第八話 無限の問題(問題偏)
夏の教室は夕方だと言うのにまだ明るい。わたしは村田と二人、みんなが集まるのを待っていた。向かい合う村田の表情からは疲労感と不安感とが滲んでいる。
オレンジジュースを一口飲むと、村田はわたしへ尋ねる。
「亜希子、遅れるって話は聞いてないわよね」
「いえ、特に何も。珍しいですね。この時間にはいつも来てるのに……」
わたしも答えると、スマホで時間を確かめた。そして続けて言う。
「まぁ雑談でもしてればくるかと」
「それもそうね」
しかし、二人しかいないとなると会話はふとしたきっかけで途切れやすい。いつもとは違う、どこか不均衡な空気が流れ始める。
今はどんな作家を読んでるのかと村田は遠慮がちに尋ねた。
「ボルヘスです」
「南米の作家よね? どんな話? 名前は知ってるんだけど、読んだことはないのよね」
「いますよね。そういう作家。……ええとですね、幻想的? 哲学的? 前衛的? 壮大な宇宙を凝縮したような……。ともかくそんな話です」
「何よそれ、SF?」
村田はおかしそうに言ったが、難解な前衛文学を他人に説明するのは難しい。わたしがどう説明しようか迷っていると、男女の笑い声が廊下から漏れてきた。その楽しそうな声に混じり、微かな溜息が聞こえてくる。
「どうしたんですか?」
「え? あ、ううん、なんでもない。気にしないで」
村田は笑ったが、どこかぎこちなかった。気にはなったが、話したくないんだろう。そうですか、とわたしは応えると、小説の話題へ戻ろうとする。
しかし、それは村田の質問で遮られた。
「ねぇ、〈あの人〉、卒業できそう? ノートとか貸してるんでしょ」
「部長なら、小学校でさえ六年で卒業できるから大丈夫だって言ってましたけど」
わたしは部長の台詞を引用して答える。村田はそれを聞くと、頬杖をついた。どこか遠くを見るような目である。
「何よ、それ。相変わらずなんだから。まったくどうするつもりなのよ」
彼女は呆れ顔で呟くと、自嘲的に続ける。
「なんであんな男に惹かれるんだろう……」
そう呟くと、村田は深い溜息をついた。もしこの溜息に色がついているとしたら、濃い藍色に違いない。
そんなことを考えながら、わたしは慰めた。
「まぁまぁ、そのうちいい人現れますって」
「だといいんだけどねぇ、ありがとう」
今まで硬かった村田の顔が、柔らかくなっていく。彼女は誰に問うでもなく半ば呟くように言った。別れずにいたらどうなってたんだろうか、と。
しかし過去には戻れないのだ。起きてしまったことは気にしても仕方がない。そんなことを考えつつも、彼女の話に無難な相槌を打った。
それを聞いて、村田は慌てたように手を振る。
「あ、いや、別に未練なんてこれっぽっちもないんだけどさ。考えて見れば不思議だなって」
「不思議? 何がです?」
「〈あの人〉からの告白を振っていれば、別れることなんかなかったし、この部活に入ることがなかったら、〈あの人〉とも出会わなかったわけでしょ」
「……まぁ、そうですよね」
「そう考えるとさぁ」
村田はここで言葉を切ると、背もたれに身を委ねる。何かを迷っているようだった。しかし、やがて短く笑うとイタズラっぽく続けた。
「選択肢がいっぱいあるサウンドノベルみたいじゃない?」
「は、はぁ、サウンドノベルですか」
唐突な喩えに、わたしは面食らう。彼女はポツリと呟くように続けた。
「そう、無限に分岐が続くサウンドノベル」
しかし、扉の開く音が村田の声を遮る。村田が目を向けると、亜希子が息を切らせて立っていた。
「遅くなってすみません」
「そんなに慌てなくてもいいのに。まだ私たちだけしかいないんだよ」
わたしが言うと、亜希子は恥ずかしそうに笑った。そして村田の隣へカバンへ腰を下ろすと、亜希子は尋ねた。
「そういえば村田先輩。企業説明会ってどうでした?」
亜希子はそう言うと、村田のカバンに目を落とした。釣られてわたしも見ると、丁寧に畳まれたリクルートスーツが顔を覗かせている。無限に分岐が続くサウンドノベルだと評したのは就職活動をしていたせいなのかもしれない。
しかし村田の手応えはあまり芳しくないものだったようである。亜希子から一瞬、視線を逸らすと答えた。
「まあまあかな……」
そしてオレンジジュースを一口飲むと、亜希子へ尋ねる。
「そういえば今日、遅かったじゃないの。何かあった?」
「ええ、まぁ……」
亜希子はいつにも増して歯切れが悪い。しばらく言い淀んでいたが、部長に呼び出されていたと彼女は打ち明ける。どんなことを聞かれたのかのかすぐに察しがついたが、渦中の村田には分かるよしもない。
「何かのレポート?」
村田の問いに、亜希子はコツコツと爪で机を叩いていたが、やがて答えた。
「えーと……ええ、まぁそんなところです」
「ふうん。口説かれたの?」
村田が笑って言うと、亜希子はどぎまぎして口ごもる。口を挟もうか。わたしは亜希子を一瞥したが、幸いにもその必要はなかった。村田は頬杖をついてこう言ったのだ。
「まぁ別れたから〈あの人〉が誰を口説こうか勝手なんだけどねぇ。そう、誰と付き合おうがわたしの知ったことじゃないし」
「あ、いえ、本当にそんなんじゃありませんから」
亜希子が手を振るのを見て、村田は親しげに笑う。
「冗談よ。からかっただけ」
村田がそう言うと、亜希子は恥ずかしそうに俯く。その空気を拭い去りたかったんだろう。村田は世は残酷だと大袈裟に嘆いた。世を儚むかのような声だが、もちろん冗談だと分かっている。わたしは笑って尋ねた。
「急にどうしたんですか」
「出逢いは星の数ほどあるって言うけどさ、女の方が少し多いんでしょ? だからどうしても余っちゃって……」
「それって逆じゃありませんでしたっけ?」
わたしはそう言うと、スマホを取り出す。インターネットで調べると、すぐにサイトが見つかった。わたしは画面に目を這わせたまま、男性のほうが多いと告げる。
それを聞くやいなや、村田は興味が失せたようだった。大きく伸びをして言う。
「じゃあ、まぁいいか。〈余り物〉にならないよう、殿方には頑張ってもらうということで」
「別に恋人ができなくても構わないっていう男の人もいますけどねぇ」
わたしは若干の皮肉を込めて言ったのだが、村田には通じなかったようである。
「草食系男子ってやつ? そういえば柘植くんってどうなのかしらね。聞いてないの?」
村田はそう尋ねると、身を乗り出す。わたしは手で押し留めると、答えた。
「何も聞いてませんよ。今日の出題者は彼ですので、訊いてみたらいいじゃないですか」
それを聞いて、村田は弱々しい笑みを浮かべる。
「わたしからじゃ聞きにくいのよね」
「大丈夫ですって。目上とか目下とか気にするような子には見えませんから」
亜希子が促すと、わたしも頷いた。
「そうですよ。わたしたちへ聞くよりも、柘植くん直接、聞いたほうが良いですって」
「分かってはいるんだけどね……。何か線を引いちゃうのよ」
彼女の気持ちは分からないでもないが正直、結論が出ない話は苦手だ。同じところをぐるぐる回っているような気がするのである。無限に続く輪を、延々と。
そうですね、などとわたしが適当に相槌を打っていると、二組の足音が近付いてくる。やがて大月と柘植の華やかな話し声が続いた後、教室の扉が開いた。
「こんにちは」
柘植が元気のいい挨拶とともに入ってくる。一方の大月は控えめに頭を下げただけだった。二人が席につくのを確かめると、村田は立ち上がる。そして前に進み出るとスマホを机の上に置いた。
「柘植くん、問題作ってきたわよね? みんなも揃ったことだし、始めたいんだけど」
村田が尋ねると、柘植は自信たっぷりに頷く。自信作のようである。
「ええ、もちろんです」
そう言って、柘植はカバンからクリアファイルを取り出すと、紙をみんなに配り始めた。その紙には書いてあったのたった一行だけ。
「整数の個数と分数の個数とではどちらが多いでしょうか?(同じ個数だけあるかもしれません)」
問題文そのものは単純である。しかし、数の個数なんて比られるんだろうか? 数は無限にあるのだ。ともかくまず書いてみよう。このまま解けないのは悔しい。わたしが鉛筆で1、2、3……と書いていると、柘植は言った。
「あ、有名な話ですので知ってる人はいるしれませんが……」
「えぇ? 知識を問う問題は反則なんじゃないの?」
大月は不満そうな声で遮ると、村田が割って入った。しかし公平な態度を貫こうとしているのか、それとも確執のせいなのか、彼女の物言いは淡白である。
「他人の話は最後まで聞かなきゃダメよ」
そして続けて柘植へ尋ねた。
「それで?」
「あ、はい、理由も含めて正解なんですよね?」
その質問に、村田は頷く。個数の比較だけなら、三択である。当て推量でも答えられるが、ハードルが一段高くなった気がした。
柘植は自分の問題に目を落として呟く。
「作ってみたはいいですけど、この問題はヒントがないと辛いものがありますね」
「うんうん!」
大月は頷いた後、亜希子に同意を求めている。相談しながら解こうと持ちかけているようだった。
柘植は二人へ目を向けると、笑顔で言った。
「じゃあ、こんな想像をしてみましょう。例えば合コンだと男の人と女の人が同じ人数じゃないといけないんですよね? 僕、合コンとか行ったことないので分かりませんけど、妹の話じゃ……」
「ご、合コン?」
わたしは思わず聞き返したが、柘植は至って真面目な顔で頷いている。数学の話から、一気に俗な話になってしまった。村田もそう思っているらしく、面食らった顔で応える。
「ま、まぁ、いけないってことはないけど、合コンは男女同数のほうがいいわよね」
「そうですか。妹も数合わせで苦労してるみたいで、あちこちに電話してまして、しまいには僕にまで……」
柘植が脱線しそうになると、村田は話を遮って食い止めた。
「それで? 柘植くん」
「あ、はい、すみません、それで少人数の合コンなら実際に数えればすむ話ですよね」
「そうだね」
わたしが頷くと、柘植はニヤリと笑った。
「じゃあ、人数が数え切れなかったらどうしたらいいと思います?」
「えーと、とりあえずテーブルに座ってもらう、かな?」
亜希子が言うと、柘植は聞き返す。
「つまり、男の人と女の人が向かい合わせに座って、余ったら多いというわけですね」
「うん、だって数えてる時間なんかないだろうし、お店の人も迷惑だろうからね」
亜希子の返事を聞いて、シュールな光景が浮かんだ。どこまでも続く長テーブルを挟んで、延々と男女が向かい合っている……。しかしこれは現実を捉えているようでもあった。「出逢いは星の数ほどある」。「無限に分岐が続くサウンドノベル」。村田の台詞をぼんやりと思い出しながら、わたしはこんな図を問題用紙の余白に描きつけた。
♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂……
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□……
♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀♀……
手を動かしているうちに、考えがまとまりを帯びていく。
「あ、もしかして、こうすれば……」
しかし、わたしの呟きはアラームの音で掻き消された。村田はアラームを止めると、わたしたちへ尋ねた。
「ここまでで誰か分かった人、いる?」
誰も声を上げなかった。村田はそれを確かめるように一人頷くと、柘植へ尋ねる。
「ヒントは?」




