第50話「過去は戻らず」
「レナトゥス (Renatus) は、「生まれ変わる、再生する (reborn)」を意味する("natos"は生まれるの意)、ラテン語が起源の名前」
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轟音が、赤い空気を震わせた。ラインツファルトの網膜が捉えたのは、死神の鎌のように振り下ろされたアグライアの影。
そして――それを遮るように飛び出した、ボロボロの布を纏った小さな背中だった。
ズチュンッ……。
湿った音が鼓膜を打ち、鮮血が舞う。狂戦士――レティシアの腹部を、白い刃が深々と貫いていた。
だが、彼女は退かない。突き刺さった刃を自らの腹筋で締め上げ、逃げ場を封じると、赤錆びた大剣を真横に薙ぎ払った。
大剣の一撃がアグライアの影を霧散させる。白い影は救済不能と判断したのか、あるいはダメージによるものか、粒子となって虚空へ溶けて消えた。
後に残ったのは、静寂と、崩れ落ちる少女の体だけ。
「おいッ!」
ラインツファルトは駆け寄り、地面に倒れる寸前で彼女を抱きとめた。
軽い。
羽毛のように軽い。八十年という歳月が、彼女の魂をここまで摩耗させてしまったのか。
空から、黒い雨が降り始めた。泥が雨に洗い流され、その素顔が露わになる。
ラインツファルトの呼吸が止まった。脳髄が、目の前の光景を拒絶する。 ありえない。あってはならない。 だが、その眉の形も、泣き黒子の位置も、記憶の中の少女と残酷なまでに一致していた。
「……レティシア」
ラインツファルトの声に、閉じていた瞼が微かに震えた。ゆっくりと開かれた瞳。そこにはもう、先ほどまでの獣のような狂気はない。あるのは、かつて宮殿の庭で見た、聡明で、少し悪戯っぽい光。
「……遅いわよ、私の近衛」
彼女は、血の泡を吐きながら、弱々しく笑った。
「待ちくたびれて……お婆ちゃんになっちゃったじゃない」
「なんで、庇った」
「体が、勝手に動いたのよ。昔から、貴方を守るのは私の役目だったでしょう?」
レティシアは、震える手でラインツファルトの頬に触れた。その指先は氷のように冷たく、触れた場所から崩れ落ちていきそうだ。
「ずっと、一人で戦っていたのか? この地獄で」
「ええ。約束したもの。みんなが幸せになれる場所を、作るって」
彼女の体から、蛍のような儚い燐光が立ち上る。
魂の限界だ。この死者の国で、実体を持たない魂が自我を保ち続けることは不可能に近い。彼女は八十年間、ただ約束という呪いにも似た執念だけで、消滅に抗い続けてきた。
「まさか、本当にあなたが来るとは、思ってなかったけど。きっと、シュテュンプケおばあちゃんと、魔剣のおかげね」
「もういい、喋るな。俺の魔力を分ける。そうすれば……」
「無駄よ。私の魂はもう、器が壊れてる。砂を入れた袋みたいに、注いでもこぼれ落ちるだけ。それに、私はもう死んでるし。私が死んだのも、あなたのせいじゃない。……それより、見て」
レティシアは、自身の傷など気にする様子もなく、荒野の彼方を指差した。雨の向こう、世界の中心に、天を貫く巨大な柱が見える。
「あそこへ行って。貴方が探しているものが、あそこにあるわ」
「レティシア、お前は……」
「私はもう歩けない。連れて行ってくれる? 最期の一仕事」
ラインツファルトは奥歯を噛み締め、小さく頷いた。レティシアを背負い上げた。その重みのなさに、胸が潰れるような痛みを覚えながら、彼は雨の中を歩き出した。
世界の中心、そこは、巨大な穴だった。現世のデンドロビウムの大穴と対になるかのような、底知れぬ深淵。その深淵から、一本の太い鎖が天に向かって伸びている。
いや、鎖ではない。それは無数の管の集合だ。
ドクン、ドクンと脈打つ管の中を、青白い光――純度の高い魔力が、天へ向かって吸い上げられている。
「さて、着いたわよ。あそこが、この世界の歪みの中心」
背中で、レティシアが囁く。声はもう、風音のように掠れている。
彼女が指さす先、鎖の根元。パイプが複雑に絡み合い、磔にされた一人の人物がいた。
「アリオストは現世で魔剣を作るために、この死者の国からもエネルギーを吸い上げている。……そして、その核にされているのが」
ラインツファルトは足を止めた。
「……隊長」
それは、見紛うことなきハルトマンだった。
だが、その姿はあまりに痛々しい。生前の、理知的で健康そうだった面影は見る影もない。肌は土気色に乾き、頬はこけ、骨と皮だけになった手足が、魔力の鎖に幾重にも縛られている。
彼女は死んでいるのではない。生きたまま魂をここに繋ぎ止められ、永遠に終わらない搾取を受け続けているのだ。
「あ……ぅ……」
ハルトマンの口から、乾いた音が漏れる。焦点の合わない瞳が、虚空を彷徨っている。
ズズズ……ン。
その時、天上の彼方から、低い振動音が響いてきた。鎖を通して、現世からの声が降ってくる。
『足りない』
アリオストの声だ。
『魔剣の精製に遅れが生じている。全てを、世界のために捧げろ』
声が響くたび、鎖が脈打ち、ハルトマンの体から強引に光が吸い上げられる。彼女の体がビクリと跳ね、苦悶に口を開けるが、叫び声すら上げる力がない。
「……ふざけるな」
ラインツファルトの口から、低く、押し殺した声が漏れた。プツリと、体内で何かが決定的に切れた気がした。アリオスト、お前は何の罪もない魂を、犠牲にしていたのか。
「あの子は、私の生まれ変わり」
背中から、レティシアの静かな声が響く。
「……え?」
「魂の波長が同じなの。たぶん私が魔力に泉にダイブした後、アリオストが私を作り直そうとしたのね。……なんでそんなことしたのかわからないけど。あれは、今の私みたいな不完全な存在じゃなくて、ちゃんと生きて誰かを愛せるはずの子供」
レティシアの声が、かすかに潤んだ。
「おろして、ラインツファルト」
レティシアの声に促され、彼は彼女を地面に降ろした。レティシアはよろめきながらも立ち上がり、自身の赤錆びた剣をラインツファルトへと差し出した。体はボロボロだが、ほとんど血は出ていない。やはり、ここは生者の世界ではないのだ。
「あの子を助けてあげて。……あれは私の『再生』だから」
ラインツファル!は躊躇した。
「……今度こそ、助けられるのか」
革命の時からずっとそうだった。レティシアを助けられず、長い間眠ったままだった。その間にたくさんのことがあって、何もかも亡くしてしまった。その分だけ、後悔した。
誰かを、助けたかった。
レティシアは、今にも力尽きそうな声音で告げる。
「あの鎖は、死者の力では切れない。……生者である貴方の、魔力が必要よ」
「……ああ」
ラインツファルトは、自身の剣と、レティシアの剣を見比べた。
そして、静かに、しかし烈火のような怒りを込めて、魔力を練り上げた。
「待ってろ。今、そのクソったれな管を断ち切ってやる」
ラインツファルトは、全身の魔力を赤さびた大剣に注ぎ込んだ。刀身が、悲鳴を上げるように青白く発光する。それはかつて王家が守り、レティシアが守り抜いた守護の輝きであり、今は断絶のための刃。
気合一閃、渾身の斬撃を、天へと伸びる鎖に叩きつける。
火花が散り、空間が歪む。アリオストのシステムと、ラインツファルトの怒りが拮抗する。
「切れろッ!」
さらに踏み込む。ミシミシと、パイプに亀裂が走る。
そして――パァン、と乾いた音がして、巨大なパイプが弾け飛んだ。
「あ……」
束縛を失ったハルトマンの体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。ラインツファルトは剣を捨て、滑り込むように彼女を抱き留めた。
「隊長!」
呼びかけると、ハルトマンの瞼がうっすらと開いた。焦点の定まらない瞳が、ぼんやりとラインツファルトを映す。
「……ラインツ、ファルト……? どうして、ここに……」
「迎えに来たんだ。……帰ろう、一緒に」
ハルトマンは、安堵したように小さく息を吐き、そして意識を手放した。魂の崩壊は止まった。あとは、現世に戻り、肉体と再接続すれば助かるはずだ。
「……やったな」
ラインツファルトは汗を拭い、振り返った。そこには、微笑を浮かべたレティシアが立っていた。
「ええ。見事だったわ、私の近衛」
「レティシア。……お前も」
ラインツファルトは立ち上がり、彼女に手を伸ばした。
「お前も、行こう。アリオストを倒せば、お前の魂を現世の器――例えば人形や、魔力体として定着させることも不可能じゃないはずだ」
それは、シュテュンプケの魔術を応用した、一縷の可能性。だが、ゼロではない。
「一緒に帰ろう。……俺はずっと、お前を助けるために生きてきたんだ」
彼の手が、レティシアの透き通るような指先に触れようとした。
ハッピーエンドへの道筋。過去の悲劇を乗り越え、幼馴染二人が手を取り合って帰還する。それは、誰もが望んだ完璧な結末のはずだった。
「……でも、ダメ」
唐突に。
レティシアの手が、ラインツファルトの手を拒絶するように払いのけた。
「……え?」
ラインツファルトの手が空を切る。レティシアは、一歩下がって彼を見つめていた。その表情は、先ほどまでの甘い微笑みとは違う。どこか冷ややかで、見定めるような、女王の瞳。
「行けないわ、ラインツファルト」
「な、なんでだ! 方法ならある! シュテュンプケに頼めば……!」
「方法の問題じゃないの」
彼女は首を振った。そして、視線をラインツファルトの胸元――アダマスの首飾りへと向けた。




