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第十二話 対話の問題(解決編)

 わたしが答えを言うと、みんなしばらく無言でわたしを見ていた。やがて村田が咳払いをすると、わたしに尋ねる。

「理由は?」

「バーバラはアメリカ人ではなく、イギリス人だからです」

 わたしはそう言うと、辞書のある項目を読み上げた。その項目とは「FLOOR」。わたしは村田へ説明を続けた。

「アメリカ英語はセカンドフロアと言えば二階ですが、イギリス英語だと三階を指します。つまり三階に行ってしまったのです」

「そう言えば」

 大月がそう言うと、ページを捲る音が聞こえてくる。その音が止むと彼女の声がする。

「階数を間違える場面がありましたね」

「そういうこと」

 わたしは嬉しさで微笑むと、村田はみんなの顔を見回す。そして質問はないか確かめると、柘植が怪訝そうな顔で手を挙げた。

「あ、はい。いいですか? ポーツマスってアメリカですよね?」

 わたしは辞書をそっと机へ置くと、地図帳を彼に差し向ける。

「ほら、ここ、イギリスにもポーツマスってあるでしょ」

「でもアメリカ人って書いてありますよ」

 柘植はなおも食い下がった。わたしは問題文へ目を落とすと、その一文を読み上げる。

「『バーバラがアメリカからの留学生だと思った』。あくまでも千秋の印象でしょ」

「本当だ。今まで気が付きませんでした」

 亜希子は会話が途切たのを見計らって、わたしへ確かめる。

「だからサッカーをフットボールって言ってたのね」

「どういうことです?」

 大月が尋ねても、村田は口の端を歪めただけだった。どこか優越感に浸っているようにも見える。代わりに亜希子へ説明を促すと、戸惑ったような声で言った。

「別に構いませんが……、村田先輩、知ってますよね。どうして説明しないんですか?」

「ほ、ほら、わたしは司会進行だから」

 村田は後ろ暗い気持ちを見透かされたような口振りである。大月の囁き声が聞こえてきた。

「ねえ、柘植くん、分かる?」

 分からない、と柘植は答えると、首を振る。その様子を見て、村田は頬杖をついた。

「あらまぁ、仲がいいじゃない」

 その目からは嫉妬心がありありと窺えたが、柘植は気づく気配もない。そうですか、と柘植はあっけらかんとして彼女へ尋ねている。

「ええ」

 村田は頷くと、二人きりでデートに行ってきたらいいのにと勧めた。そして大月へ目を向ける。

「ゴールデンウィークみたいに二人きりで」

「あれは……」

 大月が何か言おうとしたが、目を伏せた。亜希子は嫌味だと受け取ったらしい。しばらく神経質に机を爪で叩いていたが、口を差し挟んだ。

「それでね、大月さん」

 亜希子の呼びかけに、大月は安堵したような表情を浮かべる。

「はい」

「フットボールって言えば、イギリスではサッカーなの。アメリカではアメフトだけどね」

「へぇ、そうなんですか」

 大月は納得したように言ったが、柘植は腑に落ちないような声である。

「確かにサッカーは足を使いますけど……、何か変な感じですね」

 柘植がそう言うと、スマホで調べているらしい。しばらくタップする音がしていたが、これ以上議論しても仕方がないと分かったらしい。本当だ、と短く呟いた。

 村田はそれを確かめると、わたしたちへ尋ねる。

「でもどれも決定打に欠けるわね。なんかモヤモヤが残らない? 多分、〈あの人〉が作ってるからどこかにイギリス人だって証拠があると思うんだけど……」

「あります」

 わたしはそう言うと、辞書を手に取った。そしてfavoriteの項目を引くと、わたしの机上に置く。柘植たちは立ち上がると、辞書を覗き込んだ。

「バーバラはf-a-v-o-u-r-i-t-eと綴っていますが、これはイギリス式です。アメリカ人が書くならf-a-v-o-r-i-t-e。つまりuは入れません」

「本当ですね」

 大月は素直に納得したようだった。しかし、柘植は渋い顔で腕組みをしている。

「そうかもしれませんが……」

 唸り声を聞いて、村田が尋ねた。

「どうかしたの?」

「いや、これってルール違反じゃないんですかね?」

「どういうこと?」

「だって、イギリスじゃfavouriteって綴るなんて僕、知りませんでした。まぁ……勉強になったからいいんですけどね、知識がなきゃ解けませんよ」

 柘植は不服そうに言ったが、村田は予想外の指摘だったらしい。愉快そうな顔でわたしへ目を向け、忍び笑いを漏らした。そして、わたしの意見を聞くと、さらにこう付け加える。

「ここでわたしを納得させなきゃ、問題が無効になるわよ」

「先輩、煽ってません?」

 わたしが言うと、村田は惚けた顔で口笛を吹き始めた。そして妙に間延びした声で言葉が返ってくる。

「何のことだかさっぱり。疑わしきは被告人の利益に、じゃなかったっけ?」

 村田がニヤニヤと笑っているところを見ると、わたしを焚き付けて面白がっているのは火を見るよりも明らかだろう。村田は急かすように言った。

「で、どうするの? 柘植くんの疑問に対して答えられる?」

「ちょ、ちょっと待ってください。今、考えてるところですから」

 当の柘植は申し訳なさそうに頭を掻いている。わたしは彼へ微笑みかけたが、閃かない。地図帳、辞書……、辞書? そう言えばどうして辞書を渡されたんだろう。コピーを添付すればいいだけの話である。強引な解釈だとは感じたが、もしかすると説得できるかもしれない。

「先輩、部長は辞書一冊を渡しました」

「ええ、そうよね」

 村田が頷くと、わたしは言った。

「もしFloorだけがヒントだったら、そのページだけをコピーすればいいはずです」

「つまり、この辞書一冊の中にヒントが隠されていた、と萌は言いたいのね」

「ええ、そうです」

 村田はわたしが頷くのを確かめると、柘植へ眼差しを向ける。

「わたしは今の説明で納得したけど、柘植くんはどう?」

 柘植はわたしの解釈を吟味しているかのように、しばらく押し黙っていた。どうだ、納得するか。わたしたちが見詰める中、彼はゆっくりと口を開く。

「はい、大丈夫です。納得しました」

 そして、柘植は朗らかな笑みを浮かべた。村田も満足そうに頷くと、立ち上がる。そして机を整列させながら、わたしたちへ言った。

「お疲れ様。そうだ、今期もこれで終了だし、来週はどこか飲みに行かない?」

 そして大月と柘植へ目を向けると、さらに続ける。

「あ、二人はソフトドリンクだけど」

 それを聞いて、大月はつまらなそうな顔になった。

「えぇ、アルコールは入らないんですか?」

 ……清楚な顔立ちとは不釣り合いな発言。それを聞いて、村田は諭すように言った。

「当たり前でしょ。未成年なんだから。で、どうするの?」

 大月は俯いてもじもじとしている。決めかねているらしかった。亜希子が促すと、顔を上げる。嬉しそうな笑顔だった。

「はい、喜んで!……あ、でも」

 言い淀んで辞書に目を落とした。そしてさらに続ける。

「これ部長さんに返さないと」

「返さなくたって平気よ。どうせ使わないんだから」

 村田はカバンを手に持って、すでに戸口へと向かっていた。借りたままになってしまうのはよくあると聞いている。しかしやはり後味がよくない、と胸のうちで呟いた。そして、辞書と地図帳をビニール袋へ丁寧に入れると、村田の後を追いかけたのだった。


「ああ、あれか」

 昼下がりの学生ラウンジで、部長はビニール袋を受け取る。中身を確認ぜず、乱暴にカバンへ押し込むと頭を掻いた。

「実はコピー代がなくてな」

「……はい?」

 わたしは呆れて聞き返すと、どういうことかと尋ねる。

「いくら大学生でも数十円くらいはあるでしょう。小学生じゃないんですから」

「いや、それが気付いたら金がみんなゲームに変わってた。あと酒だな」

 唖然。頭を抱えずにはいられない。まるで小学生の言い訳である。

「気付いたら、じゃありませんよ。何考えてるんですか」

 人の恋路に口を差し挟みたくはない。しかし、この時ばかりは心底から思った。村田は彼と別れてよかった、と。そんな安堵を感じていると、部長は真剣な顔で尋ねた。寂しそうでもあった。

「ところで二人の誤解は解けたのか?」

「二人? 誤解?」

「村田と大月。俺はあの問題文でゴールデンウィークのことも含めたつもりだったんだが、さすがにそこまでは読み取れなかったか」

 わたしはその物言いにムッとして言い返す。

「読み取れるはずがないでしょう。エスパーじゃないんですから」

「いや、悪い悪い。浅香ならそこまで読み解いてくれるんじゃないかと思って」

 一応、褒めているらしい。わたしは矛を収めることにしたが、声がつい刺々しくなってしまった。

「それで、何なんですか。誤解って。確かに待ち合わせ場所へ現れない、という共通点はありますけど」

「それは……」

 しかし、彼は途中で口をつぐむ。そして首を振って言った。

「いや、二人の問題だな。そして対話の問題でもある」

 部長が何を考えているか分からず、わたしは苛ついた。信頼の問題。全幅の信頼を寄せる人なら、どんなに突飛な発言でも楽しめる。後で話されるであろう種明かしを想像するのだ。点と点とが結びつき、線になり、やがて一つの星図を形作っていくような感覚。

 しかし、信頼がなければ、ただの無秩序な点にしか映らない。それなら不正確でも試行錯誤しながらでも自力で点と点をつないだほうがいい、と思ってしまうのだ。

 知らず知らずのうちに、わたしは不機嫌な顔をしていたのだろう。部長が声を掛けた。

「本当に申し訳ないが、信じて欲しい」

「信じるって村田先輩と大月さんが和解するのをですか?」

 わたしが尋ねると、部長は頭を掻いて答える。

「いや、フィクションの力だな」

「フィクションの力?」

 わたしが鸚鵡返しに尋ねると、部長は鹿爪らしい顔で言った。

「ああ、本当に大事なことってのはフィクションでしか語れないんだ」

 おそらく何かの小説に出てきたのだろう、聞き覚えがあった。出典を尋ねようと思ったが、口を噤む。不粋だと思ったのだ。

 部長は時計を見ると、立ち上がる。そして講義へ向かうと告げるとエレベーターへ向かった。悠長な足音が、ラウンジにこだましていた。



 わたしは階段の踊り場で足を止め、ふと空の雲に目を向けた。はるか向こうには入道雲が広がっている。まだ遠くだったが、徐々に近づいているようだった。今夜は飲み会である。どうせなら深夜ごろに降って欲しいが、望みは薄い。厳しい夏の雷に警戒心を抱きつつ、再び階段を上がった。

 E201教室の前では、村田と亜希子が中を覗いている。わたしは二人に近寄ると声を掛けた。

「どうしたんですか?」

 亜希子は唇に指を当てると、わたしへ中を見るように言う。促されるままに覗き込むと、大月と柘植が向かい合っていた。柘植の顔は赤い。デートにでも誘ったらどうかと村田が言っていたのを思い出した。どうやら告白の瞬間を見たいらしい。

 全く、とわたしは胸のうちで呟いた。他人の恋愛なんてどうでもいい。呆れるとともに聖域へ踏み込んでいるように感じられ、わたしは踵を返そうとした。しかし、村田はわたしの袖を掴んで離さない。単なる下世話な好奇心だけでないんだろう、と彼女の寂しそうな目を見て思った。

「き、き、肝試しもいいけど、こ、こ、今度」

 柘植が吃りながら言うと、村田は焦れったそうに唸った。

「全く、鶏じゃないんだから」

「今度、遊園地にでも……」

「遊園地か。ベタだけど、まぁ無難な選択肢よね」

 村田の物言いは評論家のようである。村田たちが盗み聞きしているなど知る由もない。大月の弾んだ声が聞こえてくる。

「ええ、行きましょう! もちろん……」

 そして恥ずかしそうな声で続けた。

「二人きりで、ね」

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