第三話 疎外の問題(問題編)
朝八時ごろのコンビニは、スーツ姿の男性が目立つ。わたしはカレーパンを手に取ると、ドリンクコーナーへと向かった。ショーケースを開け、缶コーヒーに手を伸ばしていると、村田の声がする。
「おはよう、萌」
「おはようございます」
わたしは振り向いて、挨拶を返した。いつも気の強そうな村田が、今日は気弱に映った。一限目には必修科目があるが、単に眠たいというわけではなさそうだ。どうしたんだろうか。
残り少ないオレンジジュースを彼女は手に取ると、呟く。
「当たるかなぁ?」
そしてペットボトルのラベルに目を落とした。
ゴールデンウィークに公開される映画で、キャンペーンが行なわれているらしい。「漏れなくサイン本プレゼント!」と派手な文字で書かれている。しかしそれにはキャップの裏に書かれた七人のキャラクターたちを全種類集めて応募しなければならないのだ。
一喜一憂するくらいなら、サインなんて書かれていなくても……。楽しみに開けるならともかく。心配して損した。わたしは密かに苦笑しながらも、村田へ笑顔で言った。
「当たるといいですね。ほら、余り物には福があるって言いますし」
「ありがと」
彼女はそう応えて、ショーケースの扉を閉める。そしてわたしと映画の話をしながら、レジの順番を待った。
コンビニを出ると、春の風が頬を撫でた。村田はオレンジジュースをさっそく開けるとキャップの裏を確かめる。そして道化けたように肩を竦めた。
「ほらね、やっぱり」
村田はそう言うと、オレンジジュースを一口飲むと続ける。
「わたしってクジ運がないのよね。昔から」
そしてわたしたちは並んで大学へと歩き出した。坂道を登りながら、わたしは尋ねる。
「そうなんですか」
「そうなのよ」
村田はそう頷くと、ふいに言葉を切った。何かを言いたそうな表情だったが、同時に躊躇っているようである。
無言でしばらく歩いているうちに、雲が日の光を遮った。ひんやりとした風とともに、村田は再び口を開く。
「小学校の授業で、三人でグループを作ったり、隣の席で答案を交換したりしなかった?」
「ありましたね」
「……あれ、すごく嫌いだったんだよね」
「どうしてです?」
いつも〈余りもの〉になっていたんだろうか、と考えながら村田へ尋ねる。そんなことはもちろん口には出さないが。
「みんなワイワイ組んでる中……いつも余り物を押し付けられて」
「余り物、ですか……」
わたしは戸惑いつつ、村田に尋ねた。言い回しに戸惑ったのではない。自虐とも寂寥とも取れるような笑みが浮かんでいたのだ。
「ああいうのって、いつも誰か一人余らなかった? 根暗な男の子とか」
「ええ、余りましたね。それでいつもその子と組んでたんですか?」
「組んでたというより、組まされてたの。あの性格じゃ友達ができないって密かに思ってたんだけど……」
村田はそう言うと、溜息をついて続けた。
「でも先生の頼みだからなかなか断りきれなかったのよ」
「分かります。断りづらいですよね」
わたしが頷くと、村田は意外そうな顔をする。嫌な頼みは断固として撥ね付けると思っているんだろう。……事実そうなのだが。
村田は肩を竦めて言った。
「おかげでその男子のことが好きなんじゃないかって、クラス中に広まっちゃって。相合傘とか描かれたりしたのよ。困ったことに」
「へぇ、そうだったんですか」
「うん、それでね。それで疎外感っていうの? 何となくクラスに居辛くなっちゃって図書室に逃げ込んだわけ」
口振りから察するに、今はあまり気にしてないらしい。そもそも今も思い出したくなかったら、軽々と口には出さないだろう。そんなことを考えながら、わたしは笑った。
「悲惨でしたね。でも陰湿なイジメよりはいいじゃないですか」
「まぁそうなんだけどねぇ」
村田は道化けたようにそう言うと、続ける。
「そんな思い出もあってか、〈余りもの〉が好きじゃないのよ」
彼女はこの話を切り上げたがっているに感じたが、何も言わないのも気が引ける。ふうん、とわたしは短く相槌を打った。
ちょうどそのとき、足音が後ろから近づいてくる。
「おはようございます」
その声とともに肩を叩かれた。振り向くと、亜希子が立っている。
「お、おはよう」
村田がどぎまぎして挨拶を返すと、亜希子は訝しそうな顔で尋ねた。
「何の話ですか?」
「ええとねぇ……」
村田はそう言うと、オレンジジュースを飲んだ。ごくりという音が隣で聞こえる。
迷っているような表情を浮かべていたが、やがて彼女は答えた。
「別に。つまらない話よ」
「ふうん」
除け者にされたと、亜希子は感じたんだろう。不機嫌そうに呟いたが、それ以上は追求しなかった。その声を聞いて、村田は笑う。
「なんてね。今日、柘植くんはどんな問題を作ってくるんだろうっていう話」
彼女はそう言うと、わたしへ眼差しを向けた。それを感じ、わたしも笑って言う。
「そうなんだよ。一年生の問題だから楽しみで」
「ああ、そういえば今日の出題者は彼でしたっけ」
亜希子がそう言うと、村田は頷いた。そして『赤い潜水艦』という少女マンガの話に花を咲かせながら坂を上っていく。わたしは少女マンガに疎く、その作品も読んだことがない。へえ、などと適当に相槌を打ちながら、耳を傾けていた。
太陽がまた雲の隙間から見せ始める。一日中、晴れたり曇ったりを繰り返すらしい。
その日の夕方、教室の扉を開けると、村田が本を読んでいた。邪魔してはと思い、わたしは声を掛けず、隣の椅子へそっと座る。そして司法試験の過去問題集をカバンから取り出した。
しかし村田は気が付いたらしく、顔を上げてわたしへ言う。
「やあ」
「こんにちは」
わたしはそう言うと、問題集をカバンに押し込んだ。その様子を見て、村田は苦笑いを浮かべる。
「わたしは本読んでるから、勉強してていいのに。別に何とも思わないから」
「ありがとうございます。でも何かもったいない気がして……」
「もったいない?」
村田は本を伏せると、オウム返しに尋ねた。意外そうな口振りに、わたしは笑顔で頷く。
「だって勉強は家でもできるじゃないですか」
そう、とわたしは心の中で付け加えた。みんなとは今、この時間しか過ごせないのだ。しかしそれを口に出すのは照れ臭い。わたしは代わりに続けてこう言った。
「それに雑談で得た知識こそどこかで役立つかもしれないって彼氏が言ってまして」
「なるほど。思い出づくりってわけね」
村田は俯いてそう言うと、溜息をついた。口振りも寂しそうである。卒業を意識しているのかもしれない。あるいは昔、思い出づくりに失敗したんだろうか。しかし何があったのか聞くのも、彼女の心に立ち入るようで躊躇われた。
どうしたものか。そんなことを考えていると、やがて村田は顔を上げた。いつものニヤニヤとした笑いを浮かべて言う。
「男に支配されるのはイヤだって普段は言ってるけど、何だかんだで影響されてるんじゃない?」
「そうですか? そんなことありませんって」
口ではそう言ったものの、わたしは内心で呟いた。案外当たってるかもしれない、と。独立心が強ければ強いほど、依存心も強くなるらしい。
しかし、わたしは誤魔化そうと笑った。
「ところで、何読んでるんです?」
それを聞いて、村田は表紙が見えるように本を立てた。アガサ・クリスティ『トミーとタペンス』。
村田は自嘲的に、しかしどことなく懐かしそうに言う。
「クリスティって初め恋愛小説家だって思ってたんだよねぇ」
「え? どうしてです? 恋愛もの書いてましたっけ? 『トミーとタペンス』は確かに恋愛の要素もありますけど、そういうんじゃなくてですよね?」
「ええ、純粋な恋愛ものも書いてるの。小学校のころ、クリスティ原作の少女マンガが図書室にあってね」
「あぁ、書いてるんですね、恋愛小説はあまり詳しくなくて。それで推理小説家だと分かったのはいつなんです?」
わたしが尋ねると、村田は小さく息をついて押し黙った。廊下のざわめきが大きく聞こえる。そんな中、彼女は呟くように答えた。
「朝、話していた男子が教えてくれたの」
小学生のころ、一緒に組んでいた男の子。彼へ複雑な気持ちを、村田は抱いていたんだろうか。……もちろんこれはわたしの勝手な想像なのだが、むやみに詮索してはいけない気がした。
「そうなんですね」
わたしはそれだけ言うと、二人の間にはややぎこちない沈黙が漂った。村田が何事か言おうとしたが、足音が聞こえてきて、亜希子が入ってきた。
「こんにちは」
彼女はそう言うと、わたしの隣に腰を下ろす。村田はスマホを見て、亜希子に尋ねた。出題者がなかなか姿を見せないので、気を揉んでいるようである。
「ねぇ、柘植くんは? 一緒じゃなかったんだ」
「あぁ、彼ならすぐくると思います。廊下の角で、大月さんに本を貸してたようですから。邪魔しちゃ悪いと思って、わたしは声を掛けずに教室へきたんですけどね」
亜希子の答えに頬を緩ませる……かと思いきや、ふうん、と呟いて頬杖をついた。そして曖昧な笑みを浮かべる。
「まぁ問題ができてるんならいいか」
「まだできていなかったら、雑談でもすればいいんですし」
亜希子がそう言うと、村田は身を起こした。そしてオレンジジュースを一口飲むと言う。
「そうね」
そして廊下の窓に目を向けたのだった。
「遅れてすみません」
やがて扉の開く音が聞こえ、柘植が入ってくる。大月も一緒だった。
二人が腰を下ろすのを確かめると、村田は咳払いをして、柘植に尋ねる。
「問題はできた?」
その質問を聞いて、彼は自信たっぷりに頷いた。そして、リュックサックからクリアファイルを取り出して、私たちに紙を配り始める。
その紙にはこう書かれていた。
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100⑲=5
7②+5③=3
16⑧+19⑧=3
18④-20⑨=0
30⑦-46③=1
81⑦-85⑦+98⑧=?
※ただし=、+、-の意味は通常の数学と意味は変わらない。
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大月は鉛筆片手にしばらく紙を見ていたが、何も書かずに鉛筆を置いた。彼女が溜息をつくと、亜希子は励ますように優しく言った。
「まず使えそうな数字を全て書きましょ。何かそこからヒントが得られるかもしれないし。100、19、5。これが一番取っ掛かりとしてはいいと思うけど……」
そう、と鉛筆片手にわたしは心の中で呟いた。この手の問題は、亜希子が助言したようにすると大抵の問題は糸口が掴めるのだが……、とわたしは紙に目を落とした。
100+19=119
100-19=81
100×19=1900
100÷19=5.2……
「割り算だとして」
わたしが考えていると、大月の声が聞こえてくる。困惑しているようだった。
「7②=3、5③=2ですから……6にならなきゃおかしいですよね」
亜希子もうーん、と唸って呟く。
「そうね……上手くいくと思ったんだけどなぁ」
そして大袈裟に溜息をついて、言った。
「ちゃんと法則性があればいいんだけどねぇ」
亜希子は柘植を見ると、大げさに溜息をついた。その目と口振りは問題の不備をあからさまに疑っていた。彼はムッとしたように応える。
「法則性どころか、数学的に定義されてますよ」
それを聞いて、亜希子は嬉しそうに口笛を吹いた。案外、挑発に乗りやすい。苦笑していると、大月が振り向いて、わたしへ尋ねる。
「ねぇ、分かります?」
「さっぱり。119-81=39だし」
その問に、わたしは肩を竦めて答えた。ああでもないこうでもないと、しばらく三人で話していたが、やがて電子音が鳴り響く。村田はスマホを見ると、柘植に尋ねた。
「時間ね。ヒントはあるの?」
「はい」
できればヒントをもらわず答えに辿り着きたかったが、仕方がない。わたしは彼のヒントを待った。
「○の中には0は入りません」
0は入らない、ということは……? わたしはもう一度問題を見ると、鉛筆を動かす。村田はわたしたちを見回すと、尋ねた。
「今のヒントで分かった人、いる?」
「はい」
わたしはそう言って、自信たっぷりに手を挙げる。そしてさらにこう続けた。
「答えは……」