その4
蓮華がどこへ行ったのか、何があったのか、皆さんの推理はまとまりましたか?
いよいよ解決編です。彩佳はハンティング帽の諮問探偵と違って、謎を解けばすべてが解決、などとは考えません。彩佳なりの解決法をご覧ください。
土曜日を利用して大学の課題を進め、日曜日の今日は気持ちよく晴れたので、外に出かけることにした。
昨日の朝から美紗は別の場所に出かけていて、昨日の夜は久しぶりに一人で寂しく過ごした。本来の自分の住居である、あのぼろいマンションの一室に戻ろうかとも思ったが、結局美紗の部屋で寝て朝を迎えている。生活道具のほとんどを美紗の部屋に持ち込んでいたし、お泊まりセットを持って自分の部屋に戻るというのは、なんというか、ないと思ったのだ。
色んな意味で慣れない朝を迎え、ゆっくりと朝食を済ませてから、ちょっと足首のしっかりした靴を履いて外に出た。行こうと思っている場所は、大学よりも少し遠い所にあるから、足が疲れないように遠出用の靴を選んだのだ。実はその場所で、落ち合う予定の人がいる。
その場所とは、緑地の真ん中に建てられた図書館である。この辺りでは、大学の図書館に次いで規模の大きい図書館で、周辺は遊歩道が整備されていて、散歩やウォーキングで訪れる人もいるという。敷地のあちこちにベンチも設置されていて、都会の喧騒からいい具合に離れた立地で、しかも読書用の本にも困らないから、当然ながら最高の読書スポットの一つとして、探求団のメンバーにも昔から好まれている。
そういえば、ここにあるベンチは大半が日当たりのいい場所にあるけど、日当たりがよすぎるとタブレットで電子書籍を読むのに向かないのでは、と蓮華が以前に言っていた。他の団員もそうだけど、わたしもその指摘を聞いた時、なるほどと思ったものだ。それまでサークルでは紙の本しか読んでいなかったから、その発想は浮かばなかった。
その蓮華が姿を見せなくなって、もうすぐ二週間になろうとしている。危なそうな連中もこの件に関わっているし、そろそろ何らかの形で決着をつけたいところだ。
なんてことを思いながら、わたしは静謐な空間に足を踏み入れた。
待ち合わせの相手は、二階の書架にいた。法律関係の本が並ぶ棚の前で、『身の回りの民法』というタイトルの本を、涼しげな表情で立ち読みしている。この人と探求団の部室以外で会うのは初めてだから、なんだか不思議な気分だ。
相手の方も、わたしの接近を視界の端に捉えて、パタンと本を閉じて振り向く。
「やっと来たのか、彩佳」
「団長、ちょっと探しましたよ。入り口近くで待っていてくれたら、すぐに見つけられたのに」
「図書館に来て本を読まないわけにはいかないでしょ。ちょうど、読みたい本が二階にあったものだから、彩佳が来るまでの間、ここで読んでいようと思ってね」
本好きって基本的に自由人が多いのだろうか……。
呆れているわたしの目の前で、羽曳野菜摘は読んでいた本を棚に戻した。ご丁寧に、背表紙に貼られている分類記号をチェックしてから、確実に元あった場所に戻している。こういうところは、本好きならではの最低限のマナーなのだろう。
「さて、彩佳。私と二人だけで話したい事とは、何かな?」
ニヤリと不敵に笑って、菜摘はわたしに問うてくる。先日もそうだったが、質問の答えを高確率で予想できている時、菜摘はこういう笑い方をする。そもそも、昨日電話で「二人だけで話がしたい」とわたしが言い出した時点で、どんな話か見当がついたから、菜摘はこの場所を待ち合わせに指定したのだ。あの部室の周辺には、他のサークルの部室も建物もあるから、普段から人通りは少なくても、誰かに聞かれる可能性はあったから。
「……なんとなく予想はできていますよね」
「まあな。どうせ、蓮華のことだろう? あれから色々と分かったことがあるから、改めて私に話しておこうと思ったわけだ」
「そこまで分かっているのにわざわざ質問するんですね」
「お互い様だろう? 彩佳もこっちの質問に答えることなく、私が予想できているという前提で訊き返した」
「はあ……もういいです。場所を変えましょう。館内でのおしゃべりは気が引けますし」
「だったら外のベンチにしようか。いい場所を知ってるんだ」
さすが、読書スポット探求団の団長、静かで落ち着いた場所は熟知している。心地よい場所を見つけるのが得意な猫みたいだ。
そうして菜摘に連れてこられた場所は、図書館を出て建物の壁沿いに進んだ先にあった。遊歩道からは外れていて、草地の上にぽつんと一つだけベンチが置かれているだけの、静かで寂しげな空間だ。ベンチの後ろは図書館の白い壁、目の前は空と揺れる木々のコントラスト……目にも耳にも優しそうだな、と思った。
「へえ……こんな所にもベンチがあったんですね」
「遊歩道のそばのベンチばかり注目されるけど、実は敷地のあちこちに結構あるんだよね。まあ恐らく、この図書館を設計した人の趣味だろうけど」
「何かの本にでも影響されたんでしょうか……」
「さあ? そういう本もあるかもしれないけど、私は知らないね」
いい加減なことをおざなりな口調で言いながら、菜摘はベンチに腰を下ろした。座面のちょうど真ん中に座っているせいで、左右のどちらにわたしが座っても、菜摘と密着しそうに見えたので、わたしは立ったままでいる事にした。
「さてと、それじゃあ話してもらおうかな。蓮華のことで分かったことを」
「その前に、団長に聞いておきたいことがあります」
「ん? 何かな?」
背もたれに左右の肘をのせて、余裕そうにふんぞり返っている菜摘は、ベンチのそばで立ったままのわたしには目もくれない。調査が進展していることは期待していても、全ての事情を把握しきれているわけではないと、高を括っているように見える。
わたしは正直、この二学年上の先輩が苦手だ。人を見る目は確かだし、洞察力にも優れているが、それゆえに何でもお見通しと言わんばかりの言動をしがちで、痛い所ばかりを突いてくる。悪い人じゃないのは分かっているし、サークル活動で助けられたことだってある。それでもわたしは以前から、この生意気な先輩に一泡吹かせたいと度々考えていた。
ようやくその機会が訪れたと思いながら、ひと呼吸おいて、菜摘に問いかけた。
「先週の火曜日の、お昼の11時ごろ、蓮華ちゃんと二人でホシダ珈琲に行ったとき、何があったんですか?」
瞬く間に余裕が消えて、動揺が広がっていく。そんな心の移ろいが、菜摘の表情に如実に表れた。すっと笑みが消えて真顔になり、大きく開いた双眸を、じりじりと動かしてわたしに向けてきた。目を開いたままでいるのは十秒くらいが限界だったようで、我慢できずに瞬きしたのち、視線をわずかに泳がせながらしばたたかせた。
うん、これだけの反応を得られたから、わたしは満足だ。一泡吹かせたという意味でも、知りたかったことを知れたという意味でも。
「団長、ようやく思っていることが顔に出ましたね」
「……油断したかな」
「推測に過ぎませんでしたけど、どうやら当たりのようですね。何があったか聞かせてもらえますか」
「いやいや、その前にそっちから説明してくれよ。なんでその日その時間に、私と蓮華が二人で喫茶店に行ったってことを知ってるんだよ。……いや、違うか。知っていたんじゃなくて、推測したんだよな。どうやって?」
やっぱりわたしから説明する方が先か……まあ、わたしの手の内が分からないうちは、素直に話してなどくれないか。さて、どこから話すかな。
「団長は、三年前に蒲之原ターミナル周辺を調査して以来、一度もその場所には行っていないとおっしゃっていました。でも本当は、つい最近、ターミナルのそばにあるホシダ珈琲に行っていますよね。わたしと美紗に薦めた、小豆の入ったアイスミルクティー……あれは先月から提供が始まったばかりの新商品でしたよ」
「えっ、そうだったの。ということは彩佳、あの店に行ったのか」
「メニュー表の中にそれっぽいものがなかったので、三年前にはあったけど、途中のどこかでメニューから外されたと、最初は思ったんですけどね。でもあれ、知っている人だけが注文できる裏メニューなんですよ」
わたしと美紗でホシダ珈琲に来店した時、すぐ近くのテーブルで二人組の女子高生が、メニュー表にない小豆入りミルクティーを飲んでいた。注文カウンターでそのミルクティーを注文する時、二人組の片方がはっきりと言っていた。先月からついに始まった、と。三年前に一度来て以来、一度も行っていないはずの喫茶店で、先月から出し始めた裏メニューの存在を、なぜ菜摘は知っていたのか。
それはつい最近、菜摘があそこのホシダ珈琲に行ったことがあるということだ。
「いや、でもそのミルクティーが、三年前にも一度出されていた可能性だってあるだろう。それに、仮に私が最近ホシダ珈琲に行っていたとして、なんで蓮華と二人で行ったってことになるんだ? 一人で行ったのかもしれないじゃないか」
「団長、あの時部室で、そのミルクティーを何の目的で薦めたんですか。ご丁寧に、わたしと美紗の二人で、行って飲んで来いと言って」
「それは、その……」
「あのミルクティーは明らかにカップル専用です。だってあのストロー、途中で二本に分岐していて、吸い口が二つあるから、一人で使うには片方の吸い口を手か何かで塞ぐ必要があって、とても使いにくいでしょう。どう見てもアレは、二人一組で同時に吸い口を咥えて吸うための設計です。しかも形状がアレだから、一人で使うと非常に居たたまれないですね」
「まあ、よほど他人の目が気にならない人間じゃないと、一人であのストローを使うのは厳しいだろうな」
「団長は明らかに、あのミルクティーがカップル向けだと知っていました。仮に、三年前にも同じものが存在していたなら、それは一度なくなって“復活”したということになります。ならば、ネット上に裏メニューのミルクティーの情報が載っていれば、そこには必ず“復活”などの文言が含まれているはずです」
「でも、その裏メニューを注文した女子高生たちは、ひと言もそう言わなかったわけか」
「ええ。つまりあのミルクティーは紛れもなく新商品であり、カップル、そうでなくても二人一組で注文するのが前提の商品です。団長は、ミルクティーの味に関して、記憶が曖昧だと言っていました。味を覚えているかどうかが問題になるなら、ミルクティーを飲んだこと自体は確かだということです。つまり、団長は誰かと一緒にホシダ珈琲に来て、カップル向けのミルクティーを頼んでいた、ということになります」
「それで分かるのは、私が誰かと一緒に来ていたという事実だけで、その相手が蓮華だとは推定できないんじゃないか?」
確かに、先月から提供が始まったカップル向けの裏メニューを、菜摘が知っていたというだけでは、誰と一緒に来ていたかまでは分からない。その部分を推測するには、他の材料が必要になる。
しかし……菜摘はさっきから、わたしの推測に反駁はしているものの、積極的に否定しようとする素振りはない。まるで、これまでの自分の言動の端々に、一緒に喫茶店へ行った相手を推測するヒントがあるかもしれないと、自覚しているかのように。
そう、実際これまでの菜摘の言動にこそ、推測の手掛かりが隠れていた。
「……菜摘先輩」
そう呼ぶと、菜摘は虚を衝かれたように目を丸くした。思えば、わたしが菜摘をちゃんと名前で呼んだのは、初めてかもしれない。
今からわたしが話す相手は、読書スポット探求団の団長ではなく、羽曳野菜摘という一人の人間だ。
「部室で詐欺事件の不可解な点を、推理したときの事を覚えていますか」
「……私、自分で考えたことは基本的に忘れないんだ」
「じゃあ、改めて説明するまでもないですね。蓮華ちゃんが巻き込まれた詐欺事件……不動産投資を利用して、受け子に小切手を回収させ、蒲之原ターミナルで幹部の男が小切手を受け取るという計画ですが、その裏には、警察と繋がっている疑いのある幹部の男性の、動きを見張るという目的もありました」
「だいぶ想像に頼ってはいたけどな」
「それでも不可解な点に残らず説明をつけられましたから、あの時はそれで結構満足していたんですよ。でも菜摘先輩……あの推理の中で、意図的に誘導したところがありましたよね?」
わたしが問いかけると、菜摘はおもむろに、両手で自分の顔を覆って、自分の膝に肘を突きながら項垂れた。ふう……と、深くため息をついて。
「ああ、そうか……そのことに気づいたから、私と蓮華のことにも気づいたのか。時間の問題ではあっただろうけど」
「らしくないですね。その推理の前には、あれだけ冷静に、蓮華ちゃんが詐欺に加担していた場合の処遇について考えていたのに」
「そりゃあ、冷静であろうとはしたさ。万が一の可能性も視野に入れておくのは、サークルを預かる団長として当然のことだ。だけど冷静に考えるほど、蓮華に向けられた嫌疑をなんとかしなければいけないと、強烈に思うようになってね……退学や除名なんて、そんな事態にさせてたまるかと、そればかり考えていた」
両手の隙間から覗かせた菜摘の表情は、見たこともないほど険しさを滲ませていた。彼女がどれほどの想いを蓮華に抱いていたのか、もはや聞くまでもないくらいに。
だから野暮だとは思うけれど、わたしは自分の推測を、本人にぶつけないわけにはいかなかった。どんなに非情だと言われようが、大切な人を守りたいという感情だけで、事実から目を背けたり隠したりすれば、ろくなことにならないと、わたしは知っている。
「警察と繋がっている疑いがある男性が、蒲之原ターミナル六番バス停近くの電話ボックスの前で、受け子から小切手を受け取る……その前後を監視している人がいたと、わたし達は推測しました。そして、受け子に同行して小切手を受け取り、直後に別行動をとっていた、詐欺組織の正規メンバーの女性が、その監視のために受け子から離れ、ターミナル全体を高所から見渡せる、百貨店五階のフードコートに向かったのだろうと考えました。……この後半部分の推測こそ、菜摘先輩が意図的に誘導した結論ですね」
「まあ、少し考えたら分かることだよな」
もう菜摘は反駁する余地もないと悟ったのか、この数分で一気に疲れたような雰囲気を漂わせている。
「ええ。蒲之原ターミナル周辺には、他にも六番バス停付近を監視するのに適した場所があります。それが、ホシダ珈琲です」
資料の中にあった地図でホシダ珈琲の場所を見た時、わたしは違和感を覚えた。ホシダ珈琲の店舗があるのは、六番バス停の目と鼻の先で、ビジネスビルの一階。ターミナルに面した窓際のテーブルからであれば、確実に受け取り現場を見ることができる。小切手を受け取って銀行に行くまでの動向を、全て監視するのは難しいが、警察と接触しようとする素振りがあるかくらいは、充分に見極められるだろう。
監視場所が百貨店の五階である可能性だけでなく、ホシダ珈琲である可能性もある事に、菜摘が気づかないはずはない。菜摘は三年前の調査で、たった二ヶ所しかない、読書に最適と言えなくもない場所の一つとして、ホシダ珈琲をつぶさに調べていた。それだけでなく、ターミナル全域のことも事細かに調べていたから、バス停などの位置関係も把握している。ホシダ珈琲から六番バス停の近くが見えることに、菜摘ならすぐに気づいただろう。
仮にホシダ珈琲の存在を失念していたとしても、六番バス停付近を監視できる場所として、菜摘が高い建物の上の階だけを候補に挙げたこと自体が奇妙だ。あまりに自然な流れで言っていたから、すぐには違和感に気づかなかったが、よく考えれば、電話ボックスの前にいる人間の動きを見張るなら、すぐそばの建物の一階とか物影でもいいはずなのだ。
「菜摘先輩は、監視役がいた場所が、建物の高層階であると巧みに誘導して、ホシダ珈琲に監視役がいた可能性から、わたし達の目を逸らしたんですね」
「…………」
「それともうひとつ。可能性の一つと前置きしながらも、菜摘先輩は当然のように、受け子に同行していた正規メンバーと、ターミナルでの監視役が、同一人物であると言いました。でも、別人である可能性だって、本当は充分にありますよね。そしてその場合、蓮華ちゃんが監視役である可能性も否定されなくなる」
受け子の曽根と一緒に詐欺の標的に接触し、小切手を受け取る仕事をした女性は、恐らく組織の正規メンバーで間違いないだろう。不動産投資に関する説明を淀みなく行えるのは、場数を踏んだ詐欺師のなせる業だし、事前に説明をした人が、小切手の受け取りに立ち会わないはずはない。しかしそうなると、正規メンバーが闇バイトの受け子に小切手を託し、別行動をとることには、何も不思議がない。
正規メンバーは組織の拠点や他のメンバーの情報を知っている分、闇バイトの受け子以上に、警察に捕まった時の組織へのダメージが大きい。いざとなればバイトを囮にして、自分は別行動をして逃げおおせることも考えるだろう。監視役のために別行動をとったという推理は、可能性としてはありうるが、最も妥当であるとは言えない。
つまり、曽根に同行していた女性が組織の正規メンバーだと推測した時点で、別行動をとったことの理由には一応の説明がつき、監視役の存在と結びつける必要はない。曽根の同行者と監視役が同一である可能性をほのめかし、その後に同行者が正規メンバーだと断定する、その流れを作ったのは菜摘だった。
「蓮華ちゃんが正規メンバーである可能性はまずないので、受け子の曽根くんに同行していないのは確かでしょう。でも、幹部の男性の動きをすぐ近くで見張るなら、同じ組織の人間で顔が知られている正規メンバーより、いつでも切り捨てられる分、顔を記憶されにくい闇バイトの学生の方が、幹部の男性に気づかれにくくて適任です。建物の高層階のように、双眼鏡が必要なほどの遠方から見張るのであれば、この限りではないですが」
「つまり、蓮華でも監視役くらいは務まるというわけだな……」
「菜摘先輩は、わたしから事件のあらましを聞いた時点で、曽根くんに同行したのは組織の正規メンバーで、蓮華ちゃんではないと気づきましたね。同時に、小切手を受け取る幹部の男性が監視されていた可能性にも辿り着き、ホシダ珈琲からなら見張ることができると気づいた。そして蓮華ちゃんなら、その見張りも可能であることも」
「…………」
「蓮華ちゃんが闇バイトで詐欺組織に関わっている、その疑いを払拭したい一心で、菜摘先輩は推理を誘導したんですね。あの時点で潰せなかった一つの可能性に、わたし達が辿り着けないように。あたかも、これ以外の有力な可能性はなさそうだと思わせた」
まさにこれは、大切な人に疑いが向かないように、嘘やごまかしで目を背けさせようとする、人間臭い、非合理的な行動だ。菜摘らしくないとも思ったが、菜摘もまた人間で、合理的になりきれない不完全さを持っていて、蓮華がその人間らしさを引き出した、それだけのことなのだろう。こんな事を口にしたら、菜摘に怒られそうだから言わないが。
「ただ、蓮華ちゃんが監視役であるというのも、ひとつの可能性に過ぎません。監視役が別にいて、本当に百貨店の五階にいた可能性も、同じくらいあります。蓮華ちゃんへの疑いを払拭したいという思いがあったとして、いくつかある仮説の中の一つを、ここまで巧妙に隠す必要があったでしょうか」
「必要は……なかったんだろうな。少なくとも、彩佳の話だけから推測するなら、数ある可能性の一つに過ぎないと、私も思えただろう」
「でも菜摘先輩はそう思わなかった。蓮華ちゃんがホシダ珈琲で幹部の男性を監視していた、その可能性が極めて高いと考えるのに、充分な根拠があったから。だから、意図的に推理を誘導してでも、その可能性に辿り着かせたくないと強く考えた」
「…………」
「あの日、あの時間、ホシダ珈琲の、六番バス停が見えるテーブルに、蓮華ちゃんがいた。菜摘先輩はその事をよく知っていた。なぜなら、菜摘先輩もその時、蓮華ちゃんと同じテーブルにいたからです」
蓮華が見張りのためにホシダ珈琲に来ていたとするなら、予定の時刻に幹部の男性と落ち合う、曽根の存在にも気を付けなければならない。同じボランティア団体で、一緒に活動している蓮華が、詐欺組織の幹部と会う場面に居合わせていたら、曽根は蓮華がこの件に関与していると疑うだろう。直前に通話もしていたみたいだから、なおさら疑われる可能性は高いし、もしその疑念が曽根の顔に出れば、一緒にいる幹部の男性にも気づかれて、監視ができなくなる恐れすらある。
しかし、仮に曽根に顔を見られたとしても、あくまで喫茶店にいたのが偶然だと思わせられたら、関与を疑われる危険は大幅に減らせる。そのためには、一人よりも、誰かと一緒に来て談笑でもしている方がいい。
菜摘はつい最近、誰かと一緒にホシダ珈琲に来ていて、なおかつ、小切手の受け渡しの瞬間に、蓮華がホシダ珈琲に来ていたと知っていた。蓮華はその際に、誰かと一緒に来ていた可能性が高い。菜摘の同伴者が蓮華でなく、蓮華の同伴者が菜摘でなく、偶然にも同じ日の同じ時間に二人が別々の席にいた……そんな偶然、あったとしても極めて低い確率だ。
菜摘の、蓮華に対する想いの強さから鑑みても、菜摘が一緒にカップル向けのミルクティーを飲んだ相手は、蓮華以外に考えられない。
「……以上のことから、菜摘先輩と蓮華ちゃんが、蒲之原ターミナルで小切手の受け渡しが行なわれた時刻に、ホシダ珈琲で一緒にいたと、推測しました」
「なるほど、美紗が名探偵だと評するだけのことはある。見事な推理だよ。……腹立たしいほどにな」
急に重く低い声になって、菜摘はわたしを鋭い目つきで、横目に睨みつけた。
……こうなるとは思っていた。名探偵ばりの推理をしてそれを見せつけて、他人の事情に無遠慮に踏み込むようなことをすれば、大抵の人間は不快に感じる。菜摘にとってもデリケートな領域なのだから、憤りを覚えられても無理はない。
小説の名探偵はほとんどの場合、そうした誰かの不快感を歯牙にもかけない。そういう人間として描いているのだとは承知しているが、自分がそうなるのは御免だった。
初歩的な推理だよ……美紗がからかいついでに、使うべきだと言った言葉だ。そんな言葉を平然と使う名探偵に、わたしはなろうと思わない。……なりたくもない。
「この上まだ何か知りたいことがあるのか? いいさ、知りたいなら答えてやるよ。その下世話で意地汚い知的好奇心もどきを、そんなことで満足させられるなら御の字だ」
「……最初に質問したとおりです。二人でホシダ珈琲に行ったとき、何があったかを教えてほしいんです」
皮肉たっぷりに非難の言葉を浴びせられたのは分かっていた。それでもわたしは、訊かないわけにいかなかった。どれほど菜摘に恨まれようと、この点だけは引き下がれない。
渾身の皮肉を受け流された、もとい平然と受け止められたことで、菜摘はそれ以上の恨み言をぶつけようとはしなかった。ちっ、と舌打ちをしてから、心底嫌そうに話し始める。
「……蓮華が電話してきたのは、先週の月曜の夜だった。明日、一緒に喫茶店でお昼を食べないか、というお誘いだった。明日は平日で普通に講義もあるのに、蓮華は、どうしても二人で、明日行きたいと言い出したんだ。私は、その誘いを引き受けた」
「…………」
「正直に言えば、内心ちょっと浮かれていたよ。蓮華のことは好意的に見ていたからね。素直で、熱心に話を聞いてくれて、そのくせ自分の意見は臆せず言う、芯の強さもある。何より、私に向ける真っすぐで濁りのない眼差しと、ふと見せる笑顔が可愛らしい。一緒にいて心地いいと思える……そんな女の子と巡り会えることは、一生にそうそうあるものじゃないだろうさ」
菜摘が蓮華に対して思うことや感じることは、わたしも丸っきり同意見だ。だからわたしも、わたし以外になかなか関心を示さない美紗でさえも、蓮華のことが好きだった。犯罪に関わってなどいないと信じたい気持ちも、疑われてほしくないと願う気持ちも、無事に戻ってきてほしいと祈る気持ちも、菜摘と同じだけあると思っている。
「そんなふうに思っていた蓮華の方から、平日に二人きりで会って、喫茶店でお昼を食べたいなんて言われたら、そりゃ浮かれもするさ。しかも、三年ぶりに来た喫茶店で、蓮華が注文したアイスミルクティーが、あからさまにカップル向けと来たもんだ。テーブルにアレが来たときは、色んな意味で心臓が止まりそうになったよ。まあ、心筋のおかげでそう簡単には止まらないわけだが」
「そういうオチはお呼びじゃないです」
「あっそ。ただ、蓮華の方はどういうわけか、ずっと窓の外を気にしていて、たびたびうわの空になっていた。まあ、我ながら情けないことに、相当浮かれまくっていたので、蓮華のそうした振る舞いも特に気にしなかったのだが」
「わたしが言うのもあれですけど、よくそんなんでわたしと美紗のことを他人事みたいに弄られましたね」
「うるさいな。私もこういう経験は初めてなんだよ。ところが、時刻が11時半を少し過ぎた時だったかな。浮かれ気分が一気に吹き飛ぶ事態が起きた」
「すぐ外の電話ボックス前で捕り物があって、辺りが騒然となったんですね」
「ああ。私と蓮華も窓際のテーブルにいたから、窓のすぐ向こうで、大学生くらいの男の子が二人組の男性に取り押さえられて、手錠をかけられる瞬間を目撃したよ。一瞬、ドラマの撮影か何かだと思ったけど、カメラもマイクもなかったから、本物の逮捕劇だとすぐに分かった。まあ、その時点では所詮他人事だと思っていたから、興味も湧かなかったけどね。だけど、蓮華の方は明らかに違っていた」
「蓮華ちゃんはどんな反応をしていましたか」
わたしの問いかけに、菜摘は少しだけ躊躇する素振りを見せた。
「……顔が真っ青になって、目をカッと開いて、口元を震わせて、その現場を見ていた。あれはひと言でいうなら、そうだな……愕然としていた、って感じだな」
「愕然、ですか」
「そして騒ぎが冷めやらぬ中、蓮華は慌てて狼狽えながら席を離れた。おぼつかない足取りでトイレに向かったよ。五分ほどで戻ってきたけど、それでも顔色の悪さはそのままだった。ただ事じゃないと、私にも分かったよ」
受け子の曽根が警察に捕らえられた瞬間を見て、蓮華は愕然とした。動揺し、狼狽えながら席を離れ、五分ほどで戻ってきた。
……これこそ、わたしが一番知りたかったことだ。
だけど菜摘の話をここで終わらせることはしなかった。その続きには恐らく、わたしが望む解決に繋がる手掛かりがあるはずなのだ。
「何があったのか、蓮華ちゃんには聞きましたか」
「もちろん聞いたけど、黙ったまま何も話そうとしなかったよ。結局、騒ぎが収まった頃に二人で店を出て、しばらく歩いたけど、ずっと黙ったままで居心地が悪かったな。なんというか、もうこれ以上、蓮華の沈んだ表情を見たくなくて、私は蓮華を連れてあちこちの店を回って歩くことにしたんだ。少しでも気晴らしになればいいと思いながら、ね」
菜摘いわく、夕方になるまで蓮華を連れ回し、その間に色んな店を巡ったという。そこはさすが東京、見て回るだけでもお店に事欠かず、服にアクセサリーにキャラグッズ、たまに食べ物と、少し歩いただけで、実に多様なお店でウィンドウショッピングができたそうだ。……ほとんどのお店で商品を見るだけで買おうとしないところが菜摘らしいけど。買ったのはヘアピンと帽子と、買い食い用のフルーツサンドだけという。
菜摘の狙いどおり、たくさんのお店を一緒に巡るのは楽しかったようで、夕方になった頃には、だいぶ蓮華の顔色もよくなっていたという。もちろん、根本的な解決はできていないので、いつもの溌溂とした笑顔は戻らなかったが。
それでも、精一杯の笑顔で蓮華は、菜摘にお礼の言葉を告げた。熟れた夕陽に照らされた、人波の行き交う歩道橋の上で。
「団長、ありがとうございます。わたしの我がままに付き合ってもらったのに、こんなに色んなお店に連れて行ってくれて……なんか、申し訳ないですね」
「申し訳なく思うことはないよ。その……少しでも蓮華が、元気になればいいと思って、無理やり連れ回しただけだし」
「ふふっ、少しどころか、とても元気になりましたよ」
「それならよかったけど。でも蓮華、もし思い悩んでいることがあるなら、いつでも相談に乗るよ。私は……力不足かもしれないけど、蓮華の力になりたいから」
「……団長はやっぱり、優しい人ですね」
どこか頼りなく、しかし確かに心からの笑顔を向ける蓮華を前にして、菜摘は言おうとしていた言葉を、飲み込むしかなかった。自分は優しいわけじゃない、優しいのは……その先を言ってはいけないと、不意に思えたからだった。
言葉に詰まった菜摘は立ち尽くし、そんな菜摘の様子に蓮華はきょとんとして、少しの間二人は意味もなく見つめ合っていた。
「その時……春の風が、気まぐれに吹いたんだ」
菜摘がそう語るように、見つめ合う二人のもとに、唐突に強い風が吹きつけた。この時、蓮華は菜摘に買ってもらった帽子をかぶっていたが、その帽子が後ろから吹き飛ばされ、菜摘の方へ飛んできた。蓮華も反射的に、飛ばされた帽子を掴もうと、前のめりに飛び出した。
「「あっ……」」
図らずも菜摘と蓮華は、帽子を挟んで正面から密着し、抱きしめ合う体勢となった。その瞬間に、菜摘の拍動は、不整脈でも起こしたように激しく不規則になった。頭が真っ白になり、思考停止した菜摘に、その後の衝動を止める術はなかった。
息がかかるほどの距離にあった蓮華の顔に、吸い込まれるように近づき、唇が唇にそっと触れた。
「……そこからのことは、よく覚えていない。たぶん、私の方から謝って、蓮華を置いて先に帰ったんだと思う。正直、自分でも何をしたのか理解できなくて、混乱していたし、何より蓮華に対して、後ろめたい気持ちばかりが先行していたからな」
猫背になって俯いて、片手で顔を掴むように覆いながら、菜摘は独白した。忘れたくても拭い去れない失態だと言わんばかりに。
一方でわたしも、出すべき言葉を失った口元を手で押さえて、どうしたらいいのか困惑していた。喫茶店を出た後にでも、二人の間に何かあったのだろうと察してはいたが、率直に言ってこの展開は想定外だ。一年前のわたしと同様、女性との間で失態を演じ、しばらく尾を引くことになっていたとは、誰が想像できるだろう。しかも、あの菜摘が。
「だから、蓮華が部室に姿を見せないのは、きっとそれが原因なんだろうと考えていたよ。私が大体いつも部室に来ていることは蓮華も知っているから、どんな顔をして会えばいいのか、分からなくなっていたんだろうって」
「……でも、菜摘先輩から、蓮華ちゃんに確かめることはしなかったんですね」
「何度も言うように、こんなことは初めてだから、私も少々臆病になっていたのさ。情けないことだけど、蓮華の方から何か言ってくれないかと期待したんだ。キスに関してのことはもちろん、部室に姿を見せない理由も、喫茶店で何が起きたのかも、いずれ話してほしいと思って待っていたんだ」
「そんな時に蓮華ちゃんから来たあのメッセージは、その期待に応えるものではなかったのですね。だから先輩はあの時、『なんだよ、これ』と呟いた」
そう、本当に考えるべきは、蓮華から送られたメッセージではなく、それを見た菜摘の反応の方だったのだ。菜摘が呟いた『なんだよ、これ』は、意図の分からない文面への疑問ではなく、期待したものとは違う返答が来たことへの、苛立ちだったわけだ。
メッセージが来た時点では気づかなかったが、あれは菜摘だけに届いたものだ。読書スポット探求団にはグループLINEがあるけれど、グループに来たメッセージであれば、団員であるわたしのスマホにも、同時に通知が来ているはず。後で気づいてトーク画面を遡ってみたが、問題のメッセージはどこにもなかったので、メンション機能が使われたわけでもない。
つまり、蓮華からのあの言葉は、菜摘だけに伝えたい内容だったことになる。菜摘と蓮華の間で、失踪前に何らかのやり取りがあったのは予想できた。そして、蓮華のメッセージに深い意味がなく、本当に単なるお礼だとしたら、それを見た菜摘の第一声は、全く違う意味を持ってくる。
「分かったように言うんだな、お前は」
菜摘のその言葉で、背筋がピリッと痺れたような感覚がした。これほど強い嫌悪感を露わにする菜摘を、出会ってからの一年間、わたしはついぞ見たことがない。わたしのことを、お前、と呼んだところも。
「私はね、別に蓮華とのことを他人に知られても、私自身は特に気にしないんだよ。蓮華の方はどう思うか知らないけど。だがそれでも、私があの日にやらかした失態のせいで、蓮華がもうここに来ないんじゃないかと、ずっと気を揉んでいたし、例のメッセージが来てからは、私の失態や蓮華への気持ちが、なかったことにされたんじゃないかと、内心かなり落ち込んだりした。そのうえ、詐欺事件の話を聞いてからは、蓮華が闇バイトに手を染めた上に警察や詐欺組織から追われるようになって、そのせいで姿を消したんじゃないかと勘繰るようになった。この二週間、私が蓮華のことでどれだけ気が休まらなかったか、その事を悟られまいとどれだけ必死に平静を装っていたか、お前は少しでも考えたのか?」
滔々と、しかし己の激情を隠すことなく、これまでに抱いてきた苦悩を吐露する菜摘に、わたしは何も言い返せなかった。考えなかったわけじゃない。自力で推理した範囲だけでも、菜摘が蓮華に相当入れ込んでいたことは想像に難くないし、蓮華が行方をくらませている間、平気でいられなかった心情も理解できる。でも、理屈で理解できることと、寄り添い共感することは別物だ。これだけは、全く同じ立場にならなければ分からない。
自分の失態を、自虐気味に他人へ打ち明けることはできても、そのせいで生じた悩みや苦しみを、吐き出して共感を得ることには躊躇する。その心理はよく分からない。だけど、克服できた過去の失態は笑い飛ばせても、現在進行形の苦悩はそう簡単に笑えない。たぶん、菜摘が自分の苦しみを悟られたくないのは、その辺りに理由があるのだろう。話せば楽になることもあると思うけど、それは当事者じゃないから言えることだ。
自分が話したくても話しにくいことを、他人から推測されて指摘されるのは、とても気持ちのいい事ではない。菜摘が不愉快に思うのも無理ならぬことだ。その程度のことが理解できてしまうから、わたしは何も言い返せない。
「知りたいと言うのなら、支障のない範囲でいくらでも聞かせてやるさ。好奇心なんて私も人並みに持っているつもりだからな、知りたいという欲までは否定しない。だが、その好奇心を満たすためだけに、当事者の与り知らないところでコソコソと調べ回り、勝手な推測で他人のことを知った気になるのは、たとえ推測が正しくても、それは傲慢というものだ」
「…………」
「まあ傲慢でも別にいいさ。人間は大なり小なり、そういう一面を持っている。だが、そんなことをして何の意味がある? 誰が得をする? 誰の悩みや苦しみが解決される? 他人の傲慢に翻弄されるのは、当事者にとってはそれこそ、苦痛や迷惑以外の何物でもない。そんな自己満足、目障りに思われて当然じゃないか」
「…………」
「なあ、彩佳……お前は何がしたいんだ。他人の失態を推理であぶり出して、知ったような口を利いて、それでどんな目的が達せられるって言うんだ?」
未だ同じ所に立ったままのわたしに向けて、菜摘はベンチの座面に手をついて身を乗り出し、睥睨するように鋭い視線をぶつけてくる。必要に迫られてのこととはいえ、菜摘にこんな表情をさせるのは、やはり心が痛む。
だけど、それでも引くわけにはいかない。この件を調べようと決めた時から、ずっと目指していた唯一の目的を、わたしは怯まずに菜摘に告げる。
「わたしの目的は……蓮華ちゃんが無事に、わたし達の元へ帰ってくるようにすること。それだけです」
わたしは名探偵じゃない。真実を突き止めることは、名探偵にとっては目的だが、わたしにとっては手段の一つに過ぎない。
「ふーん……私と蓮華の間に起きたことを暴いたら、その目的が達成できると?」
「ええ、恐らくは」
「……なんでそう言い切れる?」
微かだが、菜摘の声色から苛立ちが消えたように聞こえた。自分の失態を推理で紐解いたことが、わたしの目的に沿ったものだと聞いて、少しは興味を引かれたみたいだ。
ここからはわたしが全てを話すターンだ。わたしは菜摘のすぐ横まで歩み寄り、菜摘が察してベンチの端に移動したので、空いたスペースに腰かけた。
「先日、部室で今回の詐欺事件のことを色々と推理しましたが、それでも説明のつかない謎はいくつか残っていました。例えば、小切手の受け渡しに直接関与していないのに、蓮華ちゃんのスマホに受け渡し場所を指定するメッセージが届いたこととか」
「それは、蓮華に幹部の男の監視を命じたとすれば、説明のつく話だ。いつどこで受け渡しが行なわれるのか知らなければ、監視なんてできないし」
「確かにそうです。でも、他にも不可解な点があります。詐欺組織は、重要なデータが蓮華ちゃんの手に渡っていると考えているようですが、なぜ蓮華ちゃんに疑いの目を向けたのでしょうか。そもそも、詐欺組織はどうして、データが流出したことに気づいたのでしょうか。元のデータが残っていれば、流出を疑う事もしないのではないですか?」
「そうだな……考えられるとしたら、使用しているコンピュータが、ウィルスに感染していることに気づいた、とかじゃないか。そのウィルスが標的型で、データを外部に流出させるタイプだとしたら、詐欺組織もデータの流出を疑うだろうな。でも、それで蓮華を疑う理由は分からないな……たかが闇バイトにそんな芸当ができるとは、普通考えないだろうし、それよりは幹部の誰かの仕業だと考える方が自然なはずだ」
うーん、なるほど……ウィルスの可能性は正直想定していなかったが、それでも蓮華の仕業だと疑う理由にはならない。蓮華が本当にただの闇バイトだと知っていれば、詐欺組織が蓮華を疑うことはないだろう。闇バイトだと思っていれば、ね。
「さらにもうひとつ、大きな疑問点があります。なぜ警察が、小切手の受け渡しの現場に、タイミングよく表れたのか?」
「それは、ターゲットから受け子が小切手を手に入れた場所から、ずっと警察が尾行していたからじゃないの? このまま泳がせておけば、いずれ詐欺組織の幹部と接触すると踏んで……」ここまで言って菜摘は考え直した。「いや、それは妙だな。そのためには、ターゲットが誰で、いつどこで詐欺の被害に遭うのか、警察が事前に把握していなければならない。だけど事前に把握しているなら、支払いをしないようターゲットに注意すれば、被害を防ぐことはできる。ターゲットを囮にして受け子を泳がせるなんて、もし尾行を撒かれたら小切手が詐欺組織の手に渡ってしまうし、リスクが高すぎる」
「はい。つまり警察は、どこの誰がターゲットになったのか、事前に把握していなくて、受け子の曽根くんを逮捕してから、聞き込みや防犯カメラでようやく見つけたんです。という事は、受け渡しの現場に現れた刑事は、最初から現場の近くにいて、小切手を入れた封筒の受け渡しを目視で確認してから、逮捕に踏み切ったことになります」
「そうすると、偶然居合わせたという可能性は低いな。封筒の受け渡しなんて、はたから見たらそんなに怪しくなんてないし、警察が声をかける理由としては薄い。初めから、六番バス停近くの電話ボックス前で、詐欺に関係する何かの受け渡しが行なわれると、警察が把握していたとみるべきだ。だけど……」
「ええ。詐欺組織の内部情報が、なぜか警察に漏れていたことになります」
「まさか、例の流出したデータが、本当は詐欺に関係する取引の情報だったのか? ……いや、そんな情報が残らず警察に伝わっていたら、他の取引の現場にだって警察が踏み込んで、今ごろ詐欺組織は壊滅的な状態になっているはず。警察も詐欺組織も、受け子の仲間を追っている場合じゃない」
「そうです。不動産投資詐欺で普通は使わない小切手を使っていたことから見ても、流出したのは架空会社と偽の口座のリストとみていいと思います。警察が受け渡しの場所や日時を知っていたのは、関係者の誰かが警察に密告したからです」
「もしかして彩佳は、その誰かというのが、蓮華だと考えているのか?」
菜摘に問われて、わたしは深く頷いた。この可能性そのものは、警察から詐欺事件のことを教えてもらった日の夜から考えていた。その時は、幹部の男の探していたデータが、詐欺の取引の情報だと考えていたが、小切手の疑問点を菜摘に指摘されたので、わたしは推測を修正することにした。詐欺組織が探しているデータと、警察に提供された取引の情報は、別物であると考え直したのだ。そして改めて、誰が取引の情報を密告したか考えた。
受け子の曽根、幹部の男性、見張り役、指示を下した木島拓也……今回の事件に加害者として関与している人たちは、当然受け渡しの場所と日時を把握しているが、詐欺が失敗するメリットが彼らにない以上、警察に密告する理由もない。そんなことをするのは、詐欺が失敗に終わることを望んでいる、つまり詐欺組織の関係者でない人物で、受け渡し場所の情報を知っている人だけだ。蓮華以外に、その可能性のある人なんているだろうか。
厳密に言えば、蓮華のスマホに受け渡し場所の連絡が来たところを目撃した、松崎も候補に含まれる。しかし、内容に不審を抱いたとしても、犯罪に関係していることまで分かるはずもなく、すぐさま警察に通報する理由もない。松崎がこのメッセージを見て、警察に通報すべきと騒ぎ出したのは、事件が起きて蓮華が失踪した後だった。
「ここまで来ると、蓮華ちゃんが詐欺組織の手足となって、幹部の男の見張りを任されていたという仮説も、どうも怪しくなってきませんか? 詐欺組織に逆らえない立場で警察に密告なんてしたら、どんな目に遭うか分からないんですし」
「確かに疑わしいけど、完全に否定できるほどか? 詐欺組織と関わりがなくて、取引の情報を知っている人物が、蓮華の他にいないとは言い切れない。彩佳はどう考えるんだ」
「どうもこうも、わたしは最初から、蓮華ちゃんが詐欺組織と関わっているなんて、これっぽっちも疑っていませんよ」
「え?」
「だって、あの蓮華ちゃんですよ? 犯罪組織を憎むことはあっても、協力することなんてあるわけがありませんよ」
「……まあ、そうだよな」
蓮華の事情に深く入りすぎたせいで、菜摘はどこか、蓮華のことを信じ切れなくなっていたのだろう。でも、蓮華の人柄を考えれば、自分で考えた仮説があり得ないことはすぐに分かる。わたしに言われてようやく、菜摘もそのことに気づいたようだ。
というわけで、ここからは蓮華が詐欺組織と無関係だと考えて、推理を進める。
「だから調べていたんです。蓮華ちゃんがどういう経緯で、今回の事件に関わることになったのかを。そして考えました。蓮華ちゃんが初めから組織と無関係なら、組織はどうやって、蓮華ちゃんの存在を知ったのだろうと」
「…………ん?」
「だって、受け子でも何でもない蓮華ちゃんのことを、詐欺組織が最初から知っていたはずがないじゃないですか。だとしたら今回の事件には、曽根くんと蓮華ちゃんの繋がりを、最初から知っていた人物が、深く関わっていると思ったんです」
違和感を持ったのは、曽根が警察に逮捕されてから、ずっと沈黙を貫いている事だった。彼は警察に、ターゲットから小切手を受け取るときに同行した人物について問われ、何も答えようとしなかった。その人物が本当に蓮華なら、沈黙することにも納得がいく。だがわたし達の推理では、曽根に同行したのは組織の正規メンバーであり、逮捕すれば組織の内情に近付けるような存在だ。曽根がそのことを知っていれば、警察に打ち明けないはずはない。
「打ち明けて詐欺組織の壊滅に一役買えば、軽い刑罰で済むと考えるのが自然ですし、黙っている理由はありません」
「ふむ……日本に司法取引の制度はないが、組織的犯罪の捜査に有益な情報を提供してくれた一般人を、警察が無下に扱うとも思えない。情状酌量の余地が生まれると説得すれば、話す可能性は充分にあるな」
「つまり曽根くんは、小切手の回収に同行した女性が、組織の正規メンバーとは知らず、自分と同じく、闇バイトの学生か何かだと思い込んでいるんです。もっと言えば、正規メンバーの女性は、そういう学生を装って、曽根くんと接していたという事になります。そして、曽根くんが警察で取り調べを受けても、その同行者のことを話そうとしないのは、単なる闇バイト仲間という以上に強い関係があると、曽根くん自身が思っているから」
「そこは、警察が蓮華に目をつけたのと同じ理由だな」
「はい。だとすると、その正規メンバーの女性は、学生、あるいは学生が心を許しやすい立場を装って、曽根くんに接近したのでしょう。恐らくその際に、闇バイトに勧誘した」
「となると、怪しいのは同じ大学の学生か、もしくは、曽根が参加していた、ブライトライト東京というボランティア団体だな」
そう、まさにわたしもそう考えて、蓮華や曽根が募金活動で参加していたボランティア団体を探したのだ。思ったとおり、その団体には他にも学生のボランティアがいて、しかも団体の職員は学生たちの素性を、深く把握していたわけじゃなかった。詐欺師が学生を装って、良心的で世間知らずな学生を釣るために、潜り込んでも気づかれないわけだ。
「同じ団体に学生ボランティアと偽って参加していれば、蓮華ちゃんの存在は当然知っています。しかも警察の調べでは、蓮華ちゃんと曽根くんは、事件の直前にスマホで電話しています。その通話の内容が、詐欺と関係ない、当たり障りのないものならば、曽根くんは電話の相手が蓮華ちゃんだと、顔見知りでもある同行者の女性に教えたでしょう」
「なるほど、曽根は蓮華が無関係だと知っているが、詐欺師の女性からすれば、犯行の直前に電話をかけて来る知り合いなんて、警戒するに決まっているよな。しかもその後の受け渡し現場に、タイミングよく警察が現れれば、誰かが情報をリークしたと考えるし、その候補として蓮華を怪しんでも不思議じゃない」
「その詐欺師の女性自身が、身分を偽ってボランティア団体に入っていたから、蓮華ちゃんも同じじゃないかと勘繰ったのかもしれません。詐欺組織に探りを入れる、探偵のような調査業者だと……まあ、この辺りはただの想像ですが」
「でもそう考えれば、詐欺組織が蓮華に目をつけた理由も分かる。受け渡しの情報を知ることができた人物として、蓮華が怪しいと、その正規メンバーの女性が組織に教えたわけだ。あれ、でもそうすると、蓮華が組織の重要なデータを持っているという話は……」
「恐らく出鱈目ですよ。危うく詐欺が失敗しかけて、その原因を作った蓮華ちゃんを、詐欺師の女性は放置しておけなかったはずです。でも、たった一度取引を邪魔されただけで、しかも小切手の回収が成功している以上、組織は蓮華ちゃんの捜索に本気を出さない。だから別件のデータ流出を、蓮華ちゃんの仕業だと思わせて、組織が本気で蓮華ちゃんを探すように仕向けた。あるいは、蓮華ちゃんが只者じゃないと思い込んで、本当にデータ流出も蓮華ちゃんの仕業だと、勘違いしたのかもしれませんが」
「どちらにしても、蓮華は詐欺組織のデータなんて持っていない、ってことか」
「そもそも蓮華ちゃんに、そんな大それたことはできません。せいぜい、たまたま入手した詐欺関係の取引の情報を、警察に密告するくらいですよ」
「だけど、そんな大事な情報が、なんで蓮華のスマホに送られてきたんだ? 蓮華は元々無関係のはずじゃなかったのか?」
そう、それだけがどうしても分からなかった。部室で事件を推理して、その後も菜摘の関与も含めて様々な事を考えたが、なぜ蓮華がこの事件に関わることになったか、その点だけがどうしても説明できなかった。犬山から、あの話を聞くまでは。
「菜摘先輩。木島拓也という人物からメッセージが送られた、月曜日に、蓮華ちゃんは珍しく講義に遅刻したそうですよ」
「はい?」眉をひそめる菜摘。「うん、確かに蓮華にしては珍しいけど、それがどうかしたのか?」
「その講義は、直前になって講義室が変更されたのに、蓮華ちゃんはその事に気づかなかったせいで、十分くらい遅刻してしまったんです。そして菜摘先輩はご存じだと思いますが、講義室の変更は必ず、学内メールで履修登録者全員に通知されます」
「そうだな。私も何度か、その経験があるよ」
「講義関係で重要なお知らせは学内メールで回ってくるので、どこにいても通知を受け取れるように、ほとんどの学生は自分のスマホに転送されるように設定しています。蓮華ちゃんもそうです。それなのになぜ、蓮華ちゃんは講義室が変更されたことを知らなかったと思います?」
「……おい、それってまさか」
さすが、菜月はすぐに気づいてくれた。これまで見えていなかった可能性が見えて、菜摘は目を大きく見開いている。
「はい。その通知が転送されて、講義の予定時刻になるその時点まで、蓮華ちゃんのスマホは、蓮華ちゃんの手元になかったんです。でも同じ日に蓮華ちゃんの友達が、蓮華ちゃんの持っていたスマホに、例の木島拓也からのメッセージが来たところを目撃しています。これはつまり……」
「メッセージが来ていたスマホは、蓮華の物じゃなかった。その日、蓮華のスマホと別の誰かのスマホが、入れ替わっていたんだな」
そういうことだ。犬山からこの話を聞くまで、蓮華の無実はただ信じて祈るしかなかったが、おかげで確信を持てた。すべての謎が綺麗に説明できるようになったのだ。
ブライトライト東京の本部で確認を取ったら、案の定、前日の日曜日に蓮華は、急いで帰ろうとしていた曽根とぶつかり、二人してカバンの中身を床にひっくり返していた。恐らくその時にスマホを取り違えたのだ。曽根はかなり慌てていたみたいだから、散らばった中身をカバンに戻す時、誤って蓮華のスマホを拾ってしまったのだろう。
つまり、木島拓也から送られた、小切手の受け取り場所を知らせるメッセージは、元々曽根のスマホに送られたものだったが、その前に蓮華とスマホを取り違えたために、蓮華のスマホに来たものだと、松崎は思い込んだのだ。
これで、詐欺事件に無関係のはずの蓮華が、なぜ小切手の受け取り場所と日時を知っていたのか、説明がつく。蓮華は恐らく、日曜日の夜にはすでに、スマホの取り違えに気づいていただろうが、スマホにロックがかかっていたせいか、曽根と連絡を取ることができなかった。そこで、曽根もきっと取り違えに気づいたと考え、確実に二人が合流できる、ブライトライト東京の本部で、曽根が来るのを待つことにしたのだ。そして実際に、曽根と会ってスマホを元通りに戻すことができた。だが、その前に曽根のスマホに届いた、怪しげなメッセージのことが、蓮華はずっと引っかかっていた。
日曜日にやたらと急いで帰ろうとしていた時にも、翌日にブライトライト東京の本部で会った時にも、曽根の様子に蓮華は違和感を覚えただろう。しかし、曽根が正直に事情を話すことはなかったはずだ。その後に蓮華はどんな行動をとっただろうか。
「蓮華ならたぶん、そのメッセージを送ってきた、木島拓也という人物を調べたと思う」
「ええ、わたしも同感です。実際にわたしもSNSで検索したところ、無関係の投稿もそれなりにありましたが、興味深い投稿も見つかりました。木島拓也を名乗る人物から、高額の報酬が出るバイトに誘われたら、犯罪に加担させられる危険があるから注意して……という内容でした」
「過去に被害に遭った誰かの投稿か……木島という人物は他にも偽名を持っていたみたいだし、その投稿でどこまで抑止できるかは怪しいが、蓮華がその投稿を見つけたなら、曽根のことを放置できるはずはないな」
「でも、そのまま警察に知らせるのは迷いがあったでしょう。間違いである可能性もありますし、万が一、自分が警察に密告したと詐欺師に知られたら、報復される恐れもあります」
「蓮華は木島という人物しか関係者を知らないが、他に仲間がいる可能性は充分に考えられるからな」
「だから蓮華ちゃんは、匿名で警察に情報を提供しました。それでも安心できなかった蓮華ちゃんは、菜摘先輩を連れて、何かの受け渡しが行なわれる、蒲之原ターミナル六番バス停が見える喫茶店で、行く末を見届けようとしたんです」
蓮華がホシダ珈琲の席から、誰かを見張っていたのは事実だが、その相手は幹部の男ではなく、その場所に現れるであろう、曽根の方だったのだ。そして、すでに推測したとおり、蓮華は曽根に気づかれても怪しまれないよう、カモフラージュのために菜摘を同行させた。
事前に曽根へ電話をかけて、その時の様子から、予定通りに詐欺関係の取引が行なわれると、蓮華は確信していただろう。曽根と、受け渡しの相手が、六番バス停近くに現れることは分かっていた。もし警察が現れなければ、蓮華が受け渡しの現場を隠し撮りするなどして証拠を入手し、警察に提供するくらいはしただろう。警察が現れて、曽根と受け取り役を逮捕してくれれば、それが蓮華にとって一番よかったはずである。
しかし、事態は最悪な方向へ進んでしまった。
「現場に現れた刑事は、曽根くんは捕まえたものの、詐欺師と思われる男性の方は逃がしてしまった。蓮華ちゃんはその光景を見て、震えたことでしょう。無事に捕まれば報復される心配はほとんどなくなりますが、逃げてしまった以上、その詐欺師は計画を邪魔した蓮華ちゃんを許さず、いつか仕返しに来るかもしれない。その恐ろしい可能性が頭をよぎった」
「なるほど……あの時、蓮華が愕然としたのは、そういう理由だったわけか」
「蓮華ちゃんはショックで、吐き気とかを催したのかもしれません。フラフラになりながらトイレに行って、五分ほどで落ち着いて戻ってきました。本当に詐欺組織の手先として、幹部の男を見張っていたのなら、驚きはしても、フラフラになるほどショックは受けませんし、菜摘先輩の前でそんな振りをする理由もありません」
「あー、そういうことか!」菜摘は突然笑いだした。「六番バス停近くで捕り物があった時、蓮華がどんな反応をしたか知るために、その場面を見ていた私に、ホシダ珈琲で何があったのか聞いたわけか! はははっ、なるほど、それならそうと言ってくれたらいいのに」
確かにそれもある。蓮華が無実という前提で推理を進めたものの、それが事実と合致しているかどうか、確認する必要はあった。そのための手段として、事件当時の蓮華の様子を間近で見ていた菜摘から、重要な手掛かりを得ようと思ったのだ。
菜摘を嫌な気持ちにさせると分かっていながら、なんで先にこういう事情を話しておかなかったかというと……単純に、ここまでの話を先にするのが面倒だったからだ。
「菜摘先輩のおかげで、蓮華ちゃんは詐欺組織と何の関係もなく、偶然、詐欺関係の取引の情報を得たために、ボランティア仲間の曽根くんを放っておけず、警察に情報を提供しただけだと、確信できました。ただ、匿名で提供したことが仇となり、スマホの取り違えというトラブルを知らない警察に、容疑者の一人として追われ、また、曽根くんの同行者である正規メンバーの女性が、同じボランティア活動に参加していて、蓮華ちゃんの存在を知っていたために、警察に情報を売った人物として真っ先に疑われ、詐欺組織にも追われる羽目になった。まあ、蓮華ちゃんはたぶんそこまでは気づいていないと思いますが、詐欺組織に目をつけられることくらいは、容易に想定できたでしょう」
「だから蓮華は姿を消したというわけか」
「ええ。悪い事をして追われているわけではないので、安心してくださいね」
「いやどこが安心できるんだよ。無実だと分かったところで、蓮華が危機的状況ってことに変わりはないじゃないか。このままだとずっと蓮華は戻って来ないぞ」
「ご心配なく。無実だと分かれば、手の打ちようはあります。警察は蓮華ちゃんを容疑者として追っているため、詐欺組織はその動きを利用して警察に成りすまし、各所から蓮華ちゃんの情報を引き出そうとするでしょう。逆に言えば、警察が蓮華ちゃんを容疑者から外し、警護対象と見なせば、詐欺組織は警察を装って蓮華ちゃんを追うことができなくなります」
「つまり、警察に今の推理を話して、蓮華を容疑者から外してもらうのか?」
「まさか。小説の探偵じゃあるまいし、そんな面倒なことしませんよ。ブライトライト東京の学生ボランティアが全員写っている写真を警察に提出させ、詐欺の被害者に見せるように促すだけです」
蓮華が遅刻した話を犬山から聞いた時点で、わたしは蓮華が詐欺事件に関与していないとほぼ確信できていた。もちろん、詐欺のターゲットに接触した曽根の同行者が、蓮華や曽根と同じく、ブライトライト東京でボランティアをしていたことも予想できていた。学生ボランティアが全員写っている集合写真を見せられたとき、きっとこの中に本物の詐欺師が紛れていると考え、わたしは策を巡らせた。
詐欺の被害者があの集合写真を見れば、小切手を受け取った二人組が両方とも写っていると気づき、その二人を指差すだろう。そのうち女性の方が、蓮華とは違う人物だと分かれば、警察は蓮華が詐欺事件に関与していないと判断する。ブライトライト東京の井上が、写真に写っている学生のどれが蓮華なのか伝えるだろうから、警察も蓮華の人相は把握できているはずだ。
そして、写真から曽根の同行者を突き止め、井上から名前などの素性を聞き出して調べれば、学生という身分が偽りだといずれ判明する。警察はそこで、同行者の女性が詐欺組織のメンバーだと考えるだろう。曽根がその女性を、自分と同じ闇バイトの犠牲者だと思い込んで黙秘しているなら、詐欺師に騙されたという事実を突きつければ、曽根はきっと口を割る。警察に取引の情報を流せるとしたら、蓮華しかいないということも話すだろう。
……という展開を目論んで、わたしは例の集合写真を、警察に提出するよう頼んだのだ。
「彩佳、なかなかの策士ぶりだな……」
「いいえー、まだまだわたしなど」
「じゃあこれで、詐欺組織の動きを抑え込むことはできるんだな?」
「曽根くんが自供して、警察が蓮華ちゃんの追跡をやめて、代わりに同行者の女性の捜索に力を入れるようになれば、詐欺組織はだいぶ動きにくくなるはずですよ。ただ、これはあくまで時間稼ぎです。詐欺組織による捜索を完全に止めることはできませんし、警察が組織の首根っこを掴むのもまだ先の話でしょう。蓮華ちゃんの身の安全は、まだ充分に保障できるものじゃありません」
「時間稼ぎって……やっぱり悠長じゃないか」
「いいえ。このくらいの時間稼ぎで充分です。蓮華ちゃんがどこにいるのか、もう分かっていますから」
「え?」
菜摘は目を丸くした。ここまでの話を整理すれば、自ずと見えてくると思うが、やはりまだ冷静でいられていないようだ。
「蓮華ちゃんは詐欺組織の追っ手から逃れるために、姿を消しました。でも、彼女は東京に来てまだ一ヶ月足らず……土地勘のない場所で逃げ延びるのは、厳しいでしょう。詐欺師に仲間がいる可能性はあるし、詐欺組織の一員だとしたらその規模も分かりませんし、長期戦になることも覚悟しなければなりません。ならば、蓮華ちゃんが選ぶのは……」
「……地元か」
「はい。ただし、実家だとすぐに辿られる恐れがありますから、地元の中でも絞り込みが厳しい場所……恐らく、地元に残った友達の家とかに、匿ってもらっているのでしょう。詐欺組織も同じように考えているでしょうし、蓮華ちゃんの現在の住所も特定しているくらいですから、実家の住所も知っているかもしれません。警察も恐らく同様でしょう。でも、蓮華ちゃんは実家の家族に、地元に戻ってきているとは知らせていないと思います」
「つまり警察も、恐らく警察を装って探りを入れる詐欺組織も、蓮華の実家に連絡したところで、見つけるのは容易じゃないってことね」
「でも、わたし達なら、警察や詐欺組織に先んじて、蓮華ちゃんを見つけられます」
わたしはスマホを取り出して、ブラウザである単語を検索し始めた。蓮華を見つけられる、と断言したわたしに、菜摘は怪訝な顔を向けている。
「見つけるって、どうやって? 蓮華の地元がどこにあるか知ってるのか?」
「ええ。本人から聞いたわけじゃないですが……蓮華ちゃんの出身は、石川県の能登地方です」
「能登地方?」
「能登には、『めった汁』という家庭料理があります。作り方は豚汁とほぼ同じですが、関東でおなじみのじゃがいもではなく、さつまいもを入れるのが特徴です。そして、能登の代表的な名産品が、『いしり』と呼ばれる、イカの内臓を使った魚醤です」
関東ではなかなかお目にかかれないが、『いしり』は日本三大魚醤の一つにも数えられる、有名な調味料らしい。イカの内臓を使っているだけあって、結構クセの強い匂いがするという。『いしり』を造っている業者は能登にいくつかあるが、その中の一つが販売しているボトルの写真を、スマホに表示して菜摘に見せた。
「このラベル、炭で書いた顔に見えません?」
「あー、確かに顔に見えなくもないな。『い』の線が短くて目に見えるし、『し』は書き出しの線が短くて口になって、歪なスマイリーフェイスみたいになってるな」
「蓮華ちゃんから地元のお土産をもらった、マンションの管理人さんが、炭で書いた顔がラベルにあったと言っていたのも、頷けますね」
「よくそんな証言だけで能登地方に辿り着いたな」
「どっちも馴染みがなかったので、すぐには気づきませんでしたけど、蓮華ちゃんが被災地支援のボランティアに参加した経緯を知って、恐らく能登地方だと考えて調べたんです」
蓮華がブライトライト東京の活動に参加したきっかけは、本部の前に貼り出していた、募金額の成果を書いた張り紙だった。恐らく蓮華が目をつけたのは金額じゃなく、募金で支援していた場所と、そこで最近起きた災害の方だったのだ。
「ああ、そうか。能登は確か、今年の元日に大きな地震が起きて……」
「そうです。蓮華ちゃんは入試の直前に、災害に見舞われたんです。当初の予定通り、東京の大学で試験を受けて、合格して上京した後も、ずっと、被災した地元のことを考え続けていたんだと思います」
「……うん、そこは、蓮華らしいな」
「以上のことから、一昨日の時点で蓮華ちゃんが能登出身だと判断して、ちょうどバイトが休みだった美紗に、能登へ行ってもらいました」
「は?」
うん、そういう反応になるよね。金曜日、美紗に能登へ行くようお願いした時も、今の菜摘みたいな顔をしていたし。
「いやいや、能登だと分かっただけで、結構範囲は広いだろ。美紗一人に探させるって、かなり無理がないか」
「美紗にはとりあえず、金沢で観光しつつ、わたしからの連絡を待つように言いました。地震と津波はありましたけど、金沢は無事みたいですからね。で、昨日ついに、蓮華ちゃんの実家の住所が分かったので、美紗に伝えて向かってもらったんです。何しろ、新幹線で二時間半、乗り継ぎと実家探しも含めたらそれ以上はかかりますし、住所が分かってから動いたのでは遅すぎますから」
「実家の住所が分かったって、どうやって……ああ、警察か」
菜摘はすぐに察しがついて興味が失せたのか、膝に頬杖を突いて遠くを眺めた。
学生ボランティアの集合写真を、警察に提供するよう井上に頼んだのは、この展開も目論んでのことだった。詐欺の被害者に写真を見せて、新事実が分かれば、警察は写真を提供した井上の真意が気になるだろう。そして井上の口から、蓮華を探しているサークルの先輩から頼まれたと聞けば、今度はわたしに真意を問おうと連絡を寄越すはず。わたしは井上に名前も事情も明かしているから、警察はすぐにわたしのことだと察してくれる。
何しろ、わたしは一度、警察に誤認逮捕されているからね!
「事件について何を知っているか、昨日警察に電話で訊かれたんです。そこで、蓮華ちゃんは恐らく、スマホの取り違えで偶然、詐欺に関係する取引の日時と場所を知って、匿名で警察に知らせたと思われるので、通報者の電話番号を調べるよう伝えました。で、この情報提供の見返りとして、警察が把握していた蓮華ちゃんの実家の住所を聞きだしたんです。誤認逮捕で借りを作っていたからか、そんなに渋りませんでしたよ」
「大学の教務課が、学生の個人情報を教えないと分かっていたから、そんな手に出たわけだな……やっぱり策士だよ、あんた」
菜摘は明らかに呆れているけど、とりあえず褒め言葉だと思っておこう。蓮華ちゃんに危機が迫っていたし、正攻法では時間がかかると判断した結果だ。この程度ならギリギリ、手段を選んでいると言えるだろう。
「あとは美紗が蓮華ちゃんの実家に乗り込んで、地元の交友関係を聞き出して、友達の家を片っ端から探してもらえば、一日か二日くらいで見つけられるでしょう。美紗の外見は警察にも詐欺師にも見えませんから、誰にも警戒されませんし、ギャルっぽい子が蓮華ちゃんを探していると近所に触れ回れば、蓮華ちゃんも美紗のことだと気づいて、巣穴から顔を出すかもしれませんし」
「そのために、自分じゃなく美紗を能登に行かせたのか」
「それもありますね。行動力やコミュ力は美紗の方が上ですし。それにわたしは、こっちに残ってやることがありましたし」
「ん? 警察からの連絡待ちなら、能登にいてもできるよな?」
「もちろん違いますよ。わたしがここに残ったのは……」
ひと呼吸おいてから、わたしは隣に座る菜摘に向き直り、真っすぐに視線をぶつけた。ここからが、蓮華を無事にここへ戻らせるための、正念場だ。
「警察の捜査が落ち着くまで、菜摘先輩に、蓮華ちゃんを匿うよう説得するためです」
「えっ……?」
心のざわめきに呼応するように、風が一瞬だけ強く吹き抜けた。
ずっと考えていた。蓮華は夢を持って東京に来ることを選んだのに、何も間違ったことをしていないのに、詐欺事件なんかに巻き込まれたせいで、地元に留まらざるを得なくなっている。警察の捜査はいつまで続くか分からない。決着するまでずっと地元にいては、蓮華の将来への影響は避けられない。わたしが蓮華を帰還させようと急いでいたのは、彼女の今後を憂慮していたからでもある。
唯一の解決策は、東京の地理に慣れていて、まだ詐欺組織が存在を把握しておらず、蓮華を守る意志を強く持っている誰かに、蓮華の身を預からせることだった。蓮華の友達はまだ東京に慣れていないから不安があるし、わたしは詐欺組織の幹部に顔を知られているし、半同棲状態の美紗は論外だ。つまり、頼れるのは菜摘しかいない。
「私が、自分の家に、蓮華を匿うっていうのか……?」
突然の提案に、菜摘は動揺を隠せず、視線があちこちをフラフラとさまよっている。
「無茶は承知しています。でも、こうでもしないと、蓮華ちゃんは無事にここへ帰ってくることができません。菜摘先輩の話を聞いて確信しました。蓮華ちゃんを守るという意志の強さで、先輩の右に出る人はいません」
「まさか、それを確かめるために、私と蓮華の間に起きたことを聞き出したのか?」
「それもありますが、一番の懸念材料をどうにかしたいという理由が大きいですね」
「懸念材料?」
「菜摘先輩がこの提案に乗ったとしても、今も危機にさらされている当事者が、何も決着していない状況で東京に戻ることを了承するか、それが気がかりなんです」
「まあ、確かに……絶対ではないが、少なくとも東京よりは、地元の能登の方がまだ安全だろうし、今回のことで東京にトラウマがあったら、無理に戻すのは酷かもしれないな」
「もちろん本人の意思が最優先ですし、東京に戻したいというのはわたしの我がままです。それでも、このまま蓮華ちゃんが地元に籠り続けることが、蓮華ちゃんにとっていい事だとは思えないんです。何より……」
その先は、口元を一文字に結んでいる菜摘を見て、言わないことにした。これ以上、菜摘の心中を見透かすような物言いは、野暮というものだ。それに、わたしがどうやって、この一番の懸念を解消しようとしているか、菜摘は言われなくても分かっている。
……沈黙がきつい。木々が風にそよぐ音だけが聞こえて、この場所の静けさが一層強いものに感じられる。
菜摘はどう決断するだろう。陽が高くなってきたからか、静けさに緊張しているからか、わたしは冷や汗が止まらない。やはり、何かひと言でもかけた方がいいのだろうか。
そんなふうに考えていると、手元にあったスマホから着信音が鳴り響いた。美紗からのテレビ電話だった。普通の音声通話じゃないってことは、もしや……。
通話ボタンをタップして機体を横向きにすると、アップで美紗が映った。
『やっほー、彩佳。見えてる?』
「うん、見えるよ。美紗、もしかして……」
『そう! 蓮華ちゃんをついに見つけました! いま、蓮華ちゃんの友達の家から送っているところだよ。そっちは?』
「さっき団長との話が終わったところ。美紗、よくやったね!」
『うへへっ、もっと褒めてー』
「美紗!」菜摘が横からスマホを覗き込む。「蓮華が見つかったのか?」
『はい。今もいますよ。ほら、蓮華ちゃん』
美紗がスマホを持ったまま真横に向きを変えると、Tシャツ姿の蓮華がフレームインした。部屋の中のようで、蓮華はベッドの上で正座していて、どこかおぼつかない声色でわたし達に呼びかけた。
『……彩佳先輩、団長』
「蓮華……よかった……無事でよかった……」
蓮華の無事を確認した菜摘は感極まって、わたしの肩に顔を沈めた。その様子を目ざとく見つけた美紗が、顔の半分だけ割り込んできた。
『ちょっと部長! わたしの彩佳にひっつきすぎ! 五メートルくらい離れて!』
「独占欲こっわ、えっぐ」
「というかわたし、別にまだ美紗のものになってないんだけど」
「まだ?」
おっと、少しばかり本音が漏れてしまった。もっとも、先輩三人の遠慮を知らないやり取りは、ほどよく緊張をほぐしたようで、蓮華は美紗の後ろでクスクスと笑っていた。
「ねえ、蓮華ちゃん。美紗からどこまで聞いた?」
『あ、えっと……詐欺組織がわたしを追っているってことと、警察がわたしを受け子仲間だと思っているけど、彩佳先輩が無実を証明してくれそうってことは聞きました』
「証明っていうほどたいしたことはしてないけど、警察はもう、蓮華ちゃんを疑ってはいないと思うよ。そこは安心していい。ただ、詐欺組織はまだ蓮華ちゃんを探してる。警察は動いてくれているけど、まだこっちは安全ではないかもしれない」
『やっぱり、そうですよね……美紗先輩、せっかく来てくれたのに申し訳ないですが、やっぱりわたし、まだ東京に戻るのは……』
「その事だけどね、蓮華ちゃん」
恐らく美紗がすでに、東京に戻るよう説得を始めていたのだろうが、やはりまだ蓮華にその勇気はないらしい。美紗に謝ろうとしていた蓮華を遮って、わたしは、こっちで進めていた話を持ち込むことにした。
「わたしから提案があるんだ。聞いてもらえる?」
『提案、ですか?』
「それじゃあ菜摘先輩、後はどうぞ」
「は?」声を上げる菜摘。「ま、待てよ、私はまだ……」
「蓮華ちゃんとはもう話せる状況です。あなたが一番望んでいた展開じゃないんですか」
「うっ……」
「二人できちんと話し合って下さい。お互いのためにも」
テレビ電話が繋がったままのスマホを、押し付けるように菜摘へ差し出した。何も知らない後輩の女の子に、軽はずみにキスをしておいて、逃げるなんてズルはよくない。向き合える時に向き合って言葉を交わしておかないと、きっと後悔する。
……まあ、わたしが言えたことじゃないかもしれないが。
菜摘はなおも逡巡しているみたいだが、震える手をおもむろに延ばして、わたしのスマホを掴み取ろうとして何度かピクピクと痙攣させ、一度ぎゅっと拳にして握り締めてから、奪うようにスマホを手に取った。やや俯いた視線の先に、両手でスマホを保持して、画面の向こうの蓮華を真っすぐに見つめて……菜摘は、重い口を開いた。
「蓮華、この間は、すまなかった。軽率なことをしたと思ってる」
『この間……あっ、ああ、キスのこと、ですか』
キスのこと、の所は口元を押さえて、恥ずかしそうに小声で言う蓮華。どんな表情をしているか、わたしには分からない。二人だけで話をさせるために、ベンチから立ち上がって少し離れた所に立って、菜摘の方も見ないようにしているから。美紗に言われたからじゃないけど、たぶん五メートルくらい離れている。おかげで蓮華の声はかすかに聞こえる程度だ。
「蓮華が大変なことになっている事にも気づかないで、あちこちに連れ回して、挙句にあんなことをして……本当に、すまないと思ってる」
『いやっ、それは』蓮華の声が裏返った。『わたしの方こそごめんなさい……何も言わずにいなくなって、心配かけてしまいましたし、団長のこと、利用するみたいになってしまって……団長の気持ちも考えずに、勝手でした』
「ははは」菜摘は乾いた笑いを漏らす。「相手の気持ちを考えなかったのは、お互い様か。まあ、私のことは、今はいいんだけどね。話っていうのは、蓮華の今後のことなんだ」
『わたしの今後?』
「蓮華の将来を考えると、いずれは東京に戻って来て、大学にも復帰してほしい。それも、なるべく早く戻ってきてほしいと思っている。でもさっき彩佳が言ったように、危険な詐欺組織が未だに蓮華のことを狙っている」
『…………』
「それで、だな……」
まだ迷いはあるようで、その先を口に出すのに時間がかかった。だが、ついに意を決した菜摘は、告白でもするかのような勢いで告げた。
「警察の捜査が一段落するまで、私の家に身を寄せるというのは、どうだろう?」
『…………!』
「正直私は、まだ、蓮華のことをどう思っているのか、はっきりとは分からない。だけど、蓮華のことを、誰よりも大事に思っているし、辛かったり、危なくなったりしたら、何が何でも守ってやりたいって、心の底から思っている!」
『だん、ちょう……』
「もちろん、決めるのは蓮華だし、強制もしない。というか、私なんかが四六時中近くにいたら、気味が悪いかもしれないけど……」
『それは無いです!』
年下で同性の子にキスをした事で、気味悪がられたと思い、卑下しかけていた菜摘を、蓮華は強い口調で遮った。離れた所にいるわたしにも、聞こえるほどの声だった。間近で聞いた菜摘は、ハッとさせられたに違いない。
『わたし、その……キスされた事なんて、今まで一度もなかったんですけど、なんというか……団長にキスされたとき、不思議と気持ち悪さはなかったです。むしろ、あの後に団長が走り去ってから、ずっとドキドキして、ふわふわした感じでした』
「蓮華……」
『だから、一緒にいて嫌だと思うことは、きっとないです』
「そう、か……そうなのか」
『ただ、それでも、いま東京に戻るのは、まだ不安があって……』
「うん、いいよ。今すぐ決めなくても」
蓮華の気持ちをようやく聞けて、菜摘は重荷を下ろしたようにホッとしていて、とても穏やかな口調になっていた。わたしは菜摘のこんな声、聞いたことがない。普段は見せない菜摘の一面を、蓮華だけが引き出せたわけか……。
「ねえ、蓮華。今度、そっちに行っていい? 改めて、直接会って話したい」
『団長、能登に来るんですか……?』
「ことは私自身にも関わることだからね、一緒に話し合って、これからどうするか決めよう。蓮華の地元がどんなところか、見てみたいからね。地震で大変なことになっているなら、私にも何か手伝わせて。……蓮華の力に、なりたいんだ」
菜摘は静かに、だがしっかりと心の内を、遠くにいる大事な人に告げた。
蓮華の返事は小さすぎたのか、わたしには聞き取れなかった。気になるけど、わたしは聞かないでおくことにした。菜摘のあの、屈託のない笑顔を見れば、どんな返事だったかは聞くまでもない。
わたしも胸を撫で下ろした。蓮華が戻ってくる日は、きっとまだ先のことになる。蓮華の心にまとわりつく不安も、しばらくくすぶり続けることだろう。だけど、そんな日々は長く続くまい。
春が終わり、千切れるような強い風がやんだ頃に、不安は綺麗に消える。いつの間にか愛を知っていたあの人が、消してくれる。わたしは、そう信じる。
* * *
「ただいまぁ! お土産持ってきたよ!」
「美紗、おかえり……ぐほっ」
能登への二日間の出張を終えて、わたしが待っている自分の家に帰ってきた美紗は、玄関で靴を脱いで真っ先に、出迎えたわたしに抱きついてきた。それだけならいいけど、わたしの首筋に鼻先を当てて、すーはーと大きく鼻で呼吸してきた。
「ああ……一日ぶりの彩佳の匂い。我が家に帰ってきたって感じ」
「わたしは実家の飼い猫か」
アホなことを言い出した美紗の頭を、拳骨で軽くこつんと叩いてやった。たかが一日会わなかっただけで禁断症状が出るとは、美紗の愛情は筋金入りだよ、本当に。一応、美紗が能登で蓮華の実家に泊まった時も、寝る前に二時間近く電話していたのだが……。
「で、お土産って何?」
「結構色々あったよ。金沢駅で地元のお菓子がたくさん売られていてね、きんつばビスキィとか、にゃんこのサブレとか、かわいいから買っちゃった。あと、金箔を使ったアイシャドウなんてのもあって、これは自分用に買った」
「あー、金沢って金箔の国内シェア100%なんだってね」
「あと、蓮華ちゃんの実家で、赤崎いちごの手作りジャムをおすそ分けしてもらったよ。甘くてめっちゃ美味しいんだって。それと、これももらった」
美紗は紙袋の中から、黒い液体の入ったボトルを取り出した。ラベルにはでっかく筆文字で『いしり』と書かれている。
「うわ、でた……」
「お鍋に少し入れるだけで、しっかりと味が付くんだって。今度やってみようよ」
「そーだネ……とりあえず夕飯にしよう? お腹空いたでしょ」
「うん、めっちゃお腹ペコペコ。お土産買いすぎたせいで、おやつになるもの食べ損ねちゃったし」
美紗が抱えた腹部から、ぐぅ、と虫の声が聞こえてきた。律儀にお土産を買って来るのはいいけど、自分の懐具合くらい、こまめに確認した方がいいのでは。
今日の夕飯はハンバーグである。しかもお店で買った出来合いのものじゃなく、わたしの手作りだ。高校まではたまに母親の料理を手伝う程度で、大学に入学したばかりの頃は、学食か惣菜がメインになるのだろうと思うくらい、料理の経験はほとんどなかった。でも美紗と半同棲状態になってからは、色々と心の余裕ができたからか、頻繁に自炊で簡単な料理を作るようになった。今では美味しいハンバーグもお手の物である。
お皿に盛られたハンバーグの、端っこの一切れを頬張って、美紗は恍惚の表情を浮かべた。
「う~ん、ジューシー。本当に腕を上げましたねぇ、大将」
「ラーメン屋か」
「ちなみに、付け合わせのニンジンとブロッコリーとコーンは……」
「ニンジンのグラッセもお手製だよ。ブロッコリーも自分で茹でた。コーンだけは缶詰」
「本格的におふくろの味になってきたねぇ。これはますます、彩佳と結婚するメリットが大きくなっていきますな」
……別に、結婚などしなくても、ご飯くらいいつでも作ってあげるのに。
いや、違うな、と思って言うのをやめた。言ったら美紗をさらに調子に乗らせそうだし、わたしの方が恥ずかしい思いをするのは明白だ。そもそも、まだ法律的な問題で結婚できないことの方を突っ込まない時点で、その気だと思われるに決まっていた。
というわけで、照れ隠しで切り抜けることにした。
「美紗もこのくらい料理ができるようになるといいね」
「……袋ラーメンのアレンジくらいなら、まあ」
「簡単に美味しく作れるなら、それに越したことはないよねぇ」
「……精進します」
美紗が静かになってくれたところで、わたしも自分で作ったハンバーグを一口食べた。うん、我ながらうまくできた。
夕飯を食べ終えて、食器洗いを済ませると、お風呂が沸くまでの間に、お土産のにゃんこサブレをちびちびと食べながらお茶をいただく。美紗はベッドを背もたれにして床のクッションに座り、わたしは美紗のすぐそばでベッドに腰かけ、テレビでドキュメンタリー番組をぼうっと見ていた。
どうもテレビに集中できている気がしない。わたしは美紗と雑談することにした。
「美紗、蓮華ちゃんの実家は、地震で大変なことになってなかった?」
「あー……さすがに無事ってわけじゃなかったね。築五十年くらいで割と古いから、揺れであちこちが歪んだみたい。家財道具とかもいくつか落ちて壊れたそうだよ。それでも家族はみんな、怪我なくつつがなく暮らしていたよ」
「韻を踏んでる……被害の大きい所もあったって聞くし、大丈夫だったのか気になってね。まあでも、蓮華ちゃんはちゃんと試験を受けられたわけだし、支障はなかったんだろうけど」
「いや、結構近所でも大きな被害は出ていたし、友達や知り合いの中にも、避難所生活を強いられている人が何人もいたらしくて、蓮華ちゃん、東京に行くかずいぶん迷ったって、蓮華ちゃんのお母さんが言ってた。家族や近所の人たちが揃って応援してくれたから、上京する決意を固めたって」
そうだったか……蓮華の大学受験は、決して問題なくできたわけではなかったのだ。自分たちも苦境の中にいるにも関わらず、子どもの未来を応援してくれた、その感謝の気持ちが大きいからこそ、東京で被災地支援の活動がある事を知って、蓮華は参加しないわけにいかないと思ったのだろう。
結果的には、その活動に参加したことがきっかけで、とんでもない事件に巻き込まれたわけだが、不可抗力だし、蓮華のおかげで、厄介な犯罪組織に一矢報いることができたわけだから、悪い事ばかりでもない。それにこれからは、公私に渡って支えてくれる人もいる。
「何にせよ、蓮華ちゃんの無事を確認できてよかったよ」
「そうだねぇ。それもこれも、彩佳の名推理のおかげだね」
「別に名推理ってほどじゃないって。ああ、それより美紗、聞きたいことがあるんだけど」
「んー? 何?」
サブレで少し口の中が乾いてきたので、お茶を一口含んで、飲み込んでから美紗に尋ねた。
「今回の一件、美紗はどこまで知っていたの?」
「…………な、なんのことかな」
二人ともずっとテレビの方を見ていて、元から合わせていなかったはずの視線を、美紗はさらに大きく逸らして言った。全く後ろめたさを隠せていない。
「その反応、やっぱり美紗は、最初から色々知ってたんだね」
「……いつから気づいてたの」
嘘も隠し事も下手だと自覚したのか、美紗は観念して認めた。でも菜摘とは違い、わたしを名探偵として好意的に見ている美紗は、特に機嫌を損ねている様子はない。看破されても仕方ない、とでも思っていそうだ。
「違和感を覚えたのは、松崎さんたちから最初に話を聞いた時ね。学食で一緒にお昼を食べていて、話の途中で松崎さんたちに声をかけられた」
「あの日は彩佳、お盆で両手が塞がっていて、わたしがメッセージを送ってもスマホを取れなかったんだよね」
「そうそう、あの時は美紗が気づいて見つけてくれて助かったよ。そしてあの日も今日と同じく、きっちりとメイクを決めていたね。似合ってたよ」
「えへへー、彩佳に褒められると、頑張った甲斐があるなぁ」
「で、その日美紗は、サバの味噌煮と豚汁の定食を頼んでいて、先にもう席についていた」
「うちの学食の味噌煮、美味しいよね」
「確かにね。でもわたしが言いたいのは豚汁の方だよ」
「豚汁じゃなくて?」
「とりあえず郷に従って豚汁って言うから。で、美紗は豚汁を、最初は箸で具をつまんで食べていたけど、途中でお椀を両手で持って、直接口をつけて汁を啜った。唇につけたリップを落とさないままでね」
「…………」
今度は美紗から話をはぐらかす言葉は出なかった。わたしが何を言いたいか、美紗が気づいていないはずはない。
一昨日、ホシダ珈琲でデートした時もそうだったが、美紗は食器に口紅がつくのを結構気にするタイプだ。だから、外出先で食器に口をつけると予測できるときは、いつも口紅を拭い取るためのクレンジングシートを持っていく。逆に、普段はクレンジングシートを持ち歩いていないので、ホットコーヒーのように、食器に口をつけるしかないメニューは避けるようにしている。
だが、あの日は違った。いつものように綺麗なリップを塗った状態で、シートで拭うことなく、豚汁のお椀に口をつけた。おかげでその後に、お椀に付着した口紅を、紙ナプキンで拭き取ることになっている。
「美紗、あの日も普段と同じように、クレンジングシートを持ってなかったんだね。それなのに豚汁を頼んだ。シートを持ってない日はいつも、カレーとか丼ものとか麺類とか、一品料理を頼んでいたのに」
「まあ……そんな日もあるんじゃない。シートを持ってないこと忘れて、そういうのを注文しちゃうことだって」
「確かになくはないよ。いざ食べるという段階になったら、さすがにシートがない事を思い出しそうではあるけどね。その場合も、大きめのスプーンで掬って飲むとか、食器に口をつけずに飲む方法はいくらでもありそうだよね」
「うーん、それはまあ、そうかも……?」
「そもそも美紗が忘れていたのって、リップを塗っていたことの方じゃないの?」
「……フレームの軽い眼鏡をかけていると、自分が眼鏡をかけているってことを、一瞬忘れたり意識から飛んだりする人って、いるよね。わたしも普段から口紅をつけているし、それが当たり前になっているから、いちいち意識したりしないかもなぁ」
「つまり美紗は、豚汁のお椀に口をつけるその時まで、自分がリップを塗っていたことをすっかり忘れていたわけね。お間抜けさん」
からかいがてら美紗の頭を指先でつんと突いたら、美紗は体ごとユラユラと揺れた。なんか、起き上がりこぼしみたいだな。
「わたしがちょっと間抜けなのは否定しないけど、それがどうかしたの」
「それだけなら、美紗もこういうドジを踏むことがあるんだな、としか思わないよ。そのすぐ後に、偶然にも居合わせた松崎さんたちが声をかけてこなければ、ね」
「偶然にも、ねぇ……」
「学食は他にもたくさんテーブルがあるのに、蓮華ちゃんの友達が、たまたまわたし達の席のすぐ後ろにいたなんて、考えてみたらすごい偶然だよね。まるで誰かが図ったみたい」
「……もし本当に、誰かが図っていたとしたら?」
「松崎さんたちは最初からわたしと美紗のことを知っていて、狙ってわたし達の後ろの席を陣取っていた。途中で美紗が席を離れても、追いかけようとしなかったのは、美紗がそのうちわたしを連れて戻ってくると知っていたから。これは、美紗から事前に色々と教えてもらっていたとしか思えない。そして、美紗が豚汁のお椀に口をつけたことを合図に、松崎さんたちは声をかけた」
思い返してみれば、松崎と犬山が罵り合うような口論を始めた時も、美紗は日垣と同じように、全く狼狽える素振りを見せなかった。すでに一度、美紗は二人の口喧嘩を目にしていて、いつものことだと日垣に言われていたのかもしれない。
つまりその時に、美紗は三人と会っていて、すでに粗方の事情を聞いていたのだろう。そして恐らくは、わたしのことを名探偵と呼んだりして、蓮華の件で知っていることをわたしに話すように言ったのだ。何も知らないわたしは、美紗と普通に世間話を始めてしまうから、美紗が豚汁のお椀を両手で持ったタイミングで、話に割り込めばいいとでも言って……。
「豚汁のお椀を合図にするのを思いついたけど、その時に美紗は、自分が口紅をつけていることを忘れていたんだね。気づいた時にはわたしがすでにいて、別の合図に変えようにも、わたしに気づかれずにそれを三人に伝える手段がなかった」
「見てきたように言うねぇ」
「まあ、この辺りはただの推測だけどね。でも、あの三人、わたしに対してずいぶんと期待感が高かったよね。わたしが蓮華ちゃんの住んでいる所を探そうと考えていたときも、特に口に出したわけでもないのに気づいて、しかもわたしの調査を手伝うことに一切の迷いがなかった。それと、わたしなら蓮華ちゃんを見つけられるかもしれないと、強く信じているみたいでもあった」
日垣がわたしを真っすぐ見て、必ず蓮華を見つけてほしいと懇願した時、これは恐らく美紗あたりから、わたしが名探偵みたいにすごい奴だと吹き込まれたのだと思った。わたしの見ている前で、美紗が何度かわたしの言動を名推理だと茶化したことはあったが、実績を強調したことは一度もなかった。つまり、わたしの知らないところで、美紗と三人が繋がっていると予想できる。
「美紗は三人とすでに会っていて、わたしのことを名探偵だと自慢していて、蓮華ちゃんを探すならわたしに頼めばいいと教えたんだね。ただ、美紗があの三人と事前に示し合わせていたとすると、教務課に行っている時間はほとんどなかったと思うんだよね」
「あー、そういうことかぁ」
美紗もようやく気づいたみたいだ。
蓮華が休学届を出していた事実を、美紗は教務課で聞いたと言っていた。その日は二限目の講義が少し早めに終わったので、蓮華がどの学部と学科に籍を置いているか調べようと教務課に行き、そこで初めて蓮華が休学していると知った、という口ぶりだった。
だが、美紗は食堂でわたしと落ち合う前に、松崎たちと会って、恐らくは蓮華に関する事情をいくつか聞いていて、その後にわたしを巻き込む算段についても相談したはずだ。あの日の学食は非常に混雑していて、先に席を確保するには、わたしよりさらに早く到着している必要がある。少し早めに講義が終わってから、教務課に立ち寄って蓮華のことを色々調べて、その後に松崎たちと話し合って、学食の混雑のピークが来る前に席を確保する……どう考えても時間的に厳しい。
つまり美紗は、教務課に行ってなどいない。教務課で聞くことなく、蓮華が休学届を出したことを美紗は知っていた。それはなぜか。
「初めから、蓮華ちゃん本人に事情を聞いていたから、だよね」
「……やっぱ凄いなぁ、彩佳は。豚汁ひとつでそこまで推理するなんて」
「んー、そう簡単に郷には従えないか。でもね、多少自信はあったけど、それでも推測に過ぎないし、半信半疑ではあったよ。だけどあの言葉を聞いた時、かなり確信が深まった」
「あの言葉……?」
「ブライトライト東京の本部から帰る途中、蓮華ちゃんから団長に送ってきたメッセージの意味が分からないって話になったよね。あの時に美紗は、メッセージの意味は本人を見つけてから聞けばいいと言った。美紗はあのメッセージが、蓮華ちゃんの居場所を暗に知らせるものでもなければ、遠回しにお別れを告げる内容でもないと知っていた。メッセージを読み解いても居場所は分からないし、会おうとしても蓮華ちゃんは拒まない……それが分かっていたから、会って聞けばいいと簡単に言えた」
あの時点では、もう一人の当事者である菜摘を除いて、誰もが蓮華からのメッセージに深い意味があるのではないかと疑っていた。わたしもいろんな可能性を考えていた。でも美紗は、メッセージの意味が分からないと言いながら、暗号や婉曲という可能性をまるで考えていなかった。もちろん、美紗の考えがそこまで及んでいなかっただけかもしれないが、豚汁と口紅のこともあって、わたしは、美紗が最初からメッセージの意味、というより意図を知っていたと考えていた。
「そして、今日のことで間違いないと確信できたんだ。美紗が無事に、蓮華ちゃんを見つけて会うことができて、テレビ電話の報告にも参加させたことでね」
「あ、やっぱり? 途中からわたしも、もしかしたらって思ってた」
「いくら何でも動きが早すぎだよ。蓮華ちゃんの実家は昨日のうちに住所を知らせたから辿り着けても、その後に地元の友達の家を片っ端から探して訪ね回り、身を潜めている蓮華ちゃんを見つけ出し、テレビ電話でわたしと団長に話をしてほしいと説得するには、相当な時間が必要だったはず。お昼前に全部済ませるのはかなり難しいと思う」
「うん、改めてそう聞くと、わたしのスペック的に絶対無理だわ……」
「美紗は初めから、蓮華ちゃんがどこに隠れているか知っていた。というか、本人から聞いていたんでしょ。地元の友達の、誰の家に隠れることにしているか、事前にね。怪しまれないように、実家では蓮華ちゃんの友達全員の住所を聞いたと思うけど、美紗は他の家には一軒も立ち寄らず、蓮華ちゃんがいる場所に直接向かった。だからこんなに早かったのね」
「だって……早く帰って彩佳とイチャイチャしたかったし」
美紗はふくれっ面になって口を尖らせた。こういうところは可愛らしいと思うけど、早く帰ったところで、果たしてわたしとイチャイチャできたかどうか。
とはいえ、美紗がそう考えて、能登への出張を早めに終わらせるために、他の家を探さず真っ先に蓮華のいる場所に行くだろうと、わたしが予想していたのは確かだ。だからこそ、早めに菜摘と会って話をして、絶好のタイミングで美紗から連絡が来て、無事に二人で話ができるように事を運べたのだ。
そしてその時は、美紗が蓮華と結託していたという推測が、改めて正しいと証明できると踏んでいた。美紗が最初から蓮華の居場所を把握していない限り、昼前までに蓮華の発見と説得に成功することは、普通ならありえないからだ。もちろん、わたしの推測が間違っていれば、下手をすれば美紗はさらに翌日まで能登に逗留するはめになり、美紗一人に苦労を押しつけることになるから、かなり危うい賭けではあった。でも、充分に勝ち目のある賭けだとは思っていた。
喫茶店で言ったとおりだ。わたしは自分の推測に自信を持っていたが、それ以上に、美紗ならわたしの期待どおりに動いてくれると、信じていたからだ。
「要するにわたしは、彩佳の推理が正しいか確かめるために、まんまと利用されたわけかぁ」
「何度も言ったけど、蓮華ちゃんの今後を考えたら、早く見つけて団長と話をさせた方がいいと思っていたからね。美紗が蓮華ちゃんの居場所を知っているなら、それを利用しない手はないと思ったんだよ。それに、わたしだって美紗にうまいこと乗せられたし、お互いさまでしょ」
「それを言われるとぐうの音も出ないな……」
「じゃあ今度は美紗の番。どういう経緯で蓮華ちゃんの事情を知ったのか、わたしにも教えてほしいなぁ」
ベッドに腰かけたまま前かがみに半身を倒して、美紗を上目遣いで見つめて、甘えるような声でわたしは美紗に言った。美紗の喉元から、ぐっ、という声が聞こえた気がした。
「彩佳、それ……わたしが逆らえないって分かっててやってるでしょ」
「そうだよ? ここまで来て黙ってほしくはないもの」
「はあ……やっぱり彩佳には敵わないなぁ」
惚れた弱みはつけ込まれやすいものだ。普段からわたしへの好意を隠そうとしなければ、利用されることもなかっただろうに。まあ、些細な意趣返し程度なら、利用されても文句は言わないと分かってやっているから、わたしも大概なのだろうけど。
深くため息をついてから、美紗は全てを打ち明けた。
美紗が蓮華から電話で連絡を受けたのは、火曜日のバイトが終わった頃だった。つまり蓮華が菜摘とのささやかなデートを終えて、帰り際に菜摘から弾みでキスをされた、そのすぐ後のことだ。他の誰にも聞かれたくない相談事があると言われ、美紗は、翌日に改めて詳しく話を聞くと答えた。自宅だとわたしが一緒にいるから、二人だけで話をするのは難しいし、翌日には美紗だけ講義のない時間があるので、その時に二人で会って相談を聞くことにしたそうだ。
「そして、大学構内のひと気のない場所で、蓮華ちゃんと会って、その前日までに何が起きたのかを聞いたわけ。わたしも読書スポット探求団の団員だからね、ひと気がなくて読書にぴったりな場所を、いくつか知っていたんだよね」
「そこで探求団に入部したことが活きてくるとはね……」
「とはいえ、蓮華ちゃんもそんなに多くを知っていたわけじゃなかったよ。たぶん、同じボランティアに参加していた子が、闇バイトで詐欺に加担していて、火曜日に何か大事な取引をしようとしていたみたいだけど、偶然そのことを知った蓮華ちゃんが警察に知らせたせいで失敗して、しかも詐欺師の男の方は捕まる前に逃げ出した。ひょっとしたら詐欺師やその仲間から、報復で狙われるかもしれない、って怯えながら言っていたよ」
「その闇バイトの子の名前や性別は聞かなかったの?」
「蓮華ちゃんが言おうとしてやめたからね、わたしもそこは追及しなかった。今思うと、知り合いの男の子をそうまでして止めたがっていたと知られたら、変な誤解をされかねないって思ったのかも」
「ああ……新天地の都会で出会った男の子なんて、無責任な噂の格好のネタにされそうだし、美紗が相手でも言いづらかったんだろうね」
「ただ、蓮華ちゃんが一番悩んでいたのは、詐欺師に報復されるかもしれないってことじゃなく、その後にある人物からキスをされたことだった。ある人物というのが誰なのか、そこまでは言わなかったけど、喫茶店で一緒に逮捕現場を見ていた、女の人だとは言ってた。それでまあ、色々と察したわけよ」
なるほど、わたしも色々と察した。テレビ電話での蓮華の言動から、菜摘にキスをされても不快に思うどころか、蓮華も菜摘を憎からず想っていることは窺い知れた。唐突に女性から唇を奪われて、自分の気持ちの向き合い方が分からなくなったのだろう。しかも、詐欺師に狙われる可能性があるため、対処を間違えたら菜摘も巻き込む恐れがある。迷った末に蓮華は、美紗に相談することを選んだ。
「美紗は普段からわたしへの好意を隠していなかった。女の子同士の恋愛に関して一日の長があり、団長と違って、蓮華ちゃんに恋愛感情を向ける心配がない。だから相談相手に選ばれたのね」
「そういうこと。残念ながらまだ世の中は、同性恋愛に寛容とは言えないし、蓮華ちゃんもまだ自覚の途上だから、誰かに打ち明けるのはかなり迷っただろうね。わたしが一番マシだと思ったけど、それでも相手のこととか、全部を話してはくれなかったよ」
「なるほどね。そしてその後は、美紗の方から蓮華ちゃんに入れ知恵したのね」
「ご明察。詐欺事件の方は、彩佳に任せれば万事うまくいくけど、たぶんこのままだと本人は乗り気にならないし、それまでに蓮華ちゃんの身が危うくなるかもしれない。だから、詐欺師が蓮華ちゃんの素性に気づく前に、休学届を出して東京を離れたらいいって言ったの。万が一のことを考えたら、土地勘のある場所で、事情を聞いたら長期間匿ってくれそうな、地元の友達の家とかがいいって、アドバイスしたよ」
なんてろくでもないアドバイスだ。休学届を出させたのは、異常事態であるとわたしに認識させ、自分から蓮華の捜索に動き出すように仕向けるためだ。分かってはいたが、わたしは一から十まで、美紗の思い通りに動いたことになる。
「ただ、詐欺師に仲間が大勢いたら、人海戦術を使う可能性もあるし、もし先に地元がどこにあるか知られたら、新幹線の駅とかで待ち伏せされる恐れもある。だから、お金はちょっとかかるけど、在来線や私鉄を乗り継いで、思い切り遠回りして、地元に戻っても実家には立ち寄らずに、直接友達の家に向かうように言ったんだ。そして、無事に辿り着けたら、その合図として部員の誰かに、意味深なメッセージをLINEで送るように、ってね」
「つまり団長のスマホに届いた謎メッセージも、美紗の差し金だったのね」
「わたしのスマホにそのまま送ったら、いつも一緒にいる彩佳に見つかる可能性もあるからね。別に、誰にどんなメッセージを送るかまでは指定してないよ。蓮華ちゃんからメッセージが来たってことさえ分かれば、無事だと確信できて、わたしも安心して彩佳を動かせると思ったからね。まさか、あんなストレートに、部長とデートして楽しかったと伝えるなんて、考えもしなかったよ。彩佳の推理を聞くまで、わたしもあのメッセージに、何か深い意味があるのかと思ったくらいだし」
そこはやはりわたしの推測どおりだったか。恐らく美紗がそう思ったのは、わたしが蓮華からメッセージが届いたことを美紗に話した時、メッセージの意味が不可解だと言ってしまったからだろう。文面通りに見れば、不可解でも何でもないのだが、一向に姿を見せない後輩から数日ぶりに届いたこともあって、深読みしてしまっていた。
それにしても……蓮華が東京を発ってから例のメッセージが届くまで、三日か四日くらいかかったと思うけど、いったいどんなルートを辿ったら、東京から能登までそれだけの時間がかかるのだろう。電車をひたすら乗り継いでいく旅に慣れていないせいで、蓮華は何度も乗り過ごしたりしたのかもしれない。なんというか、ご苦労さまでした、だよ。
「わたしとしてはとにかく、時間を置いて気持ちを落ち着けてから、相手の女の子の想いにどう向き合うか、じっくり考えればいいと思ったんだよ。東京から離れている間は、詐欺師たちのことで悩まされる心配はないし、こっちでのことはわたしと彩佳で、できる限り何とかするから、蓮華ちゃんは自分の身の振り方に集中すればいいって言ったんだ」
「つまり美紗は、蓮華ちゃんが把握している事情を、相手の女性のこと以外は全部知っていて、そのうえで行方をくらませるように唆したのね。まさに全ての元凶」
「元凶って、人聞き悪いな! どっちかっていうと元凶は詐欺組織の方でしょ。こればかりはわたしの力じゃどうにもならないから、彩佳に何とかしてもらうしかなかったの」
「いや、そんなのわたしでも無理だし……わたしが詐欺組織のことを知れたのは、警察が偶然勘違いしてくれたからだよ。そもそも、美紗が知っていることを教えて相談してくれたら、ここまで遠回りすることはなかったはずでしょ」
蓮華が取引の情報を、匿名で警察に提供したのは、密告を詐欺師に知られて報復されるのを恐れたからだ。だけど、蓮華が地元に逃げ延びた以上、しばらく蓮華に危害が及ぶ心配はないから、美紗が黙っている必要はなかった。話してくれれば、蓮華のマンションを探して訪ねなくてもよかったし、蓮華が参加していたボランティア団体もすぐに見つけられたし、スマホの取り違えも最初から知る事が出来たから、蓮華に受け子の疑いがかかることもなかった。……ほとんどは結果論だけど、美紗が知っている事情を打ち明けることで、もっとスムーズに調査を進められたのは確かだ。
美紗は悪びれることなく答えた。
「だってここまで複雑な裏事情が絡んでいたとは思わなかったし、蓮華ちゃんにまだしばらく身の危険がないと分かったら、彩佳は首を突っ込もうとしなかったでしょ。そうなれば警察の情報も入らないし、悶々とただ事態が良くなるのを待つだけになるじゃん」
……よく分かっている。美紗に改めてこう言われると、わたしは否定できない。事なかれ主義とまではいかなくても、わたしはよほどのことがない限り、他人のために無茶をしようとは考えないだろう。この一件にしても、本来ならわたしが関わる必要はなかったが、蓮華の身に危険が迫っている、という可能性が現実味を帯びたことで、わたしのお節介な一面の方が強くなった。美紗はまさにこれを狙っていたのだろう。
「それに、また見たかったからね。彩佳が真剣に推理するところ」
「えっ……?」
「去年の事件で、彩佳が見事な推理を披露したとき、わたしはすごく、かっこいいって思えたんだ。彩佳にそのつもりはないって分かっていたけど、わたしはずっと、あんなかっこいい彩佳をもう一度見たいって思ってた。意外な所から手掛かりを引き出して、論理を繋げて真実を見つけ出す、そういう名探偵の推理をね」
「要するに……わざと手掛かりをストレートに与えないことで、わたしが少ない手掛かりからどこまで推理をするか見たかった、ってこと?」
「そういうこと~」
ずっと見たかったものが見られて満足したのか、美紗は満面に笑みを湛えてわたしを横目に見る。まったく、憎たらしいくらいかわいい仕草をする奴だ。
結局、わたしは一から十まで、美紗の我がままに振り回されていたことになる。蓮華に切迫した危険はなかったからいいものの、美紗が裏で糸を引いていたと気づくまで、わたしは本気で蓮華のことを案じていたのだ。その杞憂すら美紗の掌の上だったと思うと、無性に腹が立ってくる。
とはいえ、素人芸のような推理でも、美紗はかっこいいと言ってくれる。美紗はたびたびわたしを名探偵だと揶揄するけど、その評価は本心でもあるのだろう。現実の人間が、事件の真相を推理で見事に言い当てる所なんて、そうそうお目にかかれるものじゃない。去年、美紗にとって刺激的で新鮮だったその体験が、名探偵としてのわたしへの期待に繋がって、今年のこの一件で、裏で策を弄するに至ったのだ。
そう思うと、美紗はただ純粋にわたしの活躍が見たかっただけで、それはわたし以上にわたしの能力に信を置いているわけであって……分不相応だとは分かっていても、悪い気はしない。だから、責める気にはなれない。
「はあ……なんだかなぁ」
「えっと、彩佳、怒ってる?」
「怒ってはいない。ただ、怒らなくて本当にいいのかとは思う」
「何それ、普通に怒られるより怖いんだけど」
「正直、わたしも美紗を騙して利用したから、責める筋合いはないんだよ。ただ、美紗がそんな理由でわたしを振り回したことは、業腹だと思ってる」
「ええ~っ! そんな、どうしたら許してくれるの? 土下座? 土下座しないと許してくれませんかお母さま!」
「誰がお母さまだ。あと土下座はしなくていい」
先走って土下座をしかねない勢いの美紗を止めるため、先に言っておいた。ここまで狼狽える美紗も新鮮で、もう少し見ていたい気持ちはあるが、さすがに哀れだからやめよう。それに、どうやって落とし前をつけるかは、もう決めている。
「そうだなぁ……次のデート、美紗が全部プランを立てて、わたしを楽しませてくれたら、許してあげよう」
「えっ! そんなんでいいの?」
「言っておくけど、わたしが満足できなかったら、許すのは持ち越しにするからね」
「分かった! 次のデートはわたしに全部任せといて! いやー、楽しみだなぁ。どこ回ろうかなぁ。水族館と遊園地は去年行ったし、ちょっと遠いけどテーマパークとかかな。でも彩佳ならブックカフェとか、あっ、プラネタリウムとかもいいかも。あとは……」
わたしを楽しませるのが目的のはずなのに、なぜか美紗の方が楽しそうだ。見るからに浮かれていて、今にもぴょんぴょんと飛び跳ねそうなくらいワクワクしている。まあ、わたしをあれほど理解している美紗が計画を立てるのだから、期待して損はないだろう。
……これでもう、美紗を許さない理由は無くなった。美紗の立案したデートがどんな結果に終わろうと、わたしは結局美紗を許すことになるだろう。
この提案には、美紗には言えない、ずるい考えが隠れている。ささやかではあるけど、また美紗を騙して利用した。これで完全におあいこだと思ったから、わたしは美紗を許すと決めたのだ。
わたしは未だに、美紗から向けられる好意にどう応えるか、決められないでいる。一緒に暮らすようになって、わたしは日増しに美紗を大切に想うようになっている。だけど、わたしの好意が、美紗のそれと同じとは言わなくとも、噛み合うものかどうかは、なかなか自信を持って断言できない。
菜摘が蓮華との間に起きたことを打ち明けた時、わたしはむしろ、蓮華の今の心境の方が分かってしまった。たとえ好感を抱いている相手だろうと、自分より強い感情を向けられたら、その感情の受け止め方は途端に分からなくなる。そして、相手に悪いと理解できていても、逃げて、考える時間がほしいと思うようになってしまう。
それでも蓮華は、一度は逃げたけれど、改めて菜摘と向き合う覚悟を決めた。とても立派で、後輩ながら尊敬に値する。わたしは一年かけても、まだその覚悟が固まらないのに。
だから常々思っていた。美紗の方から、わたしの気持ちを引き寄せてくれないか、と。
わたしが気持ちを決められないために、美紗はわたしに遠慮して、踏み込んだアプローチを試みない。でも美紗がどれほど、わたしとの関係を深めたいか、わたしはよく分かっていた。美紗が本気でわたしの心を奪おうとすれば、きっとわたしは簡単に、美紗の与える愛情に溺れてしまうだろう。
だけど、わたしが自分の気持ちを決められないのに、美紗の行動に全てを委ねるなんて、口が裂けても言えない。それは、わたしと美紗の関係を、美紗一人に決めさせる、つまり責任転嫁だ。こんなずるい考えを、美紗にはとても言えない。
―――ずるいなぁ、それ。
ついこの間、わたしの行動に対して、美紗が呟いたひと言が頭をよぎる。そう、わたしはずるいのだ。どうしようもないほどに。
こうやって焚きつければ、美紗はわたしを楽しませるために全力を傾け、いつかきっと、わたしを美紗に惚れさせてくれる。美紗なら、そうしてくれると信じている。そんなふうに考えてしまうくらい、わたしはずるい。
わたしの卑怯な目論見など露ほども知らない美紗は、無邪気にスマホで色々と調べながら、心底楽しそうにデートプランを練っている。その姿を見ているうちに、わたしの心の中で、濁流が渦を巻いているような感覚に襲われる。
美紗、わたしは本気で期待しているんだよ。いつか、そう遠くない未来、あるいはこの春が去る頃に、こんな臆病で最低な心が、美紗の手で綺麗に消えてしまうことを、本当に心から願っている。
ふと、美紗の朗らかな笑顔がわたしに向けられて、わたしは自然に口角が上がった。
その時は案外近いのだと、春の風が告げるように。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。去年の参加作品より大幅に長くなって、期間までに書き終わるか不安でしたが、何とか形にできてホッとしています。コンパクトにまとめる技量がほしい。
元日の能登半島地震で、被害を受けた地域の映像がテレビやネットで流れるのを見ていた時から、次の作品の題材にしたいと考えていました。でも、実際に被災地へ足を運ぶのは厳しいですし、それなのに被災地を描写するのは違うと考え、ならば、震災に見舞われながらも周囲から助けられて、大学に合格して東京に来た人が、故郷を想って東京で行動を起こしたことから、全てが始まるという筋書きにしようと考えたのです。被災された人たちも、支え合いながら懸命に頑張っているんですよ、離れた所にいてもできる事はあるよ、という事が伝わればいいと思っています。……ミステリにするために、それを事件の引き金にしてしまったのはスマンですが。
そして、去年の参加作品に続いて、今作でも彩佳が主人公の探偵役で、美紗が謎解きと私生活のパートナーとして登場しました。彩佳は面倒くさい性格で普段はドライだけど、本気で謎解きを始めたら無双するところが探偵役向きですし、美紗は単純なので動かしやすく、自分でもこの二人の活躍をもっと見たいと思う時があります。『春の推理2025』があれば、またこの二人を主人公にしたいですね。
では、またいつか。