前編
「ここが、これから私が暮らしていく国なのね」
天蓋付きの馬車に揺られながら、レベッカは眼下に広がる石造りの街並みを物憂げに眺めた。
馬車の窓越しに射す陽に目を細めると、彼女は頬にかかった麦の穂のような黄金色の髪を指先で払いのける。
「大きな街」
私の生まれ育ったところとは大違い、とは口には出さずに思うと、その薄桃色の唇をきゅっと引き結んだ。
やがて馬車が市街へと入り大通りを進んでいくと、すれ違う通行人たちは一様に興味深げな眼差しを馬車に送った。
「豪華な馬車だねぇ」
「あれだよ、王子様の結婚相手が隣国からやってくるっていう」
そんなやり取りが馬車の通った後の石畳に土埃と一緒に舞い上がったが、当のレベッカには知る由もなく、相変わらず物憂げな表情を浮かべるばかりであった。
*
レベッカがこのルーゼリアの首都アブレにやってきたのは、市街の噂に違わず輿入れのためであった。
お相手は将来このルーゼリアを背負って立つ王子である。
ルーゼリアは近年になって独自の建築技法を確立し、それを駆使した石造りの街並みで有名となった。その技術を求めて多くの建築家や職人が集まり、その人口増加に合わせて他産業も成長を続けている。
対して、レベッカの生まれたビニョンは農業を主産業とする小国で、近年では工業や建築業などの盛んな近隣諸国との間の経済格差が広がっていた。
レベッカはそんな小国の姫として生まれた。
姫と言っても小さな国でのこと、幼い頃から近所の村の子たちに混じって泥だらけになって遊び回り、大きくなってくると質素な作業着を着て畑仕事の手伝いをした。
「レベッカはお姫様なのに飾らなくって、本当にいい娘だねぇ」
畑仕事の終わりに村の奥様方と茶飲話に興じると、いつだってそんなふうに言われた。
レベッカはただ単に好きだっただけだ。
生まれ育った国が、村が、そこで暮らす人々が。
一生この国で暮らしていくのだと思っていた。
質素ながら満ち足りた幸福と一緒に。
けれど、そんな幼い未来像はあっさりと砕かれることになった。
◇
それはレベッカが十四の誕生日を迎えた時、父の口から知らされた。
「レベッカ、お前には隣国のルーゼリアの王子に嫁いでもらうことになった」
降って湧いたようなその話に、レベッカはしばらく何も言えなかった。
その沈黙を肯定と見て取ったのか父は話を続ける。
「最近、近隣諸国との交易がなかなかうまくいかなくてな。このままでは農業しかやってこなかった小国のビニョンなど、いつかなくなってしまうかもしれない。そこであちこちに国使を送って支援を頼んでいたのだ。するとルーゼリアに送った国使が、財政支援をしても良いとの答えをもらってきた」
「……なるほど。私がルーゼリアの王子に嫁げば支援を約束してくれる、と」
淀みなく語る父を見て、聡いレベッカは事態が飲み込めてきた。
恐らく随分前から父は動いていたのだろう。小さくとも一国の主、その責任は途方もなく重いはずだ、とレベッカにもわかっていた。
父は良い人だ。ビニョンという国を体現するような質素で気さくな人柄で、誰からも愛される良き王であった。そしてレベッカにとっては自慢の父であったのだ。
だからこれは父が悪いのではない。
財政支援の代わりに嫁げ、だなどと、まるで人質のように思えるが、今時珍しくもない。
私一人が我慢することで父の重責をいくらかでも軽くできるなら、生まれ育ったこの国を救えるのなら。
瞳に苦悶の色と、そして僅かな期待の色を浮かべる父に、レベッカは気丈に微笑んだ。
「はい。その縁談、喜んでお受け致します」
これで良かったのだ、とレベッカは思った。
ホッとしたような父の顔を見て、その選択は正しいのだと、そう自分に言い聞かせた。
◇
レベッカが他国に嫁ぐ、という話が小さな国中に広がるのにさして時間はかからなかった。それでも国民皆がそれを知る頃には、ルーゼリアとビニョンの間で縁談はすっかりまとまり、後はレベッカの輿入れを待つのみとなっていた。
そうして今朝未明、お国柄早起きの人々がまだベッドの中にいる頃、レベッカはルーゼリアから寄越された馬車に乗り込みビニョンを後にしたのだ。
そんな経緯を脳裏でなぞり、レベッカは窓越しに近づいてくる王城を見上げた。
荘厳な威容を誇るその石造りの王城は、遥か高みからレベッカを威圧し、抑えつけようとしているような、そんな錯覚を起こさせた。
息苦しい。
レベッカはどんどんと視界の中で大きくなる王城から目を背けるように振り返る。そこにはもう彼女の故郷の風景はなく、ただただ見慣れぬ無機質な街並みが続いていた。
*
「レベッカ様、ようこそおいでくださいました」
四方を分厚い石壁で囲まれた王城の中庭に馬車が止まると、どこかに控えていたのか、一人の侍女らしき人物が地面に降り立ったレベッカのもとへ近づいてきた。
「これからレベッカ様の身の回りのお世話をさせて頂きます、ハンネと申します。さ、こちらへ。荷物をお預かり致します」
「ありがとう。よろしくお願いしますね、ハンネ」
キビキビとした所作で先導するハンネについて王城へと足を踏み入れる。一歩歩く度に二人分の足音が石壁に反響し、レベッカは落ち着かない気持ちになった。
石の床の硬く冷たい感触が靴底から伝わり、急に故郷の土を懐かしく思った。
裸足で踏みしめる暖かなあの感触と遠く切り離されたこの土地で、これから生きていかなければならないのだ。
こんな気持ちのままでは、きっといられない。
ハンネに通された休憩用の小部屋の肘掛け椅子に体を預け、それでも心はここではないどこかへと彷徨っていこうとする。
父や母の前では気丈でいられた。自分の行動は正しい選択だと、そう彼らに示すことで自分自身にも言い聞かせていたのだ。
けれど、異国の地でひとりぼっちになったレベッカの心の内から湧き上がってきたのはそんなおためごかしではない、本当の気持ちだった。
「――ビニョンに帰りたい。お父様とお母様、村の人たち、私の愛する全ての人に会いたい……」
堪えきれずに零した言葉が呼び水となって、レベッカの身を内側から焼くような焦燥が駆け巡った。
けれど、逃げ出すことは叶わない。レベッカにも今更そんなつもりなどはなかった。頭ではこの縁談はビニョンのために必要なことだと、痛いほどわかっていたから。
ただ、時間が欲しいと願った。
壁にかかった時計を見るとまだお昼の少し前。王子との正式な顔合わせは明日だ。
「あと六時間。それが、私がルーゼリア国王子の妻ではなく、私でいられる残り時間」
呟いたレベッカの胸中はすでに固まっていた。
「レベッカ様、お待たせ致しました。これよりお部屋へご案内致しま――って、レベッカ様!?」
部屋のドアを開けて入ってきたハンネは生真面目な顔に驚きの表情を浮かべた。
それもそのはず、レベッカは着ていた上等なドレスを脱ぎ捨て、衣装行李から着古した麻のベストを引っ張り出して着替えている真っ最中だったのだ。
「な、なぜこのようなところで着替えていらっしゃるのです!?」
動揺を隠せない様子のハンネに、無事着替え終わったレベッカは安心させるように微笑んだ。
「私、これから少し外に出てみようと思うの。だから荷物だけ先に運んでおいてもらえるかしら?」
「まさかお一人で出かけるおつもりですか? 駄目です。私はしっかりと貴女に御付きするようにと王子から仰せつかっているのですから」
生真面目さを取り戻したハンネは幼子に言い聞かせるようにレベッカの行く手を阻んだ。実際レベッカよりも幾分歳上のハンネには、彼女が単なるわがままを言っていると映っただろう。けれど、
「知らないのよ、私」
そう言ったレベッカの声は、ぐるりを囲む冷たい石のように無機質で。ハンネは胸を突かれたように息を呑んだ。
レベッカは薄く微笑みながら繰り返す。
「知らないのよ。これから嫁ぐ方のお顔さえ、知らないの」
その微笑みは池に張った薄氷のように、触れればたちまち儚く砕けそうなものに見えた。
彼女がいったいどんな気持ちでここにいるのか、推し量ることのできないそれに、ハンネは諫めることも諭すこともできずに黙り込む。
何も言えずに黙り込むハンネに近づくと、レベッカはそっと彼女の手を取った。
「何も逃げ出そうというんじゃないわ。ただ、少しだけ。少しだけ気持ちを整理する時間が欲しいだけなの」
真摯に語りかけるレベッカの目を見つめると、ついにハンネは根負けしたように頷いた。
「……わかりました。ただし、午後六時までにはこの部屋に戻ってきて頂かないと困ります。私の責任が問われますから――」
「ありがとう、ハンネ! 大丈夫、約束するわ」
腰に手を当てて言い含めようとするハンネを遮るようにレベッカは彼女にハグをした。
弾むように駆けていくレベッカの後ろ姿を見送り、ハンネは小さな笑みを浮かべる。
「なんだか手のかかる妹ができたみたいね」
遠くなっていく後ろ姿はまだ幼い少女のもので、その小さな背中に国を背負っていると思うと、ハンネはふと胸を締めつけられるような痛みを覚えた。
*
体に馴染まない上等なドレスを脱ぎ捨てると、少しだけ気持ちも軽くなったようにレベッカは感じた。
馬車に乗ってやってきた石畳の道を反対側に歩きながら、辺りに視線を走らせる。
質素な服を着た今のレベッカが輿入れを待つお姫様だなんて言っても誰もが嘘だと笑い飛ばすだろう。
けれど、現実にそうなのだ。今この時間の方が嘘なのだ、とレベッカはわかっていた。
自分に残された、ただのレベッカでいられる時間は多くない。それだというのに、この痛いほどに胸を焦がす感情をどうすればいいのか、レベッカにはわからなかった。
街の角のパン屋から芳ばしい小麦の匂いが漂ってきて、それがレベッカの瞼の裏にビニョンの麦畑を浮かばせた。
帰りたい。愛しているから。
帰れない。愛しているから。
私がどちらにも行けないのは、結局根底は同じだからなのだ。
故郷を愛し、故郷に在る人々を愛し、その果てに異国の地で一人立ち竦むレベッカの目尻に朝露のような涙が浮かんだ。
けれど気丈にも彼女は浮かんできた涙を拭い、頭を上げて歩いた。
限られた時間を泣き暮れて過ごすわけにはいかない。
愛する故郷には戻れないのだとしても。
いや、戻れないからこそ、私はこの異国の地、ルーゼリアで心のよすがとなるものを見つけなければならないのだ。
そう決意すると、レベッカは小麦の匂いに導かれるようにパン屋へと足を向けた。店のドアを押し開けると懐かしい匂いに胸が一杯になる。
レベッカは焼きたてのバゲットと黒すぐりのジャムを買うと、店主に尋ねた。
「私、この街にきたばかりなんですけど、この辺りでどこか畑なんかが見える場所はありますか?」
レベッカの問いかけに恰幅の良い店主のおじさんはたいそうきょとんとした顔をした。この石造りの街で畑を探す人などこれまでにいなかったのだろう。
「……畑が見れるかはわからんが、街外れの丘に登ればこの辺り一帯は見渡せるんじゃないか?」
そう言うと、店主のおじさんは発酵させたパン生地のような手で温かい包みをレベッカに渡した。
「良い観光を」
おじさんはどうやらレベッカのことを一風変わった観光客だと思ったようだった。
「ご親切に、ありがとう」
レベッカは彼の誤解を訂正することなく、笑顔で会釈をすると店を出た。
「街外れの丘……あっちかしら」
レベッカは四方を見回すと、石造りの家並みを抜けてなだらかな緑の斜面が見えた方角に向けて再び歩き出した。