誤用の定着化の波は「敷居が高い」にも到達
敷居が高いの使われ方のことで頭を悩ませている私ですが、独擅場と独壇場のように悪しき前例というのは他にもあり、こういったものが蔓延していくことで、敷居が高いが一向に正しく使われないのだと思います。
悪しき前例として「檄を飛ばす」があります。この言葉は、部活やスポーツの試合中に監督や選手が大きな声で呼びかけて気合いを入れたり励ますことを意味すると思っている人がとても多いです。敷居が高いと同じぐらい、正しく使っている人を見たことがありません。檄を飛ばすは、自分の考えを多くの人たちに伝えて同意を得るという意味ですから、スポーツの時などに「がんばれ!」と声をかけるのは、檄を飛ばすとは違います。ところが、すっかり誤用が定着してしまい、励ます意味で使われるようになりました。
人生の色々な場面で「自分の考えを伝えつつ励ます」といった場面もあると思います。こういった時は、檄を飛ばすと言って良いわけですが、後半の励ますという部分だけがクローズアップされてしまい、檄を飛ばすというのは励ますことだという認識が広がっていってしまったのだと思います。こういったパターンは非常に困ります。
私としては、敷居が高いの正しい使い方について世の中の人たちに檄を飛ばして、何とか流れを変えていきたいものです。
悪しき前例といえば「確信犯」という言葉もそういった例と言えなくもないです。この言葉は、悪い結果になることがわかっていて行うといった意味で使われることがほとんどでしょう。実際、私はそういった使い方をしている人しか見たことがありません。
しかし、本来の意味は、自分の行動が法に反するということを理解しながらも、政治的信念などに基づいて悪いことではないと確信して犯罪を行うことです。前述した使い方は、誤用とされていたのですが、今では正しい意味として使われるようになっています。辞書にもしっかりと載っていますから、今となっては間違った意味ではないのでしょう。しかし、後から追加された形であり、自分の行動が法に反するということを理解しながらも~の方のみの時代もあったわけです。
調べてみると悲しいことに、敷居が高いも現在はレベルが高いという使い方が、確信犯の意味のように誤用とはされていないようです。間違いではないとなったのですから、敷居が高いの使い方が間違えすぎていることに耐えられない状態ではなくなるはずなのですが、なぜか釈然としません。
言葉というのは生き物のように変化していくもので、色々と意味が追加されていきます。しかし、誤用が蔓延して正しいものとして浸透していくととんでもないことが起こる気がします。
例えば「いばらぎ、と言われたことにより腹を立て刺殺」という事件が起こるかもしれません。これは地名ですが。
誤用が定着することがあるので「茨城の正しい読み方はいばらきですが、いばらぎという読み方・呼び方が定着化したことを受けて、現在では正しい意味として使われている」そんな世の中になるのでしょうか。
ある人が「嘘はつき続ければ本当になる」と言っていましたが、言葉の誤用の定着化は正にそうでしょう。今、ある言葉を使う時に、まったく違った意味で使ったら話が通じなかったり変な顔をされたりするでしょうが、それを広めていって定着化すれば、話は通じますし変な顔をされることもありません。これは恐ろしい反面、何だか面白いことだとも思います。面白いことだと思えるというのは、少し心の余裕が出てきたということでしょうか。