前編
短いです。
いつだって感謝する心を忘れてはだめだと母は言う。
「産まれたことに感謝しなさい」
「健やかであることに感謝しなさい」
「美しい容姿をしていることに感謝しなさい」
「恵まれた生活を送っていることに感謝しなさい」
誰に感謝するの? とドリスが母に訊ねると、
「神様?」
「いいえ、違います。お前を産み育てた母親……あたくしによ」
それはもちろん感謝している。
言葉だけでなく、態度にも表してきたつもりだ。
母の誕生日には毎年プレゼントを贈ったし――子どもが買うような安物はいらないと言って、すぐに捨てられてしまうけれど――いつも親戚のことや父のことで愚痴をこぼす母を慰め、支えてきたつもりだ。
「ちょっとドリス、この荷物、重たすぎるわ。代わりに持ってちょうだい」
「でもお母様、私の両手はもう、お母様の荷物でいっぱいよ」
「もう一つくらい持てるでしょ? 貴女のほうが若いんだから」
貴女は若いのだから、少しくらい、年寄りの私に楽をさせてちょうだい、事ある毎に母はドリスに言い聞かせた。そのせいか、ドリスは子どもの頃から、自分のことよりも母のことを優先するようになっていた。
「今日はいい天気ね、ドリス。旅行にでも行きたいわ」
「ええ、そうね、お母様。執事に相談して、早速手配するわ」
「ドリス、ドリス、大変よ。お気に入りのドレスが見当たらないの」
「落ち着いて、お母様。私がすぐに探してくるから……」
「見つけられなかったら、新調するしかないわね。ドリス、午後は買い物に付き合ってちょうだい」
「あら、ごめんなさい、お母様。私、午後は予定があるの」
「予定?」
「三日前に話したはずよ。お友達のミレーネさんにお茶会に誘われたの」
「だったらお断りすればいいじゃない」
「そんなことできないわ。相手に失礼よ」
「まあ、なんて親不孝な娘なの。貴女を産んで育てたのは誰?」
血は水よりも濃し。
他人にいい顔しないで、自分にこそ媚を売るべきだと母は言う。
「娘というより、私はお母様専用の侍女ね」
「あら、何か言った? ドリス」
「いいえ、何も」
その上、母は大変な浪費家で、少しでもストレスが溜まると街へ出かけていき、見境なくドレスや宝石を買いあさった。お前は家の財産を使い果たす気かと、父は何度も母に注意したものの、
「あたくしがこうなったのは全部、貴方の浮気のせいよ」
逆に責められてしまい、最後は逃げるようにして屋敷を出て行くのだった。
そしてしまいには、ドリスが十八歳の誕生を迎えた日、
「ねぇ、お願いよ、ドリス。この家を助けると思って、承諾してちょうだい」
家のお金が尽きたため、財産家の老伯爵の元にドリスを嫁がせようとした。
若く美しい娘を後妻として差し出すことで、経済的支援を得ようとしたのだ。
「承諾してくれるわよね? お前は母親思いの、優しい娘だもの」
これまで散々、母に尽くしてきたドリスだったが、
「いやよ。私はもう、お母様の言いなりにはならないわ」
さすがに堪忍袋の緒が切れた。
「これからは自分の面倒は自分で見て。私もそうしますから」
母のことは愛している。父のことも。
けれどそれ以上、自分を犠牲にするのはごめんだと思った。
「結婚しないで、どうやって暮らしていくつもりなの?」
「ミレーネさんが働き口を紹介してくれたの。住み込みの家庭教師。私にピッタリでしょ?」
「家庭教師ですって……」
母は呆れたような顔をしていた。
「貴族の娘が家庭教師だなんて、外聞が悪いわ」
「雇い主がウォルバーグ公爵家でも?」
「まぁ……王家の血を引くウォルバーグ家。もちろん知っているわ。確か公爵は早くに奥様を亡くされて、十二歳になるご息女がおられるとか」
「そのご息女の家庭教師をお願いされたのよ」
「上流貴族のご令嬢に、下級貴族の娘が一体何を教えるつもり?」
公爵家と聞いて恐れおののいていた母だったが、
「まさか、礼儀作法やテーブルマナーだなんて言わないわよね? 貴女こそ学ぶべきだもの」
今や心底馬鹿にしたようにドリスを見ている。
けれどドリスは堂々と胸を張って答えた。
「手紙の書き方や本を読む楽しさよ。ミレーネさんの伯父様が有名な小説家なのはお母様もご存知でしょ? その方に文才があると褒められたの。私がミレーネさんにあてた手紙をお読みになったらしいわ」
「ただの社交辞令でしょう。それを真に受けるなんて、どうかしてるわ」
「お母様は信じないでしょうけど、私に文才があると言ってくださった方は他にもいるのよ。私の文章はユーモアに富んでいて想像力豊かだとロクサーヌ侯爵夫人にも……」
「んまぁっ、ロクサーヌ侯爵夫人? 貴女が夫人と知り合いだなんて知らなかったわ」
絶世の美女でありながら、知性的で顔が広く、芸術を愛するロクサーヌ侯爵夫人は、定期的に自宅の屋敷に友人を招いて、知的な会話を楽しむ交流の場を設けている。友人の中には有名な作家や人気の芸術家、学者もいて、今や誰もが知る人気のサロンだ。もっとも貴族で教養があれば誰でも出入りできるわけではなく、ロクサーヌ侯爵夫人のお眼鏡に適った者だけが参加することを許される。
「ミレーネさんのお宅で一度だけお会いしただけよ。その時はミレーネさんのご親戚の方だと思い込んでいたから、気楽にお話ができたの。お忙しい方だから最初は三十分ほどで退席するとおっしゃっていたのに、気づけば三時間も私たちと話し込んでいたのよ。信じられる? 私の話が面白いと何度も褒めてくださったわ。話し方が独特で、引き込まれると」
「……一体何を話したの?」
「たわいのない世間話よ。家族のこととか、最近読んだ本のこととか……ミレーネさんはいつも、私に小説家になるべきだと言ってくれるけれど、それはさすがに友人の欲目だってことは分かってるわ」
「夢見がちな小娘の考えそうなことだわ」
母は再び馬鹿にするように言った。
「結婚もしないで、家庭教師で一生食べていくつもり?」
「あら、これからのことなんてまだ分からないわ。好きな相手ができれば結婚するかもしれないし、いつか家庭教師を辞めて別の道を歩むかもしれない。人生はまだ長いもの」
「そう思っているのは貴女だけよ。しわくちゃのおばあさんになってから後悔しても遅いんだから」
「今まさに後悔しているのはお母様ではなくて? お父様と結婚したこと……」
おそらく図星だったのだろう。
母は逆上したように椅子から立ち上がると、
「今すぐこの家から出て行きなさいっ。泣いて戻ってきても、二度と家には入れてあげませんからねっ」
世間知らずの親不孝者。
我儘なうぬぼれ屋のバカ娘。
実の母親からさんざん罵られても、ドリスは泣き言一つもらさず家を出た。
「おい、ドリス。お前、どこへ行くんだい?」
途中、愛人を連れた父に引き留められた時も、笑顔で応じることができた。
「今までお世話になりました。これから公爵邸へ参ります」