序章
なにもない場所だった。
ぼくはいつの間にか、何も無い、果てしない闇のなかに立ち尽くしていた。暗闇に自分の姿だけがぼんやりと浮かび上がっている。
何も聞こえない場所だった。
風や虫の声、聞き慣れていたカラスの声も聞こえない。右も左も前も後ろも暗いというより真っ黒で、思考を無理矢理働かせないと飲み込まれてしまいそうだ。
何も感じない場所だった。
足の裏になんの感触もない。足を動かして、そこに地面があるのかを確かめてみる。進めた右足に引き摺られるように何歩か歩いてみるが、やはりなにも感じない。地面に足がついていないのか。というか地面なんてものが存在するのだろうか。身体が浮かんでいるような気がする。
浮遊している気がする、というのに、頭はやけに重たく感じる。これがいわゆる矛盾というやつだろうか、重たい。長い、それも嫌な夢から醒めた後とよく似ている倦怠感が身体を支配していて、ぼくは怠惰に任せて動くのを止めた。
誰かいませんか、
そう声をあげたとき、奇妙な感覚を覚えた。全く咽に負担がかかっていない、まるで息をするくらい自然に声が、
……声が?
呼吸している感覚が全く無い。寧ろぼくは声をあげた、のだろうか。喉元に手を触れてみても、なにかを「触った」という信号が脳にまで届かない。触覚や嗅覚や視覚や聴覚が全て身体から引き剥がされ、空気になってたゆたっているような、異質な感覚がぼくを支配していた。
ふと、ひとつの疑問が泡のように浮かんできた。脳の中にゆらゆらと浮かび上がったその泡はすぐに鉄球さながらに重くなって、ぼくは思わず頭を抱える。
此処にいるぼくは誰だ?
何も無い。
何も無い。
此処には誰もいない。
周りに人の気配も無く、それどころかなんの気配も感じない。真っ黒な世界に、得体の知れない「ぼく」だけが、ゲームのように気が利いたヒントを与えられることすらなく立ち尽くしている。
――ぼくはどうして、
そこまで考えたとき、頭の中で泡が弾けた。
この身体の中に押し込まれて呼吸していた「ぼく」があの日最後に見た風景。それが決して思い出してはいけない記憶だと気付いた時には、それはもう既に鮮明な色を伴って頭の中を駆け巡っていた。
そうだ。
そうだ。
そうだそうだそうだ。
ぼくは誰かに殺されたんだ。
頭がひどく重たくて、呼吸している実感がないのに苦しい。意識が遠退いていく瞬間の感覚が蘇る。ぼくはこのまま永遠にたゆたい続けるのか。それとも消えてしまうのか、嫌だまだ消えたくない。
(誰か、誰か――)
必死に叫ぼうとするが喉からは息ひとつ漏れてくれない。絶望に目を見開いた直後、身体が微かにぶれ、突然泥状になった闇に両足がずぶりと沈んだ。