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後編


 フォンに案内されて見るアブレの街は、それまでの硬い石のような無機質なイメージとは違った面を持っていて、レベッカは新鮮な気持ちでそれを楽しんだ。


 もし、レベッカがただの観光客であったならフォンの案内には不満を持っただろう。


 なにせ彼がレベッカを連れて行くところと言えば、石畳がちょこちょこ欠けている路地裏や、用水路に架かる小さな橋、はたまた大きな犬を飼っている家の玄関先だったりしたのだから。


 けれど、フォンはそんな何の変哲もない風景でさえも愛おしげに眺めて、そこが自分にとってどんな意味を持つ場所なのかをレベッカに語るのだ。



「ここの路地裏は昔から石畳がガタガタでさ、小さい頃一度つまずいて派手に転んだことがあるんだよ。

 その拍子に歯が抜けちゃって、必死で探し回ったなぁ。母と出かけた帰りで、『諦めなさい』って宥められたんだけど、それで逆にムキになってね。思えばあれが初めての親子ゲンカだったな。

 その時のことを母は今でもよく笑い話にするんだ」



「あ、ここの用水路、懐かしいな。昔はこれが海に繋がってると思って友達と一緒に木で作った船を浮かべたんだ。

 でも流れる船を追いかけて行ったら、大航海に出て行くはずだった自慢の船が街外れで無惨に堰き止められていた時はショックだった。

 その難破した船を見て僕は船乗りになる夢を捨てたんだ」



「見てごらん、あの老犬。今でこそすっかり好々爺じみた顔をしているけれど昔は獰猛で子どもたちからはケルベロスなんて呼ばれていたんだよ。

 で、ケルベロスが寝てる時にどこまで近づけるか、っていう度胸試しが流行ってね。

 僕は負けず嫌いだったから、みんなができないことをやってやろうと思って、寝てるあいつの頭を触ったんだ。

 その記録はケルベロスが今みたいにヨボヨボになるまで破られることはなかったけど、その代わりに危うく小指を食いちぎられるところだったんだ」



 そんなふうに終始楽しげに語ったフォンは、小指を掲げて名誉の負傷を見せてくれた。


 レベッカは呆れたように目をくるくるさせる。


「随分とやんちゃな子どもだったのね」


「つまりお手本みたいな子どもだったってことだね」


 言葉の上では呆れてみせたが、レベッカは彼の語ってみせた在りし日の面影を通り過ぎる街のそこここに浮かべては、なんだか懐かしいような、愛おしいような気持ちになった。


 重なったのだ。この街のいたるところに染みついた思い出を、引き出しにしまった宝物をそっと慈しむように取り出すような彼の横顔に、レベッカ自身のそれが。


 彼の言葉は彼自身の思い出だけでなく、レベッカの故郷での思い出をも想起させた。


 二人は似ている。だから、初めて会った時からフォンのことを近くに感じたのだ、とレベッカは気づいた。


 私がそうであるように、彼もまた自分の生まれ育ったこの国を愛しているのだ。


 そう思って見上げたフォンの顔がレベッカを真正面から見つめる。


 どきり、とレベッカの心臓がふいに跳ねるように鳴った。


「きみは」


「……えっ」


「きみはどんな子どもだったの?」


 束の間、心ここに在らずだったレベッカは至近距離で見つめてくるフォンから慌てて距離を取った。


 不思議そうに首を傾げるフォンに、レベッカはごまかすように早口で答える。


「私は普通よ。麦畑の中で友達と鬼ごっこをしたり、収穫の時期には誰が一番早く多く収穫できるか競争したり、そんなふうにして育ったわ」


 レベッカは目を瞑ると、一面に黄金色の麦の穂が揺れるビニョンの風景を思い出す。


 それが、物心ついた時からずっと見てきた彼女の原風景だった。どれだけ多くの時間を過ごそうと見飽きることなどなく、離れてもなお彼女の胸を占める。そんな風景だ。


「なんだ、きみだってなかなかお転婆だったんじゃないか」


「まあ、心外だわ。こんな淑やかなレディをつかまえてお転婆だなんて」


 すかさずやり込めようとするフォンに軽口で応戦するレベッカ。


 けれど、一度鮮明に思い浮かんでしまった故郷の残像はレベッカの頭の内側にこびりつき、彼女の表情をくもらせる。


 黙りがちになってしまったレベッカに、


「……故郷が恋しくなってしまった?」


 フォンは優しく言葉をかけた。


「恋しいも何も、まだビニョンを出て一日も経っていないわ」


 レベッカは快活に笑い飛ばそうとした。けれどその笑い方はぎこちなく、フォンの目にも彼女が無理をしているのがわかってしまった。


「……でも、そうね。恋しい。寂しいわ。……可笑しいわね、この街にいるための理由を探していたはずなのに――この街を好きになれるようにあなたが色々な思い出を話してくれる度に、私は故郷を思わずにはいられない。

 心の一部を置いてきてしまったような、そんな気持ちになるの。できるのならば今すぐにでも駆け出してあの麦畑に、って」


 フォンは黙って聞いていた。


 二人は街中に架けられた橋の上でどちらともなく立ち止まる。


 日はすでに暮れかかり、石造りの街並みは薄く朱に染まっていく。気づけば、レベッカが王城に戻らなければならない刻限がすぐそこまで迫ってきていた。


 橋の欄干に腕をもたせかけ、フォンは窺うような視線をレベッカに向けた。そのまま何度か口を開きかけるが躊躇うように閉じる、を繰り返し、とうとう決心したようにレベッカに向き直る。


「ねえレベッカ。きみはわけありでここへきた、と言ったね。そのわけは、やっぱり聞かない方がいいのだろうか?」


 言葉を選ぶようにゆっくりと話すフォンに、あぁこの人は本当に優しい人だ、とレベッカは胸が温かくなるのを感じた。


 押しつける優しさではなく、人を慮ることのできる優しさをフォンは持っている。


 彼はきっとレベッカに話してもらいたがっているはずだ。けれど、レベッカがそれを望まないのならば決して無理に聞き出そうとはしないだろう。一緒に過ごした時間はわずか数時間だとしても、それはレベッカがフォンに対して、確信を持って言えることだと思えた。


「でも……話しても、何かが変わるわけじゃないわ」


「それはそうかもしれない。もちろん僕だってきみを救えるとは思い上がっちゃいないよ。けれど、それが例えほんの少しだとしても、救いになりたいとは思うんだ」


 レベッカを見つめるフォンの瞳はどこまでも真っ直ぐで、その心まで届くかと思われた。


 そして、そう。その優しさの一欠片は確かに彼女の心に沁み込み、悲しみに沈もうとするレベッカを掬い上げてくれたのだ。


「……ありがとう、フォン」


「お礼なんて……僕が勝手にきみの力になりたいと思っただけなのに」


「ううん。今日、丘の上で出会ったのがあなたで良かった」


 レベッカが心からそう言うと、フォンは照れたような笑みを唇に浮かべた。


 すぅ、と一つ深呼吸をしてレベッカは話し出す。


「私、結婚するの。でもそれは私の望んだものじゃない。お金や体面、そんな色々な事情があって決められたもの」


「……きみはその結婚相手のことが嫌いなの?」


「まさか、嫌いになんてなれないわ。だって、一度も会ったことすらない人だもの」


 レベッカの笑顔の端に皮肉の色が滲む。


 それを見たフォンの瞳が、信じられない、とでも言うかのように揺れた。


「いっそ嫌いになれたなら、もっと楽だったのかもしれない。あるいは他に好きな人がいれば。そうすれば、私はきっと何を押してでもこの結婚に抗ったと思うの。

 けれど現実はそのどちらでもなくて、私はそれを受け入れる理由を探している。誰かのためだと自分に言い聞かせて、でも納得できなくて、結局私はそれを目の前にしてちゃんと向き合えていないの」


 夕陽に照らされて石畳に落ちる影が、小さなレベッカの体を呑み込もうとするかのように伸びていく。


 刻限だ。もうゆっくりしていられる時間はない。もし約束の時間に戻らなければ、自分を信じて送り出してくれたハンネを裏切ることになる。


 そう思ったレベッカは、きゅ、と唇に力を込め微笑んだ。


 フォンと会うことはきっともうない。この優しい男の子といたのは少しの間だったけれど、その事実はレベッカの心臓にずぶずぶと突き刺さり、気を抜けば笑顔なんて呆気なく崩れてしまいそうだった。


 でも、きっともう会えないからこそ。


 最後は笑顔のレベッカを、フォンには覚えていて欲しかった。


 夕陽に溶けるような黄金色のレベッカの髪が風になぶられる。その隙間から見えるフォンの顔は辛そうに歪んでいた。


「ねえレベッカ。きみは、きみがここにいられる理由を見つけられたのかな?」


 フォンは橋の上から水面に視線を落とし俯く。訊いておきながら答えを聞くのが怖い、とでもいうように。


「思い返すと、僕は随分と勝手にきみを振り回していたようで、申し訳ない気持ちになってきたんだ」


「あら、今更気づいたのね」


 レベッカは茶化すように笑って言った。


 フォンも口許を少しだけ緩めた。


 そ、とフォンの隣に立ったレベッカは橋の欄干に置かれた彼の手に自分の手を重ねる。


「今はまだ、ね、見つかったとは言えないわ。けれど、きっと見つけられる気がするの。なぜだかわかる、フォン?」


 自分を見上げるレベッカの目の奥に答えを探しても、それを見つけられずにフォンは首を振る。


 それはね、と秘密を打ち明けるように唇を寄せて囁くレベッカ。


「あなたのおかげよ」


 フォンが耳元に吐息を感じた次の瞬間には、レベッカは石畳の上を軽やかにステップを踏んで遠ざかっていく。


 彼女のその言葉は言いようのない、けれど確かな熱を帯びて、フォンの耳朶を打った。


 一人、フォンを置いて橋を渡り切ったレベッカは夕陽の中振り返り、唄うように言葉を紡いだ。


「あなたの思い出の一欠片に触れる度、私は故郷を思い出したわ。

 あなたの好きなものを目にする度、私の瞼に浮かぶのは麦の畑の黄金色だった。

 けれど、それは決して悲しみのせいではなかったの。

 私が故郷を愛するように、あなたもこの街を愛しているのがわかったから。

 だから私はこの街を、いつかきっと好きになる。

 この街で私が初めて好きになった、あなたが愛した街だから」


 二人の間に漂う余韻を振り払うように、レベッカは背中を向けた。


「さようなら、フォン」


 夕陽の逆光に沈みゆくその顔は、最後まで微笑んでいただろうか。


 レベッカにもフォンにも、それはわからなかった。


 けれどフォンはその一瞬、黄金色の麦の穂の海で微笑むレベッカの姿を見た気がした。


 それはきっと幻で、瞬きする間にも現実のレベッカの背中はどんどんと遠ざかっていく。


 彼女の後を追うように、立ち止まっていた足を上げたフォンは気づけば駆け足で橋を渡っていた。


 もう随分小さく遠くなってしまった背中に届くかもわからず、それでも声を振り絞る。


「ありがとう、レベッカ」


 それ以上は言葉にならず、フォンは詰まる胸をぐっと押さえた。


 僕はきみの救いになりたいと言ったけれど、本当は僕の方がきみに救われていたんだよ。


 フォンは胸の内でだけそう語りかける。


 自分の意志ではどうにもならないことに直面しても、それを受け入れ乗り越えていこうとするきみの姿に。

 僕は今までずっと、どうにもならないことに諦めて呑み込まれていたから。


 丘の向こうに沈みゆく紅い光に、フォンは一瞬目が眩んだ。


 その一瞬のうちにレベッカの背中はもう見えなくなっていて、その場に立ち尽くしていたフォンもようやく動き出す。彼女の通った道を一歩一歩。





 彼が向かうのは、彼の帰るべき家だ。

 

 それまで許されていた自由が、じきになくなってしまう家。


 そこでの彼は自由でありながら不自由であった。


 彼の未来は定まっていて、周りの人たちはそれを当たり前のように彼に期待した。


 だから幼い頃の彼は、そんな定められた未来や周囲の期待から時折逃れるように街に繰り出しては遊び回っていたのだ。成長してからは周りに合わせる術を身につけたが、やはり時々逃げたくなった時には、レベッカと出会ったあの丘に登って寝転んでいた。


 今朝、仮初めの自由を謳歌できる最後の時間を過ごそうと丘に登ったフォンは、そこでレベッカと出会ったのだ。


 彼はレベッカを見た瞬間、なんだか自分と似ていると思った。そしてそれは一緒の時間を過ごすうちにどんどんと強くなっていった。


 そして、わけありと言った彼女の身の上を聞いて衝撃を受けた。


 望んでもいない結婚をしなければならない、と言う彼女に動揺を悟られないようにするのはとても難しかった。


 だってそれは、まるっきりフォンと同じ境遇だったから。


 彼女と自分が似ていると思ったのも、力になりたいと思ったのも、それがわかると得心がいった。


 フォンは彼女に自分を重ねることで、自分を救いたかったのだ。


 けれど、残された時間で懸命に現実と向き合おうとする彼女は、フォンにはない強さを持っていた。


 そんな彼女に、フォンは憧れたのだ。


 これは恋と呼ぶべきなのだろうか。


 胸の内に湧いた疑問を、フォンは苦笑して打ち消した。


 そんなことを考えても仕方がない。


「だって、僕と彼女じゃ、生きている世界が違うんだから」


 だからもう二度とレベッカと会うことはないだろう、とフォンは夕陽の最後の一雫が零れたような空を見上げる。


 きみはきっとこの街を好きになるんだろう。そしてきみの故郷に負けないくらい幸せな家庭を築いて欲しい。


 だから、僕も僕の世界を生きるよ。


 そう呟くと、フォンは帰るべき家に向かい石畳の上を足音高く歩いていく。


 懐かしく愛おしい思い出が眠る道を。


 荘厳な石造りの王城に向かって。





 運命的に出会った二人が、永遠のお別れをした黄金色の黄昏時。


 その二人が運命的な再会を果たすのは、また別のお話。

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