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ミセリコルディアと罪の星  作者: 芦多羽 雲璃矢
デンドロビウム編

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第50話「過去は戻らず」

「レナトゥス (Renatus) は、「生まれ変わる、再生する (reborn)」を意味する("natos"は生まれるの意)、ラテン語が起源の名前」

- 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 轟音が、赤い空気を震わせた。ラインツファルトの網膜が捉えたのは、死神の鎌のように振り下ろされたアグライアの影。

 そして――それを遮るように飛び出した、ボロボロの布を纏った小さな背中だった。

 ズチュンッ……。

 湿った音が鼓膜を打ち、鮮血が舞う。狂戦士――レティシアの腹部を、白い刃が深々と貫いていた。

 だが、彼女は退かない。突き刺さった刃を自らの腹筋で締め上げ、逃げ場を封じると、赤錆びた大剣を真横に薙ぎ払った。

 大剣の一撃がアグライアの影を霧散させる。白い影は救済不能と判断したのか、あるいはダメージによるものか、粒子となって虚空へ溶けて消えた。

 後に残ったのは、静寂と、崩れ落ちる少女の体だけ。

「おいッ!」

 ラインツファルトは駆け寄り、地面に倒れる寸前で彼女を抱きとめた。

 軽い。

 羽毛のように軽い。八十年という歳月が、彼女の魂をここまで摩耗させてしまったのか。

 空から、黒い雨が降り始めた。泥が雨に洗い流され、その素顔が露わになる。

  ラインツファルトの呼吸が止まった。脳髄が、目の前の光景を拒絶する。 ありえない。あってはならない。 だが、その眉の形も、泣き黒子の位置も、記憶の中の少女と残酷なまでに一致していた。


「……レティシア」

 ラインツファルトの声に、閉じていた瞼が微かに震えた。ゆっくりと開かれた瞳。そこにはもう、先ほどまでの獣のような狂気はない。あるのは、かつて宮殿の庭で見た、聡明で、少し悪戯っぽい光。

「……遅いわよ、私の近衛」

 彼女は、血の泡を吐きながら、弱々しく笑った。

「待ちくたびれて……お婆ちゃんになっちゃったじゃない」

「なんで、庇った」

「体が、勝手に動いたのよ。昔から、貴方を守るのは私の役目だったでしょう?」

 レティシアは、震える手でラインツファルトの頬に触れた。その指先は氷のように冷たく、触れた場所から崩れ落ちていきそうだ。

「ずっと、一人で戦っていたのか? この地獄で」

「ええ。約束したもの。みんなが幸せになれる場所を、作るって」

 彼女の体から、蛍のような儚い燐光が立ち上る。

 魂の限界だ。この死者の国で、実体を持たない魂が自我を保ち続けることは不可能に近い。彼女は八十年間、ただ約束という呪いにも似た執念だけで、消滅に抗い続けてきた。

「まさか、本当にあなたが来るとは、思ってなかったけど。きっと、シュテュンプケおばあちゃんと、魔剣のおかげね」

「もういい、喋るな。俺の魔力を分ける。そうすれば……」

「無駄よ。私の魂はもう、器が壊れてる。砂を入れた袋みたいに、注いでもこぼれ落ちるだけ。それに、私はもう死んでるし。私が死んだのも、あなたのせいじゃない。……それより、見て」

 レティシアは、自身の傷など気にする様子もなく、荒野の彼方を指差した。雨の向こう、世界の中心に、天を貫く巨大な柱が見える。

「あそこへ行って。貴方が探しているものが、あそこにあるわ」

「レティシア、お前は……」

「私はもう歩けない。連れて行ってくれる? 最期の一仕事」

 ラインツファルトは奥歯を噛み締め、小さく頷いた。レティシアを背負い上げた。その重みのなさに、胸が潰れるような痛みを覚えながら、彼は雨の中を歩き出した。


 世界の中心、そこは、巨大な穴だった。現世のデンドロビウムの大穴と対になるかのような、底知れぬ深淵。その深淵から、一本の太い鎖が天に向かって伸びている。

 いや、鎖ではない。それは無数のパイプの集合だ。

 ドクン、ドクンと脈打つ管の中を、青白い光――純度の高い魔力が、天へ向かって吸い上げられている。

「さて、着いたわよ。あそこが、この世界の歪みの中心」

 背中で、レティシアが囁く。声はもう、風音のように掠れている。

 彼女が指さす先、鎖の根元。パイプが複雑に絡み合い、はりつけにされた一人の人物がいた。

「アリオストは現世で魔剣を作るために、この死者の国からもエネルギーを吸い上げている。……そして、そのコアにされているのが」

 ラインツファルトは足を止めた。

「……隊長」

 それは、見紛うことなきハルトマンだった。

 だが、その姿はあまりに痛々しい。生前の、理知的で健康そうだった面影は見る影もない。肌は土気色に乾き、頬はこけ、骨と皮だけになった手足が、魔力の鎖に幾重にも縛られている。

 彼女は死んでいるのではない。生きたまま魂をここに繋ぎ止められ、永遠に終わらない搾取を受け続けているのだ。

「あ……ぅ……」

 ハルトマンの口から、乾いた音が漏れる。焦点の合わない瞳が、虚空を彷徨っている。

 ズズズ……ン。

 その時、天上の彼方から、低い振動音が響いてきた。鎖を通して、現世からの声が降ってくる。

『足りない』

 アリオストの声だ。

『魔剣の精製に遅れが生じている。全てを、世界のために捧げろ』

 声が響くたび、鎖が脈打ち、ハルトマンの体から強引に光が吸い上げられる。彼女の体がビクリと跳ね、苦悶に口を開けるが、叫び声すら上げる力がない。

「……ふざけるな」

 ラインツファルトの口から、低く、押し殺した声が漏れた。プツリと、体内で何かが決定的に切れた気がした。アリオスト、お前は何の罪もない魂を、犠牲にしていたのか。

「あの子は、私の生まれ変わり」

 背中から、レティシアの静かな声が響く。

「……え?」

「魂の波長が同じなの。たぶん私が魔力に泉にダイブした後、アリオストが私を作り直そうとしたのね。……なんでそんなことしたのかわからないけど。あれは、今の私みたいな不完全な存在じゃなくて、ちゃんと生きて誰かを愛せるはずの子供」

 レティシアの声が、かすかに潤んだ。

「おろして、ラインツファルト」

 レティシアの声に促され、彼は彼女を地面に降ろした。レティシアはよろめきながらも立ち上がり、自身の赤錆びた剣をラインツファルトへと差し出した。体はボロボロだが、ほとんど血は出ていない。やはり、ここは生者の世界ではないのだ。

「あの子を助けてあげて。……あれは私の『再生レナトゥス』だから」

 ラインツファル!は躊躇した。

「……今度こそ、助けられるのか」

 革命の時からずっとそうだった。レティシアを助けられず、長い間眠ったままだった。その間にたくさんのことがあって、何もかも亡くしてしまった。その分だけ、後悔した。

 誰かを、助けたかった。

 レティシアは、今にも力尽きそうな声音で告げる。

「あの鎖は、死者の力では切れない。……生者である貴方の、魔力が必要よ」

「……ああ」

 ラインツファルトは、自身の剣と、レティシアの剣を見比べた。

 そして、静かに、しかし烈火のような怒りを込めて、魔力を練り上げた。

「待ってろ。今、そのクソったれな管を断ち切ってやる」

 ラインツファルトは、全身の魔力を赤さびた大剣に注ぎ込んだ。刀身が、悲鳴を上げるように青白く発光する。それはかつて王家が守り、レティシアが守り抜いた守護の輝きであり、今は断絶のための刃。

 気合一閃、渾身の斬撃を、天へと伸びる鎖に叩きつける。

 火花が散り、空間が歪む。アリオストのシステムと、ラインツファルトの怒りが拮抗する。

「切れろッ!」

 さらに踏み込む。ミシミシと、パイプに亀裂が走る。

 そして――パァン、と乾いた音がして、巨大なパイプが弾け飛んだ。

「あ……」

 束縛を失ったハルトマンの体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。ラインツファルトは剣を捨て、滑り込むように彼女を抱き留めた。

「隊長!」

 呼びかけると、ハルトマンの瞼がうっすらと開いた。焦点の定まらない瞳が、ぼんやりとラインツファルトを映す。

「……ラインツ、ファルト……? どうして、ここに……」

「迎えに来たんだ。……帰ろう、一緒に」

 ハルトマンは、安堵したように小さく息を吐き、そして意識を手放した。魂の崩壊は止まった。あとは、現世に戻り、肉体と再接続すれば助かるはずだ。

「……やったな」

 ラインツファルトは汗を拭い、振り返った。そこには、微笑を浮かべたレティシアが立っていた。

「ええ。見事だったわ、私の近衛ナイト

「レティシア。……お前も」

 ラインツファルトは立ち上がり、彼女に手を伸ばした。

「お前も、行こう。アリオストを倒せば、お前の魂を現世の器――例えば人形や、魔力体として定着させることも不可能じゃないはずだ」

 それは、シュテュンプケの魔術を応用した、一縷の可能性。だが、ゼロではない。

「一緒に帰ろう。……俺はずっと、お前を助けるために生きてきたんだ」

 彼の手が、レティシアの透き通るような指先に触れようとした。

 ハッピーエンドへの道筋。過去の悲劇を乗り越え、幼馴染二人が手を取り合って帰還する。それは、誰もが望んだ完璧な結末のはずだった。


「……でも、ダメ」

 唐突に。

 レティシアの手が、ラインツファルトの手を拒絶するように払いのけた。

「……え?」

 ラインツファルトの手が空を切る。レティシアは、一歩下がって彼を見つめていた。その表情は、先ほどまでの甘い微笑みとは違う。どこか冷ややかで、見定めるような、女王の瞳。

「行けないわ、ラインツファルト」

「な、なんでだ! 方法ならある! シュテュンプケに頼めば……!」

「方法の問題じゃないの」

 彼女は首を振った。そして、視線をラインツファルトの胸元――アダマスの首飾りへと向けた。

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