その1
前年に引き続き、春とミステリをテーマとする公式企画に乗っかって、新作を投稿いたします。
本編の前にいくつか注釈です。この作品は、前年の公式企画に参加した『熱を帯びる幻』の続編となっていますが、前作を読まなくても支障のない内容になっています。この作品を読んだ後、もし気になれば前作もぜひチェックしてください。
そして前作と同様、今作でも、女性同士のキス描写があります。当該描写が現れるのは次話になりますが、あらかじめ注意しておきます。
今回はちょっと長くなって、四話で終わる予定です。開始も遅かったですが、なんとか期間内に終えられるよう頑張ります。しばしお付き合いください。
強い風が怒濤のように吹き抜ける。ギシギシとしなる街路樹から、緑色の葉が次々と離れて飛び散っていくのが見えた。耳元で震える空気の音に目をしかめ、わたしは風が当たる方の耳を手で押さえながら、人の行き交う歩道を進んでいく。
大学の敷地が面している通りというだけあって、道行く人はわたしと同世代が多い。きょうは休日だから、大学も講義はやっていないはずだけど、そんな日でも大学に足を運ぶ学生は割と多い。かくいうわたし、雨洞彩佳も、もちろんその一人だ。
電車で三時間ほどかかる田舎から上京し、都内の大学にかよい始めてから、ちょうど一年が経った。四月も半ばを過ぎると、東京の桜はほとんど花が散って葉桜になっている。大学構内の舗装された地面に落ちた花びらのいくつかは、風にさらわれる前に踏まれ、砂利の隙間にこびりついて残っている。少し視線を落としてそんな光景が目に入ると、春の終わりが次第に近づいていると気づかされ、言いようのない寂寥感が心に漂う。そして、一年前のこの時期に抱えていた感覚をふいに思い出し、妙なくすぐったさを覚えるのだ。
それより前の春のことなんてほとんど思い出せないのに、一年前のことをやけに鮮明に思い出してしまうのは、単純に自分の環境が大きく変わったためというだけじゃない。忘れたくても忘れられない、そんな強烈な体験をしたからだ。
「ふう……」
講義棟の隣にある広場のど真ん中で立ち尽くして、わたしは深く息を吐く。
ほんの数日前まで、この広場は日中ずっと学生でごった返していた。平日も休日も関係なく賑わっていた。もちろんそれは講義に出るために殺到したのではない。上級生が新入生を部活やサークルに勧誘するため、看板やチラシを片手にこぞって呼びかけをしていたのだ。わたしも一年前、色んなサークルから声をかけられ、ほぼ押し付けられる形で受け取った大量のチラシで、ものの数十秒で両手が塞がったものだ。
結果的に勧誘とチラシの効果はあった。配られたチラシの一枚に心惹かれたわたしは、大学で初めてできた友人と一緒に、そのチラシに書かれているサークルを見学し、翌週から二人で入会することにした。きょう、休日なのに大学へ来たのも、このサークルに顔を出すためだ。
いつかわたしも、友人と一緒にサークルの勧誘に加わる……そんな時がくるのだろうか。まあ、仮に新入生が入ってくれなくても、それはそれでいい経験になりそうだ。こういうことを友人と一緒にやるのも、悪い気はしないし。
……数少ない二年生の立場で、今年の勧誘活動に一切関わらなかった人がどの口で、とか言われそうだけど、それはもう過ぎたことだ。
「行くか……あっ、その前に図書館寄らないと」
サークル棟のある方へ行こうとしていた足を方向転換し、わたしは早足で図書館に向かう。さほど大きくはないが、この大学には、籍を置いている人なら誰でも使える図書館がある。サークルに入って以来、わたしは何度もお世話になっている。
というのも、わたしが入ったサークルというのが、『読書スポット探求団』という同好会なので、読書のための本は不可欠なのだ。
* * *
『読書スポット探求団』という探偵団をもじったような名前を、誰が考えたのか知っている人はもういない。先輩はもちろん、顧問の先生も知らないらしい。サークルにも一応、大学の職員が顧問として宛がわれているが、何らかの実績があったりして人気のサークルでない限り、たいていは名前だけで活動に関わらないため、サークルの実情を顧問が把握していないことは珍しくないという。
いつから存在するのかも判然としない、そんな『読書スポット探求団』だが、活動内容は字面のとおりである。ゆっくり落ち着いて読書をするのに最適な場所を、大学構内や付近で探索し、見つけた先で実際にゆっくりと読書をする、それだけのサークルだ。インドア派による軽めのアウトドアと言っていい。
本を読むのは昔から好きだったし、どうせ大学で何かサークルに入るなら、大勢で活動的な事をするより、自分の好きなことを自由意志でゆったりと行なえる所がいいと思っていた。実にお誂え向きのサークルだと言えよう。時間が拘束されないという居心地のよさもあって、何だかんだわたしは、一年経ってもまだこのサークルに所属している。
……まあ、ニッチな活動内容だけあって、会員、もとい“団員”の数は非常に少ないが。
さて、読書スポット探求団に特定の活動日というものはないので、部室にはいつ来てもいい事になっている。きょうは休日だけど、特に用事のなかったわたしは、時間を潰すために部室を訪れる事にしたのだ。暇潰しが気軽にできるのも、このサークルの魅力である。
大学の敷地の片隅、乱立する木々に紛れるように、プレハブ小屋が七つ並んで建っている。そのうちの一つ、左から二番目が探求団の部室だ。相変わらず昼間なのに影があって薄暗い所だな、と思いつつ、わたしは部室のドアをノックする。
誰もいなくて施錠されていたら、団員に配布されている鍵で開けるところだけど、どうやらすでに誰か来ているようで、中から声がした。
「どうぞー」
そうか、今日はあの人が来ているのか……急激に気が重くなる。しかしノックして相手に来訪を知られた以上、立ち去るという選択肢は取れない。
ドアを開けて室内に踏み込み、挨拶をした。
「お疲れさまです……部長」
「誰かと思ったら彩佳か。何度も言っただろう、私のことは団長と呼べ、と」
部室の床面積の半分を占める、高床に敷かれた畳に寝転がっていた女性が、顔に被せていた開きっぱなしの本を少し浮かせてわたしを見る。読書スポット探求団の部長もとい団長である、羽曳野菜摘は、わたしより二つ上の四年生。このサークルのリーダーというだけあって、講義やゼミの無い時間は大体いつも部室に来ていて、本を読んだり地図とにらめっこしたりしている。他の団員と部室で会うことはあまりないけど、この人とはほぼ毎回会っている気がする。
本や資料が雑多に置かれて散らかっている床を、抜き足差し足で慎重に進んで、菜摘の元へ近づいていく。
「今日は団長だけなんですね。あ、違いました。今日も、でしたね」
「なんだ、当てこすりのつもりか? 言うようになったじゃねぇかキサマ」
上体を起こしてわたしを睨みつける菜摘。笑ってはいるけど口元が引きつっている。
「大体、うちの部員が少ないのは、君たちが真面目に勧誘活動をやらなかったせいでもあるんだからな。普段の活動はのんびりしていても構わないが、勧誘を疎かにして誰にも認知されないまま、サークルが自然消滅するっていうのが一番よくない事で……」
「はいはい、その話は何度も聞きましたー」
ここ最近の菜摘は、口を開けばこの手のお説教ばかりである。慢性的な部員不足というのもあって、菜摘は新入生の勧誘を重要視していたのだが、わたしや一緒に入った友達が、積極的に勧誘に参加しなかったことを、未だに根に持っているらしい。こうなると分かっていたから、菜摘がいる部室に入るのをためらったのだ。
うんざりとしながらわたしは、地図が広げられたテーブルの脚のそばにカバンを置く。地図には赤ペンであちこちに丸とメモが書き込まれていて、どうやら新たな読書スポットを探している最中に、寝落ちしてしまったらしい。
「しょうがないじゃないですか。さほど長くない準備期間はちょうど実家に帰っていたし、勧誘に一番力を入れていた日も用事がありましたし」
「どこがしょうがないんじゃい。新入生勧誘の予定がある事をすっかり忘れて、美紗とデートの約束してそっちを優先しておいて」
「…………」
残念ながら言い返せない。勧誘日の予定を忘れていたのは事実だし、何なら後で思い出したのに、友人の小園美沙との約束を優先したのも確かだ。久しぶりに二人きりで楽しくお出かけをしたので、これも広義のデートと言えなくもない。
ただ、その……美紗とはただの友人というわけでもないので、デートと言われるとひどく照れくさくなる。
「もういいじゃないですか、その件は。それに、一応新入生は獲得できたわけですし」
「一人だけね、一人だけ」
人差し指を立てて強調してくる菜摘。うるさいなぁ。
「わたしが知る限り、どの学年も三人以上いないみたいですし、ここに入る新入生の数なんてそんなもんでは? わたしの代でも、入ったのはわたしと美紗だけですし」
「呑気に構えないでおくれよ。新入生の数が半分に減ったんだぞ、一大事じゃないか」
「……割合って、母数がはっきりしてないと、いくらでもごまかしが利くって本で読みましたよ」
「ちっ」
割合の問題にすり替えようとして失敗し、菜摘は舌打ちした。そんな稚拙なトリックが通用するとでも思ったか、見くびってくれるよ。
「それで? その一人だけの新一年生、ここ数日は見ていませんけど、ちゃんと来ているんですか」
「いや……私も、部室では会ってない。学年が違うと、ゼミかサークル以外で顔を合わせる機会がほとんどないからなぁ。まあ、部室に来るのは強制じゃないし、気が向いたときに来てくれればそれでいいんだけど」
そう言って菜摘は畳の上で胡坐をかいて、本の続きを読み始めた。呑気に構えているような口ぶりだが、表情はどこか楽観的なものとは違っている。確かに数日くらい部室に来なくても、このサークルではさして珍しくないし、気にするほどではないかもしれない。それでも、あの川端蓮華が全く顔を見せないという事もあって、わたし達は気楽でいられない。
読書スポット探求団に、今年入った唯一の新入生、川端蓮華。小柄で、ぱっちりとした目と、いつも後ろで束ねているふわふわの髪が特徴の、元気な子犬みたいな女の子だ。先輩たちが勧誘を始めたその日に、自分から接触して見学を申し出てきて、部室で簡単に説明を受けてそのままサークルに入ることを決めたという。勧誘に参加していなかったわたしと美紗は、後日彼女と顔合わせして、入会に至るまでの経緯を聞いた。
わたしも活動内容にそれなりに興味があったから入ったけど、読書スポット探しへの興味の強さは蓮華の方が上回っていた。初日から先輩たちの話をとても熱心に聞いていて、タブレットで電子書籍を読む時のために日差しを避けられる場所を探す事など、それまでこのサークルになかった考え方を意見したりもしていた。
「楽しいですね! こういうの、大学の近くだけじゃなく、地元でも探してみたいです」
「いいんじゃない。どこにでも行ってみなよ。うちの活動は探索がメインだから、部室に寄らずに外を歩き回ってもいいんだし」
「いえ! いい場所を見つけたら先輩たちとも共有したいので、毎日でもここに来て情報交換をします!」
「……他のみんな、そういうわけだから、今後はなるべく部室に顔を出してね」
新入生との顔合わせということもあって、その日は団員が全員集まっていた。熱心に活動してくれそうな一年生の前で、怠惰なところを見せてはならないと、菜摘から暗に釘を刺されたわけだ。わたしも含め、他の団員がみんな、曖昧な返答に留まったのは言うまでもない。
大きな目を輝かせて、毎日でも部室に来ると言っていた子が、ぱたりと来なくなったのだから、心配になるのも無理ならぬことである。
「ところで彩佳は、今日はここで暇つぶし? 一人なんて珍しいね。大体いつも美紗と一緒にいるのに」
「美紗は今日バイトです。昼間からヘルプでシフト入れられたらしくて」
「バイト先、大通りのカフェだっけ。あのギャルみたいな恰好でよく面接受かったな」
「美紗、肝っ玉は据わっているので……堂々として言葉遣いに気を付けたら、逆に気に入られて受かったそうです。まあ、ネイルは取るように言われたそうですが」
「場合によっちゃ調理もすることになるし、当然と言えば当然だね」
本人は、ゴム手袋すれば問題ないし、気合い入れてセットしたネイルを取るなんて、と憤慨していたけどね。それでもちゃんと頑張って働いているのだから、美紗の順応性の高さには恐れ入る。
ちなみにわたしは、学生向けの短期バイトを何度かやったことがある。それなりに節制して生活しているので、毎月の仕送りだけでも金銭的には困っておらず、社会経験の一環としてやっている向きが大きい。色んな仕事をするうちに、自分は労働への熱意というものが、どうやらあまり大きくないらしいと分かった。美紗みたいに一つの仕事を長く続けられるということが、ちょっと羨ましい。
もう少ししたら就活を始めることになるだろうけど、こんな調子でわたしは大丈夫なのだろうか。だんだん憂鬱になってきた。重くなった腰を椅子に下ろして、菜摘に訊く。
「そういえば、団長って就活はしてるんですか」
「一応ね。出版系を狙ってみようと思ってるとこ。小さいけれど地域密着型、っていうのが性に合ってる気がするんだ」
「こういうサークルで団長を務めるくらいですからね」
「読書スポット探しはほとんど趣味みたいなものだけど、周辺地域の魅力を足で探すのが好きっていうのは確かかも。彩佳も本が好きなら、出版系を志望するのもいいんじゃない」
「どうでしょう……まだ自分のやりたい事が、はっきりしているわけじゃないんですよね」
「世の中、自分のやりたい事が明確だって人の方が少数だと思うよ。たとえ明確でも、それが仕事に結びついている人も少ないだろうし……仕事選びなんて適当でいいんだよ。志望動機だってその辺の本の内容を使って、適当にでっち上げればいいんだし」
でっち上げるって……人聞き悪いな。熱意は足りなくても、せめて雇ってほしいという思いくらいは強く持って、志望動機に組み込むべきじゃないのか。もっとも、いざ就活を始めた時に、そんな思いを強く持つことになるのかは分からないけど。
「まあ、私が就活と卒論に本腰を入れるようになったら、ここにも顔を出す機会はぐっと減るだろうし、そうなったら彩佳たちにこのサークルを任せることになるから、そのつもりでいてくれよ」
「三年生もいますから、次期団長とかはそっちに任せることになりますけど……」
「役職の引継ぎは当然そうなるけど、あいつら、私が釘を刺してもなかなか顔を見せないからな。そういう意味では、ちょくちょくでも来てくれる彩佳や美紗の方が、まとめ役として信頼できるんだよ。勧誘はきちんとやってほしいけどな」
「だから、悪かったですって……」
信頼してくれるのは嬉しいけど、いつまで勧誘不参加の事を根に持つのか。こう言ってはあれだけど、わたしと美紗が熱心に勧誘したところで、結果はさほど変わらなかっただろう。言ってはやらないけど。
キリのいい所まで読んだのか、菜摘は手元の本を閉じる。
「もっとも、人が来なければまとめることもできないわけだが……せめて、蓮華がまた来てくれたらいいんだけど」
「そうですね……」
結局はその一点に尽きる。サークルのまとめ役を買って出るのは吝かでないが、熱心に活動してくれそうな後輩が姿を見せないことには、役目を果たせそうにない。
「やっぱり、連絡とかした方がいいんでしょうか」
「そうだね。他の団員だったらそこまでしないけど、蓮華のことだから、そろそろ事情を聞けるようにした方がいいかもしれない」
基本的にこのサークルでは、団員のプライベートに踏み込まないのが暗黙の了解だ。数日だけ部室に来なかった程度では、入会したばかりの新入生に、踏み込んだことを尋ねるのは気が引けたから、これまで連絡はしなかった。だけど、そろそろ潮時かもしれない。
そう思ったその時、まるで見計らったかのように、菜摘のスマホが短く震えた。LINEのメッセージが来たらしい。菜摘は畳の上のスマホを手に取り、画面をつけた。
菜摘の眉間にしわが寄った。
「…………なんだよ、これ」
「どうしたんですか」
「ああ……噂をすれば影、ってやつだ」
それはつまり、蓮華からの連絡が来たということだろうか。菜摘の背後に回ってスマホの画面を覗き込むと、メールや他のアプリの通知に紛れているLINEのメッセージ通知が見えた。通知欄が拡大されて短い文章が全部現れている。
『とても楽しかったです
ありがとうございました』
……なんだよ、これ。なるほど確かにそう言いたくなるような内容だった。
それから、本を読んだり周辺の地図を弄ったりしながら、蓮華からの次のメッセージが来るのを待ったけれど、結局、菜摘が飽きて解散するまで、次の通知が来ることはなかった。一度、業を煮やした菜摘からメッセージを送ったみたいだが、それでも返事は来なかった。もちろん、わたしのスマホも同様だった。
あ、嘘です。蓮華からじゃないけど、美紗からは帰る直前にメッセージが来ていた。
『あと少しで帰るよ~お土産もあるから、お楽しみに☆』
「未だにこのテンション慣れないわ……」
菜摘に覗かれる前に画面を消して、帰り支度を整えて、わたしは部室を後にした。風が少し弱くなって、赤い陽が傾き始めていた。
* * *
週明けの月曜日になると、やはり休日と比べても食堂に来る学生が大幅に増えて、騒がしくごった返している。こんな所で待ち合わせでもしようものなら、場所を決めて共有でもしていないと、探し出すだけでお昼の時間の大部分を使いそうだ。
長い列に並びながら注文した料理をトレイに載せていき、学生用のプリペイドカードで支払いをして、わたしは辺りを見渡す。分かってはいたが、待ち合わせの相手がどこにいるのか、人が多すぎて見つけられない。ひと足先に食堂に来て、どこかの席に陣取っていると言っていたから、どこかにいるのは確かなのだが……。
呆然と立ち尽くしていると、羽織っているパーカーのポケットに入れていたスマホが短く震えた。ひょっとして、待ち合わせの相手から、居場所を知らせるLINEだろうか。だとしたら、メッセージを見れば場所が分かるかも……と思ったら、まずい状況に気づく。
わたしが今、両手で持っているトレイの上には、汁物も含めた料理がいくつか載っている。そして周りの席は全て埋まっていて、荷物の置き場所もない。つまり……。
「両手が塞がってたら、スマホ取れないじゃん……!」
これが漫画だったら、ガーン、なんて効果音がついているところだ。このままだと一向に待ち合わせ場所が分からない上に、相手からのメッセージを無視し続けることになる。なんとか空席を見つけて、一時的にトレイを置いてスマホを確認したいけれど、空席なんて見つかるだろうか。
ぐぬぬ、なんて声にならない歯痒さが、噛んだ唇の隙間から漏れそうになる。どうしようもなく引き続き立ち尽くしていると、よく見知った顔の女の子が、わたしに気づいて駆け寄ってきた。
「あっ、彩佳! こっちこっち!」
「美紗ぁ……」
待ち合わせの相手の方から、わたしを見つけに来てくれた。ようやく困った事態から解放されて、無性に泣きたくなってくる。いや泣かないけどね、こんなことで。
小園美沙。わたしが大学に入って初めてできた、残念ながら今のところ唯一の友達。今日は茶髪を後ろでお団子にしていて、まつげもチークもリップも、いつものようにしっかりと決めている。そんな陽キャギャルを絵に描いたような女の子だけど、九州から東京の大学に単身やって来た、なかなかに逞しい一面もある。入学直後のオリエンテーションでわたしに声をかけて以来、一緒にいない日はほとんどないと言っていい。
「いやぁ、ごめんごめん。やっぱ両手塞がってたんだ」
「ホントどうしようかと思ったよ……気づいてくれてよかった」
「さっきLINE送ったんだけど、すぐに既読が付かなかったから、もしかしたらと思ったんだ。こっちも気づいてよかったよ。さ、席あっちだよ」
美紗に案内されたテーブルにトレイを置いて、ようやく席につけた。ちなみに毎回そうだけど、わたしと美紗が座るときは隣同士である。
わたしが注文したのは小盛りの親子丼と味噌汁、美紗はサバの味噌煮と豚汁の定食と、二人そろって定食屋のお昼みたいなチョイスだ。美紗はわたしが合流するまで手をつけずに待つつもりだったようで、少し冷めても美味しいものを選んだらしい。
わたしも美紗もこれから三限の講義があるけれど、割とのんびり食べながら、たわいないおしゃべりに花を咲かせている。その中で、美紗がこんな話題を口に出した。
「そういえば、あの件なんだけど……」
「あの件?」
「ほら、蓮華ちゃんが先週からサークルに来てないって話」
「ああ、あれか」
菜摘のスマホに、蓮華からの意味深なメッセージが来たことは、あれからすぐに美紗にも伝えていた。蓮華がなかなか部室に顔を出さないことを、同じく探求団の団員である美紗も気にしていると知っていたからだ。
「わたしね、ちょっと気になって、さっき講義が終わってすぐ、教務課に行ってきたんだ」
「美紗、また講義が終わる前に教室を出たの? 前にそれやって、助教の先生が配ったプリントを取り損ねて、危うく単位落とすとこだったじゃない」
「それはちゃんと反省してるってば。そうじゃなくて、今日は二限が終わる時刻よりちょっと早く、先生が講義を終わらせただけだよ」
「ふうん……それで、教務課に行って何をしてきたの?」
「蓮華ちゃんのことを色々とね……学年が違うと、広い大学構内でただ探すのもひと苦労だし、よく考えたら学部も学科もちゃんと聞いてなかったと思って。普段どんな講義を受けているか分かれば、探す場所も絞り込めるでしょ」
ふむ……美紗の言うことも一理ある。ただ闇雲に構内を探し回るより、受講する科目を調べたうえで、その講義が行なわれる教室の出入り口付近で待ち伏せた方が、蓮華と遭遇する可能性は高い。他の団員もそうだけど、読書スポット探求団では基本的に、サークルの活動に関わる個人情報以外は深く立ち入らないから、団員の所属する学部や学科を把握していない事の方が多い。わたしも、美紗以外の団員がどこの学部なのか知らないし、知ろうと思ったこともなかった。
確かに教務課なら、各学部に所属している学生のデータを管理しているはずだけど、聞いたところで教えてくれるのだろうか。学生証を見せて事情を話せば、どこの学部・学科にいるかくらいは、教えてくれるかもしれないけれど。
「それで、蓮華ちゃんがどこに所属しているか、分かったの?」
「一応ね。ただ、問題はそこじゃなくて……蓮華ちゃん、休学届を出してたんだよ」
「休学?」
驚いたことに、蓮華はサークル棟どころか、大学にも来ていないという。予想外の展開に思わず声量が大きくなってしまった。
「え、どういうこと? 休学届っていつ……」
「先週の水曜日に、本人から申し出があったって。あむっ」美紗は豚汁の具材を一口頬張ってから続けた。「んっ。ちょうど、蓮華ちゃんが部室に現れなくなった辺りと合致するね」
「理由は?」
「一身上の都合だって」
「それ……ほとんど理由になってないやつ」
「教務課の職員さんだって、学生のプライベートに深入りはしないからね。勉強に関する相談は受けるみたいだけど」
それもそうか……だけど、先週といえば四月の半ばあたりで、講義もほとんどが始まったばかりという時期だ。あの人懐っこくて、サークルにもすぐに馴染んだ蓮華が、誰にも相談することなく、こんなに早い時期に休学するなんて、よほどの事情があるとしか思えない。考えられるとしたら……。
「何があったんだろう。サークル以外の交友関係、もしくは家族に、何か大きな問題が起きたのかな」
「まあ、東京に来て間もない大学生なら、そんなところだろうねぇ。ずずっ」美紗はお椀を両手で抱えて豚汁を一口啜った。「ふう。つっても、これ以上はどうやって探りを入れたらいいのやら。蓮華ちゃんの交友関係とか分かんないし、そもそも友達がいるかどうかも不明だし」
「サークルで知り合って二週間くらいの関係だしねぇ……住所とかは聞いてないの?」
「そんなの教えてくれるわけないじゃん……それに、そういうのは教務課の仕事の範囲外だって言われたし」
あ、一応聞いたけど断られたのか。確かに教務課は、学生の勉学に関する事務仕事がメインで、大学の外での生活については関知していないだろう。知っていたとしても、その辺りの個人情報は厳重に管理されているはず。聞いたって教えてはくれないか。
さて、この状況は手詰まりかな……大学に来る可能性はほとんどゼロ、住所も交友関係も不明、本人に接触する方法は皆無といっていい。警察に捜索願を出すべきだろうか。いや、わたし達が蓮華の住所を把握していないだけで、失踪したとは決めつけられないし、そもそもわたし達が彼女の事情に首を突っ込むべきかどうか。それに捜索願は、基本的に親族が出すものであって、サークルの先輩に過ぎないわたし達ではどうしようもない。
「やっぱ、ここは大人しく、蓮華ちゃんから次の連絡を待つしかないのかな」
「確か部長が一度、蓮華ちゃんにメッセージ送ったって言ってたよね」
「うん。だけどあれから、全く返信が来ないみたい」
「大丈夫かなぁ……一人で思い詰めていないといいんだけど」
美紗の心配はもっともだ。蓮華が一向に返信をしないのは、悩み事を一人で抱え込んで、他人からの干渉を拒んでいるからという可能性もある。それだけ深刻な悩みがあるなら、せめて話し相手になりたいけれど、それも今はできそうにないから、このまま放置して事態が悪化する事だってありうる。とはいえ、菜摘からのメッセージに反応しない以上、わたし達から「悩みがあるなら聞かせて」と言ったところで、答えてくれるとは思えない。
せめて蓮華が今どこにいるのか、それだけでも分かればいいのだが……そんなことを考えていると、後ろのテーブル席から声をかけられた。
「あの……すみません」
「ん?」
椅子越しに振り向くと、テーブルを囲んで座っている三人の女の子が、戸惑っているような顔でわたし達を見ていた。大学生って基本的に私服だから、中高の制服みたいに外見で学年は判別できないけれど、雰囲気はまだ大学に不慣れな一年生っぽい。
「お二人は、川端さんとお知り合いなんですか?」
「川端って……蓮華ちゃん? 知り合いっていうか、わたし達はサークルの先輩で……というか、みんなは蓮華ちゃんのこと、知ってるの?」
「えっと、同じ学部の一年生なので……講義とか、同じやつを取っています」
「わたしは、初日のオリエンテーションで、川端さんと同じグループになって、その流れでみんなと一緒にいるようになった感じで……」
「ウチはこいつと前から腐れ縁だったんで、巻き込まれました」
「こいつって言うな、それと指差すな」
テーブルの向こう側に座っているひとりが、最初に声をかけてきた子を指差して、億劫そうな表情になって言った。そして指を差された子が、目尻を吊り上げて言い返した。……仲のよろしいことで。
最初に声をかけた子は松崎さん、その隣に座っている子は日垣さん、松崎と入学前からの縁だという子は犬山さんと名乗った。どうやら三人とも、蓮華とは浅からぬ関係があるらしい。
「すみません、盗み聞きするつもりはなかったんですが、蓮華って名前が聞こえてきたので、もしかしたらと思って……」
実際に声をかけてきた松崎が犬山と睨み合いを始めたので、代わりに日垣がわたし達に事情を話してくれた。
「そっか……日垣さんたちのところにも、蓮華ちゃんから連絡は何も来てない?」
「そうなんです。先週から講義に出席しなくなって、LINEでいくら呼びかけても返事が来なくて……」
「わたし達のところもそんな感じだよ。みんなは心当たりない? 蓮華ちゃんが姿を消して、音信不通になった原因って」
と、聞いてはみたけれど、恐らく思い当たることはないだろう。悪い方の心当たりがあれば、警察などしかるべきところに相談していて、その事はわたし達の耳にも入るだろうし、いい方の心当たりがあるなら、初対面の先輩であるわたし達に声をかけてでも蓮華の行方を知りたいと思うほど、彼女を心配することもない。
三人からの答えは、概ねその予想どおりだった。ただし、手掛かりが全くないわけでもなかった。
「いえ、わたしには全く……」首を横に振る日垣。
「わたしも残念ながら、心当たりはないですね」淡々と答える犬山。「川端さん、はきはきして人当たりもいいから、話していて心地いい子なんだけど、あんまり自分の事を話そうとはしなかったから……」
「そうそう」腕を組んで頷く松崎。「地元の話題とか振っても、困った感じで笑って、うやむやにするし。あんまりプライベートなことは突っ込んでほしくないみたい。川端さんが講義室に忘れたスマホをちょっといじったら、直後に戻ってきて『触っちゃダメ!』って言って、問答無用で奪い取ったくらいだからね」
「そりゃ他人のスマホを勝手にいじるてめーが悪いんだわ。正直ドン引きだわ」
「なんだと? こっちだってあんたのその言葉のチョイスにはドン引きだわ!」
「あ? やんのかてめー」
「おうよ、やってやるわキサマぁ」
また松崎と犬山が睨み合いを始めた。というか、ばっちり口喧嘩だ。周りにまだ大勢の学生がいて、思い切り衆目を集めているのだが、気にも留めていないようだ。そして、二人のやり取りは見慣れているのか、日垣は微塵も動じていない。
「気にしないでください。いつもこんな感じですけど、仲はいいので」
「「よくないわ!」」
うん、すごく仲良しだ……普通ここまでぴったりハモらないぞ。わたしと美紗も仲良しだけど、ここまで息ぴったりになることは……いや、あるな。思い返してもこの一年で割とあって、何度か周りに突っ込まれた気がする。
まあ、そんなわたしと美紗から見ても、松崎と犬山は明らかに、喧嘩するほど仲のいい類いの間柄で、見ていて呆れるしかないのだけど、それはそうとして。
「というか、いじったって言っても、机の上に放置されていたスマホに、LINEの通知が来たのがたまたま見えて、手に取って確認しただけだよ。ロックかかっていたからメッセージの全部は見てないし、パスコードも知らないからそもそも開けないし」
「それでも勝手に触られたり見られたりするのが嫌だって人もいるんだよ。ちゃんと謝ったんだろうね」
「謝ったよ、そりゃ。でも川端さん、スマホ取り返してすぐに講義室出て行っちゃったから、聞こえていたかどうか……」
「つまり、てめーに愛想尽かして距離を取るようになった可能性もあるわけね」
「そんなにわたしを悪人に仕立てたいか!? 第一、この先輩方も言ってたじゃん、川端さんが休学届を出してるって……スマホ見られたくらいでそこまでする?」
「それくらい重要な内容のメッセージだったんじゃないの。他の誰かに見られたら、大学を離れざるを得ないような」
「こいつ後で絶対しばいたるわ……」
「やってみろー、返り討ちにしたるわ」
蓮華が大学に来なくなった原因が、松崎の軽率な行動にあると決めつけられて、松崎は怒り心頭に発して右手をコキコキと鳴らした。犬山もなんだか応戦する気満々だし、放っておくと取っ組み合いでも始めそうな雰囲気だ。
そんな空気をどうしようと思ったのか、美紗は白けたような素振りで訊いた。
「で? 実際のところどうだったの? その時届いたメッセージって、蓮華ちゃんにとって見られたらすごくまずい内容だったの」
「いえ……」松崎は一旦睨み合いをやめた。「さっきも言ったとおり、全部は見てないのでなんとも……ただ、男の人からだったと思います。名前的に」
「男の人?」
「確か、木島拓也って名前だったかと」
なるほど、名前から性別を判断するのは適切と言えないが、女の子に拓也と名付ける親はそうそういないだろう。
「その木島って人から、どんな感じのメッセージが来たか覚えてる? 通知が来たときに、最初のところだけは見えたよね」
「はい。でも今思うと、ちょっと妙な感じはあったんですよね……」
「妙な感じって?」
「パッと見は業務連絡っぽかったんです。『受け取りは明日、11時半、蒲之原ターミナル』ってところまでは見えたので。その時は、短期バイトのお給料でも受け取るのかと思ったんですけど、それにしては場所が変だなって」
蒲之原ターミナル……駅から少し歩いた所にある、バス停やタクシー乗り場が多く集まる場所だ。わたしは、徒歩以外の主な移動手段が電車だから、ターミナルを利用したことはまだないが、どういう場所なのかは知っている。サークルで過去に誰かが、読書スポットにふさわしいか調べたらしく、写真も含めた資料が部室にあって、以前にそれをチェックしていたからだ。
平日の朝と夕方は通勤・通学のお客さんでごった返していて、昼間は少し混雑が弱くなるが、それでもひっきりなしに人が通り、常にバスとタクシーが出入りしている。落ち着ける場所は小さな喫煙所くらいで、ターミナルを抜けない限り混雑を避けることはできない、そういう場所だ。
そんなところで給料の受け渡しをするとは思えないし、仮にターミナルの近くを指定するとしても、混雑して目印を見つけるのもひと苦労のターミナルに寄らせるくらいなら、直接どこかのお店とかを指定すればいいだけのことだ。バイトの給料を渡すならなおさらで、仕事場に呼び出すのが普通だし、その場合でも“職場”とか書けば場所は伝わるのだから、やはり場所を連絡するのにターミナルという単語を使う必然はない。
「確かに妙な感じはするね……」
「ですよね。そのメッセージが来たのが月曜日だから、指定されたのは火曜日の昼間ってことになります。大学生なら普通に講義があっても不思議じゃない時間帯だし、お給料の受け渡しに指定するとは思えないんです。まして蒲之原ターミナルなんて、昼間でも結構混雑するような所ですよ」
「となると、バイトのお給料じゃなく、別の何かを受け取る連絡ってことだね」美紗が言う。「しかも業者とかじゃなく、個人から受け取ろうとしている……わたしが真っ先に思いつくのは、やっぱアレかな」
「なんですか、アレって」
口元に手をあてて、やけに真剣な面持ちで、美紗は後輩の問いかけに答えた。
「……テストの過去問」
……あー、はいはい。小指の先ほどだが期待していたので、わたしはちょっと興醒めだ。
入学して間もない三人の後輩たちはピンと来ていないようだが、大学の講義にも当然ながら試験があって、高校ほど厳しくはないものの、単位の取得にも関わる大事な要素だ。しかし高校と違って、教員免許を持たない大学の教授や講師が作る試験なので、大体どの年でも内容が似通っている。そのため、過去の試験の内容から対策する学生が多く、その需要に応えるため、一部の先輩が過去問をコピーして後輩に渡すという文化がある。無料か有料かは人によるみたいだが。
一年近く大学生をしている美紗らしい発想と言えるが、それゆえに的外れだ。何しろ蓮華はここにいる三人の後輩たちと同様、入学して間もない一年生なのだ。
「まだ講義で試験が出るって話すら聞いていないのに、こんなに早い時期に過去問を入手しようとは考えないと思う。第一、先輩から過去問を入手するなら、身近な先輩であるわたし達に先に相談するはずだよ」
「うーん、それもそうか……じゃあ何だろ」
「そもそも、その木島って人がうちの学生とは限らないよね。もっと言えば、大学生でない可能性だってあるし……結局、何の受け渡しをするつもりだったのか、木島って男性の素性が分からないと、推測のしようがないよ」
「なんかますます心配になってきたなぁ……やばいブツとか受け取ってないといいけど」
美紗の言い方の方が女子大生としてやばい気もするけど、確かに、そのメッセージの送り主が何者なのかはっきりしない以上、非合法なものを取引した可能性は否定できない。あの蓮華に限って、と思いたくもなるが、本人が知らないうちに巻き込まれたということだって考えられる。むしろ、休学して友人やサークルの先輩とも距離を置いている現状を鑑みれば、そっちの可能性の方が大きいかもしれない。
とはいえ、松崎が蓮華のスマホをちらっと見た程度だし、本当に違法な取引に巻き込まれたという確証はない。最低限の証拠がなければ、警察に相談しても動いてはくれまい。
「どうしよう! やっぱ警察とかに届けた方がいいのかな!?」
「やばい事件に巻き込まれていたら……もしかして誘拐とか? だから連絡つかないとか」
「マジで激ヤバ案件じゃん! 警察! 警察って何番だっけ! 117!?」
「おーい、二人ともちっと落ち着けや」
現状で警察に相談しても動いてくれない、などと冷静に考えられる心理状態に、松崎と日垣は置かれていなかった。テーブルの向こうにいる犬山だけは、そんな二人を呆れた目で見ているけど……いや、よく見たらジュースのコップを持つ手がプルプル震えているぞ。実は犬山もあまり冷静じゃないな?
あと、117にかけても今の時刻しか分からないから、本当に落ち着け。
わたしは三人を落ち着かせるために、蓮華に関していくつか質問をすることにした。
「待って、今のままじゃ確実なことは何も言えないし、まずはこっちで確かめられることから確かめようよ。三人は、蓮華ちゃんがどこに住んでいるか知ってる?」
「え? えっと、確か、大学の西側にあるアパートに下宿しているって、前に聞いたことがあります。アパートの名前とか部屋番号までは分かりませんけど……」
「蓮華ちゃんは普段、徒歩で大学に来てるよね?」
「はい。高校の時から使っている自転車は持ってきているそうですけど、通学には使ってないって言ってました」
松崎と日垣が順番に答えてくれた。やはり普段から一緒に行動している同級生の証言は貴重だ。わたしの知らない情報がいくつか得られた。
つまり、大学の西側、徒歩圏内の学生向けアパートを虱潰しに探せば、蓮華の住んでいる部屋を見つけるのは可能だ。もちろん、大学の近くなんて、学生向けのアパートやマンションが溢れるほどあるし、今どきの女子学生なら玄関や郵便受けに名前は出さないから、一筋縄ではいかないだろうけど。
そんな事を一人で考えていると、後輩たちの視線がわたしに集まっていることに気づく。
「…………何?」
「もしかして先輩、川端さんの住んでいるところ、探すんですか」
「そりゃ、まあ……自宅に引きこもっている可能性だってあるし。もしそうなら警察じゃなく別の所に相談するべきだし」
「だったら、わたし達も手伝います!」
松崎は胸に手をあて、力強く言った。虱潰しに探すなら、確かに人手は多い方がありがたいけれど……。
「いいの?」
「大学で初めてできた友達のためですからね! 先輩たちだけに任せるわけにはいきませんよ。わたし達が加われば百人力です!」
「それ自分で言う?」と、日垣。
「しかも加わるの三人だけだし」と、犬山。
「いいじゃんか。三人寄れば何とかの知恵って言うでしょ」
一番肝心な“文殊”がうろ覚えでどうする……というかこの子たちの場合、文殊の知恵というより、女三人寄れば姦しいという類いでは。まあ、あちこちのアパートを訪ね歩くわけだから、負担が軽くなるに越したことはないが。
「じゃあわたし、西側エリアの学生向けアパート、ネットで調べてみる」
「わたしも手伝うよ。なるべく絞り込んで先輩に渡そう」
「だったらわたしはSNSで情報提供を呼びかけるよ。といっても、大ごとになったら後々面倒だろうし、控えめな感じで呼びかけようかな」
「文面はわたしが考えるよ。てめーに任せたら軽い気持ちで大ごとにされそうだし。リプライのチェックだけお願い」
「キサマから炎上させてやろうかオイ」
「ちょっ、ちょっと待って」
松崎と犬山の口喧嘩はこの十分足らずですっかり慣れてしまったけど、それはともかく、三人の言う手伝いの中身に関しては異議を唱えたい。
「もしかして三人とも、ネットでの調べ物だけで手伝いを済ませる気? 最後は足で探さないと見つけ出すことはできないんだよ?」
「でも、闇雲に探すよりは、先にある程度調べて絞り込んだ方が効率的ですからね」
「そうそう、それに見つかるまで歩き続けるって正直めんどく、んっ」
松崎は自分の手で自分の口を塞いで発言を遮った。
……いや、遅いし。全然本音を隠せていないぞ。たぶん日垣と犬山も、本心では歩き回るのが面倒だから、ネットでの調査だけで終わらせる気だったのだ。言い訳も説得力があるようでそうでもないし。
わたしはにっこりと笑って、友達思いの後輩三人に告げた。
「ネットで調べてある程度候補を絞れたら、君たちも実地調査に加わってね。大事な友達のためだし、先輩だけに任せておくわけにはいかないんでしょ? ね?」
「……これ、もしかしなくても、わたしが余計な事を言ったせい?」
「物言えば唇寒し秋の風、だな」
「いま春だけどね」
松尾芭蕉の俳句を引用するのは構わないが、とりあえずこの三人が、蓮華の身を案じてはいても、足を使った調査には消極的なのだと分かった。でもわたしが一度、手伝ってくれるのは助かると思った以上、その期待を裏切ってもらっては困る。この三人、首根っこを掴んででも調査に駆り出させてやろう。
さて、こんな状況で一人だけ呑気にしているのは、少なくなった豚汁のお椀の縁を、紙ナプキンでしきりに拭いている美紗だ。
「覚悟しておきなよー、後輩たちよ。彩佳はこうと決めたら絶対曲げない性格だから、手伝うと言った以上、こき使われるのは承知しておいてねー」
「……美紗は手伝わないの」
「わたしはバイトで忙しいからねー。こういうのは暇を持て余している彩佳が適任」
「誰が暇人よ。もうおやつ作ってあげないわよ」
「おかんか」
美紗は笑って突っ込んだ。こんな面倒な娘を産んだ覚えはない。
ただ、美紗はここまで一度として「手伝う」とは言っていないし、しかもすでに教務課での調査を済ませてしまっているから、これからの調査に美紗を巻き込む名分は乏しい。バイトで忙しいのは事実だし、無理に協力を頼むのも気が引ける。わたしがそう考えることを見越して、蓮華の身を案じつつわたしを焚きつけたなら、なかなかの策士だ。
そんな美紗とわたしのやり取りを、後輩たちは呆気に取られて見ていた。
「……先輩たち、仲いいですね」
「まあね!」親指を立ててドヤ顔になる美紗。「入学してから一年間、ほぼ毎日会っているくらいだからね!」
「何それ、すっご!」
思わず敬語を忘れるくらい驚く松崎。まあ確かに、ほぼ毎日会っているのは事実だ。後輩たちが思っている形とは違うかもしれないが。
しかし、後輩たちがわたしと美紗を呆然と見ていた理由は、漫才みたいな掛け合いに理解が追いつかなかったから、だけではない。そのことを日垣が話し出した。
「あの、それより、川端さんのことでひとつ、思い出したことがあって……」
「思い出したこと?」
「はい。その豚汁を見て思い出しまして」
「えっ? とんじる? 豚汁じゃなくて?」
「ん?」
首を傾げてお互いを見つめ合う、美紗と後輩たち。そういえば、北海道や九州では、“ぶたじる”の方が一般的だったな。九州出身の美紗はいつも、『豚汁』の文字を心の中でそう読んでいたらしい。
「まあそれはともかく。入学してすぐの頃、川端さんも含めた四人で、ここでお昼を食べていたんですけど、わたしが食べていた豚汁を、川端さんがじっと見つめていたんです」
「豚汁を?」
「その時に呟いていたんです。『ふうん、じゃがいもなんだ』って」
「豚汁にじゃがいもが入っているなんて、別に珍しくはないし、何だったんだろうね」
後輩たちは目を合わせ、不思議そうに言う。しかし、東京からさほど離れていないとはいえ地方生まれのわたしからすれば、そんなに不思議な話とも思えない。肉じゃがやすき焼きやおでんのように、一律に決まったレシピが存在しないために、地方ごとの特色が現れやすい家庭料理はいくつもある。豚汁もその例に漏れず、わたしは一年前まで、豚汁にイモ類を入れる文化がある事さえ知らなかったくらいだ。蓮華も地方出身だとすれば、馴染みのある豚汁のレシピと異なっていて、そんな感想になってもおかしくない。
という発想に至らない所を見ると、この三人は東京の一般的な豚汁のレシピに慣れ親しんでいるみたいだ。つまり……。
「君たち、みんな出身は関東だったりする?」
「なんで分かったんですか!?」
たいして頭を使ったつもりはないけど、松崎にものすごく驚かれた。なんかもう、いちいち反応が面白いから、機会があればこの後輩たちを地方ネタでいじってやろうかな。そんなことを目論んでいると、美紗がわたしの肩をつんつんと指で突いてきた。なぜかニヤニヤと笑っている。
「彩佳ぁ、そこは『初歩的な推理だよ』って言うところじゃないの~?」
「……世界屈指の名探偵の二番煎じは勘弁して」
読書スポット探求団に入ってから読み始めた古いミステリに、すっかり影響されている友人にからかわれて、わたしは肩をすくめた。
前作に比べると、(主に菜摘や後輩たちのおかげで)コメディ色が強くなりましたが、ここから次第にきな臭くなっていきます。そして、色々あった前作の出来事から一年経って、彩佳と美紗の関係がどう変化したのか、引き続き見守ってください。