プロローグ『青い輪と黒い月』
かつて水の惑星と呼ばれていた地球は全てがゴミで埋め尽くされた。
海も谷も盆地も平野も山脈もゴミで埋め立てられ、地球は地平線の果てまで平らなゴミの大地が続いている。権力者や資本家は早々に月へ逃げて、それ以外の残された人々は今もゴミに埋もれた地球の上で暮らしている。
月の人々はゴミで埋まった地球の二の舞を避けるために、地球の各所と月を繋ぐ物流のパイプラインを作った。
全ての生産活動は地球に任せて、生産物だけ月に運ばせて、一括で管理し地球に分配している。
そして、月で出たゴミは物流のパイプで運び、地球に捨てるのだ。
世界は月と地球を結ぶ輪の軌道を描く物流のパイプラインが確立されてから300年の地上も月も進歩のない停滞の時代に差し掛かっていた。
地平線の果てまで平らなゴミの大地が続く中に、ぷっくりと地球の表面に浮かび上がったニキビのようなゴミの大地の上に建てられた街があった。
街は大まかにペッドボトルのキャップを作ることに特化した第354工場と月が管理する病院を中心に、その周囲を囲むように八棟の住居ビルと更にその周りを囲む、溢れて街を飲み込もうとするゴミを押しとどめる円形の外壁で構成されていた。
第七住居ビルの屋上では幼いイツキとそのおじいちゃんが夜空を眺めていた。
見惚れていると心が吸い込まれそうになる真っ黒な空には、視界一杯に極小の星がきらきらと散りばめられ、それが束になって一部では天の川を構成していた。天の川の隣には沿うように月に向かって流れる青い点で構成された青い天の川が黒い夜空の中でも存在感を放つ黒い月を通って、月の反対側から輪になって地平線まで伸びている。
幼いイツキは目を輝かせて、おじいちゃんは睨むように夜空を眺めていた。
イツキが「綺麗だね」と夜空に対して呟くと、おじいちゃんは耳ざとくその呟きを聞きつけると「ああ、綺麗だな。人類の過ちの光景は」と皮肉っぽく言う。
幼いイツキがおじいちゃんの言葉の棘を感じ取って「難しい話?」と嫌な顔をすると、おじいちゃんは胡坐をかいている自分の膝を叩く。
「そうだ。でも、大切な話だ。長くなるかもしれないから、ワシの膝にでも座りなさい」
幼いイツキは喜んで小走りでおじいちゃんの下にまで走ると、元気よく座り込む。
おじいちゃんはイツキが勢いよく座り込んだため苦痛の声を漏らすがイツキが後ろを向いて「おじいちゃん、大丈夫?」と言うと笑って「ああ、大丈夫だ。可愛い孫の成長に驚いただけだよ」と短い髪の生え際を撫でた。
それから、おじいちゃんは夜空の黒い月を指差す。
「黒い月が見えるだろう。かつての世界で本来の月は太陽の光を反射して、美しい青白い色で夜空に輝いていたそうだ。
でも、今は月の連中が月に乱立させた真っ黒な建物のせいであんな下品な色に変わってしまったんだ」
幼いイツキは青い天の川を指差して、「じゃあ、あの青い輪もそうなの?」とおじいちゃんに質問する。
おじいちゃんは再びイツキの頭を撫でて答えた。
「ああ、そうだよ。今の時間は街の人が眠っているから出てこないが、昼頃に工場から定時になると空の青色に混じるが、よく見ると工場から伸びる空に届く柱が見えるだろう。
それは青色のしーるど?と言う奴で覆われた各地の工場で作られた生産物が空まで飛んで地球と宇宙の狭間で一つの束になって月に運ばれている様子だ。そして―――」とおじいちゃんは反対側の地平線に消える青い輪を指差して「月から伸びているあっちの青い輪で月から出たゴミを地球に捨てるためのものだ」と幼いイツキに説明する。
「えー、月の人たちは僕の死んだお父さんや昔おじいちゃんが作っていたものを集めて、使って、出たゴミはこっちに押し付けるの?おかしくない?」
幼いイツキが思ったことを口にすると、おじいちゃんは「よく気が付いた」とイツキの頭をわしゃわしゃと乱れるほど撫でる。
イツキは褒められたことが嬉しくて、でも顔に出ているのが恥ずかしくて照れ臭そうにうつむいておじいちゃんの皺々の手に撫でられるままにされた。
「そうだ。おかしいんだ。
しかし、ワシらは月が各地から集めて分配する生産物なしでは生きていけない。ワシらの街の工場で作られるのはペッドボトルのキャップだけだ。
それは食べることも、飲むことも、着ることも、住むことも出来ない。
ペッドボトルのキャップだけでは生活することは出来ないんだ。
月に生産したペッドボトルのキャップを送って、月が各地の工場で回収した生活必需品を僅かばかり分配することによってしかワシらはこの地球で生きていけないんだ」
おじいちゃんは幼いイツキの胴に手を回し、自分に抱き寄せた。それは抱擁というよりも拘束に近く幼いイツキは苦しかったが、おじいちゃんが突然少し怖くなったように感じて何も言えなかった。
「かつての世界は違った。
水があり、土があり、植物があり、動物がいた。何かが生み出されるのは工場の中だけのことではなかった。
水の中では魚が元気に泳ぎ、土からは植物が芽生え、動物は子供を産んで次世代に命を繋いでいた。
この星はゴミで埋め尽くされた不毛の大地ではなかった。
きっと、この星はそれらが無くなったから滅びているんだ。水でも土でも植物でもどれかが正常に機能すればきっとこの星は再生できるかもしれない」
おじいちゃんの何処か遠くの光景を見ながら独り言のように言いながら、イツキを抱きしめる腕はさらに強くなる。
「いつか、イツキが月からこの街を‥‥‥‥。
いや、それは望みすぎというものだな。忘れてくれ。
ワシはイツキがワシの孫として生まれてきてくれただけで嬉しい。
イツキが幸せに生きてくれるのならばワシはそれだけで満足だ」
怖かったおじいちゃんは普段のおじいちゃんに戻って、痛かった腕を緩めて「怖がらせてすまなかったな」と優しくイツキの頭を撫でてくれた。
幼いイツキは安心しておじいちゃんの「いつか、イツキが月からこの街を‥‥」の言葉の続きを聞こうとすると、屋上の扉を蹴ってイツキのお母さんがやって来た。
夕食の時間なのにいつまでも降りてこない二人にしびれを切らせたようで「ご飯よ!早く降りて着なさい」と叱られた。
おじいちゃんは膝に座らせていたイツキの持ち上げて立ち上がらせると、自分も立ち上がって埃のついた尻を叩いて、「さて、帰ろうか」とイツキの手を取った。
それから半月もしない内におじいちゃんは38歳の高齢で亡くなった。まるで後を追う様に一年も経たずお母さんも二十三歳に病気で亡くなった。
イツキは七歳で天涯孤独の身になった。
しかし、それはこの街では珍しいことではなかった