第九話 解釈の問題(問題編)
夕方の図書室。講義の課題がなかなか捗らないわたしは、とうとう机の上に鉛筆を放り出した。そして立ち上がると文学の棚へと向かう。いつもはアメリカ文学の棚を巡るのだが、今は気の向くままに歩き回きたい。大型本が整然と並んでいる本棚まで来た。背表紙を覗くと『世界の詩』というシリーズである。
あの姿って……、心の中でそう呟くと、わたしは辺りを見回した。柘植を見かけたのだ。そして誰もいないのを確かめると彼のもとへ歩いていって、囁きかける。
「あれ、珍しい。こんなところで」
数式とならともかく、詩と柘植とは余り結びつかない。彼は詩集を隙間へ入れると、わたしに会釈をした。
誰の詩を探しているのかとわたしが尋ねると、柘植はこう小声で応じた。
「イギリスの詩人なら誰でもいいんですけど……」
「どういうこと?」
聞けば、英詩を原典と照らし合わせながら解釈せよ、という課題が出たそうである。どの作品でも構わないらしいが、何を言いたいのか皆目見当もつかない……。手を休めてそう語った。
「そうなんだ、それで色々探してたんだね」
「ええ。まぁ……、選択必修で取らなきゃいけないんですよ。図書館情報学科も文学部ですので」
「ふうん、でも重くない? こんな大きな本じゃなくても向こうには対訳の文庫本があるのに」
「そうなんですけどね」
話が長びきそうなら、場所を変えよう。そうわたしは思っていただけに、早く話が終わりそうで安心した。わたしは励ましの言葉を掛けると、踵を返す。しかし柘植はまだ話の途中だったらしく、さらに続けた。
「どうせなら本格的に、と思いまして」
「文庫でも本格的なのあるよ」
わたしはそう言うと、有名出版社の名前を二社挙げた。いずれも学術書を出していて、論文を書くときにも参考にする、と先生が講義で言っていた出版社である。
「ありがとうございます」
柘植はそう言ったが、離れようとしなかった。しかしわたしの助言を聞き入れるかは、彼の自由である。
彼はしばらく押し黙っていたが、わたしの顔を上目遣いで見ると尋ねた。
「あのう……誰か解りやすい詩人っていませんか?」
残念ながらわたしも詩はあまり得意ではない。叙事詩なら好きなのだが抒情詩は苦手である。しかし他人が目の前で困っているのだ。何も助言をしないで立ち去るのも気が引ける。
「原文は読んだことないんだけど……、シェリーの詩が好きだよ」
「フランケンシュタインの、ですよね?」
「ううん、その旦那さん。でもまぁ……奥さんのほうが有名だよね。一作しか書いてないのに」
「へぇ、いろいろ読んでるんですね。てっきりハードボイルドの探偵小説しか読まないと思ってました」
確かに男勝りなのは認めるけど。わたしが独り苦笑いを浮かべていると、柘植は怪訝そうに尋ねた。
「何か変なこと言いました? 僕」
「ううん、気にしないで」
「ならいいですけど。……地雷原を平気で歩くって妹からよく言われるんですよ」
「そう? 別にそんなことないと思うけど」
これは本心からだったが、柘植は単なる気休めだと受け取ったらしい。何かを振り払うかのように首を振ると、わたしへ尋ねた。
「それでシェリーっていう人の詩はどんな詩を?」
「うん、『無秩序の仮装行列』っていう詩があるんだけど、この背景が好きなんだよ」
「へぇ、どんな背景なんです?」
「えーと、民衆が選挙を変えてくれって集会を開いてたけど、軍隊で鎮圧したの。無理矢理にね」
当時、市井の人々は飢饉や失業で苦しんでいたそうである。それにどんな理由があろうとも暴力で押さえ込むなんて許されない。もしシェリーと同時代に産まれていたら、わたしも義憤から声を上げていたに違いない。
詩人のそんな熱意に思いを馳せながら柘植へ説明を続ける。
「で、それに怒ってシェリーが書いたの」
「なんか先輩らしいですね」
妙なところに感心している。しきりに頷く柘植へ、わたしは尋ねた。
「わたしらしい? どういう意味?」
「いやぁ、先輩って正義感が強いじゃないですか。まぁ弁護士さんを目指してるんですから当たり前なんでしょうけど」
「そうかなぁ?」
わたしは笑顔で言うと、分厚い本を目で追っていった。そして「ロマン派詩人I バイロン、シェリー」という表題の本を手に取ると、柘植に手渡す。
「はい、この人」
しかし、数ページ捲っただけで再び挫折してしまったらしい。溜息混じりにかぶりを振ると、わたしへ尋ねた。
「そもそも詩って何なんですかねぇ。韻を踏んでるのが詩、踏んでないのが散文だと思っていたんですけど……」
法学部のわたしにそんな質問を……と戸惑ったが、乗りかかった船である。せめて知恵を貸すくらいのことはしたい。
「参考になるかどうか分からないけど……韻じゃなくて比喩が詩のポイントだって聞いたことがあるよ」
「比喩、ですか?」
柘植はオウム返しに尋ねた。そして意外そうな声でさらに続ける。
「あのう……馴染みがないものを身近な喩えで分かりやすく説明するんじゃないんですか? 比喩って」
「うん、もちろんそういう面もあるとは思うけど、例えば……ちょっとその本見せてくれる?」
わたしはそう言うと、柘植から本を受け取った。目次から「ソネット──『知識』を積んだ気球に」という詩を探し出し、ページを繰る。わたしは日本語訳のページだけに目を落とすと言った。
「この詩って気球のことを描いてるでしょ。でもこれ、自由の比喩になってるそうなんだよ」
「へぇ、よくご存じですね」
原文を指でなぞりながら詩と格闘していた柘植は、顔を上げてそう呟いた。どうしてその解釈が成り立つのか柘植から質問されたものの、これ以上の専門的な話はわたしの手に負えない。
「……全て彼氏からの受け売りなんだよね。だから詳しくはわたしも分からないってのが本当のところ」
わたしは少し悔しかったが、そう言った。中途半端な見栄を張るより、分からなければ、正直に打ち明けたほうが誠実である。
むう、と柘植は小さな呻き声を上げた。その声を聞いて、わたしは励まそうと声を掛ける。
「まぁまぁ、誰か他の人にでも聞いてみたら? わたしも聞きかじりの知識でいろいろ言っているだけだしね」
その時、大月の顔が頭を過ぎったが、口には出さなかった。本気で困っているのならともかく、男女の世話を焼いても自己満足にすぎない。
「心理学部の先輩にでも聞いてみます」
柘植は弱々しい笑みを浮かべると、さらに続ける。
「大月さんとかに聞けばいいんでしょうけど、女性って何か話しにくいんですよね……緊張しちゃって。部活のこと、妹に話したら女の園だって言われたんですよ。これで浮いた話がなければ一生、女には縁がないんじゃないかって」
「うん? それで?」
どういう意図か解らない。わたしはできるだけ笑顔で尋ねたのだが、少し硬い声になってしまった。
しかし幸いにも柘植は気付かないらしく、表情を変えずに尋ねる。
「それでですね、女性と話しても緊張しない方法、なんかご存じじゃありませんか?」
その質問に、思わずわたしは乾いた笑いを浮かべた。異性として見られていないということは考えるまでもなく、〈余計な好意〉を抱かれずにすむ。しかしここまで包み隠さず言われると、戸惑ってしまうのも事実だ。
「……ま、とにかく頑張って」
わたしの答えを聞いて、柘植は溜息をついた。まだ何かを聞きたそうに口をもごもご動かしていたが、言葉を呑み込んでしまったらしい。彼はぎこちなく笑って、詩集を小脇に抱える。
「ありがとうございます。それじゃカウンターに行ってきます」
「うん、じゃ、また部活で」
「はい」
柘植は朗らかに応え、頭を下げた。彼が本棚の向こうへ姿を消すと、わたしも机へ戻った。窓際の席では、静かな空気や弱い冷房も手伝ってか、二人の男子学生が机に突っ伏して寝ていた。ブラインド越しの日差しが、そんな彼らの寝顔を照らしている。
彼らの脇を通って椅子に座ると、わたしはスマホで時刻を確かめる。「ミステリー研究会」に遅れそうと言うほどではないが、勉強するには時間が短いように感じた。小さく伸びをすると、筆記用具をカバンの中に放り込む。そして部活へと向かったのだった。
教室のドアを開けると、亜希子と村田が向かい合って雑談をしていた。村田はわたしを見ると、手を挙げる。
「やぁ」
「こんにちは」
わたしはそう言って会釈をすると、亜希子の隣に腰を下ろした。彼女の机には愛飲のミルクティーが置かれている。そして「道徳教育論」に小さな付箋が貼られていた。教職過程で使ってるんだろう、と一瞬思ったが……
「あれ? 亜希子、もうその科目、取り終えたって言ってなかった?」
「うん、だけど、ゼミの中間発表で使うのよ」
「へぇ……」
わたしはゼミを履修していないので、どんな雰囲気で発表するのか余り想像がつかない。もちろん、友人たちから聞いてはいるのだが。
適当に相槌を打っているところへ、亜希子は言った。
「ゼミを変えるかどうかの相談してきたとこ」
「どうしてまた?」
「うん、「英語教育における異文化理解とイジメの抑制効果について」っていうテーマで卒論を書きたいんだけど、先生の専門から外れるらしくて」
「それ、文学というより……」
村田は苦笑交じりに言い淀んで、わたしへ目で同意を求める。教育学に近い、とわたしは心の中で彼女の言葉を引き継いだ。
わたしたちの顔を交互に見て、亜希子は頷いた。
「はい、他のみんなは好きな小説について調べるみたいなんですけど……、あぁ後期クイーン問題について調べてる子もいました」
「へぇ面白そう! 探偵が犯人に操られてないってどうして言えるのかっていう問題でしょ。中間発表あったら概要だけでも教えてね」
村田は身を乗り出すと、亜希子は答える。
「分かりました」
「亜希子もそういうテーマを選べばいいのに。法廷ミステリの心理戦について、とか」
そう村田はしきりに勧めるのだが……。
「それ先輩が書きたいだけでしょう」
わたしが言うと、村田は乾いた笑いを浮かべる。そして彼女はバツの悪さを誤魔化すように、咳払いをして言った。
「まぁ、わたしが書きたいかはともかく、今のゼミに残ろうという話をしてたとこ」
「そうなんだ」
わたしは笑顔で頷いた。昔の教科書を持ってきたのは、専門外の先生に資料を見せるためだろう。無限の選択肢、という言葉が頭を過ぎった。
「うん、心理学部の先生にも相談していいって言ってくれて」
「よかったね」
わたしがそう言うと、亜希子も頷く。話が途切れると、廊下から足音が聞こえてきた。それとともに響く大月と柘植の楽しそうな声。村田は顔を顰めたが、扉が開いて柘植が顔を見せた頃には、もうにこやかな顔をしていた。
柘植と大月が座ると、村田は立ち上がる。そして前に進み出ると、頬杖をついて亜希子を見た。
「問題できてるんでしょ」
「……配りますね」
しかし渦中の柘植は事情を知るよしもない。問題を配る亜希子を、彼はきょとんとした顔で眺めていた。
「ねぇ、また来てるわよ、あの子」
昼休みの工場で、中年女性が同僚の綿貫陽子に囁いた。丸々と肥った陽子は、それを聞いて微かに身を震わせる。
「どんな関係? 中学生か高校生みたいだったけど」
同僚は探るような目で尋ねた。下世話な好奇心がありありと窺える。その問いに陽子は目を伏せて、答えた。
「い、いえ。ちょっと知り合いの弟さんでして……」
「ふうん。若いツバメを捕まえてきたのかと思ってた」
しかし言葉とは裏腹に、同僚は納得していない様子である。無理もないと陽子は思っていた。人目を忍んで会っているのだ。別に男女の関係ではなかったが、恋人に知られたくないのは事実だった。
陽子はポケットの中へそっと手を入れる。きちんと封筒が入っているかを確かめると、逃げるような足で工場の扉へ歩いていった。
端正な顔立ちの美少年、田中天馬は工場の前で小石を蹴りながら待っていた。小走りに駆けてくる陽子を見つけると、屈託のない笑みを浮かべる。
「やぁ」
「ここにはこないでって言ってるでしょ!?」
陽子は辺りをそっと見回すと、天馬へ声を潜めて言った。しかし、彼は悪びれる様子もなく、のんびりと応える。
「僕、たまたま近くを通りがかって。昨日、ケータイに掛けても出なかったから……」
嘘だと陽子は思った。電話に出ないと職場へ押しかけると言っているに等しい。陽子は溜息をつくと、封筒を渡す。天馬は封筒の中身を確かめると、上機嫌に口笛を吹いた。
「最後に、してちょうだい」
陽子が声を震わせて言うと、天馬は眉を吊り上げる。そして名刺を取り出すと、詩でも諳んじるように言った。少し愉快そうな笑みを浮かべている。
「NPO法人 いじめ自殺者遺族を救う会、近藤正史。心療内科や弁護士を紹介してくれるんだってね。あと、カウンセラーも常駐……」
そして名刺を指で弾くと、天馬は言った。
「正史って人に話したら、別れ話を切り出されるかもね」
「天馬くん、自分のしてることが分かってる? 立派な犯罪よ。今までのことは黙っててあげるから、ね?」
「犯罪? お笑い草だよね。いじめ自殺者遺族を救う会の人と、加害者が恋人同士なんて!」
天馬は鼻で笑って吐き捨てると、怒りと悲しみを押し殺した声で続けた。
「じゃあ、お姉ちゃんへの仕打ちは犯罪じゃないの?」
「それは……」
何も言い返せない。その様子に天馬は彼女の肩を揺さぶって、悲痛な叫び声を上げる。
「答えてよ!」
「本当に悪いことをしたと思ってるわ。でも……」
「でも? またそうやって逃げるつもりなんだね」
天馬は手を離すと、蔑むように陽子を見据えた。その目付きに耐えきれなくなって、陽子は顔を背ける。
「逃げてなんかないけど、その……」
「じゃあ、何? 結局は保身なんだね。あの時、自分がイジメられたくないからってお姉ちゃんを見殺しにしたあの時と同じように」
「わたしだって……」
苦しかった、と陽子は言いかけたが首を振る。誰に向かって言っているんだろう。自殺者遺族なのだ。そう考えると、天馬が負った心の傷と雲泥の差であるのは明らかである。
天馬は口許を歪めて、咎めるように尋ねた。
「陽子さんだって、何?」
「いえ、何でもありません……」
「ふうん。まぁいいや。僕ね、陽子さんからお小遣いをもらうとすぐにソシャゲで課金してるんだ。どうしてか分かる?」
天馬はスマホを取り出すと、陽子に画面を向ける。人形のようなキャラクターたちが細々と動いていた。陽子もテレビコマーシャルなどでも時折見かけるゲームである。
要求を受け入れてきたのは慰謝料の気持ちもあったのだ。しかし遊興費に消えている事実を目の当たりにして、神聖な気持ちを踏みにじられたような気分になった。もとより金をどう使おうと、陽子が口を挟める立場ではない。
「知らないわよ」
陽子は拳を固めると、辛うじて応えた。
「イジメられないように、だよ。ランキングの上位にいれば少なくとも標的にはならないから。僕、逞しく生きようと思って」
逞しさを履き違えている。陽子はそう思ったが、罪悪と保身の気持ちから口を噤んでしまった。そもそもそんなこと言う権利など、彼女にはないのだ。押し黙っている陽子を見て、天馬は親しげに肩を叩く。
「じゃあ、またお小遣いちょうだい」
彼は囁くと、踵を返して道路の向こうに姿を消した。じゃがいもみたいな子……、陽子はそんな彼の後ろ姿を見て、胸の内でそう呟く。
そして陽子は溜息をつくと空を仰いだ。あの日も空が青かったっけ。そう、高校時代に同じ天馬の姉と初めて出逢った日の九月も……
中学校一年生の秋。残暑の中、始業式から解放されて、陽子たちは廊下を歩いていた。
夏休みどこかに行っただの、宿題がまだ終わってないだの、ガヤガヤと話しながら。ふと教室の前で佇んでいる少女を、陽子は見かけた。腰まで長く垂らした髪が印象的だ。これが田中礼奈との出逢い。
彼女は教室の前で緊張と恥ずかしさで俯いている。陽子は挨拶しようかとも迷ったが、何となく気恥ずかしい。チャイムが鳴ると、彼女はそそくさと教室へ入った。
喧騒の中、自分の席へ着く。前の男子生徒はこっそりマンガを取り出して読んでいた。しかし男性教師が入ると、慌てて鞄へ押し込む。教師が手を叩いて注意を向けさせると、生徒たちは、段々と教室は静かになっていく。
「はい、転校生を紹介します」
男性教師はそう言って、礼奈に目を向けると、彼女は怖ず怖ずと頭を下げる。自己紹介を終えると、男性教師は陽子の隣を指差した。窓側の席でちょうど空席になっている。
「あそこの席で当分過ごそうか」
男性教師の微笑みに、礼奈は小さく頷くとその席へと座った。
緊張してるんだろうけど、何となく話しかけづらい。陽子はそんなことを考えながら、礼奈の横顔をぼんやりと眺めた。せっかくの縁で机を並べることになったのだから、打ち解けようと思っていたのだ。
礼奈は視線を感じて、陽子へ目を向ける。礼奈は呟くような声で言った。
「よろしく……」
暗いと思ったが、何も応えないのも無視しているようで気が引ける。陽子は努めて明るい声で返した。
「わたし、綿貫陽子。よろしく! どこから来たの?」
「北海道。綿貫さんは北海道に来たことある?」
来た、という言葉に微かな壁を陽子は感じつつも、笑みで押し隠す。
「うん! 旭山動物園とかね」
そしてどんな動物が好きか、という話題から礼奈はこんな質問をした。
「ねぇ、生まれ変われったら何の動物がいい?」
もちろん世を儚んでいるわけではなく、無邪気な質問である。それこそ小学校の卒業文集に載っているような。
陽子はしばらく考えた後、アルマジロと呟くように答えた。それを聞いて、礼奈は少し面食らったような顔付きになる。
「え? どうしてまた?」
「だってさ、いざという時には身体を丸めるだけでいいんだよ」
「まぁ、確かに全力で走らなくてもいいからね。シマウマとかみたいに」
「そうそう、走ると疲れちゃうし」
陽子は頷くと、躊躇いがちに続けて尋ねた。
「……田中さんは?」
田中さんじゃなくて礼奈でいいよ、と言ってから、彼女はこう即答する。
「わたしはペガサス」
「えぇ、そんなのあり? 本当はいないのに」
陽子は不服そうに言ったが、架空の動物を含めてもアルマジロと答えるかもしれないと思った。彼女はゆっくりと首を振ると、笑顔を作って尋ねる。
「まぁ、いいけど。どうして? すぐ逃げられるから?」
「ううん、弟を背中に乗せて飛びたいから」
「へぇ、弟いるの?」
陽子の質問に、礼奈は顔を赤くして俯いた。秘め事でも話しているかのような細い声で答える。
「まだお母さんのお胎から出てこないけどね。赤ちゃん乗せて飛び回りたいなって」
礼奈の表情が幸せそうに見え、陽子はかすかに嫉妬心を抱いた。
「へぇ、それじゃ墜落しないようにしないとね。鷲とか鷹とかに翼を突かれて」
「そうだね。空を飛べるって言っても、しょせんは馬だから」
礼奈は爽やかに笑ってそう応える。他愛もなく空想で遊んでいたはずだったのに……、奇しくもチャイムの音で、陽子は追想から現実に引き戻される。近くの自動販売機でミルクティーを買うと、工場へ沈鬱な面持ちで歩いていった。
それから数日後の日曜日。
昼だということもあり、公園は幼稚園児たちが駆け回っていた。九月に入ってもまだ残暑が厳しく、子供たちは半袖で水遊びをしている。賑やかな声が微笑ましい。
陽子はベンチに腰を下ろして、近藤正史を静かに待っていた。脅迫の件を相談しようというわけではない。会うことが毎週の習慣になっていたのだ。日常に溶け込んだ、心地よい生活の一ページ。
水みたいな存在だ、とぼんやりと陽子は思った。心が干あがらないようにするための水……、そう考えていると、正史が悠然と向かってくる。透き通った目には、清潔感のある服装がよく似合っていた。
「やぁ、お待たせ」
正史がそう言うと、陽子は笑顔で頷く。そして立ち上がると、二人は手をつないで公園を後にした。そよ風が二人の間を吹き抜けている。
「いつもごめんね」
陽子は住宅街を歩きながら、言った。正史はきょとんとした顔付きで尋ねる。
「何が」
「ほら、いつもデートどこ行くか決めてもらってるし……」
「なんだ、そんなことか」
正史は安堵したように笑みを浮かべた。そしてさらに続ける。
「陽子こそ無理して俺に合わせなくてもいいんだぞ。行きたい場所があったらどんどん言ってくれれば付き合うからな」
真っ直ぐな瞳に見据えられ、陽子の胸中は嬉しさと照れ臭さが混じっていく。へへ、と含羞むと、応えた。
「ありがとう。わたしはただ一緒にいられればそれでいいから」
正史にずっとついていく。以前、ワインを飲んでいたとき、酔った勢いでそう言ったことがある。こんな恋人関係なんて時代遅れも甚だしい、とその時は思った。しかし今、恋愛経験を振り返ると、男性に導びかれたほうが安心すると気が付いたのである。
「メールじゃ映画に行くって言ってたけど……どんな映画?」
陽子が尋ねると、ストーリーを説明した。彼によれば青春映画らしい。
ラグビー部で仲間外れにされていた男子生徒。彼は部員ばかりではなく顧問からも疎んじられていた。しかし毎日残っていることを知り、部員たちの心は動かされる。部員たちは監督に頭を下げ、大会への出場を頼み込みに行く。
初めは顧問も渋っていたが、部員たちの熱意に負け、彼を試合に出すことを決定した……。
時折相槌を打ちつつも密かに苦笑していた。現実はそう甘くない、と。しかしせっかく楽しみにしている映画へ水を注すことになる。二人で歩いているのに孤独を感じながら、笑顔で応えた。
「面白そう」
「だろ?」
正史は陽子へと屈託のなく笑いかける。その表情を見て、彼女は尊敬と嫉妬が入り交じった気分になった。
「もう、デートの時くらいイジメのこと忘れてもいいのに」
「たまたま選んだ映画がイジメを題材にしてただけだろ」
正史が苦笑すると、腕時計をちらりと見る。
「まだ時間があるな、昼飯先に食うか」
二つ返事で頷きたかったが、躊躇ってしまった。先日、天馬からの要求に応えたため、財布の中身が厳しかったのである。おまけに今後も脅迫が続くだろうことを考えると、出費は抑えておきたい。
陽子の浮かない顔を見て、正史は怪訝に尋ねる。
「どうかしたか?」
「う、うん。何でもない」
「ならいいけど……」
「あの、さ。別に節約したいってわけじゃないけど……」
「ん?」
不審がられたらどうしよう。陽子は立ち止まって、唇を微かに震わせる。しかし、口元にぎこちない笑みを浮かべながらも、意を決して言った。
「今日は……、今日はコンビニでおにぎり買わない?」
「たまにはいいかもしれないな。そしたらさっきの公園で食べるか?」
正史がにっこりと微笑んで答えると、陽子は元気よく頷く。
「うん! それいいね! いい天気だし」
もちろんこれで全てが解決したわけではないが、しばらくはこの方法で誤魔化せそうだ。いつまで通用するだろうかと考えながら、陽子は正史に肩を寄せた。
しかし再び歩きだそうとした次の瞬間、彼はこんなことを尋ねてきたのである。
「なぁ、田中天馬って聞いたことがあるか?」
どうして彼の名を? 幸せな生活を奪うつもりだろうか。頭の中が真っ白になって、気が遠くなるように感じた。しかし平静を装って答える。
「だ、だあれ? その人?」
「いや、知らないならそれでいいんだ」
正史は穏やかに言ったきり、口を真一文字に結んだ。正史の頑とした表情を見て、天馬が彼の名刺を持っていたのを思い出した。彼はクライアントとして訪れたんだろうか。それならこれ以上は陽子にはどうしようもなかった。安々とクライアントの過去を話すわけがない
暗い表情の陽子を慰めようと、正史は努めて明るく言った。
「仕事で、お前の知り合いっていう人が現われたんだ」
「へ、へぇ……、勘違いじゃないの? その人の」
「そうかもな」
正史は短く応えると、悲しそうに首を振る。そして誰に問うでもなく呟いた。
「どうして無視なんかするんだろうな」
皮肉だと陽子は思った。その答えは陽子がよく知っていたのだから。
イジメは取るに足らない理由から始まる。強いて挙げるなら〈みんな〉と違うからだろうか。田中玲奈が無視されたのは、まさに余所者だったからである。
クラスの違和感に陽子が気付いたのは礼奈が転校してきてから二ヶ月後、十月のことだった。
「おはよう」
クラスメイトたちは玲奈へ挨拶するものの、余所余所しさが感じられたのである。気のせいだろうと陽子は思っていた。
ある日、教室の戸口に集まっているクラスメイトたちを、陽子は自分の席で遠巻きに眺めていた。何やら声を潜めて話しているようだったが、彼女の席からでは聞き取れない。
そこへ礼奈が入ってくると、示し合わせたように話を止める。礼奈の口元は「おはよう」と言っているように見えた。クラスメイトたちも笑顔で挨拶を交わすと、礼奈を席まで見送る。
しかし礼奈が学生鞄を見ると、クラスメイトは再びひそひそと話し始めていた。ときおり玲奈の様子をチラリチラリと横目で見ながら。陽子の胸中には不可解さと不愉快さが入り混じっていたが、強くは言えなかった。何が起こっているか心配だったけど、面倒事には巻き込まれたくない。そんな思いで机を縫うように歩く礼奈を、陽子は目で追った。
礼奈は陽子の隣まで来ると、自分の机に学生鞄を置く。そして物静かな声で陽子へ声を掛けた。
「……おはよう」
「おはよう!」
二人はいつも通りに挨拶を済ませ、ドラマの話などの四方山話に花を咲かせる。話が一区切りつくと、礼奈はトイレへ行こうと席を立った。その途端、クラスメイトたちが陽子の机に詰め寄ってくる。
「礼奈って子。鬱陶しいんだけど何とかして欲しくれない?」
黒髪で短髪の佳奈江が陽子を睨むと、他の生徒を見回す。彼女たちは一瞬躊躇したが、次々と頷いた。まるで雪崩でも起きたかのように。仕方なく同調しているのは明らかだったが、当時の陽子は動転してしまっていた。微妙な顔色の変化まで感じ取れかったのである。
「え、え? ちょ、ちょっと待って。どういうこと?」
礼奈が非難されるいわれなど思い付かない。しかしリーダー格の少女が心の底では礼奈に漠然と恐怖心を抱いていることだけは理解できた。礼奈が注目を集めて、リーダーとしての存在感が薄れていく畏れを抱いているんだろう、と陽子は考えた。学級委員などただの肩書にすぎないのだ。
だからこそ「郎党」を従えてて、陽子のもとに訴えたのだ。
「大体、礼奈って暗いんだよね。そこがまず嫌い」
佳奈江が吐き捨てると、他のクラスメイトたちも異口同音に玲奈を欠点を挙げ始めた。「先生に当てられた時だけ妙に張り切っちゃって」「そうよ、体育じゃ鈍いくせに」「玲奈の友達なら注意しなさいよ」
言い返したいけど、火に油を注いでしまう。そして自分にも火の粉が降りかかりかねない。陽子がグッと耐えていると、扉の開く音とともに礼奈が入ってきた。この罵声を玲奈が聞いたら……。その場面を想像し、陽子は悲しんだが、杞憂にすぎなかった。
「ともかく、私たちはあの子のこと嫌いだから」
佳奈江はそう言うと、仲間と自分の席へ歩いていく。仲間の一人が途中で足を止めて、陽子の席を振り向いた。申し訳なさそうな顔だったが、名前を鋭い声で呼ばれると足早にクラスメイトたちを追っていった。陽子が空気の変化を感じたのは、その日からである。
もちろん劇的なものではなく、じわりじわりと礼奈の学校生活を蝕んでいった。
「おはよう」
礼奈が声を掛けても、クラスメイトは淡白に返すようになり、邪険に挨拶するようになっていったのである。とうとう玲奈の顔を見ると、舌打ちをして去っていくようになった。……ただ一人、陽子を覗いては。
だんだんと、礼奈もクラスメイトへ挨拶しなくなっていった。礼奈は俯いて、一目散に陽子の席へと向かう。
「……おはよ」
以前の静謐な眼は、すっかり沈鬱な眼になってしまい、陽子は見るに忍びない。陽子はその気持ちにも罪悪感を懐き、彼女は礼奈から目を反らす。……アルトリコーダーを仕舞う振りをして。
「……おはよう」
陽子の仕草に、礼奈は動揺して肩を震わせたが、恐々と話し掛ける。
「あの、さ」
「ん?」
陽子は礼奈に再び眼を向けて応えた。悔しさと悲しさから、礼奈の目には涙を湛えている。
「私、みんなに何か悪いことしたのかなぁ?」。
「別にいいんじゃない? 悪口言いたい人には言わせておけば。礼奈だって無視すればいいのよ」
励まそうと陽子は明るい声で言った。しかし礼奈はなおも震え声である。
「陽子ちゃんは……無視しないよね」
「もちろん!」
即答。礼奈は芯が強いと陽子は感じた。断わられたらどうしようという思いが頭を駆け巡り、なかなか聞きたくても聞けないだろう。陽子はそう思ったからである。
陽子は鉛筆を取り出して、ノートの切れ端に「せい約書」と書き付けた。そしてドラマでのワンシーンを思い出し、見よう見まねで、日付と署名。大人の仲間入りを果たしたような気になるのだ。もちろん錯覚だとは分かっていたが。
それを見て、礼奈は手を振った。
「別にいいよ、信じてるから」
「まぁいいからいいから」
「そ、そう?」
礼奈は戸惑いながらも「せい約書」を受け取る。丁寧に折り畳むと、前に張り出された時間割表に目を向ける。鞄から数学の教科書と筆箱を取り出した。
他のクラスメイトたちは大きな声で笑っている。わざと大声で話しているみたい。陽子はそう感じて眉を顰めたが、礼奈は気にすることもない。過敏反応かな、と陽子は心の中で呟いた。
彼女はスケッチブックを取り出すと、イラストを描き始める。陽子たちが持っている自由帳が玩具のように思えてくる。書いているところを覗き込んで、彼女はは思わず叫び声を上げた。一枚のペガサスの絵。
「なにこれ、上手い!」
「全然、上手じゃないよ」
礼奈は目を伏せながらも、手を止めて尋ねる。
「他にもあるけど……」
「え、見たい!」
それを聞いて、スケッチブックをゆっくりとめくり始めた。心の聖域でも見せるような手付きである。どれも一時間や二時間で書いたとは思えない、渾身の力作揃いだった。
「弟の名前が天馬に決まって……」
「あぁ、それでペガサスを書いてるのね」
「うん、わたしからのプレゼント。喜んでくれるといいんだけど」
礼奈は恥ずかしくなって俯く。「まぁまぁ! お世辞一つであんなに舞い上がっちゃって」「漫画家気取り? バカじゃないの?」。後ろからそんなクラスメイトが聞えよがしに囁いている。
無視しない、という約束。それだけは何があっても守り抜こうと心に固く誓っていた。
昼下がりの五時間目。音楽室から出て階段を降ろうとしたところで、陽子はクラスの女友達に肩を叩かれた。しかし玲奈だけを依怙贔屓するわけにはいかない。
礼奈の肩を控え目に叩くと、陽子は耳元で囁いた。
「ごめん、先戻ってて」
「解った、それじゃあ待ってる」
陽子は応えると、緩慢な足取りで階段を降っていった。
彼女が教室の扉を開けると、礼奈は机の下でうずくまっている。遠くからでは解らないが、何かを拾っているように屈んでいた。胸騒ぎを覚え、礼奈のもとへ駆け寄る。その光景に息を呑んだ。
彼女の描いたイラストが引き裂かれていたのである。しかも足元にこれ見よがしに散らかっていた。おまけにゴミ箱を机の上でひっくり返され、イラストとともに他の紙くずも混ざっている。礼奈はその「紙くず」を淡々と拾っていた。
「誰がこんなことを……」
言わなくても解っていたが、陽子は辺りを見回した。クスクスという笑い声と玲奈へ向けられた悪意の指。それを見て、居ても立ってもいられかったのである。しかし礼奈は陽子の腕を強く掴んだ。そして首を振って弱々しく言う。
「行かないで」
「でも!」
陽子は礼奈の制止を振り切って駆け出した。クラスメイトたちに詰め寄ると、声を荒げる。足が竦んで、震えていた。
「ちょっと! 礼奈に謝りなさいよ」
そんな勇ましい言葉の一つでも言い放つことができれば、事態はまた違っていたものかもしれない。しかし実際は声をかける前に、睨まれて萎縮したのだった。まるでアルマジロが丸くなるかのように、背中も丸くなる。
クラスメイトの一人が猫なで声で尋ねた。
「なぁに?」
「な、なんでもない……」
すごすごと立ち去ろうとする陽子へ声を掛ける。
「なんでもないってことはないでしょう?」
そしてさも初めて思い至ったかのような顔をした。
「あ、もしかして田中さんのこと?」
「うん! 礼奈のことで……」
一筋の光明。陽子には本気でそう感じられ、しきりに頷く。しかし彼女が答えるよりも早く、別のクラスメイトが遮った。満面の笑顔である。
「あなたも田中さんに迷惑してるの?」
「え? あ、そのう……」
思わぬ話の流れに陽子が言い淀んでいると、クラスメイトの一人が彼女に笑いかけた。
「きっとそうよ、ねぇ」
とても違うとは言いにくい。もし否定したら……。聡い礼奈のことだ。もしかしたら罠だと感じ取っていたのかもしれない、と陽子は後悔した。それなのに制止を振り切ってしまったのだ。自分が情けない。
「そうと決まったらさぁ」
佳奈江が悠然とそう言った。そして玲奈を一瞥すると、さらに続ける。
「みんなで田中さんのところへ言いに行こうよ。迷惑してるって」
「え? べ、別にいいよ」
しかし必死の抵抗も虚しく、親しげにこう返された。
「遠慮しないで、さぁ行きましょ」
それを聞いて、仲間二人が両脇へびったりと寄り添う。実際は監視役だが、教師から見たら友達だと思うだろう。陽子は思った。目眩を覚えながら、玲奈の席まで歩く。いや、歩かせられたのである。傀儡人形のように。
「田中さん」
佳奈江が声を掛けると、礼奈は目を上げる。
「陽子ちゃんが話したいことがあるって」
わざとらしく「陽子ちゃん」と呼ぶと、陽子の肩を馴れ馴れしく叩いた。そしてまるで正義の代弁者のような口振りで促す
「さぁ、話したいことって何?」
「……礼奈、ごめんね」
陽子はボソボソと呟くように言うと、礼奈は俯く。その仕草を見て聞き取れたと分かったはずなのに、佳奈江は促した。
「こういうときって相手の目を見なきゃ伝わらないんじゃない? さぁ、陽子ちゃん。はっきりと田中さんに」
「……礼奈、ごめんね」
陽子はもう一度繰り返した。佳奈江が望む言葉なんていうものかと思った。迷惑してる、と
「何で謝ってるの?」
佳奈江は冷ややかに言ったが、さも諭すかのように言った。
「気が弱いのは解るけど、こういうときは強く言わないと、お互いのためにならないよ。さぁ、田中さんにどうして欲しいの?」
「礼奈と口を……」
「口を?」
「利きたくない、です」
陽子は目に涙を浮かべてそう続けたが、佳奈江は追撃の手を緩めない。
「どうして?」
迷惑してる、ととうとう言ってしまった。礼奈とはしこりがどうしても残る。放っておけば自然消滅するだろう、という計算が働いたのである。
「分かった? 金輪際、陽子ちゃんとは口を利かないこと」
「うん、分かった。綿貫さん、ごめんね」
礼奈はしおらしく頷いたが、陽子は玲奈の顔を見た。あえて「陽子」ではなく、「綿貫さん」と言ったのだ。しかも極めて自然な口調。これで解放されるかと思いきや、その態度が佳奈江の癇に障った。
「そういえばさ、さっきさ、礼奈って呼んでなかった?」
佳奈江はそう尋ねると、仲間二人の顔を交互に見回す。それを聞いて彼女たちは楽しそうに囃し立てた。
「言ってた言ってた」
「迷惑してるんなら、礼奈って呼ぶのはおかしくない?」
二人の台詞に佳奈江は満足そうに頷くと、陽子を見る。佳奈江は言い直すように目で命じていたが、舌が喉の奥に貼り付いているかのように声が出ない。口も、喉も、そして心もカラカラに乾いていた。
そんな陽子を見て、礼奈が口を差し挟む。
「田中さんって聞こえましたけど。私には」
有無を言わせない、毅然とした態度。佳奈江は後ずさりをしたが、それにも関わらず礼奈はノートと鉛筆を取り出した。そして美しい字で「誓約書」と書き、二度と綿貫陽子には近づかないことを誓ったのである。さすがに礼奈の手が小刻みに震えているのを、陽子は見て取った。
礼奈は平静を装って渡すと、佳奈江はぞんざいにポケットへ押し込んだ。
「そ、そう。ならいいけど。あともう一枚」
「何?」
「あの変なイラストは目の毒。描かないでちょうだい」
「……え?」
さすがに礼奈は狼狽した顔で言う。今度はわたしが彼女を守る番だ、と陽子は思った。それなのに、何も言えなかった。
「……分かった」
礼奈はそう言うと、ノートを破る。「誓約書」に署名した途端、鉛筆の芯はポッキリと折れてしまった。しかし鉛筆削りを取り出そうともしない。礼奈は佳奈江に黙って差し出すと、佳奈江はそれを引っ手繰るように受け取る。
「あの変なノートも」
礼奈はさすがに一瞬躊躇ったが、陽子と目が合うと鞄からスケッチブックを取り出した。佳奈江はそれを受け取ると、何気ない手つきでスケッチブックのページをめくる。
「どうせ大した絵でも……」
しかし、彼女の笑みは顔には引きつっていた。陽子にスケッチブックを渡すと、佳奈江は尋ねた。
「よ、陽子ちゃんはこの絵を無理やり見せられていたのね?」
「違う……」
ささやかな抵抗。仲直りなんてできなくてもいいから、玲奈の絵だけは守りたかった。このまま彼女の手元にあると引き裂かれてしまう。そんな思いで必死に首を振った。
「さっきわたしにそう言ったでしょ?」
佳奈江は優しく尋ねた。しかしその目は笑っていない。
「言ってない……」
呻くような陽子の声を佳奈江は聞いて、他の二人を見る。
「あんたたちも聞いたわよね」
「う、うん……」
佳奈江に射竦められ、二人の取り巻きたちは顔を見合わせた。何事か囁き合っていると佳奈江はそれを聞きとがめ、ぎろりと睨み付ける。
「文句ある? 何か言った?」
陽子は仲間割れのどさくさに紛れて、スケッチブックを玲奈の机に静かに置いた。気付かれずに渡せて、彼女は安堵の息をつく。
しかし次の瞬間、聞こえてきたのは大きな音。陽子には何が起きているのか理解できなかった。彼女たちの足元に舞い落ちるスケッチブックの紙片。どう繋ぎ合わせても、復元できそうにもない。
「どうして……、どうして……」
陽子は目を落として呆然と尋ねたが、玲奈は黙々とスケッチブックを破き続けている。しかし陽子の耳には破く音など聞こえなかった。礼奈は最後の一ページまで破き終わると、スケッチブックを無防備に晒して席を立つ。振り向きさえしなかったが、その後ろ姿は確かに震えていた。
「ふん、散らかしたら片付けなさいよね」
佳奈江はそう吐き捨てると、彼女は自分の席へ戻っていく。陽子はどんな顔をしていいのか解らなかった。
「あ、あのさ……、玲奈」
小箒で掃く玲奈に話しかけても、チラリとも見ない。ただぎゅっと唇を噛み締めていたが、帰りには達観したような目に変わっていた。下駄箱で礼奈とすれ違ったとき、彼女は陽子にこう囁いたのである。
「許してあげてね。本心が解ってないだけだから」
「う、うん……」
その場の勢いで頷いたものの、許せるかどうかは解らなかった。ただ気まずい沈黙を振り払おうと、靴を履き替える玲奈に声を掛ける。
「あの、さ。また明日」
「さよなら」
玲奈は呟くように言うと、すたすたと立ち去ってしまった。今さら仲直りなんて虫がよすぎる、か。陽子はそう自嘲すると、靴を履き替えた。
独りぼっちの通学路は、いつもより車の音が大きく感じる。なんであの時、スケッチブックを仕舞わなかったんだろう。もしあのまま破かずに仕舞っていたら、最悪の事態だけは防げたかもしれないのに。陽子はここまで考えてハタと立ち止まる。最悪の事態?
玲奈が何を考えていたか、思い至り、手で顔を覆った。許してもらえるとは思わなかったが、帰ったら謝罪の言葉だけでも伝るべきだ。でも、取り次いでもらえなかったらどうしよう。不安を胸に玄関を開けた。電話を使おうと思ったのに、母親が使っている。自室に向かおうとしたが、ドア越しに見える母親の顔付きは深刻だった。
さよならと言って別れたのに。さよなら? また明日でなく……? 胸騒ぎを覚え、母親の声に耳をそばだてる。
「転落? ……そうですか。ご愁傷です。それでお通夜の日取りは……」
母親から事故死だと聞かされたが、陽子は確信していた。自殺したのだ、と。いや、ある意味では他殺だと責められても仕方がない。
母親と通夜に参列したその帰り道、陽子はポツリと呟いた。
「本当に事故死だったのかな」
「どういうこと? 思い詰めてるような顔をしてた?」
陽子の母親が何気なく尋ねる。しばらく俯いて考えていたが、陽子は首を振った。
「ううん、何でもない」
玲奈の遺品から「せい約書」が見つかれば、色々と問い質されていたはずである。あれがイジメの証拠だと言うのに。しかし母親からも何も言われなかった。つまり玲奈自身がイジメの事実を隠そうとしたんだろう、と陽子は考えた。恨みつらみで埋め尽くされた遺書を残してもいいはずなのに、どうして?
これならば父親から拳骨で殴られていたほうがまだ心の支えが取れたかもしれない……。
星空を仰ぐと、玲奈との会話が思い出される。無邪気な笑顔。
「ペガサスになりたい、か」
口にした途端、墜落したペガサスと、転落死した玲奈の姿とが重なった。そして他ならぬ陽子自身が、そのペガサスの翼を突いたのである。
正史と映画館にいる間、玲奈の顔が陽子の脳裏に浮かんでは消えていた。エンドロールが流れ始めると、ぽつりぽつりと観客たちは席を立ち始める。
いつもなら、陽子もそれにならうのだが……、正史は訝しんで、彼女へ声を掛けた
「映画、終わったぞ」
「え、あぁ、ごめんなさい」
思わず陽子はそう言って、立ち上がる。そして心中を誤魔化そうと曖昧に笑った。
「あまりに……その、ステキな映画だったからつい見とれちゃって、ね」
「よかった。気に入ってもらえて」
正史は満面の笑みを浮かべる。陽子はその表情を見て、妙に孤独感を覚えた。彼女はイジメの残酷さを熱く語ったが、満たされない。手は握っていたが、空虚さを胸にシアタールームから出た。
電光掲示板を見ると、他のシアタールームでの上映予定が表示されている。しかしいくら映画を見ても散財するだけ。余計に虚しくなると陽子には解っていたし、そもそもアニメ映画が中心だった。
「もう一本見るか? 陽子が見たい映画があったら……」
しかし正史の問いかけに、陽子は首を振る。
「ううん、行きましょ」
陽子がそう言ってエレベーターに向かおうとしたとき、陽子を呼ぶ声がした。誰だろうと振り向くと、女性が子供の手を連れている。佳奈江だった。五歳で手が掛かりそうな顔立ちをしていた。
陽子は結婚と出産を祝った後、嬉しそうな振りをして言った。
「本当に奇遇ね」
しかし佳奈江は玲奈を追い詰めた主犯格である。遺恨もあり、陽子はできれば関わりたくなかった。しかしそういうわけにも行くまい。
正史は二人の会話に入れずに居心地が悪そうである。その表情に陽子は気がついて、話を止めると、彼の目を見た。
「恋人の近藤正史です」
正史は恭しく礼をすると、佳奈江は彼を見た。値踏みでもしているかのような目である。しばらくすると佳奈江は笑顔で自己紹介をした。
「陽子さんとは同じクラスでした。ね?」
「へぇ……そうなんですね」
正史は頷くと、こう言い出したのである。
「そういえば、一階にカフェがありましたよね。積もる話もあるでしょうから、そこで軽食でも取りながら……」
「子供はどうするのよ!?」
過去のことは正史に知られたくない! 陽子は裾を引っ張って、正史を思い留まらせようとした。しかし陽子の怯えなど知るよしもなく、微笑みかける。
「安心しろ。俺が面倒見るよ。確かケーキも何種類かあったはずだから」
「ケーキ!?」
子供は目を輝かせて正史を見ると、佳奈江にねだり始める。二つ返事で頷く彼女からは溺愛ぶりが窺えた。逆らいがたい雰囲気である。
「え、えぇ、それなら……」
陽子は引きつっていた笑顔でエレベーターに向かうと、ボタンを押した。それを見て、正史は心配して囁く。
「体調でも悪いのか? 何かあったら早く言えよ」
「う、ううん。大丈夫。何でもないから。そう、本当に……」
陽子の答えを聞いても、正文の表情は変わらない。先に帰るように促そうとしたが、それよりも早くエレベーターのドアが開いた。そして開くやいなや、子供はエレベーターへ駆け込んだのである。
「あ、ちょっと」
「待ちなさい!」
正史も佳奈江も同時に叫ぶと、子供を追いかける。陽子も慌てて乗り込むと、エレベーターの扉を閉めた。陽子の身震いとともにエレベーターはゆっくりと下がっていく。中は鉛の空気で覆われていた。
カフェには色々な絵が飾られていた。どれも空想上の生き物を描きながらも写実的な画風。礼奈が生きていたらこんな絵を描いていたんだろうか。そんな思いで絵を眺め回す。
「ステキな絵だな」
「……そうね。本当、みんなステキな絵ばかり」
陽子は作り笑顔で応えると、椅子に腰を下ろした。そしてメニューも見ずに、早口でアイスミルクティーを注文する。さっさと注文すれば、この食事会からも早く解放されるような気がしたのだ。
中学時代の過ちに加え、ふんぞり返っている佳奈江を見ると、今でも陽子は身体が竦んでしまう。忙しなく水を飲む陽子へ、正史は囁きかけた。
「変なこと聞くようで悪いんだけど……」
「な、何?」
陽子は狼狽しながらも、正文へ尋ねた。正文は佳奈江を一瞥すると、自分もコップに口を付ける。
「何かあったのか? あの人と」
洗いざらい告白したい衝動に駆られて、陽子は唇を震わせた。しかし、ゆっくりと首を振ってきっぱりと答える。
「いえ、何も」
しかし二人の会話を聞きとがめて、佳奈江は退屈そうな顔で尋ねた。
「ねえ、ひそひそ話なんか止めましょうよ」
「ご、ごめん。そうよね。せっかく会ったんだから楽しい話しないと」
陽子は上目遣いで佳奈江を見ると、視線を虚空へ漂わせる。言うまでもなく彼女が望むような話を探しているのだ。明らかに困っている陽子を見て、正史はのんびりと絵を見回した。そして助け舟を出そうと佳奈江へ言う。
「ステキな絵が飾られてる、と陽子とも話してましてね」
そして陽子に目配せをして同意を求める。陽子は頷かないわけにはいかない。
「え、ええ……」
「僕は絵はからっきしダメだったんですが、クラスに一人は、すごい上手い人いませんでした? イラスト描くのが」
それを聞いて、陽子は急に冷房の風が寒くなったように感じた。しかし正史は精一杯、会話の糸口を探そうとしていたのだ。彼の親切心が分かるだけに、陽子は何も言えなかった。
しかし流石に佳奈江も大人である。息子が目にいるのに「犯罪」を告白するような愚行はしないだろう、と思っていた。
「ああ、いましたね……、名前は……」
玲奈の名前を思い出すたびに胸が締め付けられてきた。そしてそれは今でも変わらない。陽子はぎゅっと目を瞑って答えを待った。佳奈江の口からはそれよりも残酷な質問が飛び出してきたのである。
「名前、なんて言ったっけ? 確か転校生だったよね。どこだったかは忘れたけど」
「田中……玲奈。北海道から」
陽子は服の裾を強く握って、呻くようにそう答えた。佳奈江ほ手をぽんと叩くと、身を乗り出す。
「あぁ、確か事故死したんだっけ?」
違うの! 陽子は思わずそう叫びたくなるのを、堪えた。服の裾を握る手にも力が入る。もしここで真相をぶち撒ければ、礼奈の遺志をないがしろにする、と陽子は思った。無視しないと陽子が書いた「せい約書」が見つかればクラスで無視されていたことが白日のもとにさらされてしまう。そう、礼奈は最期まで気高くクラスメイトたちを庇ったのだ。それなのに加害者が忘れているなんて……
「ふざけないでよ」
陽子は低い声で呟くと、立ち上がる。椅子を蹴る音に思わず子供も正史も見た。トイレに行ってくる。そう取り繕うこともできたが、すっかり頭に血が上っていた。
「礼奈に対してあんなひどいことしておいて! 絵を破っておいて!」
「陽子、辛かったな。ひとまず落ち着け」
正史が手を握ってなだめても、陽子の興奮は一向に収まらない。佳奈江は怯んだが、口元に笑いを浮かべた。
「何よ、今さら? あの時、陽子も迷惑だって言ってたでしょ?」
「佳奈江たちに言わされたんじゃない!」
「言わされた」
佳奈江はゆっくりと言うと、考え込むように押し黙った。
「陽子ちゃんも無視してたわよね」
「え?」
陽子はポカンと口を開ける。すぐに事実無根だと首を振ろうとしたが、ハタと口をつぐむ。証拠もなければこの場に証人もいない。相変わらず卑怯な手だ。
「どうして友達なら庇わなかったの?」
「そ、それは……」
その時である。正史が悠然と立ち上がると、財布から千円札を机に置いた。そして陽子の腕を引いて、カフェから連れ出す。客たちの視線が陽子には痛かった。
道中、陽子はずっと泣きじゃくっていた。正史はそんな彼女を慰めながら、公園にまで戻る。そして彼は陽子をベンチに座らせると、自分も隣に腰を下ろす。そっと手をつなぐと、優しく尋ねた。
「何があったんだ?」
「あのね……」
ここで打ち明けていたらどんなにすっきりしていたか。しかし、どんな不純な動機があっても田中天馬は正史のクライアントである。中学時代、彼の姉へのイジメに加担したと知ったら、どんな気持ちになるだろう。
「言いたくない……」
陽子はそう口に出して、気が付いた。正史を悲しませたくないからではない。これも保身だったんだと思いながらも、陽子は虚ろに呟いた。
「だけど信じて。わたしは礼奈を無視してないのよ、そう、本当に最後まで玲奈の味方だったんだから……」
「もちろん」
正史は肩を叩いて慰めると、拳を固めて尋ねた。
「なんかあったら俺に言えよ」
「え?」
陽子は思わず顔を上げて、尋ねる。
「ずっと考えてたんだ。何で急にコンビニの弁当を買おうって言い出したのかって。あれは誰かに……」
正史の言い方は曖昧だったが佳菜江を疑っている、と陽子は分かった。
気にしすぎ。仕事で疲れてるんじゃないの? そう笑い飛ばそうかと思ったが、正史に心の中を聞いて欲しかった。
「違うの。佳奈江じゃない! 本当は……」
「本当は?」
正史に優しく背中を擦られ、脅迫犯を告発しようかと考える。しかし礼奈が天馬にどれだけ愛情を注いでいたか考えると言えなかった。一方で彼女はどんな目をするだろう、とも思う。佳菜江を庇おうとしたのに、今度は濡れ衣を着せられているのだ。
陽子は首を振って、こう言った。
「じゃがいものような男よ」
「じゃがいものような男?」
謎めいた口振りに正史は戸惑って聞き返す。陽子は黙って頷くと、よろめきながら立ち上がった。正史は慌てて支えようとしたが、やんわりと手を振り払う。そして無理に微笑んで言った。
「楽しかった。ありがとう」
「また来週な」
しかし陽子は振り向かずに、正史の言葉へこう応えたのだった。さよなら、と。
問題
Q.じゃがいものような男とはどういう意味か
A1.天馬が生命力が強いことの比喩
A2.天馬の出身地である北海道を示したもの
A3.天馬が子供ながらに毒を持っていることを喩えたもの
A4.佳奈江がジャガイモの花のように美しいことを喩えたもの。




