第17話「魔の森」
彼が声を発したその刹那、鋭い叫びが戦場を裂いた。
「──させませんよ!」
マルティウスが、剣を横から突き出す。狙いは、ラインツファルトが背に庇っているシュテュンプケ。その剣には黒く淀んだ魔力がまとわりつき、ただの物理的な攻撃ではないことを物語っていた。
その光景を見た瞬間、ラインツファルトの脳裏に、ある古びた記憶がよみがえった。
あの日の午後、剣を交えながら、グスタフが語った言葉だ。
「ラインツファルト、攻めと守りのせめぎあいなんだ。攻めが先に進化したとき、その魔術は守りの魔術を貫通する」
それがまさに今、実現しようとしていた。
戦闘中、シュテュンプケに通用する魔術をマルティウスが模索しているのは彼も理解していた。
そしてこのマルティウスの魔術は、これまでのものとは根本的に異質だった。ラインツファルトにとって未知の魔術。それが意味するところは、三つに一つだ。
森の魔術。古代の忘れられた魔術。そして──彼が長い眠りについていた八十年間で、新たに生み出された魔術。
マルティウスが放つのは、その三つ目。シュテュンプケでさえ知らぬ“現代の殺意”だった。
「──Abi damnatus!」
黒い呪詛の響きが、空気を震わせる。
ラインツファルトは、考えるよりも先に反応していた。
「させるかッ!」
咄嗟に飛び込み、剣を素手で掴む。
刃が手を裂き、血が噴き出す。
それでも指に力を込め、深く深く喰らいつかせる。
「ほう、この攻撃を受け止めますか」
その声音に、意外の色はあるが、揺るぎはない。
だが、マルティウスは涼しい顔のまま、剣をぐっと持ち上げた。剣がねじられ、ラインツファルトの肉が削がれる。焼けるような痛みに、思考すらかき消される。
そして、再び振り下ろされる死の刃。
魔手は──出ない。封じられている。
もはや反撃の術も、防御の術もない。
彼は死を悟った。振り下ろされる剣が、異様に遅く見えた。
レティシア様を守ることもできず、仇を討つことも叶わず、ここで命が潰える──それが現実となる瞬間。
だがそのとき。
突如として、世界がぐらりと揺れた。視界が歪み、内臓がひっくり返るような吐き気が襲う。重力が狂ったかのようなめまい。
気づけば、マルティウスも、兵士たちも、その場にはいなかった。
──空間転移。ついにシュテュンプケの魔術が完成したのだ。
戦場に取り残された帝国兵たちは、あまりの事態に目を見開き、呆然と立ち尽くしていた。突然姿を消した二人を追うように、あたりを見回す。
一人の兵士が、マルティウスに尋ねた。
「マルティウス様、追跡しますか」
だが、マルティウスは剣を下ろし、静かに笑んだ。
「放っておきなさい。あの魔術は容易には解除できません。何もできずにすぐに死ぬでしょう」
彼は目を細めた。
ラインツファルトの力の底を知る前に逃がしてしまったのは不覚だった。とはいえ、ラインツファルトがレギーナとの戦いでそれなりに消耗していたのも事実。おおよその見当はつく。気を尖らせるほどのことでもない。
アリオスト様にはそう伝えておくとしよう。
「しかし、『帝国の魔女』が産み出した必殺の魔術というのは、そこまでの代物なのですか?」
マルティウスは薄く笑った。
「それを今、ここで言いますか。その帝国の魔女というのは、目の前にいるじゃありませんか」
「え」
マルティウスが示した先には、魔力で拘束されたレギーナがいた。
「彼女は研究所に籠もって何十年も研究されているのですから、その実績は中々のものです」
レギーナは、アリオストの下で途方もない時間を魔術の研究に費やしていた。彼女がその期間で新たに生み出した魔術の数は五十を超える。
「何十年も……?」
そんなに年を取っている風には見えなかったが、理を逸した魔術を生み出す彼女もまた理を逸しているのだ。
「無論、戦闘中に気分が高ぶってしまうレギーナ殿が、その成果を活用することはめったにありませんが、ね。なんといっても、彼女は帝国でも指折りの武闘派ですから」
聞きながら黙っていたレギーナが、見る見るうちに顔を紅潮させた。
「そんなことはいいから、早くこの枷を何とかしなさい!」
シュテュンプケの転移魔術が発動した直後、ラインツファルトの足元がふわりと浮いた。身体が宙に放り出されるような浮遊感。そして吐き気。視界がぐにゃりと歪み、次の瞬間には、マルティウスたちの気配は消えていた。
……何がどうなってる?
まさかここまで力技で問題を解決されるとは。驚きというより呆れに近いものが胸をよぎる。
ラインツファルトは頭を振って、周囲を見回した。見慣れぬ森の中。特に異変はない──ように見えた。
そのとき不意に、背筋をなぞるような悪寒が走った。
何かが近くにいる。レギーナやマルティウスではない、もっと異質な何かが。
「ラ、ラインツファルト! 後ろだ、後ろに──ヤバいやつがいる! 逃げろ!」
ハルトマンの声が叩きつけられる。
黒く濁った泥の塊から、無数の手足と顔が生えている。どの顔も苦悶に歪み、どの手も、何かを求めるように蠢いていた。こう言ってよければ、ニーシュ村の蔵の中にいた成れの果てを、粘土で固めたような怪物だった。
ラインツファルトはハルトマンの横について走り出した。彼女の肩には行方不明だったグスタフがのっかっていた。
「くそ、転移先がこんな過酷な環境だなんて聞いてないぞ!」
背後を振り返った彼の目に映ったのは、想像以上に素早く迫る怪物の姿だった。
巨体のくせに俊敏だ。逃げる者への反応速度は、訓練された兵士並み。
ラインツファルトは即座に大地に魔力を流し込み、土の壁を築く。その背後に怪物の動きが止まるのを感じた瞬間──
「任せろ」
ハルトマンが手を掲げ、氷晶を砲弾のように打ち出した。巨大な氷の塊が壁を貫通し、鈍い音と共に怪物の叫びがこだました。
すかさず、ラインツファルトが白い魔術光を連射する。
土壁に無数の穴が空き、閃光の向こうに敵の姿を探す──が、そこに奴の影はなかった。
「ラインツファルト、上だ!」
ハルトマンの声に反応するより早く、直感が警鐘を鳴らす。
「なるほど、ずいぶん身軽だな」
そう言って土の柱を地面から作り出す。黒い怪物は空中から自分の重みをそのままに、柱の先端に串刺しになった。
だが、それでも終わらない。奴の身体が蠢いている。表面の手足がもがき、抜け出そうとしていた。
既に魔力はかなり削られている。このまま長引けば、消耗戦で押し負ける。殺せなくても、足を止める。今はそれでいい。
ラインツファルトはありったけの魔力で水の濁流を生み出した。
「とんだ無茶ぶりだな」
ぼやきながらも、ハルトマンはすぐに理解した。
濁流の中に、氷の魔力を込めて一気に凍らせる。氷結は瞬く間に広がり、怪物の動きを完全に封じた。
怪物は最後の瞬間まで――まるで体中の手足が、それぞれ独立した意思を持つかのように、のたうち、もがき続けた。
静寂が戻った森の中、二人は互いに顔を見合わせた。そして、同時に深く溜息を吐いた。
だがその間にも、マルティウスから最後に受けた魔術は、ラインツファルトの体を蝕み始めていた。




