第十話 素顔の問題(解決編)
「答えはアベです」
わたしの答えを聞いても、大月は静かに笑っている。余韻を楽しんでいるかのようにも見えた。そんな大月へ、村田は性急に尋ねる。
「正解? 不正解?」
「正解です」
わたしはそれを聞いて安堵の息をついた。しかしまだ緊張を解くわけにはいかない、と気を引き締める。なにせどうしてその答えを導き出したのか、村田に説明しなければいけないのだ。
「アベはローマ字で書くと、ABEになります。そしてエイブラハム・リンカーンの愛称はエイブ。これもABEです」
随分と乱暴だとわたしは内心で自嘲しながら、村田を見た。彼女も同感らしく、愉快そうに笑った。
「萌、それ実際の裁判だったら通用しないわよ。絶対」
そりゃそうだ。ダイイングメッセージなんて脆弱な論理は、無邪気な推理小説だけの話である。わたしは澄まし顔で言い返した。
「そんなこと言い始めたら、村田先輩の大好きな刑事ドラマの犯人はみんな証拠不十分ですよ」
分の悪さを悟ったらしく、村田は大袈裟に咳払いをする。
「書き残そうとしたのは名前だから、まずマシューは除外されるわけね」
村田が確かめるように見ると、わたしは頷いた。
「ええ、リンさんも除外」
「ちょっと待ってください」
亜希子が口を挟んだ。被害者はマーカーペンでLincanのLinに印を付けようとしたのではないかと。亜希子の反論にわたしは、笑って首を振る。
「リンの綴りはRinだよね」
わたしの指摘に、亜希子は紙へ目を落とした。むう、と唸っていたが、なおも彼女は食い下がる。しばらく虚空に視線を漂わせていたが、表情がぱっと明るくなった。何か閃いたらしい。
「じゃあマイヤーズさんは? Myersだし、ersを書き足せば……」
「亜希子、被害者は蛍光ペンを選んでるんだよ。文字を書き足そうとするんなら、ボールペンとかもっと細いのを選ばない?」
「それは分かったけど、だったらどこに書こうとしてたの?」
「多分My dearだよ。Abrahamは愛称じゃないでしょ?」
亜希子は納得したらしく、微かな笑い声とともに引き下がった。英文学専攻の名折れだと感じているんだろう。自嘲と羞恥。この二つが重なり合っているように聞こえる。彼女はそれ以上、なにも言わなかったが、今度は柘植が口を差し挟んだ。
「でもこれってルール違反になりませんか?」
「え? どういうこと?」
大月は意外そうな口振りでそう尋ねる。柘植は全く意に介する気配もなく、早口で言った。
「だって、僕、外国人の愛称なんて知りませんよ」
「大月さん、言ったわよ」
わたしが応えると、柘植は間の抜けた声で尋ねた。
「え? いつ、ですか?」
「亜希子と雑談してたのが聞こえなかった?」
原稿でも朗読しているような大月の声を思い出しながら、わたしがそう答える。その指摘に、大月のクスッという笑い声が漏れて……はこなかった。代わりに漏れてきたのは溜息。意外に思って、隣の席を見ると、大月は浮かない顔をしている。わたしと目が合うと、肩を竦めた。そして彼女は曖昧な顔をすると、大げさに嘆く。芝居がかっていた。
「ああ、気付いてなかったんだ」
「うん、全く」
柘植は屈託なく笑って答える。それを聞いて、大月は力なく笑うとカバンの中のファッション雑誌に目を落とした。。
廊下では男女の笑い声が、幸せそうに響いていた。
答え合わせも終え、村田はわたしたちの元へと歩いてきた。彼女は柘植の隣に腰を下ろしたが、当の彼は全く気に留める気配もない。机にノートと教科書を目一杯に広げて、熱心に鉛筆を走らせている
亜希子、村田、大月、わたしの四人は小さめの声で小説や講義の話で盛り上がっていた。その間、大月も村田もちらりちらりと柘植へ眼差しを送っていたが、彼はその視線に気がつかないらしい。
やがて、柘植が教室の壁掛け時計に目を移すと、慌てたように勉強用具をしまい始める。お疲れ様でした、とペコリと頭を下げると、扉に向かった。
足音が消えたか消えないかのうちに、村田も大げさに伸びをする。そして弾むように言った。
「さあて、わたしもそろそろ帰ろうかな」
わたしたちへ労いの言葉を掛けると、彼女はカバンを手に取る。そして廊下に響く慌ただしい足音。
「お疲れ様でした」
大月は静かにそう答えると、村田の姿を目で追っていた。表情からは羨望と哀愁とが漂っていたが、気持ちを振り払うかのように立ち上がる。トイレに行くと告げ、教室を後にした。静かに教室の扉が閉まると、亜希子は呟くように言った。
「大月さんが……」
確かに可哀想だが、実際問題わたしたちには何もできない。そしてそのことは亜希子も分かっているに違いない。彼女はかぶりを振って、大型本へと手を伸ばす。その本の影から、ファッション雑誌が恥ずかしそうに顔を覗かせていた。
亜希子は大型本をカバンに入れ終わると、何かを思いついたらしい。丁寧に畳まれた問題用紙をゆっくりと広げ始める。どうしたんだろう?
「ねぇ、もしかして大月さん、他人からの評価にズレを感じてたんじゃないのかな?」
「どうだろうね。分からないけど、でもどうして?」
「この問題の被害者って、リンカーンの評伝を書いてる途中に殺されたんでしょ。しかも素顔をあばこうとして殺されてるなんて意味深長じゃない?」
亜希子はそう言うと、「素顔に迫ろうとしていました」という一文を指でなぞった。彼女の発想は飛躍していると感じたが、今朝の会話を思い出す。化粧の際に自分の顔に違和感がある、と。
それに案外、亜希子の直感は鋭い。現にわたしが出題者のときも、文章の違和感を手がかりに解いているのだ。自分は気が付かないような。
わたしは知らず知らずのうちに苦笑していたらしい。亜希子は大げさに肩を竦めた。
「もちろん、何の根拠はないけどね」
「ううん、合ってるかもよ」
わたしは亜希子へそう応えると、時刻を確認しようとスマホを取り出す。液晶画面は鏡となって、わたしの顔を映し出していた。素顔を残しながらも、申し訳程度に薄化粧をしている、わたしの顔を。




