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第四話 群衆の問題(問題編)

「群衆の問題」




 このままじゃ一限の講義に遅れる! 明け方まで友達の相談に乗っていたら見事に寝坊したのである。恋愛の相談なら、どうせしまいには惚気話に変わるのだ。そのまま無視を決め込むか、翌朝、当たり障りのない文面で返事を書けばいいのだが……、深刻な悩みだったのである。

 しかし後日改めて、と返すべきだったか。わたしは後悔しながら、駅の階段を駆け下りる。

 もちろん高校の授業とは違い、少しくらい遅れても単位に支障はない。しかしわたしを含め受講者はわずか五人。こんな少人数の講義で、遅れるのはさすがに気まずい。先生も他のみんなも。

 まったく一限目から少人数の講義を組まないで欲しい。大学の事務局を恨みながらホームへ着くと、スマホで時刻を確かめる。間に合うだろうか? 八時五十分。何とかなりそうだ。安堵の息とともに、椅子に腰を下ろして乱れた呼吸を整える。

 ふと隣の椅子へ目を向けると、財布が落ちていた。

 よりにもよってこんな時に! しかし見つけたからには届けないと後味がよくない。

「まったく……仕方がない」

 わたしは財布を引っ掴むと階段を駆け上がったのだった。


 夕方、西日が窓から差し込んでいた。わたしは眩しさに目を細めながら「ミステリー研究会」という紙が貼られている教室の扉を開ける。

 教室では亜希子がミルクティーを傍らに本を読んでいた。しかしわたしが入ると、彼女は顔を上げる。彼女は本を伏せて言った。

「やぁ、萌」

 やぁ、とわたしも返すと、隣の椅子へ腰を下ろす。亜希子がカバンを脇に退けるのを見て、わたしは苦笑した。

「全くもう。亜希子の問題を盗み見るなんて、そんな卑怯なマネしないって」

「分かってるけど、見えちゃうといけないから。一応、ね」

「はいはい」

 わたしは笑いながら手を振ると、亜希子はバツが悪くなったらしい。ミルクティーを一口飲むと話題を変えた。

「ところでさ、この間、柘植くんと大月さんを見たんだけど何か変だったの」

 単なる恋愛話に興味を持たない。そのことは彼女も知っているはずなのに。亜希子の違和感に、わたしは興味を抱いて尋ねる。

「変? どういうこと?」

「う、うん……」

 亜希子はどう言おうか、迷っているらしい。しばらく爪でコツコツと机を叩いていたが、やがて答えた。

「先週、ゴールデンウィークで村田先輩、親睦会を企画してたじゃない? わたし、名古屋駅にいたのよ。ちょっと岐阜で演劇祭があってね。二人が時計の下で待ってたんだけどね」

「それで?」

「うん、それでね、わたしも柘植くんから聞いた話なんだけど、村田先輩はその日現れなかったらしいの。でも村田先輩に電話を掛けたらもう時計の近くにいるって言ってたみたいで」

「ふうん、一緒に探せばよかったのに。そうしたらスッキリしたかもよ?」

 わたしがそう言うと、亜希子は苦笑した。

「そうしたかったのは山々だったんだけどねぇ、一緒に探してたら劇が……」

「うーん、なら仕方がない、か」

 わたしが欠伸混じりに言うと、廊下から足音が聞こえてきた。亜希子は窓の外から廊下に素早く目を向けると、わたしへ囁いた。

「村田先輩が来たみたい。この話は……」

 わたしが笑って頷くと、ちょうどそこへ村田が入ってきた。亜希子は彼女に内緒の話をしていた引け目からか、おどおどしながら挨拶する。

「こ、こんにちは」

「やぁ亜希子に萌。柘植くんと大月さんはまだみたいね」

 村田は腰を下ろしてそう言った。わたしがスマホで時刻を確かめる。

「まだ授業中だと思いますよ」

「そうね」

 少し拗ねたように返すと、わたしへ尋ねた。

「ちょっと朝寝坊を」

 わたしはそう言うと少し恥ずかしくなり、俯く。

「へぇ! 珍しい。真面目なのに」

 亜希子がそう言うと、村田はニヤニヤして言った。

「彼氏と頑張ってたりして」

 いつもの不愉快なジョークだが、普段は聞き流せる。しかし今は寝不足で機嫌が悪い。わたしは村田を睨むと言った。

「セクハラで訴えますよ」

「ごめんごめん、冗談だって」

 村田はさすがに手でわたしを押し留めている。怒りはもう鎮まっていたが、今日はこれ以上、踏み込まれたくない。

 そんな意味合いを込めて、わたしはプイと顔を背ける。

「当たり前です。何考えてるんですか」

「でも本当に何があったの?」

 村田に真剣な口調で尋ねられ、わたしは彼女に向き直った。

「ちょっと友達の相談事です」

「また変なことに巻き込まれないでよ」

 もちろんわたしも好き好んでトラブルに巻き込まれてるわけではない。しかし妙な正義感から見逃せず、厄介事に巻き込まれることは多いのは確かである。また、という言い方はさて置くとしても。

「はい、気を付けます……」

 わたしが俯いて答えると、村田は明るく言った。

「まぁ、萌の気持ちも分からなくはないんだけど。困っている人いたら放っておけないもんね」

 それを聞いて、亜希子は忙しなく身体を動かしている。どこか居心地悪そうだった。困っている柘植たちよりも新幹線の乗車を優先させたことを恥じているんだろうか。やがて彼女は尋ねた。

「どんな内容だったの?」

「高校時代の友達からだったんだけどね、妹が無視されてるらしいって電話だったんです」

「イジメ?」

 それを聞いて、村田が眉を顰める。わたしは肩をすくめて答えた。

「それが本人は気のせいだって笑ってました。どうも愚痴をこぼしたかったようで」

「よかったじゃない。何事もなくて」

「ありがとうございます。でもその子のほうがすっかり興奮しちゃってて、落ち着かせるのに一苦労したんです。本人から話を聞いてみないと分からないじゃないですか。そのことを言ってもなかなか聞いてもらえず……」

「うわぁ……。本人よりもお姉さんが怒ってるんだねぇ」

 亜希子も同情の目でわたしを見ると、村田は尋ねる。

「それで、結局、何時頃まで相談に乗ってたの?」

「六時までです……」

「え、それじゃあ寝てないんじゃない? 大丈夫?」

「村田先輩、ご心配ありがとうございます。でも、まぁ一日くらい寝なくても死にませんから」

 わたしは弱々しく答えたが、欠伸が出てしまう。ドリンク剤をポケットから取り出すと、キャップを開けた。

「大変だったねぇ。でも村田先輩の言うように勘違いでよかった」

 亜希子はそう言うと、安堵したらしい。溜息をつくと、呟くように続ける。

「加害者も後味がよくないからね。わたしね、高校生の頃……」

「え?」

 わたしと村田は思わず顔を見合わせた。あたかもイジメに加担していたような口振りである。とても信じられない。

 しかし足音が聞こえると、亜希子はビクリと身体を震わせる。 しかし足音が聞こえると、亜希子はビクリと身体を震わせる。やがて大月が扉を開けると、柘の姿も見えた。

 二人が席に着かないうちに、亜希子はいそいそとカバンを手繰り寄せる。

「さて、と。柘植くんたちがきたから問題を配りますね」

 彼女はそう言って立ち上がると、クリアファイルを取り出した。しかし亜希子の態度からはよそよそしさが感じられる。その態度に戸惑いながらも目を落としたのだった。


 


 


 夕方四時の空は血の色に染まっていた。一台のパトカーがサイレンを鳴らしながら大通りを走り抜けていく。通り魔があったと通報があったのだ。しかも通報者は急いでいるからと電話を切ってしまったらしい。

 物騒な世の中だ、と童顔の大岩巡査部長はハンドルを握りながら心の中で呟いた。そして助手席の堀田警部補をちらっと見た。逞しい体格で、修行僧のように目を閉じている。

 何を考えているのか分からない。そんなことを思いながらも大岩は脇見運転を咎められないうちに、正面を向くと、十字路から曲がる黄色い軽自動車が見えた。

「はい、ちょっとすみません。ちょっとすみません」


 大岩はそうアナウンスして道を開けてもらうと、十字路を左折する。コンビニの隣にブルーシートが見えたので、現場はすぐに分かった。オブィスが立ち並んでおり、目撃者も多そうだ、と大岩は安堵した。

 パトカーから降りると、巡査が敬礼する。

「こちらです」

「どうもありがとうございます」

 大岩は丁寧に言ったが、堀田は黙って頷くだけ。巡査は嫌な顔一つせず、そんな彼を現場に案内した。

 被害者はまだ若い男だった。苦悶の表情。脇腹は赤く染まっていたが、凶器は刺さっていない。堀田は屈むと、死体の内ポケットなどを黙々と探り始める。

「中国人か」

 彼は財布から学生証を見つけると、呟いた。そして大岩にも見せると、彼は手帳を取り出した。そして王英哲、と被害者の名前を控えたが、通り魔である。余りあてにならないかも、と密かに溜息をついた。

 そんなことより、白昼の事件で人通りも多い。目撃者には事欠かないだろう。幸いにもあそこには防犯カメラが設置されているし、店員が犯人を見ているかもしれない。そんなことを考えながら大岩はコンビニへ目を向けた。

 大岩と堀田がコンビニに入ると、若い女性店員が言った。

「いらっしゃいませ」

 しかしその声は丁寧ではあるが、どこか氷のように冷淡で、しかも砂漠のように乾燥していた。笑顔だったが、壁のように他者を寄せ付けなかったのである。

 堀田が笑顔で警察バッジを見せると、女性店員は困惑して言った。

「は、はぁ……」

「通り魔事件があったのはご存知ですか?」

 堀田が尋ねると、女性店員は素っ気なく答える。

「そうらしいですね」

 他人事、という言葉が大岩の頭をよぎった。確かに間違ってはいないが、すぐ近くで殺人事件があったのに、と思わずにいられない。

「怪しい人は見ませんでした?」

「いえ、特には」

 彼女はそう言った後、何か重たいものに耐えているかのように顔を歪める。そして目をそらして呟いた。

「悲鳴は聞いたかもしれません」

「悲鳴? それ、いつのことですか」

 大岩が尋ねると、女性店員は首を振った。

「覚えていません」

「そうですか。まぁ仕事中でしたし、無理もありませんよ」

 大岩がそう慰めると、堀田も笑顔で頷く。そして店外のカメラを指差して尋ねた。

「あの映像、見せていただいて構いませんか?」

 それを聞いて女性店員は曖昧な笑みを浮かべる。そして店長に確認してくると告げて、事務所へ姿を消した。

 ほどなくして事務所から彼女は店長とともに姿を現した。中年の男性で、人のよさそうな顔をしている。

「怪しい人は見ませんでした?」

「いえ、特には」

 店長も女性同様に首を振って答えると、女性店員は彼に何事か囁いた。店長は頷くと、画質は悪いですが、と子供が言い訳するかのように前置きして、USBメモリを渡すと、こう言った。

「それから返却は結構ですので。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」

「ご協力ありがとうございます」

 大岩はそう言ったものの、署で再生してみると、本当に画質が悪かった。モノクロで音も入っていない。大岩はしばらくマウスを操作していたが、あっと短く叫ぶと、動画を停止させた。誰かが何かを構えて飛び出してくる姿が映っていたのである。しかし……、

「これってどういう意味ですかね?」

 大岩はすっかり困惑して、画面の右下を指差した。確かに十二時四十分と書かれていたのである。そしてさらに続けて言った。

「被害者は三時間前に刺されていたことになりませんか? だとしたらどうして誰も通報しなかったんですかね?」

「分からん」

 その問いに、堀田は無愛想にそう答えただけだった。せめて目撃者が名乗り出てくれればいいんだけど。大岩はそう思いながら、インスタントコーヒーに口をつける。すっかり冷たくいた。

 コーヒーを飲み終ると、大岩は何気なく画面に目を向ける。ジャケットを羽織った女子高生とサラリーマンが連れ立って入っていく姿が映し出されていた。


 翌朝、公園で大岩は焦れながら時計を見上げていた。そして隣で、ポケットへ手を入れている堀田に話し掛ける。

「目撃者が名乗り出たのはいいんですけど、本当にくるんですかねぇ」

「分からん」

 堀田の答えを聞いて、大岩は内心で溜息をついた。所在なく大通りを眺めていると、専門学生がカバンを片手に歩いていく。ファッションデザインの専門学校が近くにあり、彼らの服装は洒落ていた。

 その大通りから、スーツ姿の男が見えた。彼は辺りを気にしながら公園へと歩いてくると、おずおずと大岩へ頭を下げる。Yシャツの左裾は濡れていた。

 大岩は既視感にとらわれていたが、気のせいだろうとゆっくりと首を振る。そして大岩は堀田に告げようと顔を見たが、もうすでに男に向き直っていた。

「ご協力感謝します」

 堀田は笑顔で一礼すると、男は頭を掻いた。そして弁解めいた口調で言う。

「仕事も忙しかったので、つい……」

「いいんですよ。それぞれの事情もありますし」

 大岩が慰めようと親しみを込めて言うと、男は弱々しく笑った。

「私の職場はこの辺りなんですが、昼食を取った後、呻き声を聞いた気がしたんです。そのう、昨日は聞き間違いだと思ったし、お巡りさんたちを混乱させてもいけないと思いまして……」

「それは何時頃でしょうか?」

 大島が痺れを切らして尋ねると、男は答える。

「はい、十二時四十五分ごろだった、と思います」

 どうしてすぐに通報しなかったんですか、と大岩は聞こうとも思った。もし通報していたら助かっていたのかもしれないのに。しかし堀田に遮られてしまった。

「場所はどこでしょう?」

「あのコンビニの前だったと思います」

 また「思います」か、と大岩は内心でうんざりとしたが、仕方ないかもしれない、と考え直す。なにせ昨日の話なのだ。

「なるほど。他に何か気が付いた点は?」

 堀田が尋ねると、しばらく躊躇いの表情を浮かべいたが、目を背ける。その表情を見て堀田は一歩詰め寄って熱心に訴えかけた。

「なんでもいいんです」

「あの、中国の方なんですよね? 新聞に書いてありましたが……」

 男は二人の顔を交互に見て尋ねる。その問いに、大岩は慎重に答えた。

「確かに被害者は中国人ですよ」

 男はその答えを聞いて、辺りを見回した。そして堀田に小声で言う。

「この辺りで最近ヘイトスピーチをよく耳にするようになったんです。変なビラも配ってるようですし」

「なるほど」

 堀田は短く頷くと、男は続けた。

「一度、刑事さんに言ったほうがいいんじゃないかって思いまして、それで」

「分かりました。努力してみましょう」

 堀田がそう言うと、男の顔が明るくなった。そして一礼すると、仕事があるからと言って立ち去った。

 男が行ってしまうのを確かめると、大岩は尋ねた。

「いいんですか? あんなこと言って」

「何が」

「何とかする、とか約束して。部署が違うでしょう」

「俺は努力する、と言ったんだ」

 堀田の答えを聞いて、詭弁じゃないかと大岩は思ったが、口には出さなかった。反論されるのは目に見えているし、こんなこと議論しても仕方がない。

 ともかくヘイトスピーチの参加者を探すことになりそうだ、と大岩は胸のうちで呟いた。その中に容疑者がいるかもしれないのだから。正午ごろ外国人排斥を演説している人物は少ないだろう。しかも場所が限られている。すぐに絞りこめるだろう。期待を胸に、大岩は公園を後にした。


 その男、加藤晃を見つけ出すのに時間は掛からなかった。その日も駅前でヘイトスピーチを行なっていたのである。

 派手にピアスを付けた金髪の男。そんな先入観が大岩にはあったので、実際に会って面食らった。筋肉質ではあるが、真面目そうな青年だったのだ。どこにでもいそうで、近所で出会っても気が付かないだろう、と大岩は思った。

 彼は晃の肩を叩いて、警察バッジを見せると声をかけた。

「熱弁を振るっているところすみません。ちょっとお話を伺いたいんですが……」

 すると脱兎のごとく逃げ出したが、すぐに取り押さえられた。


 取調室。そこは狭く、冷たく、重たいコンクリートの部屋である。

「だから俺はフライヤーを撒いてただけだってば!」

「今はビラって言わずにフライヤーっていうのか。全く洒落た言葉使いあがって」

 堀田は聞こえよがしにそう言ったが、気にする気配もない。晃は興奮して机を拳で叩くと、一気にまくし立てた。

「俺たちの仕事はみんな外人に取られてるんだ。だから外人を日本から追い出すべきなんだよ! あとマナーも最悪だし。ゴミとか平気で捨ててくんだぜ。ああいうのこそ捕まえて強制送還すべきだね。それから爆買いっていうの? パソコンとかテレビとかバカみたいに買う外人見たら腹が立って……」

 晃は項垂れると、拗ねてさらに呟いた。声は消え入りそうで、涙ぐんでさえいる。

「そりゃ、責任転嫁だって分かってるけどさ。でも誰かのせいにしないと暗闇の中にいるみたいで、不安っていうか、何というか……ともかくたまらないんだよ!」

 そこへ堀田は低い声で遮った。

「だからってああいうことしちゃまずいよな?」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ。街宣車でクソでかい音を出してたらそりゃ怒られても仕方ないけどよ」

「何か勘違いしてない? 君の政治思想に僕たちは関心がないし、ご自由にどうぞとしかいいようがない」

 大岩が苦笑交じりにそう言うと、晃は安堵の表情を浮かべた。そしてきょとんとした顔付きになると、大岩に上目遣いで尋ねる。

「ん? じゃあ、何でおまわり……じゃなかった警察が?」

「あの辺りで通り魔があったんだけど、何か見なかったかなぁと。今朝の新聞に書いてあったと思うけど」

 大岩が穏やかに尋ねると、晃は不機嫌に答えた。

「は? 新聞なんか取ってるわけないし。クソ高いしよ。経費節減ってやつ? みんなネットで済ませてる。なんで新聞ってあんなに高いのかね……」

「殺されたのはあんたの大好きな中国人なんだよ」

 堀田はそう言って、晃の愚痴を遮る。一瞬、晃は不謹慎な微笑を浮かべたが、それは引きつった笑みに変わっていった。疑われていると自覚したのだ。

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ。確かに俺は中国人が嫌いで、ネットでも反中国のブログを書いてる。だけど、いくらなんでも殺したりはしねぇって。な?」

「昨日の昼間十一時から十三時、どこで何してた」

 堀田は睨めつけながら尋ねると、大岩は付け加える。

「まぁ中国人は嫌いかもしれないけど、殺人の疑いを晴らすためにも僕らに協力してよ。もちろん任意だから帰りたいと言えば帰さざるをえないけど……」

「でもその場合、あんたの職場にまでお邪魔するかもしれない」

 堀田はそう言うと、一つ一つ言葉を区切って続けた。

「あんたの疑いが晴れるまでな」

「勘弁してくれよ! な?」

 慌てて二人の顔を見る晃へ、大岩は微笑んで語りかける。

「もちろん、僕もそんな面倒なことはしたくないよ。だから知ってることだけ教えてくれればいい」

「駅前でフライヤーを配ってたよ」

 晃は仏頂面で答えると、堀田は尋ねた。

「誰か証明してくれる人は」

「そ、そんなこと言ってもよ、フライヤーは一人で配ってたし、ほとんどみんな関心なさそうで足早に通り過ぎていったし」

 晃は呟くようにそう言うと、しばらく口をもごもご動かしていた。しかしやがて立ち上がって叫ぶ。

「ともかく俺が殺ったんじゃねぇ! 信じてくれよ」

「まぁまぁ落ち着いて、誰もあなたが殺したとは言ってないじゃないですか」

 大岩は内心で苦笑しながら宥めた。そうは言ったもののこれじゃどう見ても犯人扱いだよな、と取り調べながら思っていたのである。

「あんたが見たままを話してもらえればいい」

 堀田は付け加えると、晃は聞こえよがしに溜息をついた。

「俺の他にも悪いことしてるヤツはいるじゃねぇか」

「俺の他にも? それは自白って受け止めていいの?」

 大岩がそう言ったが、晃には意味が分からず呆けた顔をしている。ようやく悟って水に濡れたブルドックのように身を震わせて叫んだ。

「冗談じゃない! 言葉の綾に決まってるだろうが。だからおまわりは嫌いなんだよ! やたら態度がでかいし、タメ口だし」

「誰か怪しい人でも見たの?」

 大岩が優しく尋ねると、晃は腰を下ろして腕を組む。そして痰を床に吐くと言った。

「見てても話すか」

「まぁまぁ話してよ」

 大岩は堀田の顔を一瞥して助け舟を求めたが、堀田は口を差し挟まない。部屋の隅に行くと、壁にもたれかり、目を閉じた。甘えないで、一人で取り調べろということか。大岩は重々しい溜息をつくと、気さくに肩を叩いた。

「頼むから、さ」

 晃は目を背けていたが、大岩の顔を見て無愛想に言った。

「タバコくれたら話す」

「ごめん、禁煙なんだ。……いや、意地悪しようと思ってるんじゃないよ。今、署内は全部禁煙なんだよ」

「は? ふざけるな。俺にもタバコ吸う権利ぐらいあるだろうが。だったら俺もしゃべらねぇ」

 大岩はすっかり困ってしまった。その様子を堀田は傍らで聞いていて、タバコを箱を晃へと放る。晃は吸おうかどうか迷って、その箱をじっと見つめていた。

「吸ったら話せ」

 しかし堀田がそう言うと、タバコに手を伸ばした。そして彼は忙しなく火を点けると、携帯灰皿を取り出す。紫煙を吐き出し終えると、溜息をついて言った。

「しかたねぇな。まぁ約束は約束だからな。俺が言ったのは、正義面して高校生を孕ませるようなヤツ。まぁ結局お金が全てって気持ちも分からなくもねぇけど、流石に高校生はまずいだろ」

「それはニュースの話? それとも具体的に現場を見たってこと?」

 大岩が聞くと、晃はこう答えた。

「俺、フライヤー配ってるときに見たんだよね。制服姿の女とサラリーマンが仲良く歩いてるの。親子にしちゃ不自然だったし、コソコソしてたし」

「その二人の特徴は?」

 晃が男の人相を言うと、大岩は堀田に駆け寄って囁きかけた。無理もない。今朝会ってきたばかりの男と酷似していたのから。

 しかし確かめようもない。どれだけ言葉を重ねようとも全体は語れないのである。まさに人を引き離すために生まれた言葉。もどかしさを覚えながらも何とか方法を探る。

 もしかして、どこかで会った気がしたのは……。USBメモリーをポケットから取り出すと、取調室のパソコンに繋いだ。そして監視カメラの映像を呼び出すと、晃へ向けた。

「ねぇ、それってさぁ……」



「今度は何ですか。この間、もう全てお話しましたが」

 大岩は住宅街でその男──藤室浩一に声を掛けると、疲れを顔に滲ませて応えた。辺りはもう暗く、彼は仕事を終えて自宅へ帰る最中だったが、疲れの原因はそればかりではない。

「通り魔事件が会ったときに、コンビニへ行きましたね?」

「……覚えていませんよ」

「防犯カメラに映っているんですよ」

 堀田は低い声で囁くと、浩一はうんざりした表情に変わる。

「じゃあ行ったんじゃないんですか? もういいでしょう」

 彼はそう言うと、そそくさと歩を速めた。しかし堀田と大岩はすぐに追いついてしまう。

「それでですね、この女性にもお話を伺えたらと思いまして」

 大岩はそう言うとポケットから写真を取り出した。防犯カメラの映像を引き伸ばしたものである。

 それを見て、浩一は目を背けた。

「し、知りません」

「一緒にいるのを見た、そんな証言もあるんですがね」

 堀田は低い声でそう囁くと、浩一は目を強くつむった。そして溜息をつくと、吐き出すように言った。

「言えるわけないでしょう? 娘と同じ年頃の女の子と寝ていたなんて。迷惑防止条例違反だ」

「いや、それはウソですね」

 大岩が断固として首を振ると、浩一は叫んだ。

「ウソじゃない!」

「じゃあどこのホテルに?」

 大岩はスマホを取り出すと、現場の周辺地図を見せる。しかし浩一は見ようともせずに、吐き捨てた。

「忘れましたよ、そんなこと、どうせ一回だけの関係ですから」

「あそこにラブホテルなんかあるはずがないんです」

「どうしてそんなことが言えるんですか!?」

 浩一は吠えるように叫ぶと、大岩はスマホをタップした。専門学校の写真が映し出される。

「いいですか? ここには専門学校があります。つまり風俗関係の施設を建てようとしても、そもそも許可が下りないんですよ」

「えーとですね、あの駅は待ち合わせ場所に使っただけなんです。些細なことでしょう?」

 浩一が顔を引きつらせて言うと、大岩は首を振った。

「密会するのに別の駅で待ち合わせするんですか? お互いにリスクがあるのにわざわざ?」

 浩一はまた強く目をつむる。しかし、今度は長い溜息を吐き出すと言った。

「娘が犯人です。あの朝、妻とケンカして娘はかなり苛立っているようでした。美術にハサミを使うのに勝手に持ち出して返さなかったとか。妻は妻でそんなに大事なものならどうして言わないの、と」

「それが動機ですか?」

 大岩は怒りと悲しみを押し殺して尋ねる。しかし、浩一は首を振って答えた。

「娘に聞かなければ分かりません。……いや、本人に聞いても分からないと本当のところは思います。私が知っているのは、娘がコンビニでハサミを買うからと小遣いを、と言ってきたことです。五百円玉がなかったので千円札を渡しました」

「なるほど。それで?」

 大岩が後を促すと、疲れたように続けた。

「無駄遣いするんじゃないわよ、と妻から小言を言われ、また二人は不機嫌になりました。私の小遣いを減らすということで、妻は納得しましたが……」

「娘さんは不満だったと」

 大岩が言うと、浩一は頷いた。

「ええ、あの朝、娘から電話がありました」

 浩一はそう言うと、唇を震わせていたが、やがて口をつぐんでしまう。長い沈黙。大岩はは俯いて歩いていたが、その重々しい空気に耐えきれずに尋ねた。

「人を刺したというものですね」

 浩一はその問いに頷く。まるで糸の切れた操り人形のように。そしてまた訥々と語り始めた。

「あの朝、行ってみると、娘がカッターナイフを持ってしゃがみこんでいました。とても現実のものとは信じられなかった。もちろん、駆け寄って抱き起こしましたよ。警察への通報ももちろん考えました。でも娘が逮捕されると思うと……、通報を決意したのは夕方になってからでした。電話ボックスに入ると、ヘイトスピーチのビラを配っていたのを思い出したのです」

「それで彼のせいにしようと、我々に連絡を?」

 堀田が確かめると、浩一は力なく笑う。

「ええ、彼には悪いと思いながらも、過激なことをいう連中なのでどうでもいいとも思っていました。どうせろくでもない人たちだと」

「なるほど」

 堀田は眉一つ動かさずに言った。

「でも刑事さんたちに会う段階になって服に血がついていると分かりました。おそらく抱き起こしたときについたものでしょう」

 それを聞いて、左裾が濡れていたことを大岩は思い出した。三人が角を曲がると、一軒家が見えてくる。家の灯りを見て、浩一はなだらかな溜息をついた。

 その溜息を聞いて、大岩は月を見上げる。満月が濡れて見えた。


問題です:白昼の犯行でした。それにも関わらずどうして3時間以上も通報されなかったのでしょうか?



 コツコツという音が教室に響き渡っている。亜希子が神経質に指で机を叩いているのだ。わたしは読み終わると、ドリンク剤を一口飲んで微笑みかける。

「面白かったよ。今回はちょっと渋いけど、でもそこが好き」

 その一言で、亜希子は叩くのを止めて、笑った。しかしその笑みはどこか弱々しい。

「ありがとう。楽しんでもらえたならよかった」

「文章がキレイですね。特に最後の満月あるじゃないですか。あの描写なんて美しい」

 大月はうっとりとして言ったが、わたしにはよく分からない。結局は好みの問題だろうが、比喩が回りくどいし、冗長である。しかし亜希子が目の前にいるのである。「そうかなぁ?」と言うのも躊躇われた。

 そうだね、とだけわたしは欠伸混じりに呟くと、村田が言った。口許には苦笑が浮かんでいる。

「もう、萌、さっきから欠伸ばっかり。そんなに眠いんだったら、机に突っ伏して寝てたら?」

「そう、ですね……」

 わたしはそう言ったが、前の席では柘植が熱心に紙へ目を這わせている。男性の前では弱みを晒したくない。わたしはドリンク剤を飲み干すと、笑って答える。

「いえ、大丈夫です」

「そ、そう? 余り無理しないでね」

 村田が言うと、柘植は彼女へ尋ねる。

「あの、すみません。これって解けるんですよね?」

「え?」

 亜希子が聞き返すと、柘植は振り返って彼女に言う。

「ほら人の心って目に見えないでしょう? しかも二人や三人ならまだ分かりますが、白昼のオフィス街なんて何百人と通ってるじゃないですか」

「解ける、と思うけど。問けるかどうかには余りこだわってないから」

 柘植はそれを聞いて、落胆したように言った。

「そうですか」

「まぁまぁ、小説は面白いんだし、いいじゃないの?」

 村田があっけらかんと言ったが、柘植はなおも不服そうである。

「そりゃそうですけど……、パズルを……」

 彼が腕組みをしてそう言うと、大月が遮った。

「解けるか解けないかにこだわらなくてもいいんじゃないかな?」

 その一言で柘植は顔を伏せると、村田は亜希子に確かめた。

「とにかく柘植くんの質問は、解けないかもしれないって答えでいいのね?」

「ええ、まぁそうですね。あぁ、でも心理学的には実験でちゃんと実証されているらしいんです。もちろん地の文にウソは書いてません。萌なら知ってるかもね」

「え? わ、わたし? 法律に関わること?」

 亜希子から急に目配せされ、戸惑ってしまう。知っていても黙っているように、と言いたいらしいが、わたしには何も思い浮かばない。

 その様子を見て、亜希子は安心したように薄く笑った。

「あ、知らないんだ」

 ……何か悔しい。

 その時、スマホからアラームが甲高く鳴り響いた。その音で、わたしは一気に目が覚めた。村田はスマホをタップしてアラームを止める。

「アラーム音変えたんですか?」

 亜希子が意外そうに尋ねると、村田は頷いた。

「うん、まぁ、ね、こっちのほうが気が付きやすいかな、と時間を忘れちゃうことがありそうで」

 彼女は柘植を一瞥すると続ける。

「み、みんなと話してると特にね」

 亜希子はきょとんとした顔をしていたが、ミルクティーを一口飲んで言った。

「ふうん……まぁいいや。ヒントはね……」


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