表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/35

第二話 男女の問題(問題編)

答えが解ったら書き込んでいただければ、幸いです。


「え、浅香先輩たち、デート代って割り勘……なんですか?」

 ミステリー研究会の部員、大月姫子がわたしへ尋ねた。村田、大月、そしてわたしの三人で恋愛の話に花を咲かせているのである。

 村田は机に掛けてあった薄手のジャケットを羽織ると言った。

「さすがにこの時間は寒いわね。……それで、萌たちは一円単位で割り勘なのよ」

「相手は社会人、なんですよね?」

 大月が苦笑を噛み殺すような表情で言うと、村田は誤解を与えたと思ったらしい。慌てたように付け加える。

「まぁこれは萌から言い出したんだけどね」

「もう、村田先輩。そんなの放っておいてくださいよ。お互いがよければそれでいいじゃないですか。わたしは変な貸し借りを作りたくないだけですから」

 わたしは大げさにプイと顔を背けた。

 もちろん本気で怒っているわけではない。しかし、真剣に相談に乗ってくれているならともかく、わたしの価値観をからかわれるのは余りいい気分ではない。

「まぁそうなんだけどね。ごめんごめん」

 村田がそう言うと、足音が聞こえてきた。その足音を聞いて、大月は尋ねた。

「部長さんでしょうか」

 村田は首を振って答える。

「あの人なら民俗学の講義を受けてるはずよ。一般教養の」

「失礼かもしれませんが、卒業できるんでしょうか……」

 大月はジャスミンティーを一口飲むと聞いた。村田はセカンドバッグからコーラを取り出した。彼女はゴクリと飲むと、あっけらかんと返す。

「まぁなんとかなるって本人も言ってることだし、大丈夫なんじゃないの?」

「そうかもしれませんが……、ねぇ」

 大月はそう言うと、わたしを見る。どう説明したものか、わたしが考えていると、扉が開いた。そして亜希子が入ってくると、その小動物のような顔を、いっそう縮こまらせて腰を下ろした。

「こんにちは……」

「まだ始まっていないから安心して」

 わたしがそう言うと、柘植も駆けてくる。

「こんにちは」

 彼が息を切らせて頭を下げると、わたしは苦笑した。

「何も走らなくとも」

「柘植くん、ケガしないでね」

 大月が心配そうに言った。大丈夫だと柘植は手を振ると、大月の隣に腰を下ろす。

 彼の赤い顔を見て、村田は一人しきりに頷いていた。やがてスマホへ目を落とすと、わたしたちに言った。

「さぁ、揃ったことだし、そろそろ始めましょうか。今日は萌が出題者だったわよね」

「ええ、そうです」

 わたしが答えると、村田は言った。

「それじゃ、二回連続で悪いんだけど……」

 わたしは笑って頷くと、ナップサックを開ける。そしてクリアファイルを取り出すと、クッキーを添えて問題を四人に配ったのだった。




 少女マンガ家、花村勝美の庭には花が咲いている。中でもバラとユリがひときわ目を引いた。赤と白の色が映えている。

 そんな庭を見ながら、渡辺京子は玄関のチャイムを押した。二十七歳。京子のウェーブが掛かった黒髪が風になびいている。

 待っているとインターフォンからは勝美の高い声が聞こえてきた。三十二歳だが、まるで少年のような声である。

「はい」

「勝美さん、わたしです。週刊『こすもす』の新連載の件で」

 足音が聞こえてきて、扉が開くとエプロン姿の勝美が現れる。甘い匂いが京子の鼻をくすぐった。

「ちょうどいいタイミングだったね。今、クッキーが焼き上がったところなんだけど食べるでしょ? 甘いもの好きでしょ」

「いいんですか?」

 京子が嬉しそうに言うと、勝美は笑って頷く。

「もちろん食べていっていいよ。京子ちゃんがくるって知ってて作ったんだから」

「ありがとうございます」

 勝美はそう言うと、京子をリビングに招き入れた。リビングは掃除されていて、ペアカップがきちんと収まっている。

 勝美はエプロンを外すと、京子に紅茶を出した。いただきますと京子は言うと、カップを口に運ぶ。そして書類カバンから企画書を取り出すと、言った。

「勝美さんの作品、いつも女性らしい柔らかいタッチですね。女心もよく描けていますし。アンケートでも上位を占めてるんですよ。編集長も喜んでました」

 しかし、勝美はあまり興味がない。ふうん、と呟いただけだった。

「それでですね、勝美さんには……」

 京子が身を乗り出すと、勝美のスマホが鳴った。勝美は断ってから、スマホに手を伸ばす。結婚相手の薫からだとディスプレイに表示されていた。

「もしもし?」

「あ、勝美。晩ご飯なしでお願い」

「分かったけど、なんで?」

「僕、コンピューター処理学会の飲み会で遅くなるの。あ、いつも通りウーロン茶にするから心配しないで」

「分かりました」

 勝美の不機嫌な声に一向気付く気配もない。おまけに好きなアニメ『さくら荘』の録画まで頼まれたのである。

「何で予約しなければいけないんでしょうか」

「え、どうせ勝美も見るんでしょ? 他の番組見たいんだったら別にいいよ。ワンセグで見るけど画面が小さくてね」

 そういう問題じゃない! でも薫に言っても理解してもらえないだろう、と思った。ボタン一つ押すだけなのに、という答えが返ってくるのが目に見えているのだ。うんざりして勝美は言った。

「分かりました。録画しておきます」

「ありがとう。それじゃね」

 薫は言うと、一方的に電話を切った。まるで大きな子供だ。まぁ、連絡するようになっただけでもマシになったか。勝美は溜息をついて、小さく肩を竦めたのだった。


「薫さんからですか? 相変わらず忙しいんですね」

 勝美が通話を終えると、京子は尋ねた。どことなく嬉しそうにも聞こえ、勝美は笑って頷いた。

「P対NP問題っていうのに取り組んでるらしいんだけど、話を聞いてもさっぱり。数式を見てるだけで頭が痛くなりそう。それよりも京子ちゃんと打ち合わせをしてる時間のほうが楽しいよ」

「ありがとうございます。わたしも数学は苦手でした」

 京子はそう言うと、口を「へ」の字に結んだ。そしてさらに続ける。

「でも科学者とか数学者の伝記は好きでしたけどね」

「へぇ……そうなんだね」

 これ以上、薫の話はしたくない。適当に相槌を打つと、企画書を手元に寄せた。目を落とすと、「毒婦の笑い」と書かれている。

 サスペンスらしい。上手く書けるだろうかと不安になる。そんな心境など知るよしもなく、京子は身を乗り出した。

「前、悪女を描きたいとおっしゃっていたじゃないですか。それに……これは『こすもす』の事情によるものなんですけど……」

 京子は言おうかどうか迷っていたが、紅茶を一口飲んで続けた。

「正直、最近の『こすもす』って似たり寄ったりの話でつまらないんですよね。地味なヒロインが何もしないで王子様と付き合ったり、とか。もちろんそういうシンデレラストーリーもあってもいいですけど」

「そればかりじゃ、メリハリがない、と」

 勝美も頷くと、京子も寂しそうに笑った。

「わたしが子供の頃に読んでた『こすもす』には、もっと色々な話があったような気がするんですけどね。それで勝美さんに白羽の矢が立ったんですよ」

「つまり人柱、と」

 勝美が笑って言うと、京子は乾いた笑いを浮かべた。

「別にそういうんじゃないですけどね、それでどうします?」

 うーん、と勝美は渋い顔で唸っている。

「書きたいのは山々なんだよ。でもサスペンスって論理的な思考が必要じゃない? ストーリーが破綻しないか不安で……」

「その辺はわたしたちがチェックしますので、安心してください」

 そして京子は冷やかしで付け加えた。

「いざとなったら薫さんに見てもらえばいいじゃないですか」

 京子が笑って言ったが、勝美は顔を曇らせている。そして胸の内側で呟いた。薫ね、と。

 冗談を真に受けてしまったか。勝美の表情を見て、京子は慌てて言った。

「無理にとはもちろん言いませんけどね。それに勝美さんがプレッシャーで押し潰されたら、『こすもす』が傾いちゃいますので」

「それは買いかぶりだって」

 しかし勝美は褒められて満更でもない。照れ笑いを浮かべると、京子も笑った。

「またまた。ご謙遜を。わたし自身、勝美さんの作品を楽しみにしてますので。編集者としてよりも一読者として」

「ありがとう。まぁ何とか描いてみるよ」

 勝美はそう言うと、ノートと鉛筆を取り出す。百合の香りが風に乗って、二人の花をくすぐったのだった。


「十二時、か」

 ノートを眺めていた勝美は、時計を見上げて呟いた。誘惑、毒殺、青酸カリ、ストリキニーネ、悪女、嫉妬……。ノートには思い浮かぶままの言葉が綴られている。

 他人が見れば誰かを殺そうとしていると勘違いされそう。勝美はそう独り言つと立ち上がった。そして本棚から恋愛小説を取り出して、パラパラとめくる。しかし薫にやきもきしてしまい、ちっとも頭に入らない。本をパタンと閉じて、本棚に戻した。

「遅いなぁ。どこほっつき歩いてるんだろ」

 勝美は溜息混じりに呟くと、玄関のドアが開く。スラリと背が高く、短髪の薫がリビングへ入ってきた。悪びれる素振りも見せず笑っている。

「いやぁごめんごめん。まさか『キノの旅』を知ってる人がいるとは。すっかり時間を忘れて盛り上がっちゃって」

「まったく。お腹の赤ちゃんのことも考えてよ。こんな遅くまで……」

 勝美が顰め面で言うと、薫は苦笑して遮った。

「僕もちゃんと考えてるって」

 薫はそう言うと果物籠からグレープフルーツを掴む。そして戸棚を開けて、果物ナイフを取り出すと果物の皮を剥こうとした。しかし……、薫の指から血が滴り落ちる。それを見て、勝美は慌てて言った。

「切るから座ってて」

「ごめんごめん」

 薫は恥ずかしくなりながらも果物ナイフを勝美に渡した。勝美は手慣れた手付きでグレープフルーツの皮を剥いていく。皿に盛り付けると、薫は手で口に放った。

 勝美は眉を顰めると、食器棚からフォークを取り出す。

「もう、手で食べないでよ。行儀が悪い」

 そして勝美は突き刺すと、口に運んだ。薫は椅子に座ると、足を組む。

「別にいいじゃん。手で食べれば動く手間が省けるし」

 薫がそう言うと、勝美は溜息混じりに呟いた。

「そうかもしれないけど……」

「ん? 僕、何か変なこと言った?」

「……別に」

 勝美が呟くと、薫はきょとんとした顔になる。議論しても平行線をたどるだろう、と勝美は口をつぐんだのだった。いや、議論とも呼べないかもしれない、と勝美は思った。途中で面倒になってしまい、いつも折れているのだから。

 しかし、勝美の心境など薫は知るよしもない。

「そう? ならいいけど」

 薫はそう言うと、テレビのリモコンへ手を伸ばした。そして音量を下げると、アニメを再生させる。テレビを食い入るように見始めた。

 皿に盛られたグレープフルーツを、手で摘みながら。


「薫、いつまで寝てるの。朝だよ」

 まったく、お母さんじゃないんだから! 勝美は内心で毒づきながら扉を開けた。しかし部屋の光景に途端に呆れ果てる。雑紙、スーパーのチラシ、ティッシュペーパーの箱が床にまで散らかっていて、その隅々には計算が書き殴られていた。

 片付けくらい自分でしなさいよ。家政婦じゃないんだから。勝美はそれらを掻き集めて、机の上へ手荒に置いた。薫はその物音で目を覚まし、大きく欠伸をする。そして頭をボリボリと掻いて言った。

「おはよう。昨日、計算してて気が付いたら明け方だったんだよ」

 それを聞いて、勝美は不機嫌そうに短く言った。

「そう」

「起こしてくれてありがとう」

 しかし勝美はそれに答えず、すたすたとリビングへ行ってしまう。薫はわけが分からず、その背中を見送っていた。

 朝食中、勝美は無言だった。茶碗を乱暴に置くと、薫は不思議がって尋ねた。

「ねぇ、何怒ってるの?」

「別に怒ってません」

 そう、と薫は短く答えると、梅干しに手を伸ばす。そしてぎこちなく笑って言った。

「ねぇ、昨日の『さくら荘』だけど面白かったね」

 しかし勝美は無視を決め込んで箸を動かしている。今日は虫の居所が悪いらしい、と薫は考えて、それ以上何も言わなかった。マンガの原稿で行き詰まっているか、締切に追われているか、そんなところだろう、と思ったのである。最近、『こすもす』の京子と打ち合わせが多いようだし……。

「マンガも仕事だから大事だけど無理しないで。創作活動にはストレスが大敵だよ」

 勝美はそれを聞いても、仏頂面で無視している。話してくれなきゃ分からないじゃないかと、薫は肩を竦めた。まぁ言いたくないんなら別にいいけど……。

「……あぁそうそう。完成したら僕にも見せて。結構楽しみにしてるんだから、勝美のマンガ。受け持ちの生徒たちにも評判でさ、なんて言ったらいいんだろう? この気持ち」

 大人気なかった。勝美は屈託のない笑みを見ているうちに、今までの気持ちが消えていくのを感じた。薫にも悪意があったわけじゃない、と分かっている。それにいつまでもむくれてても仕方がない。

 勝美はそう思い直すと、気まずい気持ちで言った。

「ありがとう」

 そしてさらに続けて尋ねる。

「今日は何時に帰るの? ほら何時に夕飯を作り始めたらいいのか、とか色々あるでしょ?」

「んー、まだ解らない」

「そう」

 勝美は曖昧な答えに再び苛立ったが、気持ちを押し殺す。薫は違和感を覚えたが、気のせいだろうと笑った。

「また駅についたら連絡するね」

「分かった。待ってるね」

「うん」

 薫は頷くと、机の上に置かれた封筒に目を向ける。白い封筒には『こすもす』渡辺京子様と書かれていた。

「あ、原稿描けたんだぁ」

 薫は目を輝かせて尋ねると、勝美は言った。

「うん、何とか締切間に合いそう」

「僕、それ出しとくよ」

「え……、で、でも……」

 勝美が言い淀んだが、、薫はさして気に留める様子はない。封筒に手を伸ばした

「いいからいいから。ここ最近、遅くまで原稿描いてたんでしょ」

「え、あ、うん、ありがとう。でも……」

「どういたしまして。でもさぁ……」

 薫はそう言って、耳元で軽く振った。USBメモリがカタカタと鳴る。その音を確かめて続けた。

「メールでいいのにね。電子データも送るのに何で? 面倒じゃない?」

 薫はカバンに入れると、勝美は笑う。

「確かにね。まぁ、そういう決まりなんだから仕方ないでしょ」

「絶対メールの方が合理的なのにな……」

 薫はそう呟いたが、すっかり興味が失せていた。手を合わせて続ける。

「まぁいいや、ごちそうさま。今日も美味しかったよ」

 そして手近にあった紙を破って爪楊枝の代わりに口へ押し当てた。それを見て、勝美は眉を顰める。

「もう、汚いなぁ! やめてよ」

「そうかなぁ?」

 薫はそう呟くと、首を傾げた。かすかに開いた窓からは、隙間風が入ってきていた。


 いつも疲れてるみたいだし、たまの土曜日くらいゆっくり寝かしておこう。勝美は心の中で呟くと、朝食をラップで包んだ。グレープフルーツを添えて。そして寝ている間にネームを描こうと、自分の部屋を開ける。

 本棚に並んだ少女マンガや恋愛小説。机の上には鉢植えが置かれ、黄色い花が咲いていた。

 勝美は腰を下ろすと、スマホが鳴った。ディスプレイを見ると、京子の名がディスプレイに映し出されている。打ち合わせはまだ先だし、何だろう、と訝しみながら電話に出た。

「もしもし。今日も仕事なんだね」

「ええ、雑務が溜まってまして。ところで勝美さん。確認なんですが、原稿って送ってくださいましたよね?」

 京子からの質問に、勝美は戸惑いながら答える。

「え、ええ。出したけど……、届いてないの?」

「ええ、まだなんです。多分、郵便事故か何かだとは思うんですが……」

「それじゃ、今からもう一度プリントして、速達で送るね」

 勝美は動揺と苛立ちを押し殺して言った。

「いえ、それよりもデータってまだ残ってます?」

「ええ、もちろん」

「じゃあpdfで送って頂けますか?」

「分かった。すぐ送るね」

 勝美はそう答えると、電話を持ったままノートパソコンのフタを開ける。メーラを立ち上げると、データを添付した。

「ありがとうございます。文字の抜けは……ないみたいね」

 電話口からはプリンタの音が漏れてくる。しばらく間があったが、京子の声が聞こえてきた。

「今、お時間大丈夫ですか? 確認しておきたい点が……」

 構わないと勝美が答えると、京子は使っているフォントを一つ一つ聞き取っていく。京子は確認を終えると、安堵の息をついて言った。

「ありがとうございました。これで大丈夫です」

「そう、よかった」

「あ、そうそう。『毒婦の笑い』なんですけど……」

 進捗を知りたがっている。勝美はそう思い、遮って答える。

「今、ネームを描いてるところ。安心して。詳しめに描くから」

「ありがとうございます。助かります。あれから考えたんですけど、勝美さんって花を育てるの、好きでしょう? いつも庭に花が咲いてますし」

 社交辞令とは分かっていたが、勝美にはやはり嬉しかった。

「うん、花は好き」

「それで、主人公は毒草で殺すっていうのはいかがです? ほら、毒殺魔って女性が多いそうですし」

「毒草、ね。トリカブトしか浮かばないけど」

 勝美は苦笑すると、京子は笑う。

「そうだろうと思いましてちょっと調べてみたんですよ。意外と身近な植物に毒って含まれてて私、びっくり」

「へぇ、そうなの」

 勝美がそう言うと、電話の向こうでノートをめくる音が聞こえてきた。

「例えば、彼岸花、鈴蘭、毒芹……、もちろん、実際には読者が試さないように架空の名前でお願いしますけど、花の形くらいならまぁ参考にしてもいいだろうって編集長が」

「ありがとう。参考にする」

「じゃあ、ネーム楽しみに待ってますね」

 そして失礼します、と言うと、京子は電話を切った。毒草ね、と勝美は心の中で呟くと、大きく伸びをする。インスタントコーヒーでも飲もうかな。そう心の中で呟くと、リビングに向かったのだった。


 勝美がヤカンで湯を沸かしていると、薫が目をこすりながらリビングに入ってきた。

「おはよう」

「おはよう、薫。そういえば、原稿届いてないんだって」

 勝美が何の気なしにそう言うと、薫は素っ頓狂な声を上げる。どうしたのかと勝美が尋ねると、薫は頭を掻いた。そして呑気に笑いながら、こう答えたのである。

「カバンに入れっぱなしだった。月曜日には必ずポストへ……」

 出し忘れたというのに謝罪の言葉もない。勝美は手近にあったマグカップで、薫の頭を殴りたくなった。しかしすんでのところで思いとどまる。勝美は肩を震わせながら、短く呟いた。

「……そう」

 剣呑な空気に困惑しながら、薫は言う。

「メールで出したら? 編集部だってその辺りは折り込み済みだと思うけど? 郵便事故とか色々あるだろうし」

 悪いと思っていないんだろうか? そう思うと、これまでの不快な出来事が一気に蘇ってくる。

 思わず勝美が机を乱暴に叩いた。

「もういい!」

 勝美の一方的な物言いに、段々と薫も苛立ってくる。これでは何を問題にしてるのかさっぱり分からない。確かに出し忘れたのは認めるが、代替策はいくらでもあるのだ。現に原稿ならメールで送ればいいって言ってるじゃないか。

「もういいって何? 僕はせっかく……」

「もういいって言ってるでしょ!?」

 それを聞いて、薫は溜息をつく。その溜息が、いっそう勝美の怒りへ火に油を注いだ。ちっとも反省していないどころか、自分が責められているように感じたのである。まるで聞き分けのない子供のように。

「あのねぇ」

 薫はそう言いかけたが、二人とも興奮しているのだ。冷静にな話し合いができないのは目に見えている。幸いにも今の台詞は聞こえていなかったのか、勝美は何も言わなかった。この場は一旦、頭を冷やしたほうがいい。薫はそう考え、そっとリビングから立ち去った。

 薫が出て行くと、勝美はぼんやりと机の上を見る。相変わらず食べたままで、下膳はしていなかった。片付けなければならないが、片付ける意欲は沸かない。

 ヤカンの警笛が甲高く鳴って、叱咤を受けた気になる。深く溜息をついて、片付けようと立ち上がった。その弾みで、一枚の紙が足元に舞い落ちる。

 勝美が目を落とすと、マンガの原稿だった。ただし、片隅が破られている。薫が爪楊枝代わりに使った紙だった。

 勝美の胸には言い知れぬ感情が沸き起こってくる。それを押さえつけるためには、この家から離れなければならない。そう思って、玄関へ向かった。


「鈴蘭、か」

 勝美は土手の花を見て、呟いた。可憐さに摘もうとして手を止める。京子の言葉を思い出したのだ。鈴蘭には毒がある、と。どのくらい強力な毒か、いやそもそも本当に毒があるのかさえも分からなかった。

 ただ困ればいいと思った。これを薫の食事に混ぜれば、少しは自分が楽になるだろうか。そんな考えが頭をよぎり、勢いよく振り払う。

 でも飾るだけなら、と自分に言い聞かせて、静かに花へ手を伸ばした。しばらく放浪の旅に出ようか。そんな空想にふけりながら、さ迷い歩いているうちに気付くと、家の前に立っていた。

 勝美の怒りは燻っていたが、同時に気まずさや不安も渦巻いていた。そっと玄関を開けると、薫が玄関で仁王立ちになっていたのである。

「どうして火を消さないのさ! 出ていくのは勝手だけど、火事になったら……」

 薫は怒りを圧し殺していたが、勝美にはそれを察する余裕などなかった。出ていくのは勝手だけど、という言葉が頭に焼き付いてしまう。まるで増幅器に掛けているかのように、頭へ響いたのだった。

「……ごめんなさい。今度から気を付けるね」

 勝美はしばらく黙っていたが、俯いてそう言った。そしてリビングのドアを開けると、二人分のコーヒーを淹れる。

 爽やかな笑みを浮かべて、薫へ差し出したのだった。こっそり鈴蘭の花を入れて。

 やがて薫は悶え始めると、勝美は我に返った。本当だったんだ。信じられなかったが、薫がいなくなればいいと思った。これは事実である。

 勝美は受話器を取り上げると、一一九に電話を掛けたのだった。

「妻がコーヒーを飲んで苦しんでます。早くきてください」




問題:さて、どうして「<妻が>苦しんでいる」と勝美は言ったのか?



「台詞以外で嘘はないわよね? 萌」」

 村田が尋ねると、スマホで時間を確かめる。疑っているのではなく、司会として確かめておきたいんだろう。

 わたしは済まして答えた。

「ええ、もちろん」

 大月はわたしの小説に目を落としたまま、呟いている。

「どういうこと? 勝美さんは女性だし……」

 村田は彼女に目を向けると、わたしへ言った。

「それにしても勝美って人、可哀想ねぇ」

 みんな黙々と目を這わせているので、盛り上げようとしているようである。新入生の大月、柘植の二人が解けないのを見かねて、わたしからヒントを聞き出そうとしているのかもしれない。

 わたしは作り笑顔で答えた。

「そうですね。可哀想。いいようにこき使われて、感謝の言葉もないんですから」

「そうですか? 僕は旦那さんに同情しますけど」

 柘植はそう言うと、小説から顔を上げた。わたしは笑って尋ねる。

「どうして?」

「そりゃまぁ、郵便を出し忘れたのは、旦那さんが悪いですよ。でもアニメだって録りたくなかったら断ればいいだけじゃないですか。本人はワンセグで見るって言ってるんだし。正論を言っているのに……」

 亜希子は肩を竦めると、溜息混じりに言った。

「まぁそうなんだけどねぇ。でもお母さんたちも毎回毎回、似たようなことでケンカしてる。私はどっちもどっちだって思いながら、遠巻きに眺めてるけどね」

「仲裁しないんですか?」

 柘植がそう尋ねると、亜希子は頷いた。

「うん。下手に口を挟むと、私にまで火の粉が降りかかるでしょ? コンビニ行ってくるとか口実見つけて逃げ出すのが一番よ」

「うーん……まぁそれは一つの考えですけど」

 柘植は納得できないように唸ったが、大月は頷いた。

「居心地悪いですし、面倒事には関わらないに限りますよね。この話みたいに逆恨みされて毒でも入れられたら溜まったもんじゃないし」

 逆恨みと受け取ったのか。わたしは胸の内で呟く。薫と勝美の二人ともに非はあるのだ。胸襟を開いて話し合えば、結末はまた違っていたかもしれないのに……。フィクションであるが、そんなことを考えてしまう。

 そこへ亜希子がふいにわたしへ尋ねた。

「ところで萌。文体がいつもと違うような気がするんだけど、私の気のせい? なんか不自然」

「え? そ、そうかなぁ?」

 わたしはそう答えたが、動揺して思わず彼女から目を逸らした。しばらく亜希子と大月は雑談に興じているだろう。そう思って油断していたのである。

 亜希子は忍び笑いを漏らすと、大月に言う。

「大月さん、こういう作戦も使っていいからね」

 柘植はどういう戦略を立てているんだろう? わたしは柘植を盗み見たが、彼はぼんやりと大月を眺めていた。やがて彼女と目が合うと、いそいそと柘植は小説を読み始める。

 村田は真顔で彼へ尋ねた。

「柘植くんからは萌に質問は?」

「え? あ、一つ確認させてください」

「何?」

 わたしが笑って尋ねると、柘植は緊張した面持ちで言った。

「少女漫画家、花村勝美は数学講師、夫である花村薫を鈴蘭で殺害しようとする。勝美は薫に対し、日頃から不満を募らせつていたが、マンガの原稿を爪楊枝代わりにしていたことを知り、家を飛び出す。勝美は偶然咲いていた鈴蘭を見つけ、自宅に持ち帰り、薫のコーヒーへ混入。これで間違いありませんよね」

「うーん、まぁ、合ってるかな。……だいたいは」

 わたしは慎重に答えると、村田がスマホを見て行った。

「そろそろ時間ね。ヒント用意してる? 萌」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ