第十一話 二人の問題
二人の問題
ラウンジの七夕飾りには、射るような陽射しが降り注いでいる。学生たちも夏休みにどこへ行くかで盛り上がっているらしい。わたしは楽しそうな笑い声を聞きながら、法哲学のノートを広げていた。勉強していたわけではない。牛丼をおごるからノートを見せて欲しいと、部長にメールで頼まれたのである。わたしは手持ち無沙汰にノートをパラパラとめくった。
やはり哲学は机上の空論のように見える。虚しさと悔しさから、ノートを静かに閉じると、こう呟いた。
「法哲学、か……」
辛うじて及第した思い出を胸に、わたしは窓越しに空を仰ぐ。青空が広がっていたが、大きな入道雲が立ちふさがっていた。その入道雲を掴もうと必死で追いかけ回した挙句、何も掴めない。法哲学の本を読んでいると、わたしはそんな錯覚に襲わるのである。
わたしがぼんやりと雲の流れを目で追っていると、扉の開ける音が聞こえた。目を向けると、部長がカバンを手に提げて入ってくる。しばらく周りを見回していたが、わたしを見つけるとのっそりと歩いてきた。
「よう、毎度悪いな」
「本当ですよ。ステーキでもおごってもらわないと、割に合いません」
「卒業したら何でもおごってやる」
卒業できるんですか、と口をついて出そうになったが、さすがに躊躇われる。本人が一番焦っているのだ、と信じたい。
部長はわたしからノートのコピーを受け取った。そして紙束を無造作に押し込むと、目を落として言う。
「次の段階に進むには、二つの考えが必要なのは知ってるよな。他人の考えを受け入れてこそ、初めて成長できるんだ。バームクーヘン、じゃなかった、えーと、ああ、思い出した。アウフヘーベンってやつ。つまり俺の卒業という次の段階に進むには……」
「誰のノートも必要ありませんよね? ほとんどみんな卒業してますし」
わたしがぴしゃりと言い訳を遮る。つまるところ彼はアウフヘーベンだのを難渋な哲学用語を持ち出して、怠慢を正当化しているだけなのだ。煙に巻くのは政治家だけで充分である。
部長はカバンを置くと、わたしの向かいに腰を下ろした。実はノートの件は口実で、村田と大月の仲が修復できたかどうかを聞きたいのかもしれない。
ありがたいが、他人の世話を焼く暇があるのだろうか。わたしがそんなことを考えていると、部長はこう切り出した。
「そう言えば、肝試しで心霊スポットに行こうと思ってて」
あまりの唐突さにわたしは聞き返す。
「はい?」
「ほら、もうすぐ夏休みだろ? 何かの記念に」
「記念ですか……」
「そう、記念。車は俺が出すからよ。帰省の予定もあるだろう? みんなの希望を聞いて、俺のところへ送って欲しいんだ」
「は、はぁ……」
わたしは唖然として応える。別に部員の希望を聞くのは構わないが、肝試しよりも卒業を優先させなければいけないのではないか。しかし、釘を刺しても糠に釘では意味がない。
そんなことを考えていると、部長は含み笑いをして言った。
「知ってるか? 村田って気が強い割りに案外怖がりなんだぜ。昔、お化け屋敷に行ったんだが、声が震えてるのに、怖くないって言い張ってたぐらいだ」
「で、そんな村田先輩を怖がらせようと」
「まぁ、そんなところだな」
その答えに、わたしは聞えよがしに溜息をつく。まったく趣味が悪い。しかし全く気にする素振りを見せない。
しばらく部長は俯いていたが、その表情は窺えなかった。そこへ男子学生たちがが談笑しながら通り過ぎていったが、その声はいつもより大きく聞こえる。講義を終えて、帰宅の途に着くんだろう。
部長はスマホの時計を見ると、静かに立ち上がった。そしてカバンを手に取るとわたしへ言う。
「さてと。俺そろそろ講義に行くわ。面倒くさいけど」
エレベーターに向かう彼を見て、わたしは溜息をついた。つくづく人が好い。後輩ならいざしらず、上級生の卒業なんて放っておけばいいのに。しかも変な役回りまで引き受けてしまったと胸の内で呟いた。そして部活に出席しようと、立ち上がる。
階段へと向かう道すがら、大月と柘植を見かけた。声を掛けようかとも迷ったが、どうやら勉強中らしい。机の上にはプリントが広げられ、二人は真剣な顔つきで鉛筆を動かしている。
その様子に、わたしは静かに立ち去った。わたしの足音は、通りがかった女子学生たちの笑い声に掻き消されたのである。
わたしが教室の扉を開けると、村田と亜希子は向かい合って、怪談話で盛り上がっていた。村田の傍らには分厚いルポルタージュが置かれ、栞が挟んである。お化け屋敷の裏側を取材した本らしい。そして本の横にはいつものオレンジジュース。
村田はオレンジジュースを飲むと、わたしへ手を挙げた。
「やぁ」
「こんにちは」
わたしは会釈すると、亜希子の隣へ腰を下ろす。村田はスマホを取り出すと、わたしへ尋ねた。
「そういえば、柘植くんたちは?」
笑顔だったが、照れ臭さを誤魔化しているかのようにも見えた。やや間があったが、弁解めいて付け加える。
「ほ、ほら、今日、柘植くんが問題を持ってくる日じゃない? だから遅刻したら困るっていうか」
「あ、ラウンジで見かけましたよ」
わたしが尋ねると、大月も一緒だったかどうか尋ねた。しかしいたずらに嫉妬心を煽ることもないと思い、見なかったと笑顔で答えた。それを聞いて、村田は安堵したようだ。息をつくと、わたしへ言った。
「そういえば今日は図書館閉まってるの?」
「いえ、違いますけど……」
どうしてこんな質問をするんだろう。わたしは訝ったが、すぐに思い当たった。いつも図書館で勉強してから部活に出席すると村田は知っているのだ。
「部長に呼び出されたんです」
ふうん、と村田は余り興味を示さなかったが、オレンジジュースを一口飲むと尋ねる。
「それで、あの人、卒業できそう?」
寂しいんですか、と冷やかそうと思ったが、昔の恋愛をからかうのは趣味がよくない。
「できるといいですね」
「してもらわないとわたしも困るんだけど」
村田はそうポツリとそう呟いた。そして、慌てたような表情で付け加える。
「ほら、昔の男がいつまでも目の前をうろついてたら目障りっていうか、気まずいっていうか……。ま、まぁ、もちろん、部活の連絡くらいは義務だからするけどね。」
「ありがとうございます」
亜希子はそう言うと、上目遣いで村田を見る。村田は曖昧な笑みを浮かべていたが、大きく伸びをした。
「そもそも二人の問題なんだから部活なんかに持ちこんだらいけないし」
「でも……」
亜希子はコツコツと机を指で叩きながら応える。。
「もう、本当にいいって」
村田は苛立ちを圧し殺していたが、その矛先は亜希子以外に向けられているようにも思えた。すみません、と亜希子は小さな声で言うと、沈黙が流れた。気まずい沈黙が。村田は話題を変えようとしたんだろう。
「夏のメイクは汗で落ちやすいよね。嫌になる」
彼女はそう言うと、大袈裟に肩を竦める。亜希子も怖々頷くと、足音が聞こえてきた。そして教室の扉が開く音とともに柘植の声が響く。
「遅くなってすみません」
村田はスマホで時間を確かめると、彼へおかしそうに言った。
「そんなに遅刻ってほどでもないのに。真面目ね」
「ありがとうございます」
柘植はそう言って頭を下げると、村田の隣へ腰を下ろす。それを見て、村田は笑顔で尋ねた。
「あれ? 大月さんは?」
「は、はぁ、ちょっと……」
村田の問いに、柘植は曖昧な笑みを浮かべる。しかし、確かにラウンジでは柘植と一緒にいた。トイレに寄っているんだろうか。そんな考えが一瞬頭を過ぎったが、すぐに打ち消した。言いよどむ理由が見当たらない。
村田は心配そうな顔で尋ねた。
「何? ケンカもした」
「とんでもない」
柘植は激しく手を振ったが、慌てているようにも見えた。村田はその口ぶりに、これ以上聞いても答えないと判断したらしい。慰めるように優しく言う。
「なんかあったら相談に……」
その時、教室のドアが控え目に開いた。目を向けると大月が安堵の顔つきで立っている。
「あぁ、間に合った」
大月はそう言って、息をつくと柘植の隣に座った。
「例のものは持ってきてくれた?」
柘植が尋ねると、大月は笑顔で頷く。そしてカバンに目を落とすと、大月は答えた。
「もちろん」
ふうん、と村田は呟いた。頬杖をつくと続ける。不機嫌そうな声だ。
「何か二人で企んでるわけね?」
村田が大月を嫌っているのは知っているが、部活に持ち込まないで欲しい。二人の問題なのだ。
しかしそんな村田の心情など、柘植は全く気が付く気配もない。自信たっぷりに頷いた。
「二人で問題を作ってきました」
二人で話し合っていたが、それは勉強を教えていたのではなく、問題の打ち合わせをしていたらしい。わたしがラウンジでの光景を思い出していると、村田の呟きが聞こえてくる。
「ふうん、まぁいいけど」
そして彼女は立ち上がると、教卓まで向かった。そして、二人を交互に見ると言った。
「じゃあ、始めるわね」
それを聞いて、柘植はカバンを開けると、クリアファイルを取り出した。アニメのキャラクターが大きく描かれている。しかし、それに恥じる様子もなく、柘植は紙を取り出すとわたしたちへ配り始めた。目を落とすとこんな問題が書かれていたのだった……。
次の暗号を解読すると、人の名前になります。その人名を当てて下さい。
15,七
17,十二
25,五
その下には周期律表。はっきりと輪郭線が縁取られ、実験器具の写真がおぼろげに映し出されていた。化学の教科書からの引用だと右隅に書かれている。ページ数まで明記されていて、それが柘植の性格を表しているようにも思われた。
「さて、と」
わたしは呟くと、鉛筆を構える。周期律表と数字の組み合わせといったら、まずは原子番号。すぐに解けそうである。安堵とともに呆気なさを覚えつつ、鉛筆で丸印を付けたが、まるで意味が取れない。簡単な問題ではないようである。
むう、とわたしが唸ると、大月が思い出したように立ち上がった。
「あぁ、そうそう、これを配らなきゃ」
「絶対、わざとよ。この子」
村田が薄く笑うと、大月は頑なに言った。
「違います!」
はいはい、と村田はあしらうように手を振る。二人の様子に亜希子は溜息をつくと、彼女は尋ねる。隣の席で顔は見えないが、声音から曖昧な笑みが目に浮かんだ。
「そ、それで、大月さん。何か配るんじゃないの?」
亜希子は恐る恐るそう言ったが、問題に手を付けてはいないようである。早々に音を上げたんだろうか、とわたしは訝しんだ。いや、解きたい気持ちもあるが、村田と大月の間を取りなそうとしてるんだろう。すみません、と大月は小さな声で謝ると、A4用紙を配り始めた。
「わたしは入れなくてもいいと思うんですけどね」
大月はそう言うと、不平そうに柘植へ目を向ける。しかし、柘植は素知らぬ顔で応えた。
「だって、僕知らなかったもん」
「古文で習わなかった?」
「忘れちゃった」
さすがに柘植は決まり悪そうである。その声を聞いて、村田は笑った。
「いや、出さなきゃいけないわよ。この知識がなきゃ解けないんでしょ」
「そうですね」
分が悪いと悟ったらしい。大月は頷いたが、なおも渋い顔である。その様子に、亜希子がおどろおどろしい口調で口を挟んだ。雑談を装って、さりげなく探りを入れようとしているらしい。
「でもさ、草木も眠る丑三つ時って言わない? 丑の刻参りとか」
「そうですね」
大月の答えが短かったのは、亜希子の魂胆を察してのことなんだろう。亜希子は顎に指を当てると、続けて言った。
「それにしても、月も十二支で言うなんて初めて知った。わたしも日本の古典はそこそこ読んでるつもりでいたんだけどね」
「……睦月、如月のほうが有名ですよね」
大月は言葉を選んだらしく、無難に返す。しかし亜希子は更に畳み掛けた。
「例えばどんな作品で使われてるの?」
「何がです?」
大月は教室の壁掛け時計を見て、聞き返した。すっ惚けたような口調である。時間稼ぎなんだろうか。
亜希子はにこやかに笑った。。
「またまた。十二月が子、一月が丑っていう風に書かれてる作品。ねぇ萌も気にならない?」
わたしを巻き込んで、答えざるを得ない空気にしたいようである。
手がかりは確かに欲しいが、卑怯な気もする。その狭間で揺れ動いていると、亜希子がわたしへそっと耳打ちした。柘植くんへ負けてもいいのか、と。
その一言で心の天秤は勝利への野心に傾いたのである。猿芝居だと分かっていながらも、大月へ言った。
「わたしも知りたいなぁ」
「そうそう、教えて」
亜希子はそう言うと、笑った。……もちろん内心ではほくそ笑んでいるんだろう。しかし、彼女の予想とは違い、大月の答えは淡白なものだった。
「わたしも知らないんです」
大月が俯いてそう言うと、亜希子はどうやら旧暦は関係ないと踏んだようである。ふうん、と得意そうに呟いた。大月は怖ず怖ずと付け加える。
「でもこれ、高校の国語便覧からコピーしただけですからね」
「つまりこの問題を作ってる時には、すでに知ってたと」
助け舟のつもりだったが、大月は気付かなかったようである。もしかしたら亜希子と同じように誘導尋問を謀ってると思ったのかもしれない。どうでしょうね、と彼女は短く言っただけだった。
亜希子が再び質問を繰り出そうと、何か言い掛けたその時である。アラームが教室に鳴り響いた。それを聞いて、大月は安堵の表情を浮かべる。村田がアラームを止めると、大月と柘植の顔を交互に見て、尋ねた。
「時間が来たわね。何か最終ヒントはある?」




