第40話「静けさ」
最後の二人を治療し終えて、アグライアとヴェイスは別室で腰を落ち着けていた。
「先ほどは助かりました」
アグライアが小さく頭を下げる。
「ですが、これほどのペースで魔力病が増えるとは……。何か対策を考えなくてはいけませんね。魔力の泉が近い創生区画も慌ただしくなっていると聞きます」
彼女は立ち上がり、曇った窓の向こうに目をやった。人の気配はなく、風の音だけが遠くで鳴っていた。その静けさが、かえって不気味だった。
「ここから逃げることはできないんすか?」
「当局から避難命令が出ない限り、勝手な移動は禁じられています」
アグライアの声が沈む。
「もう使いを送りましたが……おそらく、許可は下りないでしょうね」
デンドロビウムの統制は厳格だ。中央の許可なく動けば、それだけで罪に問われる。
それでも、アグライアの胸には葛藤があった。この修道院は地脈の真上にあり、創生区画の“魔力の泉”に近い。
ゆえに侵食の影響も強い。日を追うごとに、空気そのものが歪んでいくのが分かる。
そんな中で、アグライアは不意に言葉を落とした。
「……ヴェイスさん。あなたは、私たちの味方でいてくれますか?」
アグライアの瞳は真っ直ぐで、その光が、脳裏に焼きついて離れない。
あのときの姉も、こんな目をしていた。
血に染まった顔で、それでも弟を逃がそうとしたあの日。
アグライアの真剣な目が、あの日の姉の目と重なる。
『早く、逃げて……!』
口から血を流し、それでも弟を逃がそうとした姉の顔がちらついている。
あの時、自分は姉を見捨てて逃げた。
アグライアもまた、自分に見捨てられるのではないかと恐れている。
だが、今の自分は何が言える?
「……俺は」
ヴェイスは視線を伏せる。
「保証は、できないっす。ただ……」
「ただ?」
アグライアの声が柔らかく促す。
「……誰も、見捨てたくないとは思ってるっす」
その一言に、アグライアは小さく微笑んだ。
「よかった。また面白いお話を聞かせてくださいね。あなたの話を聞いていると、不思議と元気が出るんです」
と、ゆっくりとドアが開けられた。何事かとヴェイスは身構えたが、アナが紅茶を持ってきただけだった。彼はほっとため息をつく。
「失礼します……」
「ありがとう。子供たちの様子は?」
「はい、今はぐっすりと眠っています」
「そう……よかった。これ以上は、身体が持たないでしょうから」
そう言ってアグライアは笑う。
だが、アナは少しためらってから小声で囁く。
「……陛下が、です」
その一言で、アグライアの表情が凍りついた。
「どうしたんすか?」
「今回の件で、皇帝陛下がお呼びとのことです。以前にはなかったことです。……何か、思うところがおありなのかもしれません」
「そうっすか……。あまり無理はしないでくださいっす」
「ええありがとう、ヴェイスさん」
紅茶の湯気が静かに立ちのぼる。
ヴェイスは礼をして去って行く後ろ姿を見送った。




