その2
本日、百合の花が咲きます。大切にしないと、金的を潰されます。
そして事件の輪郭も徐々に明らかになっていきます。何があったのでしょうか。
それから二日後、わたしは大学の西側エリアの、学生がよく待ち合わせに使うという銅像のある広場に来ていた。普段の生活圏から離れていることもあって、そんな銅像や広場がある事など当然知らないわたしは、自分で指定した時刻のギリギリに到着した。松崎、日垣、犬山の三人は、わたしより先に到着して、さっそくいつものやり取りを始めていた。
要するに、松崎と犬山が睨み合いの喧嘩をして、日垣が生温かく見守っていたのだ。
「あんだとコラもっぺん言ってみろや!」
「何? もっぺん言わなきゃ分かんないくらいアホなわけ? いいよ。てめーの考えは所詮机上の空論、恥かく前に引っ込めろばーか」
「あんたこそひと言多いうえに言葉選びが下手くそなんだよ、そっちが引っ込めろ」
「わたしが言わなきゃ恥かいて終わるのがオチなんだからむしろ感謝してほしいくらいだけどねぇ。ありがとうのひと言も言えないの? 小学生でも言えるのに?」
「小学生の頃からありがとうなんて死んでも言わなさそうな奴に言われたくねーわ」
「あぁ? 変な濡れ衣着せんじゃねぇぞ。それとも自己紹介のつもりか?」
「ああん?」
「なんだよ?」
ゴンッ!
鼻先が当たりそうなくらい顔を接近させて睨み合う二人の脳天に、わたしの手刀が素早く振り下ろされた。さすがに放置するわけにいかないほどヒートアップしていたので、実力行使に出させてもらったよ。
二人は唸るように苦悶の声を漏らしながら、頭を両手で押さえてうずくまる。わたしは努めて静かな口調で、二人を叱った。
「二人とも、近所迷惑って言葉は知ってる?」
「「……すみませんでした」」
「雨洞先輩、このエリアの地図をプリントしてきました。目ぼしい所に丸を付けてます」
「……君は君でこの状況に慣れ過ぎ」
何事もなかったように印刷した地図を手渡してきた日垣に、わたしは呆れて言った。この子たち、出会ってまだ一か月も経っていないはずなのに、すでに熟練の漫才トリオみたいになっている……。
さて、日垣から受け取った地図には、女子学生向けの、家賃が抑え気味のアパートやマンションに印がつけられている。その数はざっと十五棟。大学の西側エリアに絞ってもこんなにあるとは、さすがは東京。
ただ、印のついた建物の数よりも、印の色の方がわたしは気になった。大きな道路を挟んで北側にある九棟には赤い印、南側にある六棟には青い印がついている。南北で印を色分けすることに、いったい何の意味があるのだろうか。
「ねえ、なんで印が二色に分かれてるの?」
「手分けして探すためですよ。同じ色の所だけ探すようにすれば、違うグループが同じ建物を何度も調べずにすむでしょう?」
「まあ、確かに……?」
蓮華の身に何が起きているか分からない以上、一刻も早く蓮華の住居を見つけ出したいから、二度手間はなるべく避けたい。色分けすることで、もう一方のグループが既に調べた場所を、また調べてしまうという余計な手間を省ける効果はあるだろう。
だけど……よく考えたらおかしい。印の色は、大きな道路を境目にして分けられている。この道路より向こうに行かないようにすれば、同じように二度手間を省けるはずだ。わざわざ色分けする必要なんてないだろうに。
そのことを日垣に確かめようと、地図に落としていた視線を上げると、なぜか後輩たち三人の姿が消えていた。
「え? ……どこ行った?」
きょろきょろと辺りを見回すと、広場が面している通り、つまりこのエリアを南北に分ける大きな道路の、向こう側に渡った三人の姿が見えた。どうやら歩行者用信号が青になったタイミングで、横断歩道を歩いて行ったらしい。その信号もすでに赤になっていて、わたしはしばらく三人の元へ行けそうにない。
ハッと気づく。三人がいるのは道路の南側で、南側の探すべき建物は六棟。一方わたしがいるのは北側で、探すべき建物は九棟……こっちの方が多い。
道路の向こうに渡った三人のうち、日垣と松崎が、わたしに向けて声を張った。
「せんぱーい! わたし達は南側を調べるので、先輩は北側をお願いしまーす!」
「全部空振りだったら、またこの広場に戻ってきてくださーい!」
「ちょっと待って! 四人で手分けするなら普通は二人と二人に分かれるんじゃない? なんでそっちは探す数少ないのに三人でやるのよ!」
「先輩はサークルの活動でこういうの慣れていると思いますけど、うちらはそうじゃないのでー! というかぶっちゃけ歩き回るのがめんど(バシッ)ぐはっ」
「ぶっちゃけるな馬鹿」
腹の内をさらっとぶっちゃけようとした松崎の後頭部を、犬山はスナップを利かせた平手でひっぱたいた。……だから、遅いって。
要するにあの三人、足を使った調査をなるべく早く終わらせたいから、探すアパートの数を減らそうとしていたのだ。全部同じ色の印だと、わたしが先に半分に分けるかもしれないから、先んじて色分けして、多い方をわたしに押しつけたわけだ。大きな道路を挟んで分けたと言えば、一応納得してくれるだろうと見込んで……結果的には騙し通せなかったが。
「ではよろしくお願いしまーす!」
「行ってきまーす!」
わたしが道路を横断できないのをいいことに、松崎と日垣と犬山は、駆け足でその場を離れていった。歩行者用信号のボタンを今押したところで、青になった時には、三人は追いつけないほど遠くに逃げているだろう。
頬筋が引きつるのを感じながら、わたしは握り拳をわなわなと震わせる。
「あいつらいい度胸してんじゃない……調査が終わったら覚えてなさいよ」
そう、あの三人をどうにかするのは、調査が終わってからだ。優先順位が高いのは、蓮華の居場所を探すことだし。それに、明らかに面倒くさがっていても、十五ある建物のうち六棟も調べてくれるのだから、まだいい方だと思うことにしよう。
とりあえず広場から近い所のアパートから当たってみよう。全部の建物を効率よく回って行くルートは……地図を見てもわたしには分からないから、適当に近い所を選んで、弧を描くように巡るしかない。こういうのって、アドベンチャーレースの選手とかが得意そうだよな。よく知らないけど。
一軒目は少し古い三階建てのアパートで、そのせいかほとんどの部屋の前に名字だけの表札がかかっている。たぶんないとは思いつつ念のため調べたが、川端と書かれた表札はどの階にもなかった。そして表札のない部屋は、全て入居者がいなかった。ここは外れだ。
二軒目と三軒目はともに五階建てのマンションで、エントランスのすぐそばに管理人室があった。事情を話して、川端という最近入居したばかりの女子学生がいないか尋ねたが、どちらも、今年になって入居した学生は男子だけだと答えた。ここも外れだ。
四軒目と五軒目でも同じように尋ねてみると、今年入居した学生の中に女子も何人かいたが、その中に川端という名前の子はいないという。ここも違う。
講義が終わってすぐに調査を始めたが、半分くらい調べただけなのに、もう日が沈んでしまっている。あまり帰りが遅くなってもいけないし、次の建物で最後にしようと決めた。
「六軒目……同じくらいのペースなら、松崎さんたちもそろそろ調査が終わる頃か。未だに連絡がないってことは、向こうでも見つかっていないのかな」
手元のスマホを見下ろして、わたしは独り言つ。見つかったら連絡するとは言われていないが、待ち合わせのために連絡先は交換しているし、見つかってわたしに知らせないままというのは考えづらい。……忘れているだけかもしれないけど。
まあ、次の建物の調査が終わったら、わたしから三人に連絡すればいいだけだ。そう思いながら六軒目のマンションに向かっていく。
「川端さん? ああ、確かに先月、うちに引っ越してきましたよ」
「えっ……本当に?」
五回連続で空振りだったから、今回もどうせ外れだろうと思いつつ、管理人のおじいさんに尋ねたら、こんな答えが返ってきた。まさか六軒目にして当たりが来るとは思わなくて、ちょっと狼狽えてしまった。
いや、まだ分からない。名字が同じだけど別人という可能性もある。わたしは松崎たちから送ってもらった、蓮華の写った写真をスマホに表示して、管理人に見せる。
「それって、この子で間違いありませんか」
「ああ、この子だよ」
「よっし!」
当たりだと確信できたわたしは、管理人の目の前だというのに大声でガッツポーズした。
「どうしたんだい、お嬢さん」
「ああ、いえ……この女の子と連絡がつかなくて、探していたんです。わたし、大学のサークルの先輩でして」
「えっ、連絡つかないのかい? そういえばここ数日、郵便受けに郵便物が溜まっていたみたいだけど……」
「郵便物が?」
「ああ。そこの風除室の中に設置されているだろう?」
今しがたわたしも通ってきたエントランスの風除室を、管理人が指差した。ちなみに管理人室の応対用の窓は、風除室を通り抜けた先のロビーにある。
郵便受けは風除室の壁に設置されていて、どの箱の蓋にも鍵穴がついている。ロッカーと同じで、鍵を使わないと蓋を開けられない仕様らしい。郵便受けの鍵は部屋の鍵と一緒に入居者に渡されて、予備は管理人が持っているという。
「昨日気づいて、川端さんの部屋まで行って呼びかけたんだけど、返事がなくてね……」
「じゃあ、郵便受けの中を確認したんですか?」
「いやぁ、まさか。入居者の許しもなしに開けられないよ。一昨日だったかな、配達員さんが郵便受けに入れた封筒が、全部入らずに受け口からはみ出ていたんだよ。あのままじゃ鍵付きの蓋にした意味がないと思って、その封筒を押し込もうとしたんだ」
「確かに、はみ出ていたら、蓋を開けなくても郵便物が取れますしね……」
「だけどそうしたら、郵便受けの中に他にも郵便物がたくさん入っていたみたいで、なかなか封筒を押し込められなかったんだ」
「なるほど。それが蓮華ちゃんの部屋番号の郵便受けだったと……よく把握していましたね。たくさんあるうえに、あそこには部屋番号しか書かれていないのに」
「そりゃあ、最近入ったばかりの学生さんだからね。しかも今どきしっかりしていて、ご挨拶に地元のお土産もくれたんだよ。何だったかな、あれは……墨で書いた顔みたいなものがラベルにあって、結構クセの強い匂いがするお醤油だったよ」
墨で書いた顔みたいなものって……そんなものがなぜ醤油のラベルに書かれているというのだろう。蓮華の地元にはなかなか個性的な名産品があるようだ。
そして蓮華は、引っ越しの挨拶もきちんとするほど、真面目でしっかりした子みたいだ。少なくともわたしは去年した覚えがない。あったら、あんな事件に巻き込まれてはいなかっただろう。それくらい礼儀を弁えていた蓮華が、誰にも何も言わずに、ずっと部屋を留守にしているというのは、どうも頷けない話だ。
やはり何か、よからぬ事態に巻き込まれているのだろうか。じっとしていても不安が増すばかりだ。不安を解消するには、可能な限り手掛かりを集めるしかない。
「川端さんの部屋の番号、教えていただけませんか」
「それはいいけど……行ってもたぶん留守だと思うよ?」
「部屋の前に何か、手掛かりがあるかもしれませんし、もしかしたらまだ部屋の中にいて、身動きが取れない状態なのかもしれませんよ」
「本当にそうだったらまずいけど……じゃあ見てきてくれるかい? ワシはちょっといま手が離せなくてね」
そう言っている管理人のおじいさんの手には、赤ペンと競馬新聞。何から手を離せないのか、聞くまでもなかった。蓮華が部屋の中で身動きが取れない状態なのはまずい、なんて言っていても、危機感など持っていないのが一目で分かる。
こんな管理人で大丈夫か、とは思ったが、あのおじいさんを責め立てたところで、今抱えている問題はどうにもならない。管理人から部屋番号を聞いたわたしは、エレベーターでその部屋のある階に向かった。わたしの住まいがある古いマンションは、エレベーターの動きがとても遅いから、こういう普通の速さのエレベーターが羨ましい。
蓮華の部屋があるのは、七階建てのマンションの五階、503号室だ。エレベーターを降りて、右手に扉の並んだ壁、左手に外の景色が広がる廊下に出ると、どこかの部屋の呼び鈴を苛立たし気に鳴らしている男性がいた。
どこかの部屋というか、そこが503号室、つまり蓮華の部屋だった。あのスーツ姿の男性も蓮華に用があるのだろうか。蓮華の行方について何か知っているかもしれないと思い、わたしは声をかけた。
「あのー……」
「ん?」男性が振り向く。
「503号室の川端さんに何かご用ですか?」
「あんた、彼女の知り合いか?」
質問に質問で返された。こっちの質問に答えることを優先してよ、なんて言い返すつもりはない。言い争いになってこじれても面倒だし。
「大学のサークルの先輩で、雨洞といいます」
「もしかして、川端蓮華の居場所を知ってるのか?」
「いえ、わたしも連絡がつかなくて、探しているところですが……」
「くそっ、手掛かりなしか。どこ行ったんだ、あいつ……!」
どうやらこの男性も蓮華を探しているみたいだ。知り合いであるわたしなら居場所を知っているかもしれないと思ったが、当てが外れて苛立っているというところか。つまりこの人も蓮華の居場所は知らないということだ。
さて、何のためにこの部屋の前まで来たかといえば、蓮華を探す手掛かりを見つけるためだ。この男性は呼び鈴を鳴らして、ずっとドアの前にいるから、呼び鈴の音に反応はないしドアも施錠されている。管理人のおじいさんの協力なしで、部屋の中に入るのは無理だろう。ドアの周辺もひと通りチェックしてはみたが、妙なところは見当たらない。
蓮華の部屋まで来て収穫なしか……とはいえ、部屋にいないのは確かみたいだから、やはり失踪の可能性が極めて高い。いよいよ本格的に、警察に相談することも考えるべきか。
などと思っていると、男性がわたしに尋ねてきた。
「なあ、あんた。川端蓮華から何か受け取っていないか」
「受け取る?」
「何でもいい。メモとかUSBとか、メモリーカードとか……そうでなくても、何か伝言とか残していなかったか?」
なんでそんなことを訊くのだろう……もちろん、彼が言うような、記憶媒体の類いを蓮華から受け取った記憶は一切ない。伝言といえば、菜摘のスマホに届いたLINEのメッセージくらいだ。この男性にそのことを話したら、メッセージの意図も分かるだろうか。
……いや、どうも怪しい。この男性がもし、蓮華の失踪に関係しているとしたら、下手に話すのは悪手かもしれない。まずは相手の出方を窺ってみるか。
「いえ、特には……」
「本当だろうな?」
男性はわたしに一歩詰め寄って、なおもしつこく尋ねてくる。この人が探しているのは蓮華じゃなく、彼女が持っていると目される何らかの記憶媒体なのか。それが蓮華の手元にあると考える理由が彼にあるなら、わたし以上に蓮華の事情を知っているとみるべきだ。
わたしの知らない範囲で、蓮華と接触している男性……思いつくのは一人しかいない。わたしは思い切って、自分の予想を本人にぶつけることにした。
「あの、あなたはもしかして……木島拓也さん、ですか?」
松崎が目撃した、蓮華の失踪前に彼女のスマホへメッセージを送った、素性不明の男性の名前だ。わたしの口から出たその名前に、スーツの男性はてき面に反応した。引きつらせるように顔を歪め、両目を大きく見開いた。
その反応は予想外だ……驚かれるとは思ったが、こんなあからさまに嫌悪感を示されるとは思わなかった。動揺しているわたしに、男性は怒鳴りながら迫ってくる。
「おいあんた、どこでその名前を!」
「いや、あの……」
「答えろ! どこでその名前を聞いた! やっぱり川端蓮華から何か聞いたのか! 何を知ってるんだ、あんたは!」
左右の肩を掴まれ、わたしは男性に力ずくで揺さぶられている。なぜこの男性が怒り、というより焦っているのか、考えたくても頭が上手く回らない。
大声でまくし立てるように質問攻めをしてくる男性の姿に、わたしは言いようのない恐怖を抱き始めていた。口元が震えて、上手く声が出せない。抵抗してその場を離れたくても、手足を思ったように動かせない。
一年前の、あの事件で……植えつけられた恐怖心は未だに根強くて、嫌な事ばかりを思い出させてしまう。
男性の質問攻めはなおも続き、わたしは声も出せず、されるがままに揺さぶられている。その動きがようやく収まったのは、下の方で車の止まる音がしたときだった。わたしも男性もその音でようやく我に返り、気になって欄干から顔だけ出して下を覗いた。
一台の黒塗りのセダンが、このマンションの前に斜め向きで入って停止し、運転席と助手席からスーツの男性が二人出てきた。直前までややスピードが出ていたようで、停止した時にタイヤが地面に擦れた音は、五階にいるわたし達の耳にも届くほど響いていた。
妙だ、と思った。その車のすぐ向こうには、駐車禁止の標識が立っている。そうでなくても、裏手に駐車場のあるこのマンションの表側に、あんな無造作に停めるなんて、普通はしないはずだ。
「なんなの、あの車……」
「……ちっ!」
怪しげなセダンと出てきた人たちを見た男性は、なぜか舌打ちして踵を返し、エレベーターのある方とは反対側に向かって走り出した。廊下の端にある、閉ざされていたドアを開いて、その向こうの非常階段を駆け下りていく。
わたしの判断は早かった。走り去った男性を追って、非常階段へ向かう。
あの様子は明らかに、黒塗りのセダンの人たちを見て、見つかる前にその場から逃げ出したのだ。表にいる二人が何者なのかは知らないが、あの男性はその二人に何らかの不義理があると見ていい。そのことが、蓮華の失踪と無関係だと、どうして言えるだろうか。ならばこのまま、あの男性を逃がすわけにはいかない。
しかし、いくらサークルの活動で歩いている時間が多くても、足腰の鍛え方や動きは大人の男に及ばない。転んで怪我しない程度に、必死に階段を下って追いかけるが、じわじわと男性との距離は離されていく。
「ちょっと! 待ってください!」
追いかけながら男性を呼び止めようとしたけど、相手が足を止める気配はない。逃げているのに、待てと言われて立ち止まるわけがないのは分かるけど。
二階に到達して、ちょっと足がもつれて転びそうになった直後、階下で重い扉の開く音がした。男性はもう外に出たらしい。わたしも急いで残りの階段を駆け下りて、開きっぱなしの扉を見つけ、ためらいなく飛び込んで外に出た。
当たり前だけど非常階段は避難用だから、その出口は道路のある表側にある。さっき見た黒塗りのセダンも、視界の端にあった。だけどすでに男性の姿は見えなくなっていた。それでも走り去る音がかすかに聞こえたので、その方向へと再び走り出す。背後からも走って近づいてくる足音がしているが、セダンの男たちだろうか?
どうでもいい。とにかく今は、逃げた男を追いかけないと。
……などと考えながら必死に走っていたら、後ろから何者かに体を掴まれ、勢い余って首が前のめりにぐにゃりと曲がった。
「ぐえ」
「大人しくしろ!」
「えっ、ちょっ、なんで!?」
わたしの肩や腕を掴んで引き留めたのは、セダンから降りてきた二人組だった。先に逃げた男性の方には目もくれず、わたしだけを拘束しようとしている。
よく分からないが、こんな所で足止めされては困る。わたしは必死に身をよじって、男たちの手を振り払おうとした。
「ちょっと、放してくだ、さい!」
かなり無理やりだけど、男たちを突き飛ばすくらいの勢いで振り払ったら、ようやく自由の身になれた。この男たちが唖然としている隙に、追跡を続けようと思った。
が、手首の冷たい感触と、ガチャリという金属音で、それは叶わなくなった。
「……十七時二十七分、公務執行妨害で、現行犯逮捕する」
「え?」
公務執行妨害。現行犯逮捕。聞き間違いでなければ、この二人はさっきそう言った。そしてわたしの左の手首にかけられたのは、ドラマでもよく見る金属製の手枷、要するに手錠だった。
「…………えぇー?」
この二人組の男たちが何者なのかようやく理解したわたしは、驚きのあまり、開いた口が塞がらなかった。
雨洞彩佳、十九歳。人生で二度目の、警察へのご厄介であった。
* * *
午後七時を過ぎて、辺りもとっぷりと暮れた頃、小園美沙はこの地域を管轄する警察署の、表門に体を寄りかからせて立っていた。誰かがここに来るのを待つように、星の見えない夜空を退屈そうに見上げながら。
誰かっていうのは……わたしなんだけどね。
「あっ、彩佳ぁー」
警察署から出てきたわたしの姿を見つけて、美紗は呼びかけながら駆け寄ってくる。こんな遅い時刻でも迎えに来てくれたことだけでも、嬉しくて泣きそうになるけど、わたしはすでに別のことでしゃくり上げていた。
「うっ、ううっ、美紗ぁ……」
「おー、よしよし。大変だったねぇ、辛かったねぇ」
本当に大変な目に遭って泣きじゃくるわたしを、美紗はそっと抱きしめて、あやすように頭を撫でてくれた。うん、大変だったよ、お母さん……じゃなかった。
わたしが少し落ち着いたのを見て取ったのか、美紗はわたしから少し体を離して、それでも肩に優しく手を添えながら、わたしに向き合った。
「それにしても彩佳、この状況ってめっちゃデジャブなんだけど。なんか一年前にもこんなことなかった?」
「あったけどぉ……手錠かけられたのは人生で初めてだよぉ」
「うわあ、一生に一度だって経験したくないやつ」
「公務執行妨害って言われたけどさぁ、あの人たちが警察官だなんて知らなかったし、警察から逃げたかったわけじゃなかったし……そもそもよく知らない大の男に、訳も分からずいきなり体を掴まれたら、抵抗くらいするでしょ普通」
「……体掴まれたの?」
「うん、肩と二の腕を」
すると美紗は、見たことないくらい柔和な笑みを浮かべた。
「よし。今から彩佳にセクハラしたおまわりさんたちの金的潰してくるから、どこにいるか教えて?」
「……上司からの厳重注意くらいで勘弁してあげてよ」
美紗がわたしの身を心底案じてくれるのは嬉しいけど、そこまで望んでいるわけじゃない。というか、やったら美紗が暴行罪で捕まるから、絶対にやめてほしい。
「それで、何があったの? 今日は蓮華ちゃんの住んでる所を探すって言ってたけど、いきなり警察に拘束されたってLINEが来て、びっくりしたんだよ」
「うん、わたしも正直びっくりしたけど……さっき、釈放される前に軽く事情を聞かせてくれたんだ。同じ部署の同僚だっていう、女性のおまわりさんから」
「そっか、同じ女性だから気に病んで、何も説明せずにはいられなかったんだね」
「捜査に支障のない範囲で、他言無用という条件付きでね」
「あれ? それじゃあわたしはその事情を聞けないの?」
「美紗には話すよ。軽はずみに他人に漏らすことはしないって知ってるし、ちゃんと説明しないと心配かけちゃうから」
偽らざる本心をそのまま告げると、美紗は目を見開いて表情を固まらせ、ほんのりと頬を赤らめた。……驚きながら照れている、のか? まあ、美紗を人間として深く信頼しているってことを、普段から本人に伝えているわけでもないからなぁ。
すると、美紗はその固まった表情のまま、わたしの肩を両手で掴んでぐっと引き寄せ、キスをした。
……ん? キスを、した?
「んっ……ぷはっ、ちょっ、美紗!」
一瞬、思考がフリーズして動きが遅れたけど、我に返ってすぐにわたしは美紗を引き離した。突き放しはせず、美紗の肩を掴んだままで。その美紗自身も、自分の行動にかなり驚いているのか、さっきより赤みの増した顔をプルプルと震わせている。
「なんで今キスした!」
「ごめん……嬉しすぎて、歯止めが吹っ飛んだ」
「利かないどころか吹っ飛んだの!?」
美紗がわたしに向ける好意の大きさは知っていたけど、ここまでとは思わなかった。警察に捕まったと知って動揺して、心が不安定になっていたのもあるのだろう。
しかし、ここは警察署のド真ん前で、夜とはいえ出入りする警察官はいるし、出入り口の付近には見張りで立っている制服警官もいる。こんな所でキスなんて恥ずかしすぎるし、しかも女同士、奇異の視線を向けられても不思議じゃない。わたしは恐る恐る、見張りの警官が立っている方に目を向けた。
あ、目を背けた。見なかったフリをしてくれたようで、ありがたい。同じくらい居たたまれないけど。
「とにかく、続きは帰ってから。ここに留まっていても迷惑かかるだけだし」
「そ、そうだね……」
完全にやらかしてしまったわたしと美紗は、逃げるように警察署を後にした。警察署の前でキスをする破廉恥な二人の女子大生として、噂にならないことを祈りながら……。
* * *
「ただいまー」
「た、ただいま……」
誰もいないと分かっていたけど、美紗もわたしも真っ暗な部屋に向かって呼びかけた。なんとなくこういう挨拶は、相手がいなくても習慣化するものなのだ。
ここは美紗が住んでいるマンションの一室。美紗もわたしと同様、地方から東京に来て一人暮らしをしている。まあ、美紗は九州出身でわたしよりもさらに遠方から来ているし、志の高さでもわたしは全く美紗に及ばないが。
とはいえ、ここしばらくは美紗もわたしも、一人暮らしとは言えない状況にある。
「夕飯はどうする、美紗?」
「今日は彩佳の帰りが遅くなると思って、バイトからの帰りで買ってきた。コンロであっためるおうどんと、惣菜のコロッケ」
「うわぁ、助かる~」
「まあ、帰ってきてすぐにさっきのLINEを受け取ったから、袋から出さずにテーブルに置きっぱなしだけどね」
美紗の言うとおり、二人分のうどんとコロッケの入った布バッグが、散らかったテーブルの上にちょこんと載っていた。美紗はそれらをバッグから出して、うどんだけを重ねて持って、コンロへと向かった。
「彩佳は座ってて。歩き回っただろうし、警察にも行ったりして大変だったでしょ」
「それをいうなら美紗だって、バイトで大変だったんじゃ……」
「わたしはそんなに疲れてないからヘーキヘーキ。テレビ見ながら待っててよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
テーブルのそばに二つある座椅子クッションの一つに腰かけて、わたしはテレビのスイッチを入れた。よく分からんバラエティ番組が映し出された。帰宅が遅くなったせいで、いつも見ているニュース番組も終わっている。さてどうするかな。
……この寛ぎ方を見たらお分かりだと思うが、わたしはもう何度もこの部屋に来て泊まっていて、すっかりここに馴染んでいる。一年前、わたしが一人暮らしを始めた部屋の隣で事件が起き、わたしが容疑者として疑われたことがあり、その時に初めて美紗の部屋に泊まって以来、何度となくここに来ている。幸い、事件はほどなくして解決し、わたしの住むマンションに平穏は戻ったが、それでもわたしは自分の部屋に戻らず、頻繁に美紗の部屋に泊まるようになり、しかもその頻度は日を追うごとに上がっていた。
今ではほぼ毎日美紗の部屋で寝泊まりしていて、着替えも大学の教材も最低限の生活道具も、全部こっちに持ってきている。もはやこれは、半同棲といってもいいレベルだ。美紗は後輩たちに、入学以来ほぼ毎日会っていると言っていたが、こういう意味である。
最近は自分の部屋に戻る用事もなくなって、無人のままになっているが、二年間の賃貸契約はまだ切れていないし、電気代とかの光熱費は払い続けている状態だ。このままではよくないので、契約更新の時期が来たら、本格的に美紗と一緒に住むことを考えるつもりでいる。友達同士のルームシェアなんて今どき珍しくないし、その方が二人とも負担が軽くなる。何よりわたしも内心では、美紗と一緒に住むことに魅力を感じている。
……わたしも大概、美紗のことが好きだなぁ。
「できたよー。ご飯にしよー」
「うん、食べよう食べよー」
鍋敷きを二枚、テーブルに置いて、美紗がその上に熱々のうどんを載せる。パックのコロッケを一個ずつうどんの中に添えれば、ささやかな夕飯のでき上がりだ。
テレビから流れてくるよく分からないバラエティ番組をBGMに、美紗とおしゃべりしながらちびちびとうどんを食す。こういう平凡な夜の時間が、わたしのお気に入りだ。一緒に住むようになれば、こんな生活が本当に、当たり前になるのだな……。
「……って、こんなのほほんとしてる場合じゃなかった!」
「ん? 何かあったっけ」
「今日起きたことを美紗に話すってやつだよ! 帰ってから話すって言ったじゃない」
「彩佳が無事だと分かったんだし、明日でもよくない?」
そう言って興味なさそうに美紗はずるずるとうどんをすする。この子、わたし以外への関心を全部捨ててしまったのか……?
「悠長にしていられるような話じゃないんだよ。ことは蓮華ちゃんの安否に関わるし」
「……どういうこと?」
どうやら全部を捨てたわけじゃないらしい。蓮華の名前が出ると、美紗は箸を止めて、真剣そうな顔をわたしに向けた。
まずわたしは、蓮華の住んでいる所を探し始めてから、警察に取り押さえられるまでの一部始終を話した。蓮華の部屋の前に来ていた、スーツの男性のことも。
「なるほど……よし、今度その男に会ったら、迷わず金的を潰してやr」
「だからそこまでしなくていいって」
「そう? 彩佳がいうならいいけど……それで、なんでそのマンションに警察が来ていて、彩佳が間違って捕まることになったわけ?」
「うん、警察の人たちは最初、逃げたスーツの男を追うつもりだったんだけど、わたしをその男の仲間だと思い込んで、わたしの確保を優先したんだって」
「仲間って……彩佳はむしろその男を追いかけようとしていたんでしょ?」
「そうなんだけど、刑事さんたちは最初、非常階段から急いで出てきたスーツの男を一瞬だけ見て、追跡対象だと気づいて追いかけ始めて、その直後にわたしが現れたから、一緒に逃げたけど置いていかれた仲間だと思ったそうだよ」
「そんな勘違い、することある?」
「その前に大きな思い違いをしていたせいかな。あの刑事さんたち、わたしが蓮華ちゃんだと思っていたみたい。蓮華ちゃんの人相をきちんと把握する前に住所を訪ねたから、警察が来た直後にあのマンションから非常階段で慌てて出てきた女の子を、蓮華ちゃんだと思い込んだんだって」
ちなみにその勘違いは、警察署でわたしが学生証を見せたらすぐに気づいてもらえた。だけどその前に管理人から、蓮華の先輩が先に来ていると聞いていれば、そんな勘違いをすることもなかったはずなのだが。あの二人の刑事は、管理人からどこまで聞いていたのだろうか……あるいは、管理人がその説明をする前に、追跡しようと飛び出したのか。
刑事たちの失態はさておき、こんな話を聞けば、どうして悠長にしていられないのか、美紗も気づいたことだろう。実際に美紗は、険しい表情で口元に手を当てている。
「ねえ、彩佳……その話が確かなら、スーツの男は警察に追われるようなことをしていて、蓮華ちゃんはそいつの仲間だと見なされている、って事になるよね。警察はいったい、どんな事件を調べていたの?」
当然の疑問だ。警察が現在進行形で追っている事件に、蓮華が関わっている可能性があるとなれば、聞かずにはいられない。わたしだってそうだ。
ここから先を話すのはかなり気が引けるけど、やめるわけにはいかない。重くなった口を開いて、わたしは美紗に告げた。
「……組織的な、詐欺事件だって」
美紗の口から、ひぅ、という音がかすかに聞こえた。
しばらく、わたしも美紗も黙ってしまって、部屋の中にはテレビの騒がしい音だけが響き渡っていた。
わたしに事情を話してくれた女性警察官の話では、その組織は二年前から活動を始めているらしく、振り込め詐欺を始め、架空請求、カード詐欺、オンラインセミナーなど、およそ詐欺と名のつく犯罪ほぼ全般に手を染めているという。拠点は恐らく東京のどこかだと目されているが、その規模も実態も把握しきれておらず、他の詐欺事件と十把一絡げにして警戒を呼び掛けて、事前に防ぐ努力をするのが精一杯という状況らしい。
その組織が絡んでいる詐欺事件は、この二年間でいくつか立件されているが、その大多数で、逮捕されたのは下っ端の実行役だけで、計画を立案して指示を送った組織の幹部は、偽名ばかりが浮上して素性が全く掴めていない。下っ端の実行役というのも、ネットで募っただけのほぼ無関係な若者なので、逮捕したとしてもトカゲの尻尾に過ぎないという。
「学生とかがネット上で見かけた、高額報酬の募集につられて連絡して、詐欺の片棒を担がれるパターンが多いんだって。途中で気づいて抜けようとしても、応募した時に送った個人情報をネタに脅されて、やむを得ず詐欺に関わってしまうこともあるとか」
「いわゆる闇バイトってやつか……つまり警察は、蓮華ちゃんがその闇バイトに手を出してしまったと、そう見ているわけ?」
「そうみたい」
「ちょっと信じらんないな……確かに蓮華ちゃん、まだ東京に慣れている感じじゃなかったし、闇バイトなんてものがあるって知らない可能性はあるけど、高額報酬につられて犯罪に手を染めるような子じゃないと思うけど」
わたしも、蓮華とはさほど付き合いがあるわけじゃないが、彼女への人物評は美紗と同じだと思っている。ただ、現実として蓮華が謎の失踪を遂げている以上、何らかのトラブルに巻き込まれた可能性は高いし、そのトラブルが犯罪絡みだとすれば、関わっているのはその詐欺組織以外に考えにくい。だからこそ、蓮華が失踪しているという今の状況は、蓮華に身の危険が迫っている可能性を示唆していると言えるのだ。
とはいえ、本当に警察の見立て通り、蓮華が闇バイトとして詐欺に関わっていたのか、わたしには判断がつかない。進行中の捜査に関わることなので、その女性警察官も多くを話してはくれなかった。ただ、警察が蓮華の存在に目をつけた経緯は教えてくれた。
「先週、その組織の幹部に指示されて動いていた受け子の一人を、現行犯で捕まえたそうなんだけど、その人が現場に行く前日に、蓮華ちゃんと電話で連絡を取り合っていたみたいで、その履歴が残っていたんだって」
「詐欺を働く前日に連絡を取っていたくらいで、詐欺に関わっていたっていうの? ちょっと乱暴じゃない?」
「もちろんただ連絡を取っていただけじゃなくて、スマホの電話帳にも蓮華ちゃんの連絡先が登録されていて、一緒にボランティアで災害募金活動に参加していたことも確認されているって。それに、その受け子がターゲットから受け取った小切手を、幹部の一人に預けようとしたところを、警察に現行犯で捕まったそうなんだけど、その場所が蒲之原ターミナルの六番バス停近くの電話ボックス前で、時刻がお昼の11時半頃だったって」
「それって……!」
美紗の声が少し上擦った。そう、警察が受け子を逮捕したその現場と時刻は、松崎が目撃した、蓮華のスマホに届いたLINEのメッセージに書かれていた内容と一致している。松崎が見たのはメッセージの最初だけだが、この一致は、とても偶然とは思えない。
わたしも女性警察官から、受け子が逮捕された場所を聞いて驚き、まさかと思って時刻を聞いたらそれも一致していたので、背筋が震えたものだ。
「どうやらその受け子は、不動産投資詐欺のターゲットから小切手を受け取った後、指定されたその場所で幹部の一人に手渡すよう指示されたみたい。平日の昼間なら大勢の人に紛れて印象に残りにくいし、封筒に入れて渡すだけなら不審には見られないから……」
「つまりメッセージにあった“受け取り”は、連絡を受けた側じゃなく、連絡した側が小切手を受け取るよ、という意味だったわけか……でも待って。その連絡が来たのは蓮華ちゃんのスマホであって、その受け子ではないんだよね」
「たぶん、その受け子と蓮華ちゃんが行動を共にしていた……つまり共犯者だと考えているんだよ。実際、後で警察が被害者の家を訪ねたら、小切手を渡した相手は若い男女二人だったと証言したらしいし」
「あっ、その捕まった受け子って、男の子だったんだ」
そういえば、受け子の性別までは話していなかったな。蓮華と連絡先を交換するほど親しい人物なら、同性だと思う方が自然かもしれない。
「つまり二人の受け子のうち、女の子の方が蓮華ちゃんだってこと?」
「少なくとも警察はそう見ているみたい」
「うぅむ……」渋面でしばし考えてから、美紗は顔を上げる。「待って、おかしくない? 警察はなんで、蓮華ちゃんのスマホに同じ文面のメッセージが来たことを突き止めているの? 本人がどこにいるか分かっていないのに……」
おっと、しまった。今の言い方では誤解を招いてしまう。わたしは慌てて訂正した。
「あ、ごめん、説明が足りなかったね。警察は蓮華ちゃんのスマホに届いたメッセージのことは知らないと思う」
「え、そうなの?」
「受け子が逮捕された場所と時刻が、メッセージの内容と一致していることは、わたしが警察の人から聞いて初めて分かったことだから……まあ、黙っているわけにもいかないから、メッセージのことは警察に話したけど、それより前に突き止めてはいないと思う」
「話しちゃったんだ……ますます蓮華ちゃんが疑われるかもしれないのに」
「疑われるのが嫌で黙っても、後でさらに状況を悪くするだけだからね。そういうの、ミステリ系の漫画やドラマでもよく見るから」
「うーん、それもまた教訓か……」
美紗は苦い顔で腕を組んで唸った。なんとなく、美紗ならあまり後先考えず、身近な人にとって都合の悪いことは、警察に隠しそうな気がする。
「じゃあ、警察が蓮華ちゃんを疑った理由は別にあったってこと?」
「そうだね。被害者から小切手を受け取ったのが若い男女の二人組で、男の子の方が例の受け子だから、もう一人、女の子の共犯者がいることは分かっていたんだよ。それが誰なのか、受け子を取り調べて聞いたけど、受け子は怯えているのか頑なに口を閉ざしているって」
「怯えている?」
「闇バイトで受け子になった人の大多数がそうだけど、お金やカードを受け取るだけなら罪に問われない、と言いくるめられて、軽い気持ちで手を染めたみたい。実際は受け子も同じように詐欺罪や窃盗罪に問われることが多いから、その事実を警察に告げられて、ようやく事の重大さに気づき、同じように手を染めた共犯者も、警察に追われることになると危惧したとしたら……」
「警察から追われないように、素性を隠そうとしているってこと?」
「少なくとも警察はそう見てる。で、そうまでして守りたいほどだから、その共犯者はよほど親しい人に違いない。となれば、直前に電話で連絡を取り合っていて、番号も登録されている蓮華ちゃんが、最も怪しいってことになる。まあ現段階では、容疑者の一人って扱いみたいだけど」
「うーん……なるほど、確かにその状況じゃ、蓮華ちゃんを疑っても無理はないかも。だからってわたしは信じたくないけどさ!」
そう言って美紗は苛立たし気にコロッケにかぶりついた。うどんの汁を吸ってふにゃふにゃになっていたのか、小気味よいサクッとした音はしなかったが。
「衣が湿気ってる……ねえ、少し気になったんだけどさ」
「何が?」
「その受け子は、幹部に小切手を渡したところで、現行犯逮捕されたんだよね。だったらその幹部も、一緒に捕まったのかな」
「あー、わたしもそこは気になったから、教えてくれた警察の人に聞いたんだ。残念ながら幹部の人は寸前で逃げられたみたい。さすがに犯罪組織の幹部だけあって、警察の動きには敏感みたいで、警察が接近したことに寸前まで気づかなかった受け子と違って、すぐに察して逃げ出したようで……さらに残念なことに、小切手はすでにその幹部の手の中」
「あっちゃあ……」美紗は目を瞑って天を仰いだ。「幹部を逃したうえに被害を食い止めることもできなかったとは、とんだ失態だねぇ。そのうえ容疑者の人相の確認を怠って、そのせいで誤認逮捕までやらかして、失態に次ぐ失態。まいったねぇ、これは」
「……思いっきり顔が笑ってるよ、美紗」
わたしを苦しめて怖がらせた警察が、失態を重ねていて、恐らく相応の処分は免れない状況だと知って、美紗は「ざまあみやがれ」とでも言いたそうに笑っていた。人の失態を笑うのはよろしくないが、これで美紗自身が報復を考えずに済むなら、まだマシなのかもしれない。
「ちなみに、蓮華ちゃんの部屋の前に来ていたスーツの男が、その幹部ね」
「マジか」
「蒲之原ターミナルで捕まえ損ねた時、刑事さんたちは顔と背格好を覚えていたようでね、だからマンションで一瞬だけ見かけた時、すぐにその幹部の人だと気づいたみたい」
「なるほど、汚名返上のために今度こそ捕まえようとしたけど、逃げ遅れていた彩佳の方が捕まえやすそうだと思って、そっちを優先したわけか。幹部に同行している仲間を捕まえるだけでも手柄になると思ったけど、実際は大きな勘違い……ざまぁ」
「あーあ、言っちゃったよ」
ついに美紗は、嘲るような表情で嘲る言葉を漏らした。美紗って、一度怒りを覚えた相手に対して、結構容赦なく侮蔑の言葉を吐くところがあるからな。主にわたし絡みで。本人の目の前でやる所は見たことがないが。
あのスーツの男は、黒塗りのセダンでマンションに来た男たちが、以前に自分を捕まえようとした刑事だとすぐに気づいて、あの場から慌てて逃げ出したわけだ。わたしは受け子の男の子と同様、手錠をかけられるまで刑事だとは気づかなかった……いや、本当は気づけるポイントはあった。駐車禁止のエリアに、許可証なしで駐車できるのは、緊急性の高い捜査をしている警察の車両くらいのものだ。
ちなみに女性警察官の話では、蓮華のスマホに例のメッセージを送ってきた、木島拓也なる男性は、あのスーツの男ではなく、詐欺の立案を取り仕切っているボス格の人物らしいが、数多ある偽名の一つに過ぎないということだった。まあ、捨て石に過ぎないバイトの受け子への連絡に、本名を使うわけもないのだが。
警察で聞いた話はここまでだ。被害者がどんな手口で財産を詐取されたのか、スーツの男の組織での立場はどれほどなのか、逮捕された受け子がどんな経緯で闇バイトを始めたのか、そこまでは教えてくれなかった。もちろん、ここまでの話だけでも、蓮華が巻き込まれたと思しき事件がどういうものなのか、大枠を把握することはできる。その結果、蓮華の置かれている状況の危うさを、推して測ることになる。
「問題は、その幹部の男が、蓮華ちゃんの部屋まで来ていて、しかも蓮華ちゃんが何らかの記憶媒体を持っていると思い、それを必死に見つけようとしていることだよ。しかも、小切手の受け渡しの場所や日時を、警察が把握していたということは、この詐欺に直接関わっていた誰かが裏切って、警察に漏らした可能性がある」
「そっか……その記憶媒体に入っているのが、詐欺組織の根幹に関わる大事なデータで、裏切ったのが蓮華ちゃんだとしたら、その幹部は、蓮華ちゃんがデータを持っていると思っているかもしれないんだ。しかも蓮華ちゃんの住所も突き止めるほど、あの子の個人情報を把握している……!」
「その詐欺組織の体質にもよるけど、向こうも必死になって蓮華ちゃんを探している以上、先に彼女を見つけられたら、裏切り者と見なされた彼女が、どんな目に遭うか分からない」
「まずいじゃん、それ! 何とかしないと!」
「そうは言っても、わたし達にこれ以上できる事なんてないよ。事情を話してくれた警察の人も、これ以上は首を突っ込まず、警察に任せてほしいって釘を刺してきたし」
「二度も失態を演じておいて何を任せろと言うのか……」
「まあまあ。しくじったのは一部の警察官だけなんだから」
苦虫を噛み潰したような顔をする美紗をなだめたが、そんなわたしも、決して警察を全面的に信用しているわけじゃない。立場とか、権限とか、能力の問題で、わたし達ではどうしようもないから、警察に委ねるしかないと思っているだけだ。
もどかしいが、こちらが行方不明者届を出すまでもなく、警察は蓮華の行方を追っているし、詐欺組織の捜査も進めている。なんとか見つけてくれるのを祈るばかりだ。
「ふう……なんか、思った以上に大きな問題になったね」
「そうだね……」
「このことを蓮華ちゃんの友達ズにも伝えなきゃいけないかと思うと、気が重いね」
「うん……あっ、忘れてた!」
今頃になって思い出したけど、一緒に蓮華の住んでいる場所を探す手伝いをしていた、松崎と日垣と犬山の三人に、まだ事の次第を連絡していなかった。見つかればスマホで連絡し、そうでなければ集合場所の広場にまた集まる、と決めていたのに、警察署で取り調べを受けていたせいでどちらもできずじまいだった。たぶんもう帰ったと思うけど、ずいぶん広場で待たせただろうし、たぶんスマホには……。
「げっ! 未読メッセージが26件も溜まってる……」
「わお」
慌てて自分のスマホをチェックしたら、後輩たちの心配している内容のメッセージが大量に来ていて、覗き込んだ美紗も軽く驚いて欧米風のリアクションだ。
とはいえ、詳細を話すのにLINEは使い勝手が今ひとつだし、だからといって返事を先延ばしにするわけにもいかない。詳細は明日会って話すとして、とりあえず今夜はひと言だけ、無事である事のみ伝えておこう。
『心配かけてごめん
ちょっとやらかして警察に捕まってた
もう釈放されたけど』
このメッセージを送った直後、後輩たちからさらなる怒濤のメッセージ通知が襲ってきたのは、言うまでもない。無視してわたしは座椅子クッションから立ち上がり、空になったうどんの容器を重ねて持った。
「なんでこんな語弊しかない書き方をするのさ」
「先輩に舐めた真似をした事への仕返し。食器洗いはわたしがやっておくねー」
「お、おぅ……」
手伝うとか抜かしておきながら、調査するマンションの半分以上をわたし一人に押しつけるなんて、小癪なことをした後輩たちに、調査が終わったら覚えていろ、とわたしは言ったはずだ。ただの有言実行である。鮮やかな仕返しの手並みに、美紗は若干引いていた。
* * *
簡単な夕食だったので、食器洗いはものの数分で終わった。その後は浴槽にお湯を張っている間に、歯磨きと、美紗はメイク落としを済ませて、そして一緒にお風呂に入った。
……初めて同じ湯船に同時に浸かった時は、お互いに緊張でカチコチに固まってしまい、お湯の温もりでほぐれるまで時間がかかったけれど、今はすっかり慣れたものだ。ちょっと狭く感じる浴槽に、並んで腰を落とし、一日の疲れを解きほぐしていく。
「「はあぁ~~」」
全身に巡る心地よさで、わたしと美紗は揃ってだらしない声を漏らした。わたしは調査と警察署での取り調べ、美紗は講義が終わってすぐのバイトで、まあとにかくお互いに慌ただしい一日だった。ようやくひと息つけて、何も気にせずだらけることができる。
「今日は色々忙しかったねぇ、美紗……」
「お互いにね。……ねえ、彩佳。蓮華ちゃんのことだけど、本当に、わたし達にできる事は何もないの?」
「あるかもしれないけど、今は思いつかないな……力になってあげたいけど、警察が動く事態になっている以上、下手に出しゃばると捜査の邪魔になりそうだし」
「去年、事件が起きたときは彩佳もめっちゃ動いていたじゃん」
「そりゃわたし自身が当事者だったし、濡れ衣着せられて黙っていられなかったし、それに、その……」
「あー、思い出させるんじゃなかった。ごめん、この話は終わりっ」
自分から振っておきながら、自分で話を強制終了させる美紗。去年の事件でわたしが、素人ながら推理の真似事をした理由は、事件の前後で姿を消したある女性に会うためでもあった。たぶん、その女性のことを思い出したくないのは、美紗の方だ。何しろその女性は、他ならぬわたしの初体験の相手でもあったから。
……まあ、混乱して昏睡していたところをつけ込まれ、流れでそういう行為に及んでしまった事は、わたしにとっても恥じたい過去なので、できれば思い出したくないけれど。
美紗は浴槽から出て、バスチェアに腰かけると、タオルにボディソープをつけてふわふわの泡を作り、透き通った肌になじませるように泡をつけていく。
割といつも見ている光景だけど、つくづく思うことがある。美紗の肌は絹のように白く滑らかで、そのくせしっかりツヤもある。腕や太ももにはほどよく肉感がある一方、お腹や腰回りは引き締まっていて健康的で、胸もまあ、ほどほどにある。以前からこういう肌や体型を維持してはいたと思うが、それでもわたしの目には……。
「美紗、だんだん体つきが妖艶になってきたね」
「んぐっ!?」
声を詰まらせて振り向いた美紗は、のぼせたみたいに顔を真っ赤にしていた。まあ、身も心も大人の女性に近づいていて、わたし自身の見る目も徐々に変わっている、ということかもしれない。
そんなお風呂でのちょっとした出来事を経て、寝る前に大学の課題を少しだけ進めた後、わたしと美紗はひとつのベッドに入って横になった。元々このベッドは、美紗が一人暮らしをする前提で置いているので、二人で寝るにはちょっとばかり狭い。今のままでもなんとか快眠はできているけど、いずれ本格的に一緒に住むのなら、ベッドを増やすのはスペース的に難しいから、少しサイズを大きくしたセミダブルに買い替えようと思っている。
……こんなことを真剣に考えてしまうあたり、わたしも相当、美紗との実質的な二人暮らしに染まっているらしい。
電灯を消して室内を暗くしても、まだわたしも美紗も眠くならない。直前に課題を進めたことで頭が冴えているのか、それとも、二人とも同じ心残りを抱えているからか。
「ねえ、彩佳」
「ん?」
「蓮華ちゃんは本当に、詐欺の受け子をやっていたと思う?」
「どうだろう……警察もまだ、可能性の一つだと考えているのかも。受け渡しの場所と時刻を伝えるメッセージが、蓮華ちゃんのスマホにも来ていたと知るまではね」
「やっぱそこだよね、決定的なのは。でも蓮華ちゃんは、どこで受け子のバイトに関わることになったんだろう。やっぱりSNSとか?」
「詳しいことは分からないけど、同じく受け子をしていた男の子は、蓮華ちゃんと同じく、ボランティアで災害募金活動をしていたらしいから、その辺の繋がりかも。SNSを通じて同じ闇バイトに募集して、たまたま組んだ相手が同じボランティアに参加していた……そういう偶然もあるかもしれないけど、可能性は低いだろうし」
「ってことはさ」
仰向けだった美紗がゴロンと横向きに転がって、隣のわたしに顔を向ける。わたし以外にはなかなか見せないけど、美紗はすっぴんも割と綺麗だ。暗くてよく見えないが。
「蓮華ちゃんが参加していたボランティアを探せば、その受け子のことも、どうして闇バイトに関わったのかも、分かるかもしれないね」
「そうかもしれないけど……そう簡単に見つけられるかな。個人の規模でやっているやつだったら、ネットにも名前を出していない可能性が高いし……いや、そうでもないか」
頭が冴えている中で何とか眠ろうとしていたのに、一度考え出したら止まらない。ますます眠れなくなることは分かっているのに。
「蓮華ちゃんは恐らく、地方から東京に来たばかりで、この辺りには以前からの知り合いとかもいないはず。そういう場所で、誰の助けも借りずに個人で募金活動を始めるのは難しいんじゃないかな……」
「確かに、募金活動に参加するなら、その前に色々と準備する必要があるよね」
「不特定多数の他人からお金を集めるなら何かしら許可がいるし、集めたお金を寄付する先も決めないといけない。災害支援に参加する強い動機があるなら、自分で募金のシステムを一から作るより、既存の団体に所属した方がはるかに簡単だし、馴染みのない土地で始めるならなおさらだ」
「既存の支援団体なら、ネット上に名前があるから確実に見つけられるね。活動拠点はやっぱり、この付近なのかな」
「可能性は高いよ。蓮華ちゃんは行方不明で、警察は今日まで彼女の自宅に来たことがなく、受け子の男の子も蓮華ちゃんの存在を明かしていない。そんな状況で、一週間ほどで警察は、蓮華ちゃんと受け子が同じボランティアに参加していることを突き止めた。受け子の普段の生活範囲に、ボランティア団体の拠点があるから、地道な聞き込みで見つけられたんだと思う」
「なるほどー……あ、でもその受け子が、この辺りの人だとは限らないよね」
「というか、この辺りの人じゃない可能性の方が高いかな。身分を偽って接触して、お金を騙し取ろうとするなら、知り合いの少ない区域に受け子を宛がうだろうし。ただ、それほど離れてはいないと思う。幹部に小切手を渡す場所に、蒲之原ターミナルを選んだのは、人ごみに紛れるためでもあるけど、次の場所に移動しやすくするためでもあるんじゃないかな。警察に捕まるリスクが一番高い受け子に、詐欺組織の拠点へ向かわせることはないから、受け子の自宅とか生活範囲が、バスで行けるところにあるんだよ」
「そっか、人ごみがあって移動手段が近くにある場所なら、駅でもいいはずだもんね。バスターミナルを選んだのは、電車を使わないといけないような遠方じゃなく、バスで行く方が早い近場に、受け子の自宅があるからか」
「まあ、これはあくまで可能性の一つだけどね。でも、東京に来たばかりの蓮華ちゃんが、災害募金のボランティアの存在を知って参加しようと決めるとしたら、大学にポスターが掲示されているか、近所に活動拠点があるか、そのどちらかだろうからね。前者の場合でも、見つけて参加を即断して、すぐに参加できるのなら、距離的にさほど遠くないと思う。どちらにしても、蓮華ちゃんと受け子は生活範囲が近くて、中間地点の辺りにボランティアの拠点があるのかもしれない」
「それなら絞り込めそうだね。災害募金をやっているボランティア団体を、蓮華ちゃんの家からそんなに離れていない所から探せば、見つけられるかもしれない……うん、なんだかちょっと希望が出てきたね。さすが彩佳」
ニカッと笑って、美紗はわたしを褒めてくる。この子はいつもそう。一年前の事件以来、わたしが知恵を働かせて物事を解決することに、全幅の信頼を寄せている。もっとも、その信頼に応えなくても、美紗がわたしに失望することはないと知っているから、重荷になることもないのだが。
ただ、わたしが解決の道筋を見つけることを、わたし一人の手柄のように称賛されるのは、何となく違う気がしていた。自惚れるでも照れるでもなく、わたしは心底思っていることを、隣にいる彼女に告げる。
「……本当にありがとね、美紗」
「えっ、何? わたし、何かした?」
「美紗がボランティアを探すことを言い出さなかったら、その方面でできる事を考えようとすら思わなかったから。おかげで、わたしにできる事を見つけられたよ」
「えぇー? そんなことで?」美紗は照れくさそうに笑う。
「思い返せば、一年前の事件でも、美紗にはいっぱい助けられたなぁ」
「そ、そうだったかな……」
「そうだよ。わたしが自分の無実を信じられなくなった時に、美紗がずっと信じてくれたから立ち直れたし、推理のヒントもくれたし」
「正確には、ヒントになったのはうちの妹たちだけどね……」
「ちゃんと覚えてるじゃない。とにかく、わたしが美紗の期待に応えられるのは、美紗がわたしの支えになってくれるからだよ。だから、ありがと」
「彩佳…………」
心なしか、美紗の開かれた目の中に、じわじわと小さな光が満ちていくように見えた。その眼差しは真っすぐわたしに向けられ、視線を通して彼女の拍動が伝わってくる気がする。何ひとつ言葉を交わさず見つめ合う時間が、徐々に心臓をぎゅっと締めつけるみたいだ。
美紗の手がおもむろに差し伸べられ、わたしの耳に添えられる。ほんの少し美紗の顔が接近して、火照った吐息を肌に感じる。
「はあ……ねえ、彩佳」
「なに?」
「ちゅーしていい?」
すぐにでも唇が触れてしまいそうなほど接近しているのに、美紗は律儀に確認を取ってきた。隠しきれない不安を覗かせて。
わたしはここ一年で、ほとんど毎日のように美紗と一緒に寝ている。だけど、ベッドで美紗とキスを交わしたことは、数えるくらいしかない。わたしから美紗に要求することはないし、美紗から言い出すことも滅多にない。時たまどうしようもなく、キスしたい衝動に襲われるらしいが、そのタイミングは本人にも読めないという。
ただ、美紗から不安げにキスをねだられて、わたしが断ったことはなかった。
「…………いいよ、美紗」
その返答でタガが外れたように、薄闇に慣れたはずの視界が一気に暗くなり、熱っぽく柔らかい何かが触れる唇に、感覚の全てが集中していく。
美紗は、わたしが断らないと知っていても、必ずキスする前にこうして確認してくる。彼女の中には未だに、わたしがキスを拒む可能性がわずかにくすぶっていて、きちんと確かめずにはいられないのだろう。普段は何事も積極的でがっついてくることが多いのに、ベッドでのキスにだけは、妙に臆病になりがちだ。
分かっている。悪いのはわたしの方だ。わたしがいつまで経っても、美紗との関係をあやふやなままにしているから、美紗は不安になるのだ。
一年前、わたしはある女性と情交に及んだ。最中のことはぼんやりとしか覚えていないが、その事実は決して拭えるものじゃない。美紗はその前からわたしに、友達以上の感情を抱き始めていたが、わたしにきちんと伝える前に、別の女性に先を越され、柔肌の記憶を植えつけられてしまった事になる。それは美紗にとって大きな後悔だったに違いない。
わたしが未だに関係をはっきりさせないせいで、美紗は、わたしがまだその女性の体温を忘れられずにいるのではないかと、余計な不安を抱いているのだ。二番手ゆえに、わたしの気持ちが向けられないことへの恐れがまとわりつき、キスという大事な行為さえ、わたしの許しがないとできないでいる。
臆病なのはわたしで、悪いのもわたしだ。だけど……言い訳をする気はないが、美紗がわたしにキスの確認をする度に、いつも思う。馬鹿だなぁ、と。
「んっ……はあっ、なんか、暑くなってきた……」
「そう、だね。でも彩佳……離れちゃやだ」
もうすでに、長くキスを続けている間に、わたしと美紗の全身がぴったりと密着しているのに、美紗はなおもわたしの体を引き寄せて、潰れそうなほど抱きしめてくる。苦しくて、暑いのに、わたしまでつられて美紗の背中に手を回し、その体温を、その柔らかさを、逃すまいとしている。
何度もこうして、眠気の海に沈むまで唇を重ね続け、溶け合うような感覚に陥るまで抱擁する、そんなことをしてきているというのに、いつまで美紗は不安がっているのだろう。もうわたしは、初めてを捧げてしまったあの女性の、顔もはっきり思い出せない。
身も心もゼロ距離より近づいても、未だに大事な何かが噛み合わないまま、二人だけの夜は更けていく。深い眠りにつくまで、口づけと抱擁は続いていった。
作中の時間も現実と同様に、前作から一年が経過して、彩佳と美紗の関係も、お互いに向けている想いも、確かに変化しているようです。久しぶりに湿度高めの描写を書くと、なぜか妙に緊張します。
さて、解決編はもう少し先になりますが、ここまでだけでも気になる部分はあったはずです。それは隠された伏線なのか、それとも作者の思わぬミスなのか(笑)、その意味は次のエピソードで、いくつか判明するかもしれません。