第16話「大魔法使いとマルティウス」
レギーナは、自分の口から出た言葉の馬鹿馬鹿しさに思わず笑いそうになるのを堪えながらも、重々しく言い放った。
シュテュンプケが所属する村、〈ローアイアイ〉。帝国にとって確かに脅威だった。だが、それは決して村そのものが組織的に強大だったからではない。ただ──シュテュンプケという存在が、唯一無二の脅威だったのだ。
「そこまで言ってくれるのはありがたいけど、興味ないんだよな……」
シュテュンプケはわずかに肩をすくめ、周囲を見渡した。
異変に気づいたのは、ラインツファルトも同じだった。
黒い森の奥、潜んでいた帝国の兵士たちが次々と姿を現す。二十、三十──その数はみるみる増え、重装の兵士たちが林立した。彼らは皆、チェーンメイルの上からさらに鎧を纏い、まるで鋼の壁のように列を作る。
「なぜ出てきたのですか。私はそのような命令はしていませんが、マルティウス卿」
レギーナが苛立ちを隠そうともせず声を張った。
その声に応えたのは、鎧の軋む音とともに歩み出た男──マルティウス。
彼は肩をすくめ、唇の端に皮肉な笑みを浮かべる。その動作は、余裕というよりも見下すような冷たさをまとっていた。
「今が好機と見えましてね。レギーナ殿、少々苦戦しておられるようでしたので」
マルティウスは、帝国皇帝アリオストの信任厚い側近の一人だ。レギーナも同じくアリオストの寵愛を受ける立場にあるとはいえ、この男に対しては、軽々しく反論できる相手ではなかった。
「さて──」
マルティウスの目が細められる。その眼差しは鋭い獣のそれに変わった。
「あなたがなぜ村を離れたのか、その理由……ぜひとも聞いてみたいものです」
「おいおい、村からまったく出ないなんてことあるかよ。森の異常分子を掃除するのも、立派な役目なんだ」
シュテュンプケはわざとらしく首をかしげる。その声色は軽いが、足元の魔力が静かに蠢いているのを誰もが感じていた。
「ほう……では、その“異常分子”を駆除する力、どの程度か確かめさせてもらいましょう」
言うが早いか、マルティウスは鎧を纏った細身の体をしなやかに操り、一気に間合いを詰めた。足音が土を抉り、鋼がぶつかるように空気が弾ける。
「おいおい、まじかよ!」
思わず声を上げたシュテュンプケだが、動じた様子はない。むしろ、その顔にはほんの一瞬、心底うんざりしたような表情が浮かんだ。
剣が振るわれ、拳が飛ぶ。魔術と武術が渾然一体となって、マルティウスは矢継ぎ早に襲いかかる。その動きは単なる一兵卒とは比べものにならぬ切れ味を持っていた。
だが。
そのすべてが、ことごとく空を切る。
シュテュンプケは、まるで舞うように、軽やかにその猛撃をかわし続けた。焦る様子もなく、むしろ冷ややかにマルティウスを見下ろす。彼の白い肌と整った顔立ちは、魔の森の薄闇においてさえ、異様なほどの輝きを放っていた。
「──ならば」
苛立ったように、マルティウスは鋭く号令を飛ばす。
「放て!」
その声が響くやいなや、待機していた兵士たちが一斉に魔力を解き放った。黒い魔手が、背から投げ槍のように鋭く飛び、森の空気を切り裂きながらシュテュンプケに殺到する。
ラインツファルトも、もはや傍観者ではいられなかった。瞬時に全方位へ防壁を展開する。だが、その結界には早くも蜘蛛の巣のような亀裂が走り始める。
まだ完全には回復していないか……。
無言のうちに視線が交わる。シュテュンプケが、まるで心を見透かしたように口を開いた。
「まともに戦おうとしてもらちが明かない。少し荒療治になるが、あれをやる」
「……あれ、って?」
問いかけに答えず、シュテュンプケはゆっくりと目を閉じ、両の手を重ね合わせる。空気が張りつめる。尋常ではない集中を要する作業だと、誰の目にも明らかだった。
「させませんよ!」
マルティウスが機を逃さず突進する。剣にまとわりつく漆黒の魔力が、獰猛な獣のように唸りを上げる。
刺突が先ほどまでと同様、無意味に終わる可能性はある。だが、シュテュンプケの回避術が魔術に依存しているならば、過剰な圧力にさらされれば攻撃はいつか必ず通る。そうなれば、この場を切り抜ける秘策も使えない。
その先端がぎり、ぎりと防壁に食い込む。その直後、圧力に耐えきれずに前面がガラスのように割れてはぜた。
「シュテュンプケさん!」
ライツファルトは叫ぶ。だが、当の本人は深い集中の淵に沈み込み、口元で何かを呟き続けていた。周囲の喧騒など一切耳に入っていない。
「チッ……!」
今はシュテュンプケを信じるしかない。
焦燥が込み上げるが、今は信じるしかない。ラインツファルトはすかさず駆け寄り、魔手を放ってマルティウスを牽制する。だが──予想通り、魔手はことごとく弾かれる。対策は万全だった。
ならば、とラインツファルトは咄嗟に体を投げ出し、力任せに体当たりを敢行。マルティウスの剣がわずかに軌道を外れた。
「まだか!」
叫ぶラインツファルト。しかしシュテュンプケは、なおも呪文の詠唱を続けたまま。無言のまま、その眼差しは鋭く内側へと向けられている。
その間にも、兵士たちの放つ魔手が容赦なく襲いかかってくる。黒い槍の雨が、森の空を裂くように飛来する。
──兵士たちを殺して道を切り開くか……。
一瞬、そんな衝動が脳裏をよぎる。だが、すぐに打ち消す。いや、駄目だ。ここで彼らを殺せば、帝国との間に新たな禍根を残すだけだ──背負いきれないリスクを。
そのとき、不意にシュテュンプケが口を開いた。
「お前の仲間は、ハルトマンとグスタフだったな」
「あ、ああ、そうですよ! それが何か!?」
シュテュンプケは視線を鋭くし、低く告げた。
「これから、ローアイアイに集団転移する」
「はっ?」
シュテュンプケは目を見開いて叫んだ。
「飛べ!」




