第45話「デンドロビウムのミセリコルディア」
デンドロビウム最上層。そこは、下層の薄汚れた空気とは隔絶された、冷たく清浄な神域だった。
床は磨き抜かれた黒曜石で、天井は遥か高く、ドーム状の天蓋には無数の魔術回路が星空のように瞬いている。壁一面を覆う巨大なステンドグラスは、聖人の姿ではなく、複雑怪奇な幾何学模様――この都市を支配する魔法陣を描き出していた。
周囲を無機質なオートマタの衛兵が守る中、玉座のアリオストは現れた人物を見下ろした。
「お呼びでしょうか、アリオスト様」
重厚な扉が開き、鈴を転がすような優しい声が響く。アグライアだ。純白のローブを纏った彼女は、聖母のように慈愛に満ちた瞳を伏せ、玉座に座るアリオストに向かい、深く跪いた。
「来たか、アグライア。悲しい知らせがある」
その声には驚きも焦りもない。ただ、回避不可能な災厄を告げるような、静かで重い響きがあった。
「悲しい知らせ、ですか?」
「ラインツファルトだ。奴が、下層にいる」
アグライアの華奢な肩が、わずかに震えた。それは恐怖によるものではない。深い憐憫による震えだった。
「ああ……なんという……。八十年の時を経て、なお戦いの螺旋から抜け出せぬとは。おいたわしいことです」
彼女の声は涙ぐんでいた。
かつての英雄が、安らかな眠りを得ることなく、この崩壊していく世界に再び呼び戻されたことへの、純粋な悲しみ。
「奴は特異点だ。私が書いた未来の筋書きに、唯一ノイズを入れる存在だ。アグライア」
「はい」
アグライアは今一度、頭を垂れる。
「奴を排除しろ。今すぐにだ。奴を生かしておけば、より多くの犠牲が出る。何より奴自身が、絶望に直面することになるだろうが」
アリオストは氷のような瞳でアグライアを見下ろした。その瞳の奥にある疲労と孤独を、アグライアだけは見逃さなかった。
「奴を殺す罪は、私が背負う。お前はただ剣となれ」
「いいえ、アリオスト様」
アグライアは顔をあげ、涙ぐんだ瞳でほほ笑んだ。それは、傷ついた子供をあやす母親のような表情だった。
「その罪は、わたくしにお任せください。貴方様の御心は、もうう十分に血を流しておられます」
彼女は立ち上がり、胸の前で手を組んで祈るように言った。
「ラインツファルト様は、過去の美しい夢の中で眠るべき方です。この残酷な現実は、あの方には毒すぎます。わたくしが、安らかな眠りという救済を与えて差し上げます」
「……いいだろう。帝国の意を示せ」
「御心のままに。どうか、あなた様はこれ以上、ご自身を傷つけなさいませんように」
アグライアは深く一礼すると、音もなく姿を消した。彼女の慈悲でもって、迷える魂を「救済」するために。
扉が閉まり、広い玉座の間に再び静寂が戻る。アリオストはふう、と思い息を吐き出し、玉座の手すりに肘をついた。
「つかみどころのない女だな」
「アリオスト様。彼女が例の、姿を現すことのなかったと言われる最弱の聖剣、ミセリコルディアなのですか」
小ぎれいに整ったドレスを身にまとって、レギーナ・アウグスタは尋ねる。
「お前には、そう見えるか?」
「ええ。少なくとも、強さは感じられませんね」
アリオストは、ステンドグラスから漏れる光に手をかざしながら、冷ややかな笑みを浮かべた。
「そうだな。古代帝国の一万年の歴史書において、あの剣が勝利をもたらした記録は一度たりともない」
「一度も、ですか? しかし、今の彼女から感じる魔力は、他の聖剣を凌駕しているように思えますが……」
「勘違いするな。強さとはなんだ? 敵を倒し、奪い、自らの生を謳歌することだろう?」
アリオストは、アグライアが消えた扉の方角を一瞥する。
「ミセリコルディアは、それをしない。あれは『慈悲』だ。慈悲とは、持てる者が持たざる者に与える施しではない。あれの本質は『介錯』だ」
「介錯……?」
「そうだ。あれは、弱き者に力を与えるのではない。弱き者の諦めを肯定し、幕を引く力だ」
アリオストの声が、玉座の間に低く響く。
「勝たせてはくれないのだ。ただ、苦しみを終わらせるだけだ。英雄が築いた栄光も、魔王が抱いた野望も、弱者の涙の前では等しく無価値だと断じ、全てを無に還す」
レギーナは息をのんだ。それは勝利を至上価値とする帝国にとって、最も忌むべき性質だった。戦って勝つための剣ではないのだ。
「ゆえに『最弱』。未来を切り開く力を持たず、ただ静かに閉じるだけの道具。だが全く無力なわけではない」
「あの剣は、ラインツファルトを殺せるのでしょうか?」
「そのために、ある仕掛けをした。じきに動き出すはずだ」
そこへ、顔のない部下たち、感情を去勢された魔道技官たちが、淡々と報告を上げる。
「アリオスト様、魔力充填率、八十五パーセントを突破いたしました」
「大陸中央部の第三セクター、住民の九割が死亡。回収した魔力の純度は良好です」
「続けろ。一人も無駄にするな」
アリオストは冷酷に告げる。何十万という命の灯が消え、単なるエネルギーへと変換されていく。
だが、アリオストの瞳に罪悪感による揺らぎはない。あるのは、深淵のような絶望と、鋼鉄の使命感だけだ。
「神よ……」
彼は玉座を断ち、部屋の中央に鎮座する巨大なカプセルへと歩み寄った。その中では、どす黒い光を放つ何かが胎動している。世界中の生命を犠牲にして精製された、絶望と嘆きの結晶。
――『完全なる魔剣』。
「貴方が振るう刃による粛清、それを防ぐにはこれだけの犠牲が必要だ」
予言者であるカバールによると、近い未来、天から人類すべてを無慈悲に刈り取る裁きの光が降り注ぐという。それに対抗できるのは、正義ではない。神の理さえもねじ伏せる、圧倒的な物量の「魔」、それのみ。それのみが理の創造主を超越させてくれる。
「半分だ」
「半分?」
レギーナが首をかしげる。
「人類の半分を魔剣の燃料としてもやし尽くせば、残りの半分は生き延びられる」
アリオストはカプセルのガラスに手を触れた。指先が凍り付くような冷気。それは、彼が背負った罪の重さそのものだった。
「恨むなら恨め。憎むなら憎め。その全ての呪詛すらも、この剣の糧となる」
自らの複製体であるラインツファルトの顔が脳裏をよぎる。もし彼なら、こんな方法は選ばなかっただろう。もっと青臭く、もっと無謀に、全員を救おうとして――そして全員死ぬのだ。
アリオストは確率を知っている。奇跡が起きないことも知っている。だからこそ誰かが悪魔にならなければならない。
「急げ、時間がない。……神が下りてくる前に、私が神を殺す」
「ふふふ。仰せのままに」
アリオストは楽しげに笑うレギーナを尻目に、完成間近の魔剣を見つめ続けていた。




