破滅の序曲
⋇セレス視点
「――あれ? ここ、は……?」
ふと気が付くと、あたしは暗くて肌寒い場所にいた。しかも裸で。
何だろう、ちょっと記憶が曖昧だ。あたしはどうしてこんな所にいるんだろう。そもそもここはどこだろう? あとうら若き恋する乙女のあたしが、何で裸でこんな場所に倒れてたの?
「あたし……確かクルスくんと宿に入って、それで……」
必死に頭を働かせると、直前の出来事をぼんやりと思い出してくる。
そう、あたしはクルスくんと幸せなデートをした。でもただのデートだけじゃ、あたしのクルスくんへの愛はもう表現できない。だから一晩だけ一緒に過ごしたくて、あたしの方から誘って宿に入った。
それでシャワーを浴びたあたしは、ベッドで待ってたクルスくんと――うーん、おかしいな? ここで記憶が途切れちゃってる。一番大事なとこなのに、何で覚えてないんだろ?
困惑半分、悔しさ半分で周囲に視線を巡らせると、唐突に既視感に襲われた。何だろう、この場所の光景、凄く見た事がある気がする。殺風景で、恐ろしくて、それで白と黒の二色で構成された、無機質にも取れるこの内装――
「――っ!? 嘘っ!? ここって……邪神の城!?」
それに気付いた瞬間すぐさま跳ね起きて、空間収納から愛用の長剣を取り出し構える。素っ裸だから凄く恥ずかしいけど仕方ない。それに見た感じ周囲には誰もいないっぽいし、気配も感じられないからうら若き乙女のプライドは何とか保たれた感じ。
「あたし、何でこんな所に……もしかして、夢?」
気が付けば邪神の城にいるっていう現実が理解できなくて、思わずそんな事を口走る。
だけどこれが夢じゃないって事は最初から分かってた。裸の肌を撫でる空気が凄く冷たくて凍えそうだし、手に握ってる長剣の感触も確固たるもの。ここまでリアルな夢なんてありえない。
間違いなくこれは現実。そしてあたしは、たぶん邪神の魔法か何かでこの城に連れ去られたんだと思う。魔将バール様も邪神の下僕に拉致されたらしいし、ありえない話なんかじゃない。どうしてあたしなんかを拉致したのかは疑問だけど。
それにしてもタイミングが死ぬほど最悪。いやでも、クルスくんと、その……愛し合ってる途中で拉致されるよりは、まだ良かったのかな……?
「……とりあえず、服を着よう。あたしがこんな姿を見せるのはクルスくんだけだもんね」
まずは服を着る事に決めて、周囲を警戒しつつも空間収納から衣服を取り出して着込んでいく。
あたしがここに拉致されたなら、一緒にいたクルスくんも同じく連れて来られてる可能性が高い。今のクルスくんは魔力もだいぶ回復してる状態だから心配いらないかもだけど、万が一って事もある。ここは早く探して合流しないとね。問題はクルスくんがどこにいるかって事なんだけど……。
「……開かない。出す気はない、って事かな」
ひとまず退路が確保できるかどうか確かめるために正門の方に来てみたけど、大きな扉は押しても引いてもビクともしなかった。
まあ自分で攫ってきたなら簡単に逃がしたりはしないよね。邪神なら誰も逃がさないくらい出来るだろうし。あたしやカレン、ラッセル君は気まぐれで見逃されただけだもんね。
「だとしたら、進むしか無いよね」
道順を覚えてるから、玉座の間へのルートも頭に入ってる。出入口が使えないなら、進むしかない。もし玉座の間に邪神がいたとしても、あたしを殺すつもりは無いからたぶん大丈夫なはず。殺す気ならわざわざ拉致して、こんな城の中に放置したりはしないはずだし。
だからあたしはクルスくんを探しつつ、玉座の間へと向かった。声を出すのは少し憚られたけど、生き物の気配は無いし大声でクルスくんの名前を呼びながら。
でも結局それに応えてくれる声は聞こえず、あたしはやがて玉座の間の前へと辿り着いた。玉座の間へ続く大きな扉は開放されていて、まるであたしを歓迎してるみたい。嫌な予感しかしないけど、無力なあたしはここに足を踏み入れるしかなかった。
中は中途半端に壁際の燭台に火が灯っていて、中央から先が良く見えない。玉座に誰かが座っているけど、その姿もうっすらとしか視認できない。まあ、こんな城の玉座に座る奴なんて一人しかいないか……。
「――ようこそ、我が城へ。悪魔セレステル」
予想通り、それは邪神。あたしをこの城に拉致した張本人。そんな奴が碌に姿も見えない状態で、フレンドリーに声をかけてきた。あたしはいつでも戦闘に入れるように油断なく構えながらも、その声に応える。
「やっぱりあんたの仕業なんだね、邪神クレイズ。あたしを拉致して何のつもり? しかも最低最悪なタイミングで拉致するなんて信じられない。絶対に殺してやる」
「殺す? 三人がかりで私に手も足も出なかったお前が、たった一人で私を殺せるとでも?」
「っ……」
そう指摘されると、悔しさに唇を噛むしかない。
もの凄く良い所だったのを邪魔されて殺したいくらい憎いけど、あたし一人じゃどう足掻いても邪神を殺せない事は分かってた。邪神の防御魔法を突破するには、生きた両種族が攻撃を加えなければならない。
でもここにいるのは魔獣族のあたしだけ。クルスくんが合流しても、魔獣族が二人になるだけ。<隷器>じゃ防御は突破できないから、あたしたちは邪神に手も足も出ない。悔しいけどそれは認めるしか無かった。
「そんな不可能を論ずるよりも、お前に一つ素晴らしい提案がある。私と取引をしようじゃないか」
「……取引?」
そんな無力な存在であるあたしに、邪神は何故か対等な存在との交渉みたいな事を言い出す。
取引なんて言わずとも、コイツには全ての望みを叶える力がある。あたしたちとは比べ物にならないほど膨大な魔力を持つ邪神なら、ちっぽけな存在と取引をする理由なんてどこにもないはず。
「私の物になれ。お前の全てを私に捧げろ。さすれば、お前の命だけは助けてやろう」
そう思っていたら、邪神が口にしたのはあまりにも突拍子の無い提案だった。あたしの全てを邪神に捧げる代わりに、命だけは見逃すという取引。それは正しく奴隷に堕ちるのと同じ事で、死ぬのと何ら変わりない。
ううん、違う。世界中で酷い扱いを受けていた奴隷たちの様子からすると、死ぬより辛い事でしかない。
「あっそ。お断りだね」
だからあたしは、躊躇いなくその提案を蹴った。元よりこんな提案、一考にすら値しないから。
「ほう? 何故だ?」
「確かにあたしはまだ死にたくないよ。やり残した事もいっぱいある。だけど、あたしはもう自分の全てを捧げる人は決めたから。その人以外に捧げるなんて、死んでもごめんだね。それならあたしは潔く死を選んで、愛に殉じる」
そう、あたしの好きな人はクルスくん。だから自分の全てを捧げる人も当然クルスくん。間違っても邪神に捧げるつもりなんて無いし、そんな事をしてまで生き延びたいとは思わない。だったらあたしは愛のために生きて、愛を貫き通して死にたい。
その気持ちを示すため、邪神に向けて剣を突き付ける。ぼんやりとしか見えない姿が震えてるように見えるのは、提案を蹴られた怒りかもしれない。次の瞬間にはあたしは成す術も無く殺されてるかもしれない。だけどそれでも、この胸に抱く愛にだけは背きたくなかった。
「――フフッ、ハハハハハハハッ!」
不意に、邪神は大きな声で笑い始める。まるで愉快で堪らないって感じに。身体が震えてるように見えたのは、どうも笑いを堪えてたからみたい。
でも、あたしの想いを馬鹿にされたみたいで凄く不愉快。攻撃が通じるなら反射的に斬りかかってたって思うくらいに。
「雄々しい事だ。ああ、本当にさすが。さすがだよ――セレス?」
「えっ、あ……えっ!?」
そこで唐突に、邪神の声質が変わる。聞きたくも無かった恐ろしいものから、凄く聞き覚えのある聞いてるだけで安心する声質に。同時に中途半端に灯ってた玉座の間の灯りが増えて、玉座に腰掛けてた邪神の姿が良く見えるようになった。
ううん、違う。これは邪神じゃない。この落ちぶれた盗賊みたいな恰好をして、柔和な表情を嫌らしく歪めてる人は――
「く……クルス、くん……?」
「そう。君の愛するクルスその人さ。びっくりした?」
あたしの好きな人、クルスくんだった。まるでサプライズが成功したみたいに、さも愉快って感じにとっても良い笑顔を浮かべてる。それが分かった所で、あたしは構えてた剣を下ろした。
普段ならその笑顔を見るだけで嬉しくなってくるけど、さすがに今回ばっかりはそうもいかない。
「クルスくん、さすがに冗談が過ぎるよ!」
「冗談? 冗談って何の事?」
「あたしたちは邪神の魔法でここに囚われてる真っ最中なのに、そんな風に邪神の真似をして脅かすだなんて! 冗談にしてもさすがにこれはやり過ぎだよ!」
そう、今のあたしたちは邪神の城に拉致されてる危険な状況。クルスくんは邪神と直接戦ってないし、性格上仕方ないかもしれないけど、さすがにふざけてる場合じゃない。あたしたちだけじゃ邪神には勝てないどころか戦いにもならないし、こんな所で堂々とおふざけしてる余裕なんてどこにもない。一刻も早く、ここから逃げる方法を考えないと――
「――ああ、だってそれは冗談じゃないし。紛れもなく僕こそが邪神なんだもん」
「……えっ?」
だけどそこで、クルスくんが唐突に変な事を口走った。自分こそが邪神だっていう、まだおふざけが抜けてないとしか思えない事を。
さすがのあたしもこれにはムカッときた。クルスくんは危機感が無さすぎる。だからちょっと怒りながらも、今がとっても危険な状況だって事を丁寧に教えてあげようとした。
「信じられない? じゃあ翼でも生やして見せようか。ほら」
「……えっ」
だけどその前に、玉座に腰掛けたクルスくんの背からバサリと翼が広がった。それは蛹から羽化した蝶が羽を広げるみたいに美しく見えたけど、同時にとてもおかしな事でもあった。
クルスくんはあたしと同じニカケの悪魔で、角しかないから翼は無い。でもその翼は確かにそこにあるし、何より魔将の翼よりも大きくて立派だった。それに色が純粋じゃない。片方は真っ白で、片方は真っ黒。まるであの日あの時、この場所で見た邪神の翼にそっくりだった。
「いや、これくらいなら誰でも出来そうだな。じゃあエクス・マキナを操って見せようか。ほら、おいでー?」
「っ!?」
クルスくんがパンパンと軽く手を打った瞬間、玉座の左右に獣型のエクス・マキナが唐突に現れる。狼が威嚇しながら距離を詰めて来るみたいに、ゆっくりと迫ってくる二体の獣型。あたしが反射的に飛び退って剣を構えると、途端に二体の獣型は飛び掛かる力を溜めるように一瞬身体を沈めて――
「――お座り」
「なっ……!?」
クルスくんの指示を受けて、二体の獣型はその動きを止めて犬みたいにお座りをする。偶然なんかじゃない。紛れも無くクルスくんの指示を聞いてるし、そもそもここに現れたのもクルスくんが呼び出したみたいな感じだった。
「どう? これで信じてくれた? 僕こそが邪神クレイズ、その人なんだよ」
「う、嘘だっ! クルスくんの振りをして、あたしを惑わせようとしてるな!」
だけど、こんなの信じられるわけがない。クルスくんが邪神だなんてありえない。だから邪神がクルスくんの姿に変身して、あたしを騙そうとしてるっていうのが一番納得が行く。
そう、そうだよ。こんなの絶対ありえない。あたしの目の前にいるコイツは、絶対にクルスくんじゃない! 確かにクルスくんはちょっと悪い人で性格も少しアレだけど、命がけであたしを守ってくれるような凄く良い男なんだから!
「紛れもなく本人なんだよなぁ。意外と本人の証明って難しいよね? DNA鑑定でもする?」
クルスくん――の姿をした邪神は、クルスくんそのものの顔で難しい顔をして、訳の分からない事を口走る。
本人の証明が出来るものならしてみれば良い。どうせ見せかけだの張りぼて変身だろうし、あたしとクルスくんしか知らない事でも喋らせればすぐにでもボロを――
「じゃあ僕らの出会いを話そうか。君は闘技大会で見てたから一方的に僕の事を知ってたけど、僕らの初めての出会いは冒険者ギルドだったね。<隷器>を作るための素材狩りを二人で頑張ったっけ。君は初対面からグイグイ来たよねぇ? 僕としては初めて会ったばっかりだったから何でそんなに好意的なのかは分かんなかったけど、まさか闘技大会の時に惚れられてるとはビックリしたよ」
「あ……」
そうだ、覚えてる。あたしとクルスくんの出会い。
邪神が降臨して、世界中にエクス・マキナが召喚されたあの日だ。エクス・マキナに対抗するための<隷器>を作るために、クルスくんと二人で素材狩りと称して、聖人族奴隷の腕をひたすらに切り落としたっけ……でも、どうして邪神がそれを知ってるの……?
「ああ、そうそう。あの時君が自分の家から持ってきてくれたオレンジジュース、よーく冷えてて美味しかったよ。ありがとう」
「…………………」
この発言には、最早驚きの声も出なかった。
何で? 何であたしとクルスくんの出会いだけじゃなくて、そこまで知ってるの? どうしてあたしが持ってきた飲み物の事すらも知ってるの? もしかして記憶を読まれた? いや、そんな事をされたら魔力を感じるはず……。
「あの時、僕がバックレるのを見逃してくれた事もお礼を言わないとね? あの時は邪神として世界に脅威を与えつつ、同時に一冒険者として行動してたからなかなか面倒だったんだ。君のおかげで邪神として動きやすくなって本当に助かったよ。ありがとう、セレス」
そうして、邪神はとってもクルスくんらしい笑顔でお礼を口にしてくる。凄く優し気で、悪意なんて欠片も見えないような顔で、嬉しそうに笑って。
ああ、そうだよね。例え記憶を読んだとしても、こんな風に完璧にクルスくんの笑顔を再現する事なんてできないよね。こんな、あたしの記憶とそっくりそのまま同じ――ううん、違う。それよりも見た事が無いほど、嬉しそうな笑顔をするなんて……。
「……本当に……クルスくん、なの?」
驚愕と困惑に戸惑いながらも、何とかその問いを絞り出した。
否定して欲しい。夢であって欲しい。そう願うあたしに対して、玉座に腰掛けた彼はさも愉快と言いた気に笑った。
「そうだよ。やっと理解してくれた? こんな僕に惚れるだけあって、随分頭が弱いんだね?」
その笑顔もあたしの記憶の中にあるのと同じ、だけどそれを遥かに上回るほど楽しそうな、正真正銘クルスくんの笑顔だった――
ついにネタ晴らし! もちろんクルスは最高に楽しんでます。