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第十二話 対話の問題(問題編)

 七月も二週目を過ぎると、ラウンジの七夕飾りは撤去されていた。寂しさを覚えながら、わたしは椅子に座ると、溜息をつく。むろん感傷に浸っているのではない。部長からメールで呼び出されたのだ。

 ノートのコピーを取らせてくれ、と頼まれるのはいつもだったが、メールには講義名は書かれていない。肝試しの件はもうわたしが取りまとめて送ってあるし、何の用事だろう?

 わたしはスマホで時刻を確かめると、自動販売機に向かった。スポーツドリンクを買っていると、部長の声がした。

「よう、浅香」

「こんにちは」

 連れ立って丸テーブルに戻ると、部長と向かい合わせで座る。普段は飄々(ひょうひょう)としているのだが、いつになく真剣だ。敵対心はないのだが、傍から見ると対峙しているように見えるだろう。

 わたしは笑みを作ると部長に尋ねた。

「どうしたんですか?」

「今日、浅香が問題を出すはずだよな?」

「え、ええ……」

 わたしは戸惑いながらも頷く。わたしの答えを確かめると、部長は手提げカバンに手を突っ込んだ。しばらく紙の擦れるような音がした後、取り出したのは大判の封筒だった。大学のロゴが入っていて、履歴書在中と書かれている。しかも一つではない、五つ分。分厚い封筒は手紙が入っているようにも見えた。

 怪訝そうな顔をしていたんだろう。部長は短く答えた。

「俺からの問題」

 なるほど、と胸の内側で呟いて、封筒の隙間から覗く。確かに十数枚の紙がホチキスで閉じられて入っている。情報処理室で印刷してきたはいいが、封筒を忘れて、購買部で買ったのだと語った。

「問題なんか作ってていいんですか?」

 わたしが呆れて尋ねると、部長はいつもの顔に戻った。何とかなるだろ、乱暴に頭を掻くと、呟いた。しかし、その根拠のない自信がどこから来るのか、わたしには不思議で堪らない。

「次の問題ですか? 確か部長が出題者になるのは夏休み明けですけど」

 その時には卒業していることを祈りながら、わたしは言った。しかし部長は首を振って答える。

「いや、悪いけど、今日出して欲しいんだ」

 それを聞いて、わたしは思わず素っ頓狂な叫び声を上げた。

「はぁ!? もっと早く言ってくださいよ。わたしの苦労はどうなるんですか」

「それについては謝る。申し訳ない」

 留年しすぎて時間の感覚が鈍くなったんじゃないんですか、とわたしは皮肉の一つでも言いたくなったが、スポーツドリンクとともに胃の腑へと流し込む。かえって険悪な空気を作りかねない。

 静かな怒りを圧し殺して、部長の顔を見ると真剣な顔つきである。苦渋の表情から無闇に振り回しているのではないと悟った。わたしは大袈裟に肩を竦めると理由を尋ねる。判断はそれからでも遅くはない。しかし……。

「ちょっと、な。国川からいろいろ話を聞くうちに」

「亜希子から? どういうことですか?」

 意外な名前が出てきた。わたしは驚いて思わず聞き返すと、部長はのんびりと答える。

「まぁそういうことだ」

「何がそういうことなんですか」

 交代しても構わないのだが、理由さえも知らされないのは流石に納得が行かない。わたしが詰め寄ると、彼は追求をかわすかのように立ち上がる。

「ま、とにかく頼んだわ。村田には俺が連絡しておくから」

 そう言うと、部長はさらにビニール袋を取り出した。しかし白くて中は見えない。普段、世話になってるから菓子折りでも。そんな言葉を期待していたが、ヒントを出す際に見せるようにと頼まれる。余りのことに呆気にとられてしまった。

「はぁ……」

 わたしの返事も待たずに、エレベーターへと向かう。わたしが声を掛けても、聞こえないのか無視しているのか、すたすたと行ってしまった。

 わたしは溜息をつくと、丸テーブルの上へと改めて目を向ける。所在なく置かれている五つの封筒とビニール袋。スポーツドリンクを飲むと、それらを丁寧にナップサックへしまった。

 それにしてもどうして急に問題を作ってきたんだろう、と首を捻りながら。単なる現実逃避でわたしを振り回すわけがない。亜希子からいろいろ話を聞くうちに、と言っていた。やはり、大月と村田の仲が気に掛かっているらしい。余計な火種を増やさなければいいが、と願いながら、階段へと向かったのだった。


 階段を登りきると、談笑しながら帰っていく学徒たちの姿とすれ違う。そんな彼らの脇を通って教室の前へ立つと、村田の声が聞こえてきた。話の内容までは聞き取れないが、穏やかな声ではない。静かに扉へ近づくと、彼女の声に混じり、亜希子の声がか細く漏れてきた。

 わたしは扉を開けると、村田へ軽く会釈をする。

「何があったんです?」

「萌のことで……」

 亜希子は、入ってくるわたしへ目を向けて答える。藪から棒にわたしの名前が出てきた。驚いたが、わたしは二人の前へ腰を下ろす。

 そして、ナップサックを脚元に置くと、亜希子へ聞き返した。

「わたしのこと?」

「えっとね……」

 亜希子が説明しようとしたものの、それは村田の噛み付くような声で遮られた。

「何も聞いてないの!?」

「はい?」

 さっぱり話が見えてこない。わたしは間の抜けた声で聞き返すと、村田は苛ついた様子で答える。

「せっかく作ってきたんじゃないの? 問題。わたしだけならいざ知らず、萌まで振り回して」

「ああ、そのことですか。わたしは別に構いませんから」

 わたしがそう言っても、村田の興奮は冷めないらしい。全く、などと悪態をついている。当事者のわたしよりも憤っているようだった。

 その悪態を聞いて、亜希子はしばらく爪で机を叩いていた。高く、神経質な音。それが教室に響き渡っている。やがて彼女は指を止めると、曖昧に笑んで言った。困惑しているような、意を決しているような声である。

「ま、まぁ萌がそう言うなら別にいいんじゃありません?」

 亜希子はそう言い終わると長い息をついた。まるで緊張していた気持ちを一気に押し出すかのように。

 彼女の一言で村田は不意打ちを食らったような顔になる。実際、事なかれ主義の亜希子なら傍観しているとわたしも考えていた。「下手に口を挟むと、火の粉が降りかかるでしょ? コンビニ行ってくるとか口実見つけて逃げ出すのが一番よ」。そう話していたが、保身と正義の均衡が崩れたらしい。均衡の問題。

「う、うん」

 村田はそう返すと、気まずそうに顔を伏せる。気まずい空気が漂った。雲が流れてきたらしく、ゆっくりと陽が翳り始める。普段は夏の強い陽射しに辟易していたが、この時は恨めしく感じた。

 影が濃くなった教室に、沈黙が横たわる。村田は沈黙を破ろうとしたようである。顔を上げたが、取り繕うような笑顔だ。

「え、ええ……」

 村田が最後まで言い終わらないうちに、慌ただしい足音が聞こえてくる。陽もまた照り始め、机を明るく照らし始めた。

 やがて教室の扉が勢いよく開いて、柘植の朗らかな声がする。わたしが目を向けると、走ってきたんだろう、顔が赤い。

「遅れてすみません」

「遅刻」

 村田の口調が冗談めかして囃し立てるようだった。しかし、柘植は決まり悪そうに項垂れている。これ以上、純粋無垢な後輩をからかったら、本気で責めているのだと誤解されかねない、とわたしは考えた。そして、これは村田も考えは同じだったようである。

「……大月さんは?」

 村田は笑って尋ねたが、義務的な笑みでぎこちない。しかし柘植はそれに気付かないようである。もうすぐ来るはずです、と弾んだ声で言うと、わたしの後ろに座った。

 そう、とだけ村田は寂しそうな顔で答える。呟くように、ポツリと。わたしと亜希子が顔を見合わせていると、静かな足音が聞こえてくる。足音は教室の前で止まると、やや躊躇いがち間があった。その後、扉が淑やかに開くと、大月の声がする。

「遅くなってごめんなさい」

「本当よ、もう始めようかと思ってたんだから」

 村田は冗談っぽい口調でそう言った。笑顔に見えたが、目は笑っていない。大月は村田に軽く頭を下げると、柘植の隣へと座る。

 わたしは着席を確かめると、柘植が心配そうに尋ねた。

「そういえば、さっきメールが届いたんですけど、今日は部長さんが出すんですよね。来るんでしょうか」

「わたしが預かってきたから、心配しないで」

 わたしは笑顔でナップサックから封筒を取り出す。村田は封筒をしばらく懐かしそうな目で見下ろしていたが、立ち上がって伸びをする。そして、前へ歩み出るとスマホを教卓の上に置いた。わたしたちを見回して、こう言った。

「さぁて、そろそろ始めましょうか」

「そうですね」

 わたしは頷くと、亜希子たちへ封筒を回す。封筒から紙束を取り出すと、封筒を筒型に膨らませて、目に押し当てた。

 中の物をすべて取り出したか、亜希子も確かめたかったんだろう。封筒を逆さにして振っている。

 村田は怪訝そうな顔である。封筒を掲げて左右に振りながら、尋ねた。

「あれ? 封筒が一つ余ってるけど、みんな行き渡ってるよね?」

「村田先輩の分、じゃないんですか?」

 大月が恐る恐る言うと、村田は鼻を鳴らして答える。

「わたしの? 司会者なのに?」

「だってほら」

 大月はそう言うと、みんなの机をそっと見回した。そして彼女は村田に視線を戻すと続ける。

「わたしたちはもう受け取ってますし……」

 村田はその言葉に応えかった。封筒を掴むと、無造作に封筒をビリビリと破り始める。そして紙束に目を落としていたが、その顔つきはあからさまに興味がないということを物語っていた。

「じゃ、今度こそ始めましょうか」

 村田はそう言うと、アラームを仕掛けるためにスマホへ手を伸ばした。


 南仏のニースには真っ青な海と空が広がっている。太陽の光を浴びながら、美男美女が海水浴を楽しんでいた。浜辺にはパラソルが多く、その下でブロンドヘアの女性が寝そべっている。垂れ目で気弱そうな渡部千秋は、スマホの画面へ眼差しを向けていた。

 南仏にいるのではない。スクールバスで大学に向かいながら、スマホで外国の写真を眺めていたのである。ゴールデンウィークまであと一週間。しかし、自宅でだらだらと過ごす姿が目に浮かぶ。せっかく大学に入ったのに。千秋の胸中には段々と虚しさが沸き起こってくる。スマホをポケットに仕舞うと、窓の外を眺めた。鮮やかな新緑。空には雲ひとつない。

「エクスキューズ・ミー?」

「はい?」

 英語で話しかけられたのは分かっていたが、日本語が口をついて出てしまった。見ると、大柄で碧眼の白人女性、バーバラが立ち尽くし、困惑している。隣の席を指差して、片言の日本語で千秋へ尋ねた。

「いいですか?」

 確かに座席は開いているが、大柄な彼女が座るには狭すぎる。千秋は莞爾(かんじ)として笑うと、バーバラも微笑み返した。予想通り座ると窮屈だったが、今さら立って欲しいとは言えまい。

 せめて居心地が悪いと察してもらおう。そんな思いで頻りに身をよじってみた。しかし、文化の違いなのか、鈍感な質なのか、バーバラは素知らぬ顔をしている。エクスキューズ・ミーと声を掛けたはいいものの、英語でどう言っていいのか分からない。

「えーと……」

 千秋は仕方がなく、どこから来たのか尋ねた。こんなはずじゃなかったのに、と密かに溜息をつく。それでも会話を続けたのは、無視したら心に疼痛を覚えるような気がしたからである。古傷に障るような痛みだ。

「……ポーツマス・イン……」

 千秋はこの単語を聞いて、バーバラがアメリカからの留学生だと思った。アメリカの仲介でポーツマス条約が結ばれたはずだという記憶をたどったのだ。大学入試で日本史を選択しておいてよかった。そんなことを考えながら、どうして日本に留学したのか尋ねた。京都や奈良の古都に魅了されたんだろう。しかしバーバラはズイと身を乗り出すと、興奮で頬を紅潮させてこう答える。

「日本のアニメは素晴らしいです。それは芸術作品です」

 そして日本のアニメの輪郭がどれだけ繊細で、動きがどれだけ滑らかで、彩色がどれだけ丁寧かについて熱弁を振るった。しかし半分も聞き取れず、かといってバーバラの熱弁は立て板に水である。もちろん千秋も嫌いではないが、バーバラほど熱は上げられない。

「は、はぁ、そうですね」

 千秋は曖昧な笑みを浮かべて、頷くだけが精一杯だった。しかし、彼女も興味を持っているとバーバラは受け取り、おもむろにスマホを取り出す。そして上機嫌に日本語で言った。

「この写真を見てください」

 車に酔うからと言って断ろうとしたが、バーバラに通じるかどうか分からない。そして英語でどう言えばいいのかも。困惑しながら、言われるがまま、スマホを彼女に見せられた。アニメのヒロインに扮するバーバラが、画面には映し出されている。

 しかし、大柄な体格の彼女だ。美少女の衣装はとても似合っていると言い難い。千秋は苦笑を噛み殺しながら、親指を立てた。

「ナイス・コスプレ」

 コスプレと言っても果たして通じるんだろうか。千秋は口に出した後でそう思ったが、バーバラは幸い怪訝な顔をしなかった。ナイスだけ聞き取って、満面の笑みを浮かべる。

「サンキュー」

 そしてバーバラは好きなアニメはあるかと尋ねたが、千秋は聞き取れない。もう一回言って欲しいと身振り手振りを交えて伝えた。

 バーバラはスマホに指を這わせると、千秋へ見せる。筆談だ。もどかしいはずなのにバーバラは嫌な顔ひとつしない。千秋が目を落とすと「What is your favourite animations?」と画面に書かれており、好きなアニメを聞いているのだと分かった。

 千秋が答えようとすると、誰かが千秋の肩を叩いた。振り返ると、肩まで茶髪が掛かっている女子学生が立っている。同じ英文学科の一年、斎藤絵里だ。

 彼女はそう軽く手を挙げると、バーバラを一瞥した。目が合い絵里に微笑み掛ける。挨拶を交わすだろうと千秋は考えた。しかし、である。絵里はバーバラから目を逸らしたのだ。

 避けているみたいだと、千秋には感じられた。どうしたのか聞きたかったが、離れすぎている。溜息をつくと窓の外を眺めた。信号待ちで景色は動かない。

 床屋があり、赤と青と白の縞模様がくるくると回っていた。あの三色はどれだけ速く回したら混じり合うんだろう。ふと小学校で独楽(コマ)を作っていたことを思い出した。勢いよく回すと、色が混じり合う独楽を。

 しかし、次第に言い知れぬ感覚が込み上げてくる。懐かしさとは別の、疼痛。千秋は思わず目を伏せた。



 学食を四月の陽光が包み込んでいた。昼時ともなれば、談笑が絶え間なく聞こえてくる。千秋は喧騒の中、サンドイッチを片手に宮田恵と向かい合っていた。恵は黒髪で、柔らかなウェーブがかかっている。国際交流学部の三年生だった。

 千秋の話を聞き終えた恵は、コーンラーメンを啜るとのんびりと言った。

「ふうん、熱意があるねぇ。その外人さん」

「そうなんですけどね」

「けど?」

 恵が怪訝な顔で首を傾げる。その表情を見て、千秋は口ごもっていた。やがて自嘲的に笑うと、英単語がほとんど聞き取れなかったと打ち明けた。確かにそのことも悔しかったし、嘘はついていない、と思いながら。

「そうねぇ……」

 恵はしばらく考え込んでいたが、ラーメンの汁をゆっくりとプラスティックのレンゲですくう。そして呑気な口調で言った。

「まぁなんとかなるんじゃないの?」

 余り当てにならない助言である。いや助言とも言えないかもしれない、と千秋は肩を落とした。その表情を見て、自分の胸を指差した、あっけらかんと答える

「大事なのは話そうとする心なんじゃないのかなぁ。話したくなかったらたとえ相手が日本人でも、話が通じないし」

 そうですね、と千秋は頷いたものの、まだ浮かない顔である。自信がないのだろう。そう恵は解釈し、励ましの言葉を掛けた。

「なんとかなるでしょ、いざとなったらジェスチャーでもいいんだし」

 そして、恵は大袈裟に身振り手振りをしたが、千秋は力なく笑っただけだった。ここまで慰めているのにまだ気にしている。その態度に恵は大袈裟に溜息をついた。そして気持ちを圧し殺そうと、スープを飲む。ラーメンの丼で顔が隠れて、千秋からは見えない

 惠は丼を置くと、言った。

「もう、元気だしなって。英語で撃沈したのは解るけどさ」

「ありがとうございます。だけど、絵里が……」

「うん? 絵里ちゃんがどうかした?」

「……いえ、何でもないです」

 千秋が首を振ると、恵は笑って尋ねた。

「言いかけて辞めないでよ。気になっちゃうから」

「そうですか? なら……」

 千秋はそう言うと、水でサンドイッチを押し流す。そして勘違いかもしれない、と断ってから、絵里がどうもバーバラを嫌っているらしいと告げた。人間関係の話はどうも話しにくい。恋愛の話なら盛り上がるが、嫌っている話ともなれば、余計に。

 ふんふん、と恵は時折、相槌を打ちながら千秋の話に耳を傾けていた。彼女が話し終えると、コップに口を付ける。そしてしばらく考えていたが、朗らかに笑って言った。

「多分さ、外人さんだからじゃないの?」

「そうかもしれませんね」

 しかし千秋は腑に落ちない顔つきである。首を傾げていると、千秋は肩を叩かれた。振り向くと、バーバラが立っている。ハイ、と彼女は気さくに笑って手を挙げたのだが、千秋は会釈した。そして混雑しているね、と英語で言った。

「そうですね」

 丁寧な言葉遣いをしているにも拘らず、気さくな態度を取っている。このギャップに千秋はある種のおかしさを覚えた。アメリカ人が日本語を学ぶんだから難しいよね、と胸の内で呟くと、恵に目を向ける。

「これが例のバーバラさん。ほらスクールバスの中で会った」

「ああ、日本のアニメーションが好きだっていう?」

 恵がアニメと言わなかったのは、外国人のバーバラに配慮したのだろうと千秋は察した。千秋も笑って頷く。そして、パッションがすごいね、と千秋は英語で言ったつもりだったが、バーバラは怪訝な顔をした。そして、自分の服装を見回した後、首を傾げている。

 千秋は不安になり、恵に囁きかけた。

「私、なんか変なこと言った? パッションって熱意だよね?」

 恵はしばらく考えていたが、閃いた顔つきになると、バーバラに声を掛ける。ファッションではなく、パッションと言ったのだと。そして、パッションの綴りを恵は言って、念を押す。

 それを聞いて、バーバラはしばらくきょとんとしていたが、笑い出した。千秋の隣が空いたのを見て、バーバラは腰を下ろす。バーバラと恵は互いに自己紹介を済ませた。メグとも呼ばれていると恵が付け加えると、バーバラは懐かしいと言う。

「どうして?」

 千秋が尋ねると、バーバラは答えた。

「メグは英語の名前にもあるからです。マーガレットの愛称ね」

「そういえば外人風の名前が日本には多いよね。ジュリ、マリア、ジョウジ……」

 千秋は思い付くままに、名前を挙げていった。恵はクスクスと笑って口を差し挟む。

「それと絵里ちゃんも外国人っぽい名前かも。エリーっていうし」

 千秋にはこじつけのような気がしたものの、あえて異論を唱えることもない、と思った。笑って頷く。

「ええ、そうかもしれません。憧れみたいなものもあるんでしょうね」

「憧れ、ですか。私は日本に憧れを持っています。日本人の名前はバラエティが……」

 日本語が上手く出てこないんだろう。バーバラが言葉に詰まっているのを見て、千秋が言葉を継いだ。

「豊か?」

「そう、それです。バラエティが豊かです。チャイニーズ・キャラクター、ええと、日本の文字には漢字も持っていて、それも私を面白くさせます」

 異文化へ憧憬の念を抱いている、と知っても千秋は面映くならない。それどころか隣の芝生は青く見えるものだと独り言ちた。そのとき、真後ろから男子学生たちの哄笑が聞こえてくる。

 ただでさえ外国人と話しているのに、雑音が交じると余計に聞き取りづらい。まるで周波数が合わないラジオのようである。しかし恵の説明だけは明瞭に聞き取れた。

 千秋という漢字にはたくさんの実りがあるという願いが込められているのではないか。そう恵は言っていた。そして素晴らしいとバーバラは褒めているらしい。好奇心で眼は輝いている。

 それじゃあ、と英語で彼女は呟くと、片言の日本語で尋ねた。

「エリはどういう意味ですか?」

「エリ? どういう漢字を書くか解る?」

 バーバラは首を振ったが、千秋へ眼差しを向ける。

「あなた、知りません? 千秋さん」

「わ、私が、どうして?」

 千秋は面食らって思わず日本語で返してしまったが、バーバラは気にする様子もない。

「だって、あなたとエリさんはバスの中で話していました。違いますか?」

 それを聞いて、斎藤恵理のことを指しているのだと千秋には気が付いた。

「ピクチャー・アンド・カントリー」

 里をカントリーと訳していいものかという疑問が頭を過ぎったが、これ以上、適訳はすぐに浮かばない。バーバラは怪訝な顔をしていたが、やがて言った。

「あまり素敵な漢字ではありませんね」

「翻訳が上手くないのかも……」

 千秋は苦笑交じりにそう言ったが、バーバラはきょとんとした顔つきをしている。千秋が再度英語で言い直そうとすると、恵は口を挟んだ。

「英語に直すのが上手くないのかもしれない、って」

「そんなことはありません、あなたは素晴らしいトランスレーター……えーと、日本語で……」

 バーバラが言葉に詰まると、恵ははっきり口を開けて一語ずつ発音する。

「翻訳家」

 絵里のことが話題に上ったついでである。彼女がバーバラを嫌っているという疑念を払拭したいと、千秋は考えた。トラブルがあったのかと彼女はバーバラへ英語で尋ねる。日本語でも通じるのに、英語を使うのはバーバラへの配慮。そう自分では信じていたが、その実、虚栄心があったのである。

 無理をして英語を使わなくともいいと思っているのだ。恵が苦笑しているのを見て、千秋はそう解釈したが、全く別の答えが返ってきた。

「もう、気にしすぎ」

 恵はそう応えると、当のバーバラに目を向ける。しかし恵の予想に反して、バーバラは俯いていた。



「おはよう、千秋」

 千秋がスクールバスで座っていると、絵里から声を掛けられた。千秋も挨拶すると、絵里が辺りを見回している。

「どうしたの?」

 千秋が尋ねると、絵里は安堵の表情を浮かべて、並んで座った。嫌悪感とはある種の伝染病である。バーバラは乗っていないようね、という彼女の呟きが聞こえると、千秋は不愉快さに眉を顰めた。しかし、千秋には真意を問い質す勇気はない。もっと勇気があればいいんだけど、と内心で独り言ちた。

 そんな彼女に目を向けると、絵里は溜息をつく。そして顰め面で囁いた。

「バーバラって言ったっけ? あの子あまり好きじゃないのよね」

 陰口。突然、コスプレの写真を見せてきた時は、千秋も確かに困惑を覚えた。その態度を踏まえれば絵里が悪態をつくのも解らなくない。しかし、バーバラは故郷から遠く離れて、一人暮らしをしているのだ。望郷の念に駆られることも少なくないはずである。彼女の心境を察すると、非難する気にはなれなかった。

 しかし、千秋の同情など届くはずもない。絵里は不機嫌な顔だ。千秋は困惑しながらも尋ねる。

「まぁまぁ、何かあったの?」

「うん、……ちょっとね。……男と」

 それきり彼女は押し黙ると、鉛のような沈黙が流れた。そう、と千秋は口の中で呟いて、窓の外へ目を向ける。絵里の表情が朧気にガラスへ映っていた。公園を通り過ぎると、絵里は顔を伏せる。

 気まずい沈黙の隙間を縫って、隣からは男子生徒の声が聞こえてきた。アニメの話で盛り上がっている。

 絵里はその話を聞いて、眉根を寄せた。ガラス越しにその表情を千秋は捉え、胸の内側でこう呟いた。アニメの話そのものが嫌いなのかもしれない、と。もちろん好き嫌いは誰にでもあるだろう。しかし害虫、暴力、性交……。そういった話題ならいざ知らず、たかだかアニメの話題を耳にしただけで嫌悪感を示しているのである。やはり、奇異な印象を持たざるを得ない。

 千秋は意を決して、絵里へ向き直ると言った。

「わたしもね、余り好きじゃ……」

 なかったけど、と千秋は続けようとしたが、絵里は作り笑顔で遮る。

「いいよいいよ。別に無理して話を合わせなくても」

 卑屈さこそなかったものの、質問を、そして詮索を拒絶しているように、千秋には感じた。

恵なら何か知ってるだろうか、とバスに揺られながらスマホを取り出したのだった。


 講義が終わると、学生が賑やかに話しながら小講義室から立ち去っていった。中には大きく伸びをしている男子学生の姿もある。

 千秋が教室の中を覗くと、恵は教科書をナップサックに仕舞っているところだった。彼女は視線に気が付いて、振り向いた。恵と目が合い、千秋は軽く会釈をする。

 恵は彼女へ微笑みかけると、立ち上がった。ナップサックを背負うと、千秋の許へと向かう。

「お待たせ」

 千秋へ声を掛けると、二人は並んで歩き出した。あまり千秋の人柄を知らないけど、と恵は断わった上で、意外だという感想を漏らす。

「そうですか?」

 千秋は聞き返したものの、恵の印象は的を射ているかもしれないと思った。どうして気になるのかと恵が尋ねても、千秋は曖昧に笑っただけである。

 恵はその笑みを見て、怪訝な顔で尋ねた。

「深く聞かないほうがいいかな?」

 しかし正直、千秋は自分でも判じかねていたのだ。強いて言うならバーバラへの憂慮や絵里への義憤にも似た気持ちだろうか。千秋はそう思ったものの、告げなかった。あまりにも漠としている。ただ気がかりだと躊躇いがちに千秋が言うと、恵は笑った。

「もう、心配性なんだから。気にしすぎ」

「だといいんですけどねぇ」

 千秋は溜息混じりにそう言ったが、記憶とは不思議なものである。意識し始めると、思い出されてきたのだ。まるで海に浮かぶ氷山にも似ている。今まで海面で隠れていたが、水位が低くなるに連れて見える場所が増えていく。しかし、新たに見えるようになっても地層は美しいとは限らない。千秋が新たに見つけた記憶の地層。それは小学校時代にまで遡る。ある女児との想い出だった。

 アニメが熱烈に好きだった彼女。しかし学年が上がるに連れて、友人たちの嗜好も変わっていく。四年、五年、六年……。学年が上がるにつれ、話の輪に入れなくなっていったのだ。

 段々と口数も減っていき、六年生の終わりには、教室の隅で窓の景色を眺めるようになっていった。千秋はそんな彼女を遠巻きに眺めていたのである。

 意図的にではないにせよ、仲間外れにしていたのではないか。もっと声を掛けれていれば、と思いながら、壇上で卒業証書を受け取った。しかも皮肉なことに卒業文集のテーマは……友情について。軽い気持ちで書いたのに、文章は残るのだ。それも永遠に。

 千秋が述懐しているうちに、バーバラの顔と女児の顔が重なっていく。疼痛の正体。それが彼女には分かり、一人頷いた。

「なぁに? 気持ち悪い」

 恵が笑って尋ねると、千秋は小学校時代の想い出を語り始める。ふんふん、と恵は相槌を打ちながら聞いていたが、やがて言った。

「そっか。じゃあ、その子への罪滅ぼしをしたいんだね」

「そんな大袈裟なものじゃありませんって」

 千秋は恥ずかしくなり、手を振る。しかしもしかしたら恵の言う通りなのかもしれないもと思った。

「もう照れなくてもいいのに。まぁ男性はどうか分かないけど、女の子同士の友情って恋愛に近くない? 結構、ハグしてるし」

 恵の口調は戯れるようである。それが余計に千秋の顔をますますを赤くさせた。微かな沈黙の隙間から、女子学生たちの雑談が聞こえてくる。下宿へ遊びにこないか、と誘っていた。

 千秋は様々な思いを振り払おうと、ゆっくり首を振る。そして恐る恐る恵へ尋ねた。上目遣いだった。

「それで絵里のことなんですけど……」

 うーん、と恵はしばらく天井を見上げていたが、やがて言った。

「特に何も思い当たる節はないかなぁ」

「そうですか」

 千秋は想像がついてものの、改めて答えを聞くとやはり落胆してしまう。立ち去ろうとすると、恵の目に一筋の光が宿った。

 高校時代に付き合っていた男性と口論になったことがあるらしい。しかし諍いの一度二度、交際している以上は誰でも経験するのではないか。口にこそ出さなかったものの、千秋は憮然として聞いている。

 恵はその表情を見ると、おかしそうに笑った。

「それがね、ただの口論じゃないの」

「え? どういうことですか?

「うん、その人にはオタク趣味があるって分かった途端、揉めちゃったそうで」

 今回の件と似ている、と千秋には思えてならない。一時期はまるで犯罪者の予備軍であるかのように取り沙汰されていたらしい。そう聞いていたが、今では偏見は薄らいでいる。

 時代錯誤だと思いながら、千秋は尋ねた。

「へぇ、そうなんですか。だから男性がどうこうとか言ってたんですね」

 しかし恵は首を振って、答える。

「あぁ、それ今、狙ってる人とでしょ?」

「そうです。狙ってるかどうかは解りませんけど」

「狙ってる狙ってる。それでね、私が言ってるのは高校時代、趣味に口出しして、もう別れちゃったの」

「へぇそうなんですか。何ヶ月くらい続いたんですかね?」

「結構短かったらしいよ。わたしも詳しくは知らないけど」

 ふうんと呟くと、千秋は眉を顰めた。絵里が虚栄心から男性を鞍替えしたようで、不潔、いや不純なように思われたのだ。純粋と言えば聞こえはいい。しかし時代錯誤だとではないのか。そう思うと、絵里を非難できないような気がした。

 千秋は気を取り直そうと、恵に詳細を尋ねる。しかし知らないという返事だった。

「本人に聞いてみます」

 千秋が溜息混じりにそう言うと、恵は静かに首を振った。この話題を忌避しているらしく、聞き出すのは難しいそうである。前に興味本位で尋ねたところ、話を逸らされたと恵は語った。それ以来、聞いていないと語った。

 絵里も何か過去を引きずっているのかもしれない。千秋はそう思う一方で、バーバラへ積極的に声を掛けよう、と決意を固めた。小学校時代と同じ轍を踏まないためにも。



 翌日の昼下がり、千秋は絵里と雑談をしながら廊下を歩いていた。どの講義が単位を取りやすそうか、ファッションの話云々。やがて二人はエレベーターホールにまで来ると、バーバラの姿を見掛けた。案内図を見ながら右往左往している。しかし絵里は澄まし顔で階段へと向かおうとした。

 しかし千秋は足を止め、絵里へ目を向ける。忖度と躊躇の視線。絵里の溜息が聞こえてきたが、構わず千秋はバーバラのもとに駆け寄った。そして声を掛ける。

「大丈夫? どうしたの?」

 バーバラの話を聞いていくうちに、階数を勘違いしていると分かった。

 そのことを告げると、バーバラは大袈裟に肩を竦める。

「まだ言葉に馴れませんね」

「英語でも案内板が書かれてるのに?」

 絵里は疑るような目である。千秋は笑って言った。

「もう、日本人の私たちだって迷うでしょう」

 それもそうね、と絵里は応えたが、拗ねた顔だ。

 しかし千秋は構わずにエレベーターのボタンを押すと、アニメが好きになった経緯をバーバラへ尋ねる。その質問に、しばらく暗い顔で目を伏せていたが、バーバラは呟くように言った。

「ハイスクール……ええと、高等学校の頃、私は、私の体型のせいでみんなから笑われていました」

 そしてぎこちなく笑顔を作って、肥っていることを道化けた身振りで示す。

「ヘイ、ミス・ピッグと呼ばれていました」

「豚さんね」

 絵理は一語づつ区切って、そう発音した。それを聞いて、バーバラは笑顔で頷く。しかし彼女の唇はかすかに震えていた。

 その表情に千秋は軽々しく笑う気になれなかった。可哀想だと千秋が言うと、高い音がエレベーターの到着を告げる。賛同の意を示すかのように。

 エレベーターに乗り込むと、千秋は圧迫感に襲われた。エレベーターが狭いからでも、ましてやバーバラが巨躯だからでもない。千秋は絵里を瞥見すると、ボタンを押した。

 彼女は適当に相槌を打ちながら、バーバラの話を聞いている。

「そんなとき、アニメは私の心を癒やした状態にしてくれました」

 同じような経験をした子を、アニメで慰めたいとも語った。千秋は感嘆の声を上げたが、絵里は聞えよがしに呟いた。

「それってさぁ現実逃避してるだけじゃん」

「絵里……」

 千秋はそう呟くと、バーバラに目を向ける。どういう表情をしているのか気になったのだ。しかし幸いバーバラはキョトンとした顔つきをしている。逃避とはどういう意味か小声で千秋は尋ねられ、返事に窮してしまった。

 あまりいい意味ではない。どう言い換えたものかと考えていたが、やがて逃げるという意味だと答える。

 バーバラはしばらく黙っていたが、絵里へ応える。

「はい、そうです。私は私自身から逃げていました。現実はまるで影のようですね」

「現実はまるで影?」

 突飛な比喩を聞いて、絵里は鼻で笑った。バーバラは力強く頷いて、絵里の目を見据える。追いかけ回しても掴めず、その上よく見ると輪郭さえもはっきりしない、と。

 拙い日本語で言い終わると、凛々しい空気が立ち込めた。その空気を感じ、バーバラは含羞んで笑う。やがてエレベーターの扉が開くと、一歩踏み出すバーバラへ千秋は尋ねた

「どこの教室? 一緒に行かない?」

「もう、世話焼きすぎ」

 絵里はそれを聞いて、渋い顔で答える。バーバラも手を振って、大丈夫だと断った。大きな背中とともに、彼女の足音が遠ざかっていった。

 千秋は戸惑いながらエレベーターから出て、教室へと向かう。廊下を歩きながら、千秋はわだかまりを絵里に抱いていた。他の学生たちが通るたびに、話し声が雑音としてきこえてくる。それが千秋を余計に苛立たせた。

 教室の前で、絵里へ声を掛ける。

「あの、さ」

 声音こそ弱かったが、目元からは意志の強さが感じられた。教室に入ろうとしていた絵里は足を止め、怪訝な顔で振り返る。

「ん?」

「とりあえず座ろ」

 千秋は一番後ろの席を指して、絵里へ言った。絵里は困惑顔である。

「う、うん……、そうだね」

 そう応えると、二人は並んで腰を下ろす。千秋は鞄から烏龍茶を取り出すと、口を湿らせた。緊張して、口の中が乾いていたのだ。

 教室へは段々と学生たちが入ってくる。千秋は彼らをしばらく眺めていたが、ゆっくりと話を切り出した。

「バーバラと何か……あった?」

「別に」

 絵里は素っ気なく答えると、千秋から目を逸らした。そう、と千秋は哀しい目をして応える。窓の外では風が木の葉をざわつかせていた。しかしその音は二人に聞こえない。やがて絵里は千秋に訥々と話し始めた。

「実はね、この間の日曜、バーバラとフットボールと観戦しようっていう話になって、行く前に同じ学部の男子に……話した、というか自慢ね、自慢してやったんだけど」

 その男性は高校時代、アメフト部に所属しており、今でも興味があるのだと絵里は語った。試合観戦に誘ったのだが、始まった試合はサッカーだったそうである。最後まで観戦したが、男性にはフットボールを見てくると自慢しまったのだ。後日、感想を聞かれ、大恥を掻いてしまったらしい。語彙に乏しいという理屈をつけ、適当な讃詞を並べ立てたのだった。

 ひどい目に遭ったねと、千秋は慰めると、絵里は大きく頷く。

「本当そう、あの、さ」

「うん?」

 何でもない、と千秋は言葉を返したい気持ちになったが、堪えた。絵里を気を害するのではないかと恐れていたが、それは一種の幻だと気付いたのだ。拳に力を込めると、千秋は一歩踏み出して言った。

「それって誤解なんじゃないの?」

 このまま、先に教室へ向かいたくなったが、それこそ誤解を生みかねない。千秋は弱々しい微笑みを浮かべると、絵里の言葉を待った。どう答えるだろうか、と不安に駆られ、心臓の鼓動が少しだけ早くなる。上目遣いで絵里を見ていると、彼女は目を逸らした。

「もちろんそうかもしれないけどさぁ……。なんというか」

 いつになく歯切れが悪い。頭では納得しているが、心の片隅では不満が残っていると絵里の口振りから窺える。彼女の気持ちを斟酌し、千秋はこれ以上深く追求しなかった。

 やがて呟くように言う。

「でもさ、謝って欲しかったわけ」

 気まずそうな顔だったが、その感情はバーバラに向けられているのか自分に向けられているのかは判断できなかった。どちらだろうかと考えながら、千秋は言った。

「謝らなかったの?」

 純粋な確認ではない。非難、失望、そして信頼。これらが綯い交ぜになっていて、揺れ動いている。言葉にして、千秋はその気持ちに気が付いた。

 しかし非難だけを絵里は読み取って、溜息混じりに答える。

「うん、言い訳ばかり」

「言い訳? どんな?」

 こう問いかけても、絵里は黙っていた。恐る恐る千秋は謝ると、絵里は首を振った。

「ううん、それでね、こう言ったの。フットボールはサッカーで、アメリカンフットボールはアメリカンフットボールだって」

「何それ、どういう意味?」

 絵里の答えを聞いて、千秋は苦笑しながら聞き返す。まるで禅問答でも聞いているような錯覚に陥ったのである。そんなこと知らないわよ、とけんもほろろに言い返してくるだろう。そう千秋は予期していた。しかし、目こそ逸らさなかったが、絵里は弱々しく笑っているだけ。やがて、呟くようにこう答えた。

「そんなこと知らないわよ」

 二人の学生が教室へと入ってくる。その哄笑で絵里の声は掻き消えそうだった。

 明日からゴールデンウィークか。千秋は廊下を歩きながら、胸の内側でそう呟いた。スマホを取り出すと、カレンダーアプリを起動させる。小さな溜息。予定は全く入っていない。また外国の写真でも眺めて、旅行しているつもりになろうかと考えた。しかし首を振ってスマホをポケットにしまう。虚しくなるだけだ。

 目を上げると、学生相談室のプレートが目に入った。相談者に配慮して、奥まった場所にある。目立たず、部屋そのものが息を潜めているようである。どうしたら虚しさを紛らわすことができますか、という質問が頭をよぎったが、自嘲的に笑う。馬鹿馬鹿しいと思った。

 千秋が立ち去ろうとすると、誰かが学生相談室から出てくる。絵里だった。千秋は視線を逸らした。絵里の聖域に触れるような気がしたのである。しかし一瞬だけ遅かった。目が合ったのである。

 千秋はぎこちなく手を挙げると言った。

「お、おはよう」

 彼女は何かを誤魔化すような笑みを浮かべると、躊躇しながら歩み寄る。それを見て、絵里は応えた。

「おはよう。きょ、今日も暖かいね」

「うん」

 間。何か話さなければ気まずいと千秋は思った。ゴールデンウィークの予定を尋ねようかと口を開くと、二人の声が重なる。

「あの、さ」

 その様子に千秋は手を差し向けて言った。

「わたしは後ででもいいよ」

 絵里は千秋に譲られ、上目遣いで彼女を見る。いつも居丈高な態度で接してしまい、絵里は申し訳なく思っていたところだった。

「そう? なら遠慮なく……」

 そう応じると、彼女は辺りを見回す。まるで人目を忍ぶようだった。学生が行ってしまうのを確認すると、絵里は言った。

「わたし、公園が嫌いっていうか」

「え?」

 意外な弱点を聞いて、千秋は笑い出したい衝動に駆られる。しかし絵里の顔は真剣そのものである。千秋は笑みを圧し殺して聞き返した。

「どういうこと?」

「五歳の頃ね、変な人に声を掛けられて、その人がアニメのドールを持ってたから、それ以来……、逃げ出せたからいいんだけど、お巡りさんと一緒に行ったらもういなくて……」

「そっか」

 それを聞いて、恵の話を思い出した。恋人と揉めて短い間で破局を迎えたらしい。鞍替えではなく、無意識のうちに恐怖を抱いていたのかもしれない、と千秋は思った。そして彼女の予想は当てはまっていたのである。もう不純な動機があるという臆見は、千秋の心から消えていた。

 正直、千秋は返答に窮していたが、何か言わなければいけないような気がした。怖かったね、と付け加えようとしたが、当時の恐怖を思い起こさせるといけないと思い、口を噤む。その代わりに打ち明けたことへの謝意を示し、同時にその理由を尋ねる。

「バーバラのことが気に掛かってて……、だって何も悪くないもん。フットボールの一件も勘違いでしょ。それは分かってる。分かってるけど……」

 絵里は唇を強く噛み締めている。過剰反応してしまうのだ、と千秋は思った。心を守るために。

「分かってくれるって。逆に……」

 千秋が言いかけて口を噤むと、絵里は後を促した。

「逆に?」

「ううん、何でもない」

「もう、途中で辞めないでって言ってるでしょ」

「そう? じゃあ……、話さないと分からないって言おうと思ってたんだけど」

 絵里のことだ。改めて言わなくても分かっていると千秋は思っていた。だからこそ差し出がましいようで気が引けたのだ。

 事実、絵里も分かっていた。ただ奇妙な自尊心が妨げとなり、対話の決心が付きかねていたのである。絵里はその自尊心の正体に気が付くと、そして弱々しい微笑を浮かべた。そして首肯すると、並んで歩き始める。二人は無言だった。

 しばらく行った先の掲示板には、鬱病啓発のポスターが貼られていた。その隣には、バーベキューの案内。参加締め切りの期日は明日までとなっている。どこかの部活が新入生を集めようとしているのだろう。そう思ったが、国際交流学部が企画していると解った。留学生との交流が謳われていて、真下には「2nd floor」などと英語でも集合場所などが告知されている。

 バーバラも参加するのだろうか、と考えながら、千秋は絵里へ目を向けた。バーバラは参加するか不透明だ。それなら、絵里に倣おうと考えていたのである。

 早くも絵里はスマホを取り出していた。しかし忌まわしい過去と闘っていて、硬い顔である。とても話しかけられる雰囲気ではない。

 絵里がメールを書いていると、足音が聞こえてくる。足音の主は恵だった。千秋と絵里に挨拶をすると、尋ねた。

「参加するんだ? バーバラさんも参加するんだって」

 保留中です、と千秋は答えたかったが、恵は画鋲抜きを手に携えている。もう片方の手には丸められた紙。ポスターを外して回っていると分かると、千秋は考える間もなく頷いていた。

「はい! 行きます」


問題:

 バーバラはあることを勘違いして、待ち合わせ場所に現れなかった。どうしてか理由も含めて答えよ。

1.階数を間違えていた

2.日付を間違えていた

3.時間を間違えていた

4.英語で送っていた

5.連絡先を間違えていた





 わたしたちは問題を読み終えると、互いに顔を見合わせた。しばらく黙っていたが、大月は口を挟んだ。戸惑っているような声である。

「これって……わたしたちのこと、ですよね」

「多分……、だって千秋はおどおどしているわたし、恵は頼れる先輩の萌、バーバラはアニメ好きな柘植くん、そして絵里は……」

 亜希子もすっかり困惑している声でさらに続けた。

「村田先輩」

「だよね」

 わたしはそう囁くと、教卓の村田を盗み見る。彼女は色をなして、スマホを取り出していた。恐らく部長に電話を掛けているんだろう。しかし、彼は電話に出なかったらしく、スマホを乱暴な手付きでポケットに押し込む。

 そしてわたしへ目を向けると、問い質した。怒りを圧し殺しているようである。

「何か知ってるんじゃないの?」

「何も知りませんよ」

 村田がわたしを疑うのも無理はないだろう。しかし、痛くもない腹を探られ、わたしは穏やかではない気分になってしまう。村田は謝りこそしなかったが、気まずそうに目を伏せた。

「何考えてるんだか、全く」

 村田は悪態をつくと、溜息混じりに目を落とす。そして重たい空気を振り払おうとしたらしく、さらに続けた。

「まぁ〈あいつ〉は後でとっちめるとして、さっさと解いちゃいましょ」

「懲らしめるんですか……」

 大月の声には同情がこもっている。もちろん部長への同情であるのは言うまでもない。村田は冗談めかして応えた。

「当たり前でしょ。八つ裂きにしてやる。わたしって意外と根に持つのよ」

 しかしその目はどこか真剣で、大月へ牽制球を投げているようでもある。

「何もそこまでしなくても……」

 柘植がそう言うと、村田は冗談だと笑った。そしてさらに続ける。

「わたしがそんなことするはずないでしょ」

「は、はぁ……」

 柘植が困惑顔で言うと、村田は彼へ微笑みかける。わたしが鉛筆を取り出していると、亜希子はわたしに囁いた。

「ねぇ、ひょっとして部長はよりを戻そうとしてるんじゃ……」

「うん? どういうこと?」

 わたしが男女の機微に疎いのか、全く分からない。尋ねると、亜希子は小さく溜息をついた。

「村田先輩のことだから連絡するでしょ? それを見越してたりして」

「さすがにそれはないんじゃない? 嫌われたら元も子もないし」

 わたしはそう言うと問題文へ目を落とす。

「そうかなぁ?」

 亜希子はどこかつまらなそうな口振りである。話し相手がクイズへ集中しているせいかもしれない。わたしは文章を読みながら答えた。

「そうだよ。現に電話しても出なかったみたいじゃない?」

 わたしたちがそんな会話をしていると、アラームが鳴り響く。

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