邪神の下僕
⋇レーン視点
⋇残酷描写あり
世界平和を実現するにあたって、障害となるものは数多く存在する。取り分け最も大きな障害となるのは人々の意志だ。聖人族が憎い、魔獣族が憎い、許せない、復讐したい。世界規模でそういった憎しみと殺意に支配されている者が多い現状では、人々の意志こそが何よりも大きな障害となる。私自身、かつては理由なき憎しみと殺意に支配されていたからこそ、それを誰よりも深く理解している。
そして人々の中には、突出して強い憎しみと殺意を抱く者たちが存在する。真に平和を拒み、敵種族との殺し合いを望む者が存在する。それは今まで散々虐げられ、悪夢の如き日々を送ってきた奴隷たちに他ならない。
一般民の刷り込まれた理由なき敵意とは違い、彼らは長きに渡り理不尽を心と身体に刻み込まれ、確固たる敵意を抱くに到達した。そんな彼らに敵と仲良く手を取り合い、平和な世界を築くなどという選択肢は絶対に存在しないだろう。だからこそ、彼らは世界平和を目指す私たちにとって邪魔な存在となる。
ならば彼らをどうするか? 答えは簡単だ。その敵意を発散する場を与え、存分に己が憎しみをぶつけさせてやれば良い。
「――死ねえええぇぇぇぇぇぇっ!!」
「よくも今まで俺たちを散々痛めつけてくれたな! 薄汚い聖人族どもめ!」
「私を犯したクソ男共を一人残らず皆殺しにしてやる! 絶対に探し出して八つ裂きにしてやる!」
クルスが発動した魔法――スレイブ・リベリオン。全ての奴隷を理不尽な契約から解き放ち、自由を勝ち取るための力を与える革命の魔法。それによって奴隷たちの積もりに積もった憎しみと殺意が解き放たれ、首都は正に戦場の如き有様と化していた。
ある魔獣族奴隷は目につく聖人族に老若男女問わず襲い掛かり、殴り殺してから次の聖人族へと向かう。ある魔獣族奴隷は己が受けた痛みを味わわせるように、聖人族の四肢を先端から少しずつ潰していく。ある魔獣族奴隷は周囲の聖人族には見向きもせず、目的の聖人族を血走った目で探しながら家々を足場に街中を疾走していく。
そんな光景が数十を越える数、すぐ目の前で悲鳴や血飛沫と共に繰り広げられている。私のいる首都の広場だけでもこの有様なのだ。他の場所や街、そして魔獣族の国でも同様の凄惨極まる事態が巻き起こっているのは想像に難くない。
「クソッ、奴隷たちが反逆を起こしやがった! 契約で縛られてるんじゃなかったのか!?」
「今は命令なんて聞きやしねぇ! きっとさっきの邪神の魔法のせいだ!」
「しかも滅茶苦茶な強化魔法がかけられてる上、痛覚も麻痺させられてやがる! こんなんどうしろってんだよ!」
「怯むな! 誇りある我ら聖人族の戦士が、奴隷共に負ける道理は無い! 返り討ちにしてやれ!」
「おい待て! コイツらを殺したらエクス・マキナが襲撃を仕掛けてきた時はどうすんだよ!?」
そしてこの不測の事態に対し、指揮系統や対応も凄まじい混乱を示している。周囲の兵士たちは暴れ回る魔獣族奴隷たちに応戦を試みるが、相手は邪神の祝福によって大幅に身体能力を強化され、痛覚を麻痺させられた戦闘兵器と化している。
加えてこの奴隷たちは対エクス・マキナ用の武器として配備されていたのだ。これを殺してしまってはエクス・マキナの襲撃に対し、致命的な隙を晒すことになりかねない。故に容易には撃退できず、出来たとしても殺す事に躊躇して反撃される、そういった血生臭く終わりの見えない戦いが繰り広げられていた。
「……さて、それでは私も行くとしよう。激しく気が重いが、ここでいつまでも彼らを眺めて現実逃避しているわけにもいかない」
とはいえこれらは全て自業自得。ひたすらに敵対を重ね、対話も和平も無く争ってきた両種族の負債が自分たちに返って来ただけの事。
故に私は広場の惨状を眺めるのを止め、自らの役割を果たすために自分の家へと向かう。道中でも暴虐の限りを尽くす奴隷たちを何度も見かけ、更に何度か襲い掛かられたが、それらは即座に撃退した。痛覚が麻痺していようと身体能力が強化されていようと、心臓や頭部を一撃で破壊すればそれで終わりだ。そのため特に苦戦も障害も無く、無事に家へと辿り着く事が出来た。
周囲では民家に押し入り暴れ回る奴隷たちの姿も見かけるが、クルスの計らいで私の家は彼らに認識できないようになっている。何故ならここには、今から茶番染みた演出を行った上でクルスの元に連れて行くべき女性がいるからだ。
「さあ、ハニエル。そろそろ時間だ。心の準備は出来たかい?」
その女性とは、背中から四枚の純白の翼を生やした女性。エメラルドの如き輝きを放つ美しい緑の髪と瞳を持つ、聖人族を守護する使命を帯びた大天使――ハニエル・ネツァク。すでにクルスでさえ真の仲間に加える事は不可能と断じ、代わりに平和が訪れた世界での導き手に任じられた女性だ。
とはいえ本来は宝石のように輝いているその瞳は、今は光が失われて濁っている。クルスの正体を知り、そして無理やりに殺人という禁忌を犯す事を強制された結果、精神が崩壊してしまったのだ。
それでも時間の経過によって少しずつ人間性を取り戻して行ったのだが、クルスがここを訪れる度に面白半分でトラウマを抉り、修復中の精神を容赦なく破壊して行ったため、未だに完治には程遠い状態だ。
「……出来ていないと言っても、関係……無いんですよね……」
「まあその通りだ。尋ねたのはあくまでも形式的なもので、君の意思は関係ない」
私が問いを投げかけると、多少の間を置いて答えが返ってくる。しかしやはり瞳に光は無く、触れれば壊れてしまいそうな儚さが漂っている。
これでもまともに受け答えをするだけ、最初期に比べればだいぶマシな方なのが悲しいね。
「……外は、今……どうなって、いるんですか……?」
「クルスの魔法により奴隷たちが理不尽な契約から解き放たれ、今まで自分たちを虐げてきた者たちに復讐を行っているところだ。本来なら首都には奴隷の立ち入りが禁止されているが、今はエクス・マキナ対策として多くの奴隷が配備されているからね。この街だけではなく、世界中の至る所で同じ光景が見られるだろう」
「どうして、そんな……酷い事を……」
「酷い? 酷いとはどういう事だい? ゴミのように扱われてきた奴隷たちには人権なんてものは存在せず、復讐をする権利も無いという事なのかい? 散々辛酸をなめさせられてきた彼らは劣悪な環境と仕打ちに抗う事すらも許されず、ただひたすらに道具として存在しなければいけないのかい? 君は時々クルスよりもおかしな事を言うね」
「違う……違いますっ! 私は、私は……うううぅぅ……!」
懇切丁寧に説明し、なおかつ矛盾を指摘してあげたというのに、それがどうやら心を抉る形になってしまったらしい。ハニエルは大きな翼をはためかせながら、自身の整った顔を両の爪でバリバリと引き裂く奇行に走り始めた。周囲に血や肉の破片が微かに飛び散る。
どうやら未だに心は壊れたまま、受け答えが出来ても人として大切な何かが欠けてしまっている状態のようだ。まあそれらは一切合切クルスの手で粉砕されたのだから無理も無い。
「やはり話が通じないね。まあそれは良いさ。元々期待はしていなかった」
ハニエルの状態がどうであれ、私の役目は自然な流れでハニエルと共に表舞台から退場する事。故に私は自傷行為を止める事を命じて無理やりにハニエルを止めると、その顔を治療してやってから二人で玄関へと向かった。
しかしここの所出歩けなかったハニエルは少し歩くだけでも億劫そうで、リビングから玄関に至るまでの道のりで二度は体勢を崩して転びそうになっていた。本人はかなり痩せてしまっているが、背中に巨大な翼が四枚もあるので身体が重くて仕方がないのだろう。胸もかなり重そうだからね。
とりあえずこの程度の距離もまともに歩けないのは困るので、軽く身体能力強化の魔法をかけてあげた。
「さて、それでは外に出ようか。そろそろ時間だ」
「………………」
そして死んだような顔で頷きもしないハニエルを連れ、家を出る。敷地内から出る寸前の所でふと後ろ髪を引かれるような思いに駆られ、今まで過ごしてきた多少は思い入れのある家屋を外から眺める。
何度転生しようとも出来る限りこの家を使い続けてきたが、それもきっと今代までだろう。世界平和の実現に成功するか失敗するか。どちらにせよ私がこの家に戻る事は、きっともう無い。
「燃え上がれ――フレイム」
踏ん切りをつけるため、あるいは過去を捨てるため、私は自ら家に火をつけた。燃え上がる炎が瞬く間に家を包み込み、全てを焼き焦がして行く。長く長く過ごしてきた思い出の詰まった住処も、その積み重ねに反して消えていく光景はあまりにも呆気無い。
微かな哀愁を覚えながらも、胸の内にあるのはそれを遥かに上回る感情。必ず世界を平和にしなければならないという使命感。血と争いに満ちたこの腐った世界は、絶対に変えなければならないのだ。
目の前で炎上する住処の如く使命感を燃え上がらせ、私はかつての住処を最後に一瞥してから、ハニエルの手を取り走り出した。予め定められた台本通りに、自然にハニエルと共に表舞台から退場するために。
そうして奴隷たちの襲撃からハニエルを護りつつ広場へと戻る。別にここである必要は無いのだが、奴隷たちに苦戦を強いられる兵士たちの姿が数多く見られるために都合が良かった。なので私は遠方から奴隷たちの様子を窺い、攻めあぐねている兵士の一人に駆け寄り声をかける。
「忙しい所すまないが君たち、少々力を貸してくれないか?」
「申し訳ありませんが、今私たちは――って、だ、大天使様!?」
一瞬用件を口にする前に断られそうになるが、私の背後に佇むハニエルが視界に入った瞬間、彼は大いに目を丸くする。
こんな非常事態と言えど、ハニエルは紛れもなく大天使。その輝かしい大きな翼は誤魔化しようも無いし、見間違えるはずも無かった。
「そう、彼女は大天使様だ。少々心を病んでしまったため私の住処で療養中のお立場なのだが、この状況下で自宅は安全とは言えない。故に王城へ退避させるため、君たちの力を借りたい。協力してくれるかい?」
「もちろんです! おい、お前たちも来い! 大天使様を城まで護衛するんだ!」
そして大天使を護るためならば、彼らは実に精力的に動いてくれる。ハニエルは相手が魔獣族であろうと傷つけたくないという思考の持ち主のため、聖人族内でも煙たがられているが、それはあくまでも上の方での話。こういった一介の兵士にとって、ハニエルは立場も関係なく優しく朗らかに接してくれる存在であり、掠り傷でも率先して治してくれる慈愛に溢れた大天使という認識なのだ。
故に周囲から護衛として兵士が十人以上集まり、私たちの周りを囲んで周囲を警戒してくれるのも当然。だからこそ、これから行う演出に真実味と説得力が生まれる。
「――そうはさせないよ?」
「っ!? 何者だ!」
全ての準備が整った所で、上方から何者かの声が届く。私達が思わず見上げると、家屋の屋根の上に一人の人物が立っていた。
それは純白と漆黒の間でせめぎ合っているような色合いのローブ染みた衣装に身を包み、同色の禍々しいフルフェイスの仮面を装着した謎の人物。声は多少こもって聞こえたが、声色からして恐らくは女性。そして頭頂部で存在感を主張する犬耳と、腰の辺りで揺れ動いている犬の尻尾からして、魔獣族の犬獣人。
奴隷たちが反旗を翻しているこの状況下でなくとも、あまりにも異彩を放つ謎の存在であった。周囲の兵士たちが絶句しているのも無理はないだろう。まあ私はアレがクルス謹製の衣装を身に纏ったトゥーラである事を知っているので、彼ら程自然に驚愕の演技をする事は出来ないが。
「我が名はシュメルツ。敬愛する邪神様の右腕にして、忠実なる下僕」
「邪神の下僕、だと……!?」
誇らしそうに名乗りを上げるトゥーラことシュメルツに、周囲の兵士たちが警戒の色を強める。現在進行形で世界に脅威を与えている邪神の下僕を名乗ったのだから当然だ。
尤も私としては普通の喋り方も出来るのだという事に驚きと感心を覚え、あまりそれらしい反応をする事は出来なかったが。やはり普段の喋り方は演技なのだろうか?
「邪神様の命に従い、その大天使を回収する。さあ、大人しく差し出せ。邪神様が所望しておられるのだ。その名誉と栄光に咽び泣きながら献上せよ」
「ふざけるな! 大天使様を狙う不届き者め!」
「お前たち、陣形を組め! 大天使様をお守りするんだ!」
中身を知っている私には最早別人としか思えない振る舞いをしながら、台本通りに大天使を狙っている空気を醸し出すシュメルツ。当然素直に差し出す兵士たちではなく、全員が私とハニエルを中心により高度な陣形を組む。
あとはここで彼らと共に適当に戦い、力敵わず敗れハニエルと共に連れ去られる。そういう展開を演出すれば良い。問題はそこに辿り着くまでの流れが一切決まっていない事だが、流動的に変化する戦いの流れを自然に台本に落とし込むのは難しい以上、これは仕方のない事だろう。私だけならともかく、兵士たちもいるのだからね。
「邪神様の命に背くとは何と愚かな。邪神様に代わり、私が貴様らに神罰を下してやろう」
「……来るが良い。邪神の下僕、シュメルツ。ハニエル様は決して渡しはしない」
なのである程度は真面目に戦う事を決め、私も杖を構えてハニエルを背に庇うように前に出る。
さて、邪神の右腕を名乗る彼女はどの程度本気で襲い掛かって来るのか……少なくとも一切の情け容赦無く、などという事は無いと思いたいね。
自称『邪神の右腕』(クソ犬)VSレーン。ある意味では第何次かの正妻戦争です。
ちなみに本来はこのお話がこの章の一話目でした。13章が完成した時、「何か足んねぇよなぁ?」と思って急遽追加されたのが前のお話。いまいち奴隷たちの暴れ具合が足りなかったので。