呉越同舟
⋇バール視点
⋇残酷描写あり
⋇地獄
「これがこの世の地獄というやつか……」
魔王の護衛任務が始まってからおよそ一月。我は悪意と混沌の掃き溜めとも言えるおぞましい世界の中、一人曇天を仰いで絶望を胸に抱えていた。
長き時を生き、また幾度も聖人族との戦争に参加した故に、色々と汚いものは見てきた。人間の悪意というものもまた飽きるほどに見せられた。けれど目の前のこの光景に比べれば、それらはまだまだ優しかったのだと理解できた。
「ギャアアアァァアアァァッ!?」
「オラ、もっと腹から悲鳴上げろ。死にたくねぇなら喉が張り裂けるくらいに叫びやがれ」
「アアアアァアアッ!! ご、ろして、殺してええぇぇぇぇっ!!」
目の前では凄惨な拷問が繰り広げられている。どこから連れて来たのか魔獣族の少女の手足を切り刻み、少しずつ皮を削ぎ落していくキラがいる。痛みで彼女が失神すれば傷口を抉って叩き起こし、再び皮剥ぎを開始する。
少女が何度死を願おうともお構いなし。気付いているのかいないのか、生への執着に彩られた綺麗な目玉を得るという彼女の欲望とは、明らかに真逆の行為であった。実際拷問を行うキラの表情は酷く不機嫌であり、まるでただ八つ当たりをしているようにも思えた。
「ワォ~ン! 主~、主に会いたいよぉ~! もう一月と三日と十四時間二十八分も会っていない~! あ~る~じ~っ!」
そんなキラの周りを四足で駆け回り、虚しい遠吠えを零すトルトゥーラ。
どうやら長らくクルスに会えていない事で精神に異常をきたしているようで、薬物の中毒症状を発症しているかのような危険な表情でひたすら叫んでいる。半月目くらいからその兆候が表れていたのだが、ここまでくると最早病気だ。
「ああ、ヴィオ。早くあなたに会いたいです。あなたの声を聞きたいです。私を壊れるほどに強く抱きしめて欲しいです……」
しかし病気の奴は他にもいる。それは寂しげな瞳で月を見上げるリリアナだ。一見恋煩いをしているようにも見えるが、何故か月を見上げながら自分の手首を短剣で幾度も斬りつけている。骨が見えてこようが千切れかけようがお構いなしに、何度も何度も飽きる事なく。まるでその痛みで寂しさを慰めているかのように。
「ふむ。大体道のりの半分を過ぎた所か。特に問題も無く進めているな。予定より遅いのはあの魔王が臆病者の腰抜けだからか」
そして周囲が地獄の極みであるにも拘わらず、顔色も変えずに地図を取り出し道程を確認するベルフェゴール。今日はリアの姿をしているが、食事代わりにキラが斬り落とした魔獣族の手足を食べているのであまりにも悍ましい。
混沌を極めたようなこの状況。まともな者が一人たりともいない地獄。気を抜くと失神しそうなほどの過酷さに、我は声を上げて泣きたい気分になっていた。
「おい……おい、この惨状を見て何か思う所は何も無いのか? これに比べれば野盗の集団でもまだ精神的には健康そうだぞ?」
さすがに耐えられず、我はベルフェゴールに意見する。恐怖で多少声が裏返ってしまったし、鋭い睨みが返ってきて腰が抜けそうになったものの、表面上は何とか平静を装う事が出来た。
「何を言っている? こうなる事など分かり切っていただろう。お前はこのグループで和気あいあいとした楽しいピクニックになるとでも考えていたのか? 吸血鬼の活動時間の割には随分寝惚けた事を抜かすな?」
「我と違って予想出来ていたのなら貴様が何とかしろ! このままでは瓦解してしまうぞ、この異常者しかおらぬキワモノ集団は!」
「あ? 何だその言い草は? しかも私が異常者だと? 何ならここでメンバーを一人減らすか? お前程度なら消滅させてもご主人様は許して下さるだろう」
「……大変申し訳ない。酷く無礼で生意気な物言いでした。以後気を付けます」
「よし」
即座に地に伏して額を地面に擦りつけ、誠心誠意の謝罪をする。
ああ、全くどうしてこんなグループになってしまったのか。素直にくじを引いたのが悪かったのか。魔法で何らかの細工をするなり、クルスに袖の下を渡すなりすれば良かった。そうすれば今頃我はあちらのグループで穏やかな時間を送っていたはずだというのに……。
「グギッ!? アガアアァアァァァッ!!」
「そらっ、もっと鳴け。精々あたしの苛立ちを和らげる耳障りの良い悲鳴を聞かせやがれ」
「アオオォォォォォォォ~ンッ!!」
「ああ、ヴィオ……あなたに与えられた愛を、痛みを、また味わいたいです。またあなたに愛されたいです……」
そんなやりとりをしている内にも、精神的にだいぶ参っている者たちの凶行は継続している。
何だかもう全てを投げ出して屋敷に帰りたいくらいだが、そんな職務放棄をすればそれこそベルフェゴールに喰われかねない。
くっ、我はこの地獄で精神をすり減らす他に無いのか!? そもそも何故我よりもアイツらの方が精神的に限界を迎えているのだ!?
「……貴様の物言いはさておき、確かにこのままでは近い内に役に立たなくなりそうだな。できればもっとギリギリまで取っておこうと思っていたが、この辺りが使い時か」
さすがにこの惨状を無視はできなかったのか、一つため息を零して虚空に手を突き入れるベルフェゴール。そこから取り出されたのは幾重にも重ねられた袋により厳重に密封された何かが二つ。
それが一体何かは分からないが、この惨状を少しでもマシに出来るのなら何だろうと構わなかった。
「トゥーラ。それとリリアナ。これをお前たちにやろう」
そう口にして、ベルフェゴールは二人にその謎の物体を投げ渡す。というより、近くの地面に投げ捨てる。
片や虚しい遠吠えをしながら走り回り、片や自傷行為で忙しいため気付かない――はずだったが、二人の凶行は不意にぴたりと止まった。そして全く同じタイミングで、自らの近くに落ちている謎の物体に視線を向ける。
「……こ、これは~っ!!」
「ヴィオの匂いが、するです……!」
二人は突如としてだらしなく表情を歪ませ、謎の物体を手に取ると包装を恐ろしい勢いで破り捨てていく。
というか、匂いだと? まさかアレは……?
「お前たち二人は特に執着が激しい奴らなのは分かっていたからな。予め洗濯物から適当に失敬して保存しておいた。この護衛任務も折り返し地点だ。それで何とか我慢しろ」
どうやら予想は間違いではなかったらしく、厳重な密封の下から現れたのはクルスとヴィオの衣服の数々だった。どうやら洗濯前の体臭がしっかり染み付いている物を確保していたらしく、ご馳走を前にした幼児のように二人の異常者は瞳を輝かせていた。
「あ~っ! 主、主の匂いだ~っ! クンクンクンクン、スーハースーハー!」
「ああ、ヴィオ……私は今、ヴィオに包まれているです……!」
そして何の躊躇いもなくそれを用いて自身の寂しさを慰める。トルトゥーラはクルスの下着に顔を埋め尻尾を振って転げ回っているし、リリアナはヴィオのシャツを着こんで悶える始末。
どう見ても危ない光景だが二人の表情は恍惚としており、幸福の絶頂を味わっているのは明白だった。一月前に確保された洗濯前の衣服なのだから、恐らく匂いも相当熟成されているのだろう。それこそ薬物でも嗜んでいるかのような行き過ぎた笑みを浮かべている。
「……聞いていないな、これは。まあしばらく放っておけばマシになるか」
「むしろ先ほどよりも症状が重くなっているような気もするのだが?」
我の指摘を無視して、ベルフェゴールは再び虚空に手を突っ込む。
次にそこから取り出されたのは――瓶詰めになった眼球。一瞬度肝を抜かれたが、冷静に考えるとこの場の光景に比べれば別に驚くような物でも無かった。
「おい、キラ。お前にはこれだ」
「っと――おいおい、コイツは良いじゃねぇか!? この色艶も最高だぜ! お前、何でこんなもん持ってんだよ!?」
「アッ……!」
それを投げ渡されたキラは今まで嬲っていた魔獣族にあっさりトドメを刺し、興奮に目を輝かせて手の中の眼球を眺める。どうやら相当お気に召すレベルのものだったらしく、先二人の興奮に勝るとも劣らない反応だった。
「万が一お前が欲求を抑えられなくなった時のため、ご主人様が手ずから用意していたものだ。その上の黒い水晶球に額を当てると、殺す直前からの場面を追体験できるらしいぞ」
「マジかよ! よし、んじゃ早速……!」
キラは即座に額を黒い水晶球に当て、殺しの追体験へと耽る。
猟奇殺人鬼としての矜持と拘りを取り戻したのか、あるいはクルスが直々に用意したプレゼントが嬉しかったのか。いずれにせよ終始不機嫌だったその表情は嘘のようにご機嫌な物と化していた。長い尻尾がリズムよく振られているのもその証拠と言えるだろう。
「まあ、これでしばらくは持つだろう。いよいよ最悪の場合はご主人様やヴィオに連絡を入れて声を聞かせたり、直接会わせる必要がありそうだが」
「……最初から疑問だったんだが、何故奴はそれを禁じているのだ? こうなる事を予期できて対策まで考えているのだから、未然に防ぐためにそれくらいは考え付くだろう?」
不思議な事に、クルスはよほどの緊急事態でもない限りは連絡を入れる事を禁止している。腕輪の魔道具を使えば通信自体は可能だが、許可されているのは同じグループ内のメンバー間での通信のみなのだ。
あの異常者共は頭がおかしいわりに律義にそれを守るため、あんなモンスター共が生まれてしまっているというわけである。
「アホか貴様は。コイツらの様子を見ろ。禁止しなければ四六時中連絡を入れて絡むに決まっているだろう」
「あ~っ、のしかかられてる~っ! 主が覆い被さってきている~っ!」
「ああ……これで首を締めると、まるでヴィオに首を締められているかのようです……!」
自ら巨大な岩とクルスの衣服の下敷きとなり、発情した声を零すトルトゥーラ。ヴィオのズボンで自らの首を締め上げ、恍惚の吐息を零すリリアナ。
うむ、確かにこの惨状を見れば連絡を禁止したくなるのも頷けるな。誰にも邪魔されずゆったりとした時を過ごすためではないかと思ったが、この光景を見た後では理由は間違いなくこれだと察せる。こんな奴らに四六時中連絡を入れられては頭がおかしくなりそうだ。
「さて、私は魔王を襲撃でもしてくるか。ゆっくり休めると思うなよ? フフフ……」
二人の所業にドン引きしてしまう我を置き、ベルフェゴールは不気味な笑みを零しながら魔王たちの元へと向かう。
ああ、また八つ当たりと言う名の攻撃を仕掛けるのか、コイツは……。
「……帰りたい」
誰一人としてまともな者がいない狂人の巣窟に、我は顔を両手で覆い何度目とも知れぬ弱音を零すのだった。これがあと一か月も続くのか? 頼むから冗談だと言ってくれ……!
色々と限界ギリギリ。