第41話「デンドロビウムの影」
それより少し前の話。
デンドロビウムの下層区画。そこは、整った街並みの「上層」や、行政機関が乱立する「中層」とは違い、分厚い「蓋」によって陽の光さえ遮られた、帝国で最も混沌とした区画だ。
その薄暗い街並みの中で、シュテュンプケは焦りを感じていた。なれない場所だというのもあるが、ここにはグラジオラス教団がいる。その中には、古代帝国の時代から連綿とその技術を受け継いでいる一派がいるという。
(……もう古代帝国の因縁は断ち切りたいんだがな)
「おい、美少女の嬢ちゃん!」
シュテュンプケはその声に振り向いた。見た目でそう呼ばれたのはわかっているが、実際のところ今は性別とは無縁なところにいるから、その呼びかけは何とも言えない。
幌の屋台でハゲの男が手を振っていた。どうやら魔術書を扱っているらしい。
「いやはや、いまだに女扱いとは困ったもんだ……。で、なんだ? 私に教えでも乞いたいのか?」
「あ? 何おかしなこと言ってんだ。それより、ほい。この本は嬢ちゃんにおすすめだよ!」
シュテュンプケは、ずっしりとしたハードカバーの書物を受け取る。
「いやいや、私が読んだことない本なんてないんだよ。アーガディア大書庫で死ぬほど読んでるんだから」
と言いながらも、彼は本を開いて中身をあらためる。
彼にとっては、ラインツファルトたちと出会うまで、新しい刺激など長いこと経験していなかった。ただのっぺりとした退屈で苦しい毎日が、かつての記憶に苛まれる日々が続いていくだけ。
その本も同じだ。どこかで見た内容、どこかで見た挿絵。だが、一枚のしおりが挟まっているのが目に入る。そこには最近はあまり見ない古代文字で、行動が手詰まりになりかけていた彼らを助太刀するように、協力者の情報が記されていた。
彼ははっとした。
差出人は『終末の予言者』カバール。どこかの遺跡にこもっているとだけうわさで聞いていたが、今現在の彼の生死は知らなかった。それが、このような形で接触することになろうとは。
「あいつめ、また面倒事を作ろうとしているな。多少の面倒事は避けられないと思ってたが、やはりか……。店主、これいくらだ?」
シュテュンプケはなけなしの通貨を渡して、石造りの要塞の前でラインツファルトと合流した。その顔立ちは、今までの彼のものとは違う。シュテュンプケ曰く、「お前さんのその『立派すぎるお顔』は隠さないとな。ここの連中は、アリオストの分身であるお前さんの顔を、嫌というほど知ってるから」。
そう言ってその顔に幻惑の魔術を施したのだ。今では彼の端正な顔立ちは、ありふれた労働者のような、疲れた男の顔に変わっている。
彼はその相貌で、申し訳程度に渋顔を作ってみせた。
「また余計なものを買って……。こちらでは、ミセリコルディアに関する情報は得られなかった」
「なるほど、そうか。アリオストに捕捉される前に切り札を手に入れたかったが、やっぱり無理筋か。ヤツと(デンドロビウムではアリオストの名前は簡単に出すわけにはいかない)直接ぶつかるしか方法はなさそうだ」
ラインツファルトは生唾を飲み込む。
「もう、時間はそう残されてはいないからな。それで、そちらの首尾はどうだった?」
「実は、ミセリコルディアとは別の足掛かりを見つけたんだ」
「別の? というと?」
シュテュンプケは、ふふんと息巻いてもったいぶる。
「どうやら、私たちに仲間がいるらしい。私の『たぶん一応古い友達』のメッセージで、なんでも王国の派閥の生き残りが、まだこの下層区画に残っているらしい」
「王党派の……生き残り」
「ああ、接触を図ってみる価値はあると思うぜ。なにせ、私たちのプランA、ミセリコルディアの探索が手詰まりなんだ。今は少しでも、ヤツの打倒のためのきっかけが欲しいだろ?」
二人は、シュテュンプケの幻惑に守られながら、アジトの扉をくぐり、下層区画の奥深く、とある「酒場」へと向かう。
酒場の扉を開けると、そこは荒くれものたちの怒号と酒の臭いで満ちていた。
二人がカウンターに座ると、バーテンダーの男が、無言で汚れた布巾でグラスを拭いている。
シュテュンプケは何気ない風を装って、カバールに指示された合言葉を言った。
「……『古き王冠亭』は、まだ営業してるか?」




