変革の時
「その恰好……さてはあんた、邪神の下僕って奴ね?」
『いかにも。私の名はサージュ。邪神の下僕の一人さ』
屋根の上で見上げるニアと、高空から見下ろすサージュが睨み合いながら言葉を交わす。
幻覚かと思ったザドキエルだが、やはりニアは間違いなく目の前に存在している。本当にアリオトの異常を察し、隣町からここまで即座に駆けつけ、人々を救ってくれたのだ。あまりにも出来過ぎた話に、いっそ仕組まれたものを感じてしまうほどだ。
だがザドキエルはすぐにその考えを振り切り、氷の拘束を打ち破るために魔力を練り始める。自分たちの偏見と凝り固まった差別意識がこの危機を招いたのだから、これ以上愚かな考えや行為などしていられるはずもなかった。何より魔獣族が自分たちを護ろうとしているのに、自分は動けず見ているだけなどありえない。
「た、助けて、くれるのか……?」
「俺たちは、あんなに酷い事をしたってのに……」
この場の状況が見える位置にいる人々が、ニアの姿に感動と喜びを覚えて震えた声を零す。
あれだけ迫害されたにも拘わらず、自分たちを助けに来てくれた心優しい英雄の少女。彼らの目にはニアの姿がそう移っているのだろう。実際ザドキエルですらそう感じたのだから、街の人々がそう思うのも当然だった。
『しかし驚きだね。あまりの驚きに考えが纏まらないほどだ。君はどうやってこの街の異常を察した? どうやってここに辿り着いた? そもそも君は、助けに来る事など出来ないほど遠くにいたはずだが?』
「私を舐めて貰っちゃ困るわね。あんな魔力を撒き散らしてたら、それこそ星の裏側でも気付くに決まってるじゃない。あと本気を出せば隣町からここまでの距離なんて、数分もあれば走って来れるわ」
矢継ぎ早に放たれるサージュの問いに、当たり前のように答えるニア。
恐ろしい事に地平線の向こうからサージュの膨大な魔力を察知し、隣町からほんの短時間で走ってきたらしい。これにはザドキエルも空いた口が塞がらなかった。感知能力も身体能力も完全に規格外。正に少女の姿をした化物である。
『なるほど、まさしく化物だね。寸での所で惨劇を未然に防げた理由は理解した。だが理解できないのは彼らを助けた理由だ。君は彼らに謂れの無い罪で詰られ迫害され、この街を追い出された。そんな彼らを救う義理など無いだろう?』
「そうね。確かにあれは傷ついたわ。私は何もしてないのに、石を投げられ、罵声を浴びせられて、あそこまで悲しい気持ちになったのは久しぶりよ」
「っ……!」
ニアの悲し気な言葉に、ずきりと胸が痛むザドキエル。
幾ら彼女が天下無双の強さを持つ化物とはいえ、心を持った一人の少女なのは間違いないのだ。そんな彼女にとって、街の人々から手酷い迫害を受けるのはどれほど辛い事だったろう。今更ながら、自分の犯した罪を悔いるザドキエルであった。
「でもね、それが見捨てて良い理由にはならないのよ。確かにコイツらは酷い事をしてきたわ。それは間違いない。でも私の種族だって同じような事をやってきたのもまた事実よ。コイツらを責める事なんて、私には出来ないわ」
しかし当の本人はザドキエルたちを責めず、むしろ自分たちもまた加害者であると口にする。怒りや恨みを抱いて然るべき事をされたにも拘わらず、窺える横顔にその手の感情は存在しなかった。
「どっちかかが許して譲歩しないと、ずっといがみ合うしかない。そんな終わりのない喧嘩なんて真っ平ごめんよ。だから、私は許す。そして助ける。この世界に生きる人間として、苦しみ助けを求める人間を救う。そこに種族は関係ない。困ってる人がいるんだから、助けを求めてる人がいるんだから、それに応えられる力を持った私が助ける。理由なんかそれで十分よ」
当たり前のように言い切り、右手に握る大剣の切っ先を上空のサージュに向けるニア。
ザドキエルは最早目から鱗が零れ落ちる思いだった。彼女にとっては聖人族も魔獣族も、皆すべからくこの世界に生きる同じヒトなのだ。貧弱な猿と蔑む事も、薄汚い畜生と嘲る事も無く、善き隣人のように思っているのだ。
大天使たるザドキエルですら魔獣族を見下しているというのに、全ての種族を同じ人間として見る事が出来る者など、一体この世界にどれだけ存在しようか。まして憎しみの連鎖を断ち切り、更には憎き相手のために力を尽くせる者がどれだけいよう。
その精神性は正に英雄。あるいは――勇者。彼女が魔獣族である事は分かっていたが、それでもあまりの眩しさにザドキエルは目を細めてしまうほどだった。
『……なるほど、実に人間の出来た少女だね。やはり君は私たちの障害になり得る強さと思想の持ち主だ。最早この場で始末するしかない』
覚悟を決めたように言い放ち、再び天に右手を掲げるサージュ。同時に再び街の上空に黒雲が生じ、雷鳴を轟かせながら天を覆い尽くしていく。
『来たれ、裁きの雷。我が元に集い、絶対なる死を与える槍となれ』
形成された雷雲から迸る稲妻が、サージュの詠唱に従いその手元へ降り注ぐ。数多の轟音と稲光が過ぎ去った後、そこにあったのは青白く輝き放電を続ける雷の槍。
それは数十を超える稲妻を重ね、槍の形に凝縮した恐ろしい武器。先程の圧縮した雷雲を解放する魔法が面の攻撃ならば、これは点の攻撃だ。周囲一帯を殲滅するのではなく、ただただ一点に強力無比な攻撃を叩き込むための魔法。その破壊力は想像を絶するものだろう。
『森羅万象を灰燼と化せ――ネメシス・エクレール!』
そして放たれる、神罰にも似た極限の一撃。雷の槍が文字通り稲妻の如き速さで宙を駆け、全てを貫かんとニアへ迫る。
ザドキエルには無理だとしても、恐らくニアならば避けられる一撃だ。ならばこれを回避してサージュに一撃叩き込めば、それで戦いは終わる。ザドキエルは視界を覆い尽くす青白い稲光を前にして、そう考えていた。
「ぐっ、うううぅっ……!」
だが何故かニアは一切回避行動を取らず、馬鹿正直に大剣を盾にする形で真正面から雷の槍を受け止めた。
衝突の余波で周囲に衝撃波が広がると同時、雷の槍は放電という表現を超え荒れ狂う稲妻を撒き散らす。わざわざ受け止め拮抗しているせいで、ニアは度々その稲妻に身を焼かれていた。
「ちょ、ちょっとあなた!? わざわざ受け止めるだなんて、何をして……!?」
言いかけて、その途中で真実に気付き息を呑む。
ニアはザドキエルのすぐ目の前で雷の槍を防ぎ続けており、背後に稲妻が抜けるのを身体で必死に防いでいる。つまり、ザドキエルを護るための盾になっているのだ。
恐らく雷の槍は最初からザドキエルを狙う軌道で放たれ、それを察したニアは避けるどころか自分から飛び込み受け止めたのだろう。その場に身体ごと氷で縫い付けられ、動けないザドキエルを救うために。
他人を、それも敵種族を身を挺して救うなど、伊達や酔狂で出来る事では無い。その真っすぐな心と精神性に、ザドキエルは開いた口が塞がらなかった。
「これを受け止めるか! さすがだ! しかし――威力は刻一刻と増していくぞ!」
サージュが三度右手を天に掲げる。すると上空で雷鳴が轟き、稲妻が降り注いだ。ニアが鍔迫り合う雷の槍へと、その進撃を後押しするかのように。
「うぐぐっ! これはさすがに、ヤバいかも……!」
背後のザドキエルを護るためか一歩も引かずに受け止めるニアだが、常に雷に打たれ続ける苦痛は相当なものらしい。絶えぬ雷撃を一身に受けているせいで全身に青白いオーラを纏っているように見え、髪の毛やウサミミの毛はこれでもかと逆立っている。
むしろ数十の稲妻を束ねた暴威に晒されているにも拘わらず、良くその程度で済んでいるというものだ。
「が……頑張れ! そんな奴に負けるな!」
「お願い、負けないで!」
「頑張れ、嬢ちゃんっ!」
その必死の頑張りを目の当たりにした聖人族たちは、誰もが応援の言葉を口々に叫んだ。相手は魔獣族だというのに、ただ一心に彼女の勝利を願いながら。
そこには差別意識も敵意も無く、ただただ純粋に彼女を応援する真っすぐな心が宿っていた。
「ふうっ……こうなったら私も、黙って見てるわけにはいかないわよね?」
魔獣族が身を挺して街と人々を護り、ザドキエルすらも護っているこの現状。人々が差別と偏見を忘れ、自分たちのために戦ってくれている魔獣族を応援するまでに成長した事。
これほどの感動がもたらされたのならば、指を咥えて見ている事など出来はしない。敵種族に眩しいほど高潔な姿を見せられているのだから、子供たちが成長したのだから、こちらもそれに恥じない姿を見せつけなくてはならない。
「く、ううっ、あああぁあぁぁぁぁっ!」
故に、ザドキエルは力づくで氷の拘束を打ち破った。なけなしの魔力を振り絞り身体能力を強化する事で。
そのせいで衣服の大部分どころか、凍り付いてた肌が一気に剥がれ落ち激痛が走る。しかし常に雷撃に見舞われている彼女の苦痛に比べれば、この程度は蚊に刺された程度の痛みだ。
何よりザドキエルは彼女に対して酷く無礼で不敬な真似をしてしまったのだ。ならばこの程度の苦痛を甘んじて受けるのは当然だった。いや、むしろそれでもまだ足りない。
「うわっ!? ちょっ、あんた何してんの!?」
ニアの背中を支えるように、ザドキエルは自ら迸る雷撃の中に飛び込んだ。瞬間、ニアは驚愕の声を零し、同時にザドキエルの全身を凄まじい雷撃が襲う。
まるで血液が溶岩と化し頭のてっぺんから爪先までを焼き尽くしながら巡っているかのような、常軌を逸した苦痛が駆け抜ける。彼女は良くこれに耐えながら鍔迫り合う事が出来るものだ。
「私がこれを防ぐから、その間にあなたが奴を仕留めて! 今のアイツは街の人たちに声を届ける魔法を使えてないわ! これを維持するのに精いっぱいなのよ! 仕留めるなら今がチャンスよ!」
しかしついさっきまで半ば凍り付いていたザドキエルには、ちょっと熱めのお湯くらいの感覚。そう誤魔化して必死に堪えつつ、自らの獲物である大剣をニアの大剣の後ろに構える。彼女が鍔迫り合いを打ち切った瞬間、自らが稲妻の槍を受け止めるために。
「驚いたね。大天使が魔獣族の手を借りるのかい? 散々自らが迫害した少女に頼るのかい? どうやら君には恥やプライドという概念が存在しないようだね」
「正直、私自身もどうかと思うわ……でもね、全てをこの子に任せて自分は馬鹿みたいに見てるだけっていう方が、私には許せないのよっ!」
聖人族としては間違いだと言う事は分かっている。しかし街ぐるみの差別と迫害を受け追放された無実の少女が、自分たちを護るために戦ってくれているのだ。幾ら魔獣族への敵意を抱くザドキエルでも、その光景を目の当たりにして感化されないほど頑固では無かった。
「さあ、早く! アレを倒せるのはあなただけなんだから!」
「……分かったわ! 速攻で終わらせてあげる!」
電撃に焼かれ込み上げる血反吐を抑えながら言い放つと、ニアは一瞬の躊躇いを見せてから鍔迫り合いを打ち切り懐から抜け出た。そして進撃を食い止められていた雷の槍は、後ろに構えられていたザドキエルの大剣の腹に衝突する。
「うぐっ!? ぎいいぃぃぃぃっ……!!」
瞬間、両腕が肩から吹き飛びそうな衝撃を受け必死に歯を食いしばる。見た目こそ槍の形をしているが、その重圧はまるで巨大な城がぶつかってきたかのよう。あまりの威力にその場に留まる事が出来ず、ザドキエルの身体は屋根を踵で削りながら後退していく。
明らかに個人に向けるには過剰な威力。更には常時迸る雷撃が身体を貫き、肉体の表面も内部も焼き焦がす。恐らく万全の状態であろうと、長くは食い止められないだろう。
しかしそれでもザドキエルは全霊を込め、雷の槍を必死に受け止める。何故なら背後には護るべき子供たちがいるのだ。例えこの身が芯まで黒焦げになろうとも、絶対に背後に抜けさせるつもりは無かった。
「――覚悟しなさい! 邪神の下僕!」
ザドキエルが全身全霊で防ぎ続ける傍ら、ニアが軽やかに空へと跳ぶ。そうして何も無い空中を足場のように蹴りつけ駆け上がり、高空に佇むサージュへと迫っていく。
「無駄だ。君の力がいかに優れていようと、この二重の防御を貫く事は敵わない」
迫るニアを前にしてサージュの身体から赤色のオーラが湧き上がり、同時に透明な球体状の防御膜に覆われる。
あの赤色のオーラが何かは考えるまでも無い。魔獣族の攻撃を無効化する強力無比な防御の力であり、あれが存在する限りニアの一撃でサージュにダメージを与える事は不可能だ。挙句にサージュ自身を包むように別の防御まで展開されているのだから、これではどう転んでもニアの一撃が通用しない。
「魔獣族の攻撃を無効化する邪神の加護。そして触れるもの全てを受け止め反射する攻防一体の領域。あまり長くは維持できないが、君がどれだけの力を持っていようとこの二重の防護の前では無意味だ。むしろ君の力が大きければ大きいほど、跳ね返る力も増加する。さあ、自分自身の力で倒れ伏すがいい」
余裕綽々でニアを迎え撃つサージュ。その防御に絶対の自信を持っているのだろう。両腕を広げ無防備を晒し、迫るニアを見下ろしている。
せめて魔獣族の攻撃を無効化する邪神の加護だけでも剥がせれば。そう考えるザドキエルだったが、今は雷の槍を受け止めるだけで精いっぱいだ。すでに呼吸器系も焼き尽くされているのか碌に呼吸も出来ず、意識が朦朧として倒れそうなのを根性で抑え込んでいる状態なのだから。
やはり駄目なのか。最早痛みすらも分からない中、悔しさと絶望に挫けそうになるザドキエルだったが――
「甘いわね! その煩わしい防御もあんた自身も、一切合切纏めて斬り捨ててあげる! 何であろうと全てを斬り裂く、究極至高の一撃を受けてみなさい!」
ニアは決して諦めない。膨大な魔力を迸らせながら、眩しいほどに光り輝く大剣を振り被っていた。
まさか本当に斬るつもりなのか。あらゆる理不尽を捻じ伏せ、勝利を掴み取る気なのか。どうせ無理だと諦めを抱く傍ら、ザドキエルは彼女ならあるいはと期待に胸を高鳴らせていた。
「全てを斬り裂け! アメノムラクモォ!」
そして振るわれる究極の一撃は、光り輝く大剣での何の変哲も無い横凪の一刀。
だがそれがもたらした事象はあまりにも大きく、そしてどこまでも派手だった。
「がっ!? ば、馬鹿な……私の、身体が……!?」
究極の防護壁を紙のように引き裂き、邪神の加護を貫き、サージュの胴を真っ二つに斬り裂いた。
しかしそれでもニアの一刀の威力は収まらない。天を覆い尽くす雷雲を真一文字に消し飛ばし、残りの雷雲を風圧と衝撃波で消滅させ、アリオトに日の光を取り戻したのだ。全てを斬り裂くという言葉に嘘は無い事が分かる、あまりにも強烈で鮮烈な一撃だった。
「う、ぁ……」
身体を両断されたサージュが鮮血を撒き散らしながら地に落ちて行く中、ザドキエルはその場に崩れ落ちる。死に物狂いで防いでいた雷の槍が消滅したため、力のやりどころが無くなり体勢を崩してしまったのだ。
全身火傷で美貌も台無し、満身創痍で動く事もままならず倒れ伏すしかないザドキエル。その姿は聖人族の守護者たる大天使として、酷く無様で情けないものだろう。
「あっ……う、動ける……動けるぞ!」
「やった! 嬢ちゃんの勝ちだ!」
「邪神の下僕はくたばった! この街は救われたんだ!」
「うおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
しかしザドキエルの胸には確かな満足感があった。間違いなくこの街が救われ、人々の犠牲も最小限に抑えられたのだ。
周囲どころか街中から歓喜の叫びが上がり、魔獣族であるニアを称える声すらも少なくない。ザドキエルとしても間違いなく感謝の気持ちがあるし、何より非常に悔しいが逆立ちしても彼女には勝てそうになかった。強さの面でも、精神的な面でも。
「……酷い姿ね。まだ生きてる? ヒール」
実際彼女はザドキエルの傍まで歩み寄って来ると、当然のように魔法で治療してくれた。死にかけのザドキエルを詰りトドメを刺しても許されるくらいの事をされたというのに、怒りや憎しみなど全く感じさせない、ただただ哀れみの表情で以て。
「ふうっ……やっぱり、敵わないわね?」
それを深く思い知ったザドキエルは、妙に清々しい敗北感を覚えながらため息を零すのだった。