第51話「別離」
かつてグスタフから託された、王家の至宝。対となる宝石を持つ者同士の魂を結ぶ、古代のアーティファクト。
「貴方、気づいてないの?」
レティシアの声は、どこか寂しげだった。
「……その首飾りが、私には、もう光ってないことに」
ラインツファルトは、反射的に自分の胸元を見た。
首飾りは確かにそこにある。八十年前と変わらぬ姿で、彼の胸元に下がっている。
だが――光がない。
かつて、レティシアと共にいるときには、まばゆいほどに輝いていた青白い光が。今は、ただの石ころのように、沈黙している。
目の前に、レティシアがいるにも関わらず。
「どういう、ことだ」
ラインツファルトの声が、かすれた。
「簡単なことよ」
レティシアは、静かに答えた。その声には、諦めでも、怒りでもない、澄み切った何かがあった。
「アダマスの首飾りは、魂の絆を映す鏡。対となる宝石を持つ者同士が、互いを想うとき、その光は最も強く輝く。……でも」
彼女は、ラインツファルトの腕の中で眠るハルトマンを指差した。
意識を失い、ぐったりとした彼女。安らかというよりは、体力を使い果たして体が機能を停止しているように見える。それでも、その呼吸は確かに続いている。
「貴方の魂のパスは、もう私には向いていない」
レティシアの唇が、かすかに震えた。
「貴方の心が選んでいるのは、私じゃない。……その子よ」
「ち、違う!」
ラインツファルトは、叫んだ。
「俺はレティシアを……! 俺はずっと、お前のために……!」
「嘘つき」
レティシアは、クスクスと笑った。
その笑みは、八十年前と何も変わらない。宮殿の庭で、魔術の実験に失敗したときに見せた、あの悪戯っぽい笑み。
「貴方、昔から嘘が下手だったわよね。顔に全部出る」
「嘘じゃない! 俺は本当に……」
「ねえ、ラインツファルト」
レティシアが、彼の言葉を遮った。
「私ね、八十年間、ずっと考えてたの。もし貴方が来てくれたら、何を話そうって。何を伝えようって」
彼女は、赤錆びた大剣を杖のように地面に突き立て、体を支えた。もう、立っているのがやっとなのだ。
「最初の十年は、恨んでた。なんで来てくれないのって。なんで私を置いていったのって」
「レティシア……」
「次の十年は、諦めた。もう来ないんだって。私は一人で死ぬんだって」
彼女の声は、淡々としていた。まるで、他人の話をしているかのように。
「その次の十年は、忘れようとした。貴方の顔も、声も、全部。……でも、忘れられなかった」
レティシアは、自嘲的に笑った。
「そして残りの五十年。私は、ただ待った。いつか貴方が来てくれることを信じて。……バカみたいでしょう?」
「バカなんかじゃ……」
「でもね」
レティシアは、ラインツファルトを見つめた。
その瞳には、もう涙はなかった。八十年分の涙は、とっくに枯れ果てていた。
「待っている間に、気づいたの。私が貴方を待っていたのは、貴方に会いたかったからじゃない。貴方に、『幸せになってほしかった』からだって」
「……何を、言って……」
「私はもう死んでるの、ラインツファルト」
レティシアの声が、初めて震えた。
「私の時間は、八十年前に泉の中で止まってる。でも、貴方は違う。貴方はまだ生きてる。これからも、生きていける」
彼女は、ハルトマンを見た。
「その子は、私の生まれ変わり。私の魂の欠片から生まれた、新しい命。……私が持てなかった未来を、その子は持ってる」
「だからって、お前を置いていくなんて……!」
「置いていくんじゃないわ」
レティシアは、首を振った。
「私が、送り出すの」
彼女は、一歩前に出た。よろめきながら、それでも確かな足取りで。
「ねえ、覚えてる? 私たちが初めて会った日のこと」
唐突な問いかけに、ラインツファルトは言葉を失った。
「覚えて、る。……宮殿の裏庭で、お前が泣いてた」
「そう。父上に叱られて、魔術の練習をサボって、一人で泣いてた私に、貴方は声をかけてくれた」
レティシアは、懐かしむように目を細めた。
「『泣いてても何も変わらない。だったら、一緒に練習しよう』って。……あの時から、貴方はずっと私の隣にいてくれた」
「当たり前だ。俺はお前の騎士だから」
「うん。……だから、今度は私の番」
レティシアは、両手を広げた。
その瞬間、彼女の体から、淡い光が立ち上り始めた。
「私が、貴方を送り出す。貴方が歩むべき未来へ。貴方が守るべき人のところへ」
「待て、レティシア! そんなことをしたら、お前は……!」
「いいの」
レティシアは、微笑んだ。
それは、八十年間で最も美しい笑みだった。
「私の物語は、これでおしまい。これからは、貴方たちの物語だから」
光が、膨れ上がる。
彼女は自身の魂を構成するエネルギーを薪にして、大規模な転移術式を編み上げていた。魂を燃やす禁忌の魔術。その代償は、完全なる消滅。
ラインツファルトは、たまらず手を伸ばした。
「レティシア!」
だが、そのとき、一陣の強い風が吹きつけた。
剣が目の前をかすめようと、彼は目を閉じることはない。戦場で鍛えた反射神経が、それを許さない。
でも、そのときはなぜだか、ぐっと目を閉じてしまった。
なぜだろう。
彼女の最後の姿を、見届けなければならないのに。
巨木さえもなぎ倒すような風圧が、ラインツファルトの身体を強引に押し戻す。ハルトマンを抱きしめたまま、彼は後ろへと押しやられていく。
(――行かないでくれ)
心の中で叫ぶ。
声にならない。風が全てを奪っていく。
暗闇の中で、レティシアの気配が膨れ上がるのを感じた。
彼女の魂が、光へと変換されていく。八十年分の想いが、エネルギーへと昇華されていく。
「私ね、後悔してないわ」
レティシアの声が、風の中から聞こえた。
不思議と、その声ははっきりと耳に届いた。まるで、彼女が耳元で囁いているかのように。
光が、さらに強くなる。
「八十年、待った甲斐があった。貴方の顔を見ることができた。貴方の声を聞けた。……それだけで、十分」
「十分なわけあるか! 俺は、お前と……!」
「ラインツファルト」
彼女の声が、彼の言葉を遮った。
「私のことは、思い出にして。貴方の隣に、亡霊の席なんてないわ」
レティシアは光の渦を作り出すと、ラインツファルトの胸に、最後の魔力を叩き込んだ。
衝撃が、全身を貫く。
「これは手切れ金」
彼女の声が、遠くなっていく。
「貴方の魔力を極限まで圧縮して隠した。これでアリオストの目には、ただの非力な人間にしか映らない。……あいつの予言にも、引っかからないはずよ」
体が、浮き上がる。
現世への強制転送だ。
「待て、レティシア! まだ話が……!」
「もう時間がないの」
彼女の声が、笑いを含んだ。
「だから、最後に一つだけ」
光が、最大輝度に達する。
視界が、白く染まっていく。
その中で、彼女の声だけが、鮮明に聞こえた。
「あっちへ行って、その子と幸せになりなさい」
一拍の間。
「……浮気者」
その言葉は、涙声だったかもしれない。けれど、強烈な光が視界を白く染め上げ、彼女の表情を見ることはできなかった。
ラインツファルトは、必死に目を開けようとした。
最後に、彼女の顔を見たかった。
最後に、彼女に伝えたい言葉があった。
でも、光はそれを許さなかった。
世界が、反転する。
上下左右の感覚が消え、ただ落下していく感覚だけが残る。
最後に残ったのは、鼻をくすぐる彼女の愛した花の香り。
そして、腕の中で確かに呼吸を続けるハルトマンの、温もりだけだった。
◇
光が消えた後、死者の国には静寂だけが残った。
レティシアは、もういない。
彼女がいた場所には、一輪の花だけが咲いていた。
赤錆色の空の下、その白い花弁だけが、かすかに光を放っている。
それは、彼女が生前最も愛した花。
花言葉は、「永遠の別れ」。
そして、「再会の約束」。
風が吹き、花弁が一枚、舞い上がった。
それは光の粒子となって、空へと消えていく。
まるで、彼女の魂が、最後の旅路へと向かうように。




