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干しぶどう

作者: 白烏

 本が匂う。

 本当は、紙とインクが重なった匂い。

 でも、本の匂いとしか表現のしようがない。

 微かに、果実の香りが重なった。

「……何故『ほしぶ堂』と云う店名に?」

 男は尋ねた。

「娘の好物なんですよ、干しぶどう。貴方も食べますか?」

 濃紫の実が沢山入った小瓶を振る。

「いや、結構。それよりも、幾らで買ってくれますか?」

 貴方が訊いたから答えたのじゃないか、と腹が立ったが、干しぶどうを勧めたのは私の勝手か、と思い直す。

「……云い値で買いましょう」

 男は珍妙な顔をした。

「名前もそうだが、変わった店だな。客に値段を決めさせるとは」

「それはそうですが、厳密に云うとこの場合客は私であって貴方ではないのです。モノであろうとコトであろうと、売り手が値段を決め、買い手が買うか否かを判断すると云うのは、道理です」

「詭弁だ。君が何と云おうとここは古書店だろう。君の云い方だと、買い手が値段を決め、売り手が売るか否かを判断する、特殊な事例になる」

 真面目な客である。

 云い値で良いと云っているのだから、適当に大金を要求すれば良いのだ。

「……それも道理ですな。お客様の仰る通り。ですが、云い値は譲れません」

「……何故」

「私が云い値で買いたいから、では納得できませんか?百円で買う、というのも云い値で買う、というのも私が決めたことには変わりませんし。決定権を貴方に委ねる、という決定を私がしたのですから」

「先程からどうも口達者な人だ。私も嫌いではないがね。しかし、納得はできないな」

 根から真面目な客らしい。少し頑固でもある。

 仕方ありませんね、それなら説明致しましょう――と私は帳場の奥を示した。

「干しぶどうがお嫌いなら、珈琲でも出しますよ」



 帳場の奥は座敷になっている。本の値段を交渉する時はいつも使うようにしているが、提示した値段が気に入らなければ多少遠くとも別の古書店に行ってしまう客がほとんどなので、ここは専ら私が店を閉めてでも誰にも邪魔されず読みたい本を読むための空間になっている。

「インスタントでよろしいですか」

「お構いなく」

 男はブラックの珈琲を険しい表情のまま啜り、机の上に置かれた本をちらりと見た。

「……その本に何か特別な思い入れでもあるのかね」

「鋭いですな」

 小瓶から干しぶどうを一粒抓み、ミルクと砂糖をたっぷり入れたインスタント珈琲を一口飲む。

「……貴方、子供はいますか」

「いるよ。娘が一人、息子が二人」

「娘さんは今お幾つですか?」

「今年十五になる」

「ではその本は」

「娘のものだ」

「……何故お売りに?話したくなければ結構ですが」

「別に隠すようなことはない、君とは違ってね。先月家を引越した時に、要らなくなったのか娘がこの本をゴミ箱に捨てていたのを見つけたから、本は捨てるなと叱って、預かったのさ」

「成る程。そうですか」

 私はこの男に少なからず好感を持った。本を大切に扱う奴に悪い奴はいない、と云うのは古書店経営のイロハを教えられた師匠とも云うべき恩人の口癖だった。

 私は表情に乏しいから心証が良くなったことなど一生解らないだろうと思われる男は、少し苛々し始めた。私に比べて男の表情は格段に豊かだ。

「一体何なんだ。この本がどうしたと云うんだ」

「まあそう急がずに。何から話すべきか考えていたのです」

「呑気な人だな君も。幾ら暇だとは云え、私はこう云う無駄な時間の浪費は嫌いなんだ」

「貴方が理由を話せと云うから、こうして話そうとしているのです。説明せずとも、貴方が納得して値段を決めていただければそれで良し、別の古書店に行くと云うのなら、それでも一向に構いません」

 初老の男は少し黙り込んだ後、私も頑固で通っているが君も相当頑固だな、と云って初めて笑った。

「一見難しそうな屁理屈を並べ立てるところと云い、似ている」

 近所の子供には屁理屈親父と呼ばれます、と云って私も笑った。

「まあいい。時間がかかっても良いから、説明してくれ。気になって仕方がない」

 外はもうくらい。私は甘ったるい珈琲を啜ってから、話し始めた。

「私の娘は名前を美雪と云うのですがね」

「今度は自分の娘の話かね」

「まあまあ。可愛い娘なんですよ」

「親は誰でもそう思うものだ」

 この男、早く説明しろと云ったのにことごとく口をはさんでくる。そう思ったが、その後で時間がかかっても良いと云ったのだから良いか、とも思う。

「その美雪が――九歳の時だったかな、ある日こんなことを云う。幽霊と会うには如何すれば良いの――」

「ふん、面白いじゃないか。如何答えた」

「会ったことが無いから解らない、と答えました。そしたら娘はね、じゃあ今度一緒に探しに行こうよ、なんて云うんです。何故突然そんなことを云ったのか、その時は解りませんでしたが、私もその気になってしまって、次の日曜日に」

「探しに行ったのか」

「探しに行きました」

 男は呆れている。気持ちは解らないでもない。

「朝から彼方此方あちこち歩き回りました。近所の公園のブランコがひとりでに揺れていないか確かめたり、川原でお弁当を食べたり、空き家をのぞいたりもしました。道中、親から教えてもらったり本で読んだことのある怪談話を娘に聞かせながらね。やがて――黄昏時になりました。たそがれ、と云うのはどう云う意味か知っていますか?」

「確か――かれ、誰だ君は、と云う意味だろう。くらくなって人の顔が良く見えなくなるから、そう問うてしまう時間帯のことだ」

「仰る通り。黄昏時――またの名を、逢魔時」

「おうまがとき?」

 発音が不明瞭である。流石にそこまでは知らないようだ。

「ええ、魔性に逢う時間です。鳥山石燕と云う江戸の絵師があらわした『今昔画図続百鬼』に曰く、百魅の生ずる時なり。世俗小児を外にいだす事をいましむ――。昼と夜の丁度隙間から、妖しいモノがそれは沢山湧いてくる訳ですな」

「ふうん。そう云うモノは真夜中に出るものだと思っていたがなあ。しかし、小児と云えば子供のことだろう?」

「そうですよ。禁を破ってしまいましたねえ。まあ普通は逢いたくないモノに逢いたい訳ですから、多少の危険は承知の上で」

 大袈裟だな、と云って男は苦笑した。先程から問題の本とは一見無関係な話をしているのに、気にならなくなったらしい。

「丁度その逢魔時を狙って、娘の通っていた小学校の裏山に行きました。云うなれば、メインイベントです。一番出そうな・・・・時間と、一番出そうな・・・・場所」

「いたか」

「いません」

 何だそれは――。そう云って男は一気に脱力した。

「散々思わせぶりに話しておいて、結局ただ一日無駄に過ごしただけじゃないか。意味が解ら――」

「ただ」

 初めて私が強い調子で男の言葉を遮ったので、男は驚いたようだった。

「ただ……何だね」



「娘も――消えてしまいました」



 馬鹿な――。数秒間の沈黙の後、男は辛うじて言葉を発した。

 本当に、気持ちは解らないでもない。



 真上に小さな人差し指を懸命に伸ばして、干しぶどうと同じ色だね――と美雪は云った。

 右から左へ空を仰ぎ見ると、大気の色彩は橙色から紫色、そして濃い藍色に変わってゆく。

「あれは何色?」

 空から目線をすうっと下げると、美雪は指を僅か右に傾けて、私を見返している。

「何色かなあ」

 橙色と云うには濃く紫色と云うにはいささか淡い、半端な色だった。名前が無いなんて可哀想――と云われたので、美雪が名付けてあげれば、と冗談で云ってみた。

「じゃあ、ユーレイ色」

「本当に幽霊が隠れているのかもしれないぞ」

 やっと見つけたね。

 しばらく、二人で笑い合った。

「もう裏山に行くのは止める?」

「ううん。行きたい」

「じゃあ行こうか」

 正直、私はもう裏山の幽霊探しなどどうでも良かった。

 今日と云う一日が、とても幸福だったから。これ以上幸せにならなくても良い。否、現在だからこそ思うことなのだろうが、これ以上幸福になると何か良くないことが起こると云う、若干の恐れもあったのかもしれない。はっきり云って、娘の通う小学校の向こうに見える小山は人が分け入るのを静かに拒絶しているようで、私はすっかり怖じ気付いていたのである。しかし、私達は何かに取り憑かれたかのように急かされて、黄昏時の秘境へ踏み入った。

 美雪が居なくなったのは、山路に入ってすぐのことだった。



「何故……居なくなった」

「美雪は山に入るなり奥に何か見える、と云って、走って行ったのです。それっきり」

えらく淡白だな」

「子を失って悲しまない親はいません」

 男は気不味きまずさを隠すように咳払いをした。

「……失礼した」

「ただその時は、嗚呼、魔に逢うとはこう云うことだったのだと、茫然と思ったものです。神隠し、と云うのがあるでしょう。人をさらう天狗と云うのもいるそうです。直接姿を見せずとも、魔と云うのは私達の周りに厳然として存在する。それを痛感させられました。……話がずれましたな。四、五時間は妻と二人で探しましたが、如何にも見つからない。警察に失踪届を出して、その日は小学校の父兄会が一緒に夜通し捜索してくれましたが、結局美雪は見つからなかった。それからすぐ、妻とも別れました」

 干しぶどうを抓む。六年前までは、全く食べることができなかった。

「何故そんな話を私に聞かせる!この本と、君の娘の失踪と、何の関係が有ると云うんだ!」

「なあに、大したことはないのです。この本は――娘の本なのですよ」

「な……何を云っている」

 黄昏時はとうに過ぎ、座敷は向かい側の相手も見えないほど昏いのに、男に気にしている様子は無く、顔の筋肉が弛緩しかんし、口が半開きになっている。

「後で気付いたことですが、娘が突然幽霊に会いたいと言い出したのはね、多分その本に幽霊が出てくるからです。幽霊の男の子に人間の女の子が恋をする話でね。……証拠が欲しいですか?娘は自分の名前が漢字で書けるようになってから、必ずと云って良い程自分の持ち物に名前を書いていたのです。解り難いですが、表紙カバーの裏」

 男は目をいて本を手に取る。私は漸く座敷の電燈を点けた。

「美……雪……。何故――」

「貴方の娘と美雪は同い年です。多分六年前に本を貸して、そのまま」

「私の娘はそんなこと一言も」

「まあ、子供のことですから。私が云い値で買うと云った理由、お解りいただけましたか?帰ってきた時の為に、美雪の持ち物はできるだけ手元に置いておきたいのですよ。貴方のお蔭でこの本と巡り会えた訳だし、幾らでも結構」

 しばらく男は沈黙していた。

 私は男の後ろの襖に目を遣る。隣の部屋は美雪の物で溢れ返っている。長い間開けることの無かった襖を久しぶりに開けることになりそうだ。

 突然男は馬鹿馬鹿しい――と云った。

「云い値も何も、元々こいつは君の娘の本じゃないか。親を介するのは妙だが、それを返すだけのことだ。娘の代りに謝ろう。長く返さなくて悪かった。――夜も更けたし、もう失礼する」

「……そうですか」

「今度は娘と来るよ」

「いつでもどうぞ。――干しぶどう、食べますか?」

 小瓶を振る。

「貰おう」

 甘酸っぱい果実の芳香が口から鼻に抜ける。

 私は美雪の好物を沢山用意して、生死も解らぬ我が子を待つ。帰ってきた時は思い切り抱き締めて、おかえりと云おう。

 駄文ですが、お許し下さい。

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