撃が全身を貫いた。



 現世、デンドロビウム最上層――玉座の間。

 そこは、かつて神殿と呼ばれた場所の成れの果てだった。

 床には幾何学的な紋様が刻まれ、壁面には古代文字がびっしりと書き連ねられている。

 そして部屋の中央には、巨大なカプセルが鎮座していた。

 高さは優に十メートルを超える。透明な強化ガラスの内部では、青白い冷却液が渦を巻き、その中心に人型のシルエットが浮かんでいる。

 充填率89%。

 カプセルの表面に浮かぶホログラムが、その数値を冷たく告げていた。

「もはや装置が耐えきれない、か」

 玉座に腰掛けていたアリオストが、ゆっくりと立ち上がる。

 八十年の歳月は、彼の容姿をほとんど変えていなかった。長い黒髪、鋭い眼光、そしてラインツファルトと瓜二つの顔。ただし、その瞳の奥には、かつてはなかった深い闘争の炎が宿っている。

 数多の命を踏み躙り、世界を欺き続けてきた者だけが持つ、底知れぬ執念の色だ。

 アリオストは独り言のように呟いた。

「八十年か。長かった。だが、ようやくだ」

 彼はカプセルに向かって浮かぶ、六つの魔剣を見上げていた。

 一本は燃え盛る炎を纏い、一本は凍てつく冷気を放ち、一本は稲妻を走らせ、一本は大地の重さを宿し、一本は風を切り裂き、そして一本は闇を孕んでいる。

 遥か古の時代、世界を統べた王たちが手にしたとされる至宝。レナトゥス王国はこの六本を手にすることで大陸を統一し、千年の繁栄を築いた。

「伝説では、七本の魔剣を揃えれば世界を統べる力が手に入るとされていた」

 アリオストは、嘲笑うように言った。

「だが、七本目の剣――ミセリコルディアは、美しくなかった」

 彼は、汚らわしいものを思い出すように眉をひそめる。

「慈悲だと? 笑わせる。傷を舐め合い、弱さを肯定し、泥の中で安らぐことが救済か? そんなものは家畜の幸せだ。神に牙を剥くための武器に、甘えなど不要だ」

 かつてアリオストもミセリコルディアを手にしようとした。だが、剣は彼を拒絶した。あるいは、アリオスト自身がその弱者の論理を拒絶したのかもしれない。

「私は求めた。神が作ったこの醜い世界を、あるべき姿に書き換える力を。……ならば、作るしかないだろう。神をも殺せる、完璧なことわりを」

 彼が指を鳴らすと、六本の魔剣が一斉に共鳴音ハウリングを上げた。剣たちは円を描くように回転を始め、やがてカプセルの周囲に巨大な立体魔法陣を形成していく。

 それは、ただの魔法陣ではなかった。中心から放射状に広がる光の道。それぞれの道の先には、古代文字で「王冠」「知恵」「理解」「慈悲」「峻厳」「美」「勝利」「栄光」「基礎」「王国」と刻まれた光球が浮かんでいる。

 生命の樹――セフィロト。世界の構造そのものを模した、神秘学の究極図形。

「創世の逆再生だ」

 アリオストが両手を広げる。

「神が世界を創ったプロセスを逆流させ、そのエネルギーを一つの器に注ぎ込む。……神よ、貴様が人間に与えた絶望という名のシナリオは、ここで私が破棄する」

 六本の魔剣から、膨大なエネルギーがカプセルへと流れ込んでいく。炎と氷と雷と土と風と闇が渦を巻き、原初の混沌カオスへと還り、そして一つに収束していく。

 パキキキキッ……!

 強化ガラスが、内側からの圧力に耐えきれず悲鳴を上げる。亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、やがて――

 バァァァンッ!

 爆発的に破裂した。冷却液が霧となって散乱し、玉座の間を白く染める。その霧の中から、新たな神が産声を上げた。

 無機質な黒と金の装甲に覆われた、少女の姿。背中には、鋭利な刃で構成された六枚の鋼鉄の翼。  機械仕掛けの天使。あるいは、受肉した断頭台。

「……起動ブート。個体名定義、『ラ・ピュセル』」

 合成音声のような、しかし鈴を転がすように美しい声。彼女はゆっくりと瞼を開く。その瞳には感情の代わりに、膨大な演算結果を示す光の羅列コードが流れていた。

「貴方が……お父様?」

 ラ・ピュセルは、アリオストを見つめた。生まれたばかりの雛鳥のように。だが、その全身から放たれる魔力圧は、アリオスト自身をも凌駕し、空間そのものを軋ませている。

「ああ、そうだ。私が新しい世界の創造主だ」

 アリオストが手を伸ばし、彼女の冷たい頬に触れようとした、その時。

 バリィッ!

 空間が裂けた。玉座の間の虚空に、黒い亀裂が走る。予言にはない事象。亀裂は内側から強引にこじ開けられ、そこから一人の男が吐き出された。

 ドサッ。

 床に転がったのは、ボロボロのコートを纏った男。泥と血にまみれ、肩にはぐったりとしたハルトマンを抱えている。

「ッ、かはッ」

 ラインツファルトは咳き込み、顔を上げた。その瞳が、まっすぐにアリオストを射抜く。

「……よう。久しぶりだな、アリオスト」

「ラインツファルト……?」

 アリオストは眉をひそめた。驚きはある。だが、それ以上に困惑があった。手元の予言盤ホロスコープを見る。反応なし。目の前の男からは、魔力を全く感じない。燃え尽きた灰のようだ。

「どういうことだ。その体……魔力を捨ててまで戻ってきたというのか?」

「ああ。地獄の片道切符代にしたよ」

 ラインツファルトは、ハルトマンを瓦礫の陰に寝かせ、ふらりと立ち上がった。手には、折れた剣一本。

「今の俺はただの人間だ。……それでも、お前を止めにきた」

「愚かな。魔力なき『旧人類』が、神に至った私に勝てるとでも?」

 アリオストの目が、冷徹な侮蔑に細められる。彼にとってラインツファルトは、もはやライバルですらない。排除すべき醜い過去の遺物でしかなかった。その侮蔑に反応したのが、生まれたばかりの天使だった。

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