第25話「遁走」
「シュテュンプケさん!」
「問題ない」
あたった魔法はしかし、シュテュンプケにはきかなかった。自分の撃った魔法の影響は受けないよう、無効化の術を施していたのだ。
「それよりアリオストを足止めしてくれ!」
言われたラインツファルトは、すぐさまアリオストに向かって駆け寄る。レギーナは体が本調子ではないのか、片膝をついて様子をうかがっている。今がチャンスだ。
彼らの交わす剣が甲高い音を立てながら、幾重にも火花を散らす。近衛として腕を磨き続けたラインツファルトの一撃は重く、アリオストは押され気味になる。
ラインツファルトをきつく睨みつけ、アリオストは距離をとった。
「帝国の秘術を見せてやろう」
アリオストが両手を前に突き出すと、その指先から編まれた魔術が空間を走った。チカチカと瞬く光は、まるで星屑のように宙を舞い、やがて音もなく炸裂する。
一瞬、何も起きていないように見えた。だが次の瞬間――ラインツファルトは膝をついた。
「く……ッ!」
上下も左右も、前後さえもわからなくなる。平衡感覚を狂わせる魔術。それは、感覚干渉系と呼ばれる、魔剣士にとって最も厄介な類の呪いだった。
ラインツファルトは額を押さえ、歯を食いしばりながらも踏みとどまった。
その隙を突くように、シュテュンプケが魔術を連打する。だが――いずれも、アリオストに届かない。術式は正確であり、威力も申し分ない。しかし、アリオストの纏う見えざる膜が、すべてを無効化していた。
押されていた。二人がかりでも。
その様子を、ハルトマンは黙して見ていた。
帝国で生まれ、帝国のために育てられ、魔術によって支配されてきた彼女。彼女には血縁もなく、守るべき故郷もない。だが、たった一つ、譲れないものがあった。
自分のせいで、誰かが死ぬ――それだけは、どうしても許せなかった。
次の瞬間、ハルトマンは反射的に駆け出していた。左手に氷晶を形成し、跳躍とともにアリオストへ叩きつける。氷の槍が連なるように空間を突き刺し、怒気を孕んだ声がその場に響く。
「私だって……見ているだけじゃない!」
叫びと同時に、シュテュンプケも呼応して再び詠唱に入る。
だが。
「うっとうしい……」
アリオストが声を漏らしたその瞬間、空気が変わった。
シュテュンプケの放った火弾が、アリオストの身体をすり抜ける。その後方にいたティアレットの氷槍が、術に巻き込まれ砕け散る。
「っ……!」
その一撃の混乱の中、アリオストの手が閃いた。手の甲でティアレットの頬を強かに打ち、白い肌に血が飛び散る。彼はそのまま彼女の首を掴み上げた。掌から熱が発せられ、焼けるような音と匂いが空気を満たす。
「ハルトマン隊長……!」
ラインツファルトが叫んだが、足取りはおぼつかない。干渉魔術の影響が、まだ消えていない。
「俺の力は、一朝一夕で手に入れたものではない」
アリオストの声は、怒りでも狂気でもなく、ただ揺るぎなかった。
「八十年前、グスタフに声をかけられたときから、俺の信念は変わっていない。強くなって全ての支配者になる。世界を支配するには、強さがすべてだ。弱い者は奪われる。ただそれだけのこと……」
彼の視線が、ティアレットを超えて、ラインツファルトに向けられる。
「他者を犠牲にするお前のやり方を、俺は認めていない」
ラインツファルトが剣を支えながら、低く唸るように言う。
「革命のときから、お前は何一つ変わっていないぞ、アリオスト」
「黙れ」
アリオストの声は冷え切っていた。
「この世界の壁は、お前が思っているよりもはるかに高い。それを乗り越えるためならば、どんな代償だってあまりに安い」
「く、うッ……」
ハルトマンは皮膚の焼けただれるような痛みに思わず悶えた。
ラインツファルトの剣が揺れる。だが、魔術に揺さぶられた身体では、彼に届くことすらできない。
アリオストの目が細まった。
「その程度の力で今の俺に勝とうだなんて、それこそ、笑わせる」
ラインツファルトは表情を暗くした。このままじゃ、あのときと同じじゃないかーーあの王都が陥落したあの日、レティシアを失ったあの日と。同じ結末で終わっていいのか?
いいはずがない。
ラインツファルトは剣をかまえなおす。
この状況を打開する。すべてを変えて見せる。
「おおおぉぉおッ……!!」
ラインツファルトは大きく吠えると剣を構え、感覚干渉魔術を受ける前の水準にーーいや、それ以上に洗練された動きでアリオストを翻弄する。その剣筋は七色に光って見えたーー彼の魔術が、それだけ色濃く反映されているのだ。
余裕を持っていたアリオストは思わず気圧される。
「今までとは一線を画する動き……、いったい何をした、なぜ魔術を受けておきながら、それだけの動きができる。俺への復讐心か……。いや、そんな精神論だけでは到底説明がつかない」
アリオストは顔をゆがめた。このままではまずい。身体にはすでに数本の裂傷が走っていた。このままでは埒が明かない。打開策が必要だ。
そのとき、不意に視界に人影が滑り込んだ。
「アリオスト様、今はまだそのときではありません。ここは一度退却を。私が隙を作りますので」
レギーナは背後に人一人が入り込める"空隙"を作ったうえで、腰を低く落とし、ラインツファルトの剣を鋭くはじく。
「いいだろう。後は頼んだ」
「待て、逃げる気か!」
ラインツファルトの怒声が響いた。
「今はまだその時ではないというだけのことだ。いずれ相まみえるときが来るだろう。そのときは全力でお前のことを迎えてやる」
「待てッ……ちッ!」
焦燥のまま剣を振るうが、レギーナが道を塞ぎ、思うように距離を詰められない。
そこへシュテュンプケの魔術が飛ぶ。雷光が走り、辺りの空気が焦げた匂いを帯びた。
「こいつは私が足止めする! あんたはアリオストを頼む!」
しかしすでにアリオストは片足を空間の切れ目に踏み入れていた。
「レティシア、お前も来い、儀式にはお前の存在が必要だ」
「させるか!」
シュテュンプケとレギーナがやり合う直線状を飛び越えて、ラインツファルトはアリオストに襲い掛かる。ここで逃がしてしまえば、千載一遇のチャンスを逃すことにもなる。ましてや革命の二の舞など、考えられない。
ラインツファルトは渾身の一撃を繰り出した。だが、それも届かずに空を切る。
「グラジオラス百万の民の命はお前にかかっているんだぞ。お前はそのすべてを見殺しにするつもりか」
その言葉は、鋭い刃となってハルトマンの胸を貫いた。
「……それでも、私は……!」
その瞳には迷いがあった。だが、確かに光も灯っていた。
「私は……レナトゥスで耳を塞いだあの悲鳴を、忘れられない。理不尽に、唐突に奪われていった者たちの声を。だから……私は、あの日の続きを、生きなければばならないんだ」
言葉が、術のように空気を震わせた。
アリオストを包み込む次元の裂け目がきしみ、崩れ、閉じようとしていた。
アリオストの顔に、初めて焦りの色が浮かぶ。
「レギーナ」
「お任せをッ!」
レギーナが刃を旋回させ、火花を散らしてシュテュンプケの放った雷撃を切り裂く。そして即座に回転し、ラインツファルトの二撃目を受け止めた。
「うおおおおッ!」
レギーナが加勢に来たことで、明らかにラインツファルトたちの分が悪くなっていた。それを見たハルトマンは、アリオストの方へ足を向ける。
「来るな、ラインツファルト。アリオストの狙いは最初から私だったんだ。私の血は、グラジオラス帝国の血脈を色濃く受け継いでいる。私の血がなければ、あの街はいずれ滅びてしまう。だから、お別れだ」
「だめだ! 俺も連れていけ、アリオストッ!」
その叫びは空しく響き、次元の狭間に消えていった。




