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人の心を静めてしまう私に「君の隣は退屈だ」と婚約者が言うので、七歩離れます

掲載日:2026/10/06

「今夜だけ、七歩離れていてくれないか」


 新月の夜会の、二曲目が終わったところだった。婚約者のオーレリアンさまは、わたしの隣で穏やかに微笑んだまま、そう言った。


「君の隣は静かすぎて、退屈なんだ。君がいると、何もかも凪いでしまう」


 そのとおりだった。


 わたしの七歩の内では、人の心が凪ぐ。


 ついさっきも、そうだった。サルヴィーユ侯爵家の大広間の奥で、二人の老伯爵が港の税のことで声を高くしはじめた。片方が扇を閉じ、片方が杯を置いた。わたしが一歩、二歩とそちらへ寄ると、二人の声はふっと低くなった。五歩目で、片方が笑った。七歩の内に入ったときには、二人は互いの肩を叩いて、昔の狩りの話をしていた。


「さすがは巫女さまだ」


 誰かが小さく言った。


 人々はそれから、冬の暖炉に寄るように、わたしのそばへ集まってきた。わたしの七歩の内で、誰もが肩の力を抜き、穏やかな顔になる。けれど、わたしに話しかける人はいない。暖炉に話しかける人がいないのと、同じことだ。


 わたしはセシル。十四の年に凪の巫女(なぎのみこ)だとわかって、この家へ遣わされた。それから六年、嫡男のオーレリアンさまの婚約者として暮らしている。


 この国では、海の水を盃に汲んで覗く。心が静かなら水面に星が映り、心が乱れれば水は荒れる。オーレリアンさまは、どの令嬢と盃を覗いても星が映るので、社交界で「凪の若君」と呼ばれていた。若いのに商談でも議の席でも動じない、と大人たちは褒める。


 その若君の目は、わたしではなく、七歩向こうに立つ令嬢を見ていた。


 伯爵家の娘の、オリアーヌさま。頬が赤く、よく笑い、よく怒る人だ。腰の帯盃(おびさかずき)が、身じろぎするたびに鎖を鳴らしている。荒れこそ本物の心だと唱える若い人たち、嵐派(あらしは)のなかでも、いちばん目立つ令嬢だった。


「オーレリアンさま。今夜こそ、一緒に覗いてくださる約束よ」


 オリアーヌさまが言うと、周りの人々の話し声が、少しだけ小さくなった。


「僕は、ちゃんと荒れる恋がしてみたいんだ」


 オーレリアンさまは、わたしに向かってそう続けた。


 穏やかな声だった。わたしの七歩の内にいるのだから、当たり前だった。


「かしこまりました」


 わたしは礼をして、下がった。


 一歩。二歩。三歩。ドレスの裾を踏まないよう、数えながら下がる。四歩、五歩、六歩。


 七歩。


 オーレリアンさまの顔が、変わった。


 頬に血がのぼり、目が光った。肩が上がり、呼吸が速くなるのが、離れていてもわかった。彼はオリアーヌさまの手を取って、自分の懐盃(ふところさかずき)の蓋を開けた。二人で、同じ水を覗きこむ。


 水面は、二人分、細かく震えていた。星は一つも映らない。


「荒れてる……!」


 オリアーヌさまが叫び、嵐派の若者たちが手を叩いた。


「本物だ」「凪の若君が、荒れた」「これが恋だ」


 オーレリアンさまは、声を上げて笑った。わたしが六年間、一度も聞いたことのない笑い声だった。


 人々の輪が、二人のほうへ移っていく。わたしの周りから、人がいなくなった。七歩の外に立つ巫女には、誰も用がない。


 広間の隅に、海水の入った桶を抱えた男が立っていた。盃に注ぐための水を、浜から運んでくる人だ。日に焼けた腕の、映し庭(うつしにわ)の番のガエル。


 ガエルは、わたしからちょうど七歩のところにいた。


 いつも、そうだった。


 わたしは帯盃の蓋を胸に当てて、開けなかった。


   *


 夜会の翌朝は、七日に一度の水替えの日だった。


 眠れないまま夜明け前に中庭へ出ると、ガエルが映し庭の池の水を汲み出していた。池の底の石が、薄明かりに白く見えている。足もとには、浜から運んできた新しい海水の桶が四つ並んでいた。


「おはようございます」


 ガエルは手を止めて頭を下げた。それから一歩だけ下がった。わたしとの間は、やはり七歩だった。


「今朝の潮は、よかったです」


 桶の水を池へ流しながら、ガエルは言った。


「北の風が止んで、浜が鏡みたいでした。鰯(いわし)の群れが寄ってたんで、親父の舟は昼まで帰ってこないでしょう」


 わたしは返事をしなかった。ガエルも、返事を待たなかった。


 ここでだけ、わたしは誰も静めなくていい。この人は何も頼まない。喧嘩の仲裁も、商談の同席も、泣いている子をあやすことも。潮と魚の話をして、水を替えて、帰っていく。


 池が満ちると、ガエルは桶を重ねた。


 わたしは池の縁にしゃがんで、新しい水を覗いた。


 空にはまだ、星が残っている。けれど水面は鏡のように静かで、真っ黒だった。


 人の心を凪がせる巫女自身の水には、星が映らない。


 六年、毎朝そうだった。人に静けさを分けるぶん、巫女の心はいつも閉じているのだと、本山の神官は言った。


 顔を上げると、ガエルは桶を担いで、中庭を出ていくところだった。


 この人は、いつも七歩手前で止まる。六年間、一度も内側に入ってきたことがない。


 初めてこの家に来た日のことを、わたしは覚えている。十四の春だった。本山の馬車を降りると、玄関の前に使用人が一列に並んでいて、皆、わたしが近づくにつれて顔をゆるめた。泣き腫らした目をした女中までが、わたしの前でだけ、ほっと息をついた。その列の端に、桶を提げた少年がいた。少年は、わたしが近づくと、一歩下がった。わたしが進むと、また下がった。最後まで、七歩の距離を崩さなかった。


 わたしを怖がっているのだと思う。巫女のそばに寄ると心を抜かれる、と言う人は、漁村にもいた。


 訊けばいいのに、訊けなかった。


 遠ざかる足音を、わたしは数えてしまった。


   *


 昼過ぎ、侯爵さまの書斎に呼ばれた。


 オーレリアンさまが先にいた。窓際に立ち、腕を組んでいる。わたしは扉の内側で足を止めた。二人とも、わたしの七歩の内にいた。


「父上。セシルとの婚約を、解いていただきたい」


 オーレリアンさまは、静かに言った。


「オリアーヌを妻にしたい。昨夜、皆の前で、二人の水が荒れた。あれが本当の心です。セシルの隣では、僕は何も感じない」


 侯爵さまは、机の上の書類から目を上げなかった。


「好きな娘は、好きにせよ」


「では」


「だが、妻は巫女だ」


 侯爵さまはペンを置き、わたしを見た。


「巫女は家の宝だ。本山は、この家が荒れていると聞いて、そなたを遣わした。それを手放す馬鹿がどこにいる。婚礼は次の新月に挙げる」


 オーレリアンさまの指が、組んだ腕に食いこんだ。けれど声は荒れなかった。わたしの七歩の内にいるから。


 侯爵さまは、わたしに向かって、声をやわらげた。


「セシル。そなたは嫁として、この家の七歩の内におればよい。苦労はさせぬ。ドレスも宝石も、望むだけ持たせよう」


 それから、本当に親切なことを言うように、続けた。


「そなたの心は、この家の勘定には入っておらん。だから、何も気に病むことはない」


 この人の奥方が亡くなった年のことを、わたしは使用人たちから聞いている。侯爵さまは一年、誰とも口をきかず、口をきけば怒鳴った。皿が割れ、馬丁が逃げ、小さなお嬢さまは乳母の部屋から出てこなかった。わたしが来てから、それが止んだ。六年、この家は静かだった。


 わたしは、言い返す言葉を持たなかった。


「かしこまりました」


 礼をして、書斎を出た。


 後ろから、オーレリアンさまが出てきた。わたしを追い越し、廊下の先へ大股で歩いていく。三歩、五歩、七歩。


 八歩目で、彼は廊下の飾り台を蹴った。青い花瓶が倒れ、絨毯に水が広がった。


「君のせいだ」


 オーレリアンさまは振り返らずに言った。


「君さえいなければ、僕は自由に荒れられるのに」


 彼の足音が遠ざかってから、わたしは床に膝をついて、花瓶を起こした。こぼれた花を拾い、濡れた絨毯を手巾(しゅきん)で押さえた。


 廊下は長い。わたしの部屋まで、ちょうど百十二歩ある。


 数えなければ、立っていられなかった。


   *


 それから、わたしは灯りになった。


 朝、商会の人たちとの取り決めがある日は、オーレリアンさまが「近くへ」と呼ぶ。わたしは彼の斜め後ろ、三歩のところに立つ。商人が値を吊り上げても、彼は穏やかに微笑み、相手の言い分をしまいまで聞いて、もっといい値を引き出す。凪の若君、と商人は帰りぎわに褒める。


 午後、オリアーヌさまが来ると、「離れていてくれ」と言われる。わたしは七歩下がる。それでも足りない気がして、十歩下がる。


 点けられて、消される。


 一度など、同じ一刻のうちに三度呼ばれ、三度下げられた。商人との話の途中でオリアーヌさまの馬車が着き、オーレリアンさまは「離れて」と言った。わたしが十歩下がったところで、商人が帳簿の数字を持ち出し、彼は眉を吊り上げて「近くへ」と言った。わたしが戻ると、窓の外でオリアーヌさまが手を振り、彼はまた「離れて」と言った。商人は、わたしと彼を見比べて、首をかしげていた。


 ある日、寝る前に数えてみたら、その日わたしは四百二十歩を、誰かとの距離のために歩いていた。


 七歩の外から見るオーレリアンさまは、別の人だった。


 オリアーヌさまと庭でお茶を飲んでいるとき、給仕の娘が砂糖壺を倒した。オーレリアンさまは立ち上がり、「何をしている」と怒鳴った。娘は真っ青になって膝をついた。彼は茶器を手で払った。白い磁器が石の上で割れた。


 オリアーヌさまは、目を輝かせていた。


「あなた、本当は激しい人なのね」


「君の前だからだ」


 オーレリアンさまは頬を赤くして笑った。給仕の娘は、割れた磁器を素手で拾っていた。


 凪の若君なんて、初めからいなかったのだ。


 わたしも、知らなかった。彼がこんなふうに荒れる人だということを。六年間、彼はいつもわたしの七歩の内にいたのだから。商談の冷静さも、議の席の落ち着きも、わたしの静けさだった。彼はそれを、自分の性格だと思っている。


 その日の夕方、オリアーヌさまがわたしのところへ来た。


 回廊の端に立っていたわたしに向かって、まっすぐ歩いてくる。七歩手前で止まらずに、そのまま内側へ入ってきた。


 一歩、二歩。オリアーヌさまの足が遅くなる。いつも赤い頬から、色が引いていく。眉が下がる。彼女は胸に手を当てて、戸惑ったようにわたしを見た。


「……変な感じ」


「ごめんなさい」


「謝らないで。そういうところよ」


 オリアーヌさまは、悔しそうに唇を噛んだ。けれど、その悔しさも、わたしの内側ではすぐに薄まってしまう。


「あなたの隣だと、誰も本当の顔をしない。オーレリアンさまも、この家も」


 彼女はわたしの目を見て、最後に付け足した。


「あなた自身も」


 オリアーヌさまが去ったあと、わたしは回廊に立ったまま、腰の帯盃に触れた。


 わたしの静けさは、皆を偽物にしてきたのだろうか。


 蓋は、開けなかった。


   *


 二度目の水替えの朝、わたしは初めて、自分からガエルに話しかけた。


「ガエル。わたしは、皆を偽物にしているの?」


 ガエルは桶を下ろした。七歩向こうで、少し考える顔をした。


「偽物、ですか」


「わたしの近くにいると、皆が静かになる。本当は怒っている人も、悲しんでいる人も。それは、その人の本当の顔じゃないって」


 ガエルは池の水面を見た。満ちたばかりの水が、白んだ空を映している。


「凪いだ海を、偽物の海だって言う漁師はいません」


 ガエルはそれだけ言って、桶を持ち上げた。


 わたしはもう一つ、訊いた。六年間、訊けなかったことを。


「どうして、あなたはいつも七歩手前で止まるの」


 ガエルの手が止まった。


 長い間があった。鴎(かもめ)が一羽、中庭の上を鳴いて渡っていった。


「あなたの静けさは、あなたのものでしょう」


 ガエルは、わたしのほうを見ずに言った。


「勝手にもらうわけにはいかない」


 わたしは、返事ができなかった。


 あなたのもの。そう言われたのは、六年で初めてだった。本山でも、この家でも、わたしの静けさは皆のものだった。分け与えるために、わたしはいるのだと教わった。


「浜じゃ、言い伝えがあります」


 ガエルは桶を担ぎ直しながら言った。


「巫女さまにも、星が映る相手が一人だけいるって。巫女さまの心を、静めてくれる人が」


「……そんな人、いるのかしら」


「さあ」


 ガエルは少し笑った。


「俺は漁師の倅(せがれ)なんで、言い伝えしか知りません」


 彼が中庭を出ていくまで、わたしは立っていた。


 足音が聞こえなくなってから、気がついた。今朝は、一歩も数えていなかった。


   *


 その夜、帝国の商人を迎える晩餐があった。


 サルヴィーユ家は薬の家だ。この数年は、凪薬(なぎぐすり)でいちばん富んでいる。飲めば荒れた心は止まるが、水面は星を映さず、真っ黒になる薬。今年の春、婚礼の日に飲むことは禁じられたが、夜会のためにと買う人は絶えない。


 その凪薬を、帝国へ売る。この家にとって、いちばん大きな商談だった。


「セシル。今夜は、わしとオーレリアンの間に座れ」


 夕方、侯爵さまが言った。


 わたしは、廊下の窓から中庭を見ていた。水替えの済んだ池に、夕焼けが映っていた。あなたの静けさは、あなたのもの。


「今夜は、参りません」


 侯爵さまが、ゆっくりこちらを向いた。


「何と言った」


「今夜は、参りません。気分が、すぐれませんので」


 生まれて初めて、わたしは断った。小さな、自分のための一言だった。侯爵さまはしばらくわたしを見ていたが、やがて鼻を鳴らして去った。


 わたしは部屋に戻り、扉を閉めた。


 晩餐が始まって半刻ほどで、最初の怒鳴り声が聞こえた。


 オーレリアンさまの声だった。オリアーヌ、という名が聞こえた。侯爵さまの声が重なった。食器の割れる音。椅子の倒れる音。帝国の言葉で何か短く言う声と、廊下を早足で去っていく足音。玄関の扉の閉まる音。


 わたしは扉の把手(とって)に手をかけた。今、階段を下りて食堂の戸口に立てば、それだけで止まる。わたしには、それができる。


 把手は冷たかった。


 わたしは、手を離した。寝台の端に座り、膝の上で両手を握った。あなたの静けさは、あなたのもの。中庭で聞いた声を、胸の中で何度もなぞった。


 それから、家じゅうが荒れた。


 夜中まで、父と子の怒鳴り声は止まなかった。六年分の、言えなかったことが、全部出てきたようだった。使用人たちが廊下を走る。誰かが泣いている。


 扉が、小さく叩かれた。


 開けると、寝間着のソレーヌさまが立っていた。侯爵家の下のお嬢さまで、九つになる。母君の顔を知らない。物心ついたときから、この子のそばには、わたしがいた。


「セシル」


 ソレーヌさまは、わたしの腰にしがみついた。小さな体が、震えていた。


「セシルがいないと、お父さまたちがこわい」


 わたしの七歩の内で、ソレーヌさまの震えは、すぐに止まった。


 廊下を、重い足音が近づいてきた。


 侯爵さまが、廊下の突き当たりに立った。髪が乱れ、目が赤く、顔じゅうが荒れていた。奥方を亡くした年の顔だ、とわたしは思った。使用人たちから聞いていた、あの一年の顔。


「商談は潰れた」


 侯爵さまは、低く言った。


「そなたの務めは、何だ」


 わたしは、腰にしがみついているソレーヌさまを見た。


 それから、ソレーヌさまの手を引いたまま、廊下へ出た。一歩ずつ、侯爵さまのほうへ歩いた。


 七歩の内に入ったとき、侯爵さまの肩が落ちた。赤かった目から、力が抜けた。階段の下から聞こえていたオーレリアンさまの怒鳴り声も、わたしが踊り場まで下りると、ふっと途切れた。


 家が、凪いだ。


 その静けさの、ひどい安堵。


 夜、ソレーヌさまを寝かしつけてから、わたしは暗い部屋で決めた。


 わたしが我慢すれば、皆が楽になる。それが、わたしの値打ちだ。それ以外のものを、望んではいけない。


 夜明けの映し庭へ行くのも、もうやめよう。


 あそこへ行くと、わたしは、わたしのものを欲しがってしまうから。


 七日後、三度目の水替えの朝。わたしは中庭へ出なかった。カーテンを閉めたまま、寝台に座って、桶の水が池に落ちる音だけを聞いていた。


   *


 婚礼の日の朝、ソレーヌさまの髪を梳いていると、ソレーヌさまが鏡越しに言った。


「ガエルね、今日でお屋敷をやめるんだって」


 櫛が、止まった。


「乳母が言ってた。浜のお父さんの舟に戻るんだって。今朝が、最後のお水替えなの」


 気がつくと、わたしは廊下を走っていた。


 数えるのも忘れて、中庭へ出た。


 ガエルは、最後の桶を池へ空けたところだった。池の縁には、銀の鉢を収めた木箱が置いてある。今夜の婚礼に使う、凪の社の初汲み(はつくみ)の水。それも、彼が運んできたのだ。


 わたしの足音に、ガエルが振り向いた。


 わたしの足は、七歩のところで止まった。


「やめるの」


「はい」


「どうして」


 ガエルは、空になった桶を置いた。日に焼けた手を、一度握って、開いた。


「この前、訊かれたことの、残りの半分を言います」


 朝の光が、中庭の石を白くしていた。


「あなたの七歩の内に入ったら、俺のこの気持ちまで、静められてしまう。それが怖かった」


 ガエルは、まっすぐわたしを見た。六年で初めて、彼はわたしの目を見た。


「俺は、自分の心のまま、あなたの前に立っていたかった。荒れたままでいいから、自分のものとして持っていたかった」


 わたしは、息ができなかった。


「今夜、あなたが婚礼の鉢を覗くのを、俺は静かな顔で見ていられる自信がない。だから、辞めます」


 ガエルは桶を重ねて、肩に担いだ。


 来てくれ、とは言わなかった。


「どうするかは、あなたが決めることです」


 それだけ言って、彼は中庭を出ていった。


 わたしは、満ちたばかりの池の前に立っていた。


 ここに残れば、ソレーヌさまは今夜も静かに眠れる。侯爵さまは怒鳴らず、使用人たちは逃げず、この家は静かなままだ。わたしにはドレスと宝石と、寝る部屋がある。ただ、わたしの心は、一生、この家の勘定に入らない。


 去れば、この家は荒れる。ソレーヌさまは泣く。本山へ戻れば、わたしはまた別の家へ遣わされるだけかもしれない。浜へ行っても、ガエルが待っているという約束は、どこにもない。


 池の水面に、空が映っていた。


 わたしは、覗かなかった。


 部屋に戻ると、ソレーヌさまがまだ鏡の前に座っていた。わたしは櫛を取り、梳きかけの髪をもう一度、はじめから梳いた。


「ソレーヌさま」


「なあに」


「今夜、もしわたしがいなくなって、こわくなったら」


 わたしは、細い髪を三つに分けて、ゆっくり編んだ。


「泣いていいのよ。それは、あなたの心だから」


 ソレーヌさまは、鏡の中で首をかしげた。それから、よくわからないまま、こくりと頷いた。


   *


 新月の夜、星窓(ほしまど)の大広間は、人で埋まっていた。


 天井の十二の窓から、星の光が落ちてくる。鉢を覗く儀が済めば、浜の凪の社の鐘が鳴らされ、王都じゅうに婚礼を知らせる。広間の中央には白い布をかけた台があり、その上に銀の鉢が置かれている。初汲みの水が、星を待っている。


 鉢のそばには、凪の社の水読み(みずよみ)が立っていた。灰色の衣の、年老いた女の人だった。婚礼の水の映りを読み、婚礼帳に一行を書く人。


 招かれた人々の中に、オリアーヌさまもいた。オーレリアンさまが、自分で招待状を書いたのだと聞いた。嵐派の若者たちと一緒に、壁際からこちらを見ている。その頬は、いつものように赤くはなかった。


 オーレリアンさまは、わたしの隣で穏やかに微笑んでいた。


 白い礼装で、髪をきちんと撫でつけ、客の一人ひとりに会釈を返す。誰が見ても、凪の若君だった。わたしが隣にいるのだから。


 水読みが、鉢の前に進み出た。


「婚礼の前に、掟を申し上げます」


 しわがれた、よく通る声だった。


「花嫁が凪の巫女であるときは、七歩の掟に従い、花婿がまず独りで鉢を覗くあいだ、花嫁は七歩お離れください。巫女の静けさは、余人の水を静めます。花婿の水が、花婿ご自身のものであることを、確かめねばなりません」


 広間が、少しざわめいた。侯爵さまが、眉を寄せた。寄進で本山を動かしてきたこの家も、婚礼の掟までは動かせなかったのだ。


 わたしは、礼をした。


「かしこまりました」


 一歩。二歩。三歩。


 白いドレスの裾を踏まないよう、数えながら下がる。あの夜会と同じだった。あの夜は、彼が命じた。今夜は、掟が命じている。


 四歩、五歩、六歩。


 七歩。


 オーレリアンさまが、独りで鉢を覗きこんだ。


 水面が、白く波立った。


 細かな震えではなかった。鉢の縁にぶつかって跳ね返るほどの波が立ち、その底で、黒い渦がゆっくりと巻いていた。


 広間の空気が、変わった。


 白波は怒りだ。渦は、後ろめたさだ。この国の大人なら、誰でも知っている。


 オーレリアンさまの顔から、何かが剝がれていった。穏やかな微笑みが崩れ、頬が引きつり、目が鉢から離れなくなった。額に汗が浮いた。彼は自分の水を見ていた。生まれて初めて、自分だけの水を。


「……違う」


 オーレリアンさまの声が、荒れた。


「違う、これは僕じゃない」


 客の誰かが、息を呑んだ。誰かが扇で口を隠した。嵐派の若者たちでさえ、黙っていた。


 オーレリアンさまが、振り向いた。七歩向こうのわたしを見つけて、手を伸ばした。


「セシル。戻ってきてくれ」


 その声には、恋も、愛もなかった。熱を出した子どもが毛布を呼ぶような、ただ静けさを欲しがる声だった。


「戻ってきてくれ。七歩の内へ」


「戻れ、セシル」


 侯爵さまが立ち上がった。その声も、もう荒れていた。


「戻れ。そなたの務めを忘れたか」


 わたしは、二人を見た。


 六年、わたしはこの人たちの静けさだった。この家の、凪だった。


 鉢のそばの水読みが、わたしを見ていた。何も言わなかった。読んだことを口にしないのが、水読みの務めだ。けれど、その皺の奥の目は、わたしがどちらへ歩くのかを、ただ待っているように見えた。


 壁際で、オリアーヌさまが一歩、後ずさった。荒れた鉢と、荒れた婚約者を見て、その顔からは恋の色がすっかり引いていた。


 わたしは、腰の帯盃に触れた。蓋の下の水が、どうなっているのかはわからない。わからなくていい、と思った。


 わたしは、八歩目を踏んだ。


 前へではなかった。後ろの、大扉のほうへ。


 九歩。十歩。


 そこで、数えるのをやめた。


 広間の荒れが、背中に押し寄せてきた。侯爵さまの怒鳴り声。オーレリアンさまの、わたしの名を呼ぶ声。客たちのざわめき。鉢の水の跳ねる音。


 その中に、細い泣き声が混じっていた。


 ソレーヌさまの声だった。


 わたしは、振り返らなかった。


 泣いていいのよ。胸の中で、もう一度言った。それは、あなたの心だから。


 大扉を出た。廊下を抜け、玄関を出て、門をくぐった。


 夜風が、頬に当たった。


 わたしの周りには、誰もいなかった。生まれて初めて、わたしは、誰の七歩の内でもない場所に立っていた。


   *


 王都の浜は、暗かった。


 新月の夜の海は、空との境がわからない。星だけが、空と水の両方に散っている。漁師たちの汲み場の石段に、小さな灯りが一つ、揺れていた。


 ガエルが、桶のそばに座っていた。


 明日の朝の舟を、待っているのだろう。肩に上着をかけて、海のほうを向いている。


 わたしの足音に、彼は振り返った。そして、立ち上がった。


 わたしは、七歩手前で止まった。


 六年の癖だった。足が、そこで勝手に止まった。


「……七歩です」


 わたしが言うと、ガエルは少し笑った。


 けれど、彼は動かなかった。こちらへ一歩も踏み出さず、ただ立って、わたしを見ていた。


「来るなら、あなたの足で」


 波が一つ、石段に寄せて、引いた。


 わたしは、声に出して数えた。


「一歩」


 砂が、靴の下で鳴った。


「二歩。三歩」


 ガエルの顔が、灯りの中ではっきりしてくる。日に焼けた頬。潮で傷んだ髪。


「四歩。五歩。六歩」


 ガエルが、息を吸うのがわかった。


「七歩」


 わたしは、彼の前に立った。


 ガエルの肩から、力が抜けていくのが見えた。わたしの七歩の内では、人の心が凪ぐ。六年、彼がいちばん恐れていたことだった。


 わたしは、彼の顔を見上げた。


「待っていてくれたの」


「舟が、朝なんで」


 ガエルはそう言ってから、自分で首を振った。


「嘘です。社の鐘が鳴らなかったから、もしかしたらと思って、ここにいました」


「……静かになった?」


「なりました」


 ガエルは、目を閉じて、それから開けた。


「でも、消えませんでした」


 ガエルは桶を引き寄せた。今朝、浜で汲んだ海の水が、まだ入っている。


 わたしたちは、桶の縁に並んでしゃがんだ。


 二人で、水を覗いた。


 水面は、凪いでいた。


 星が、二つ並んでいた。


 一つは、ガエルの星だった。


 もう一つは、わたしの星だった。


 わたしは、その小さな光から、目を離せなかった。黒くない。揺れていない。ただ静かに、そこにある。二十年生きて、初めて見る、わたしの星。


 隣で、ガエルが何か言いかけて、やめた。


 わたしも、何も言わなかった。言葉は、あとでいい。この星が水面から消えないうちに、もう少しだけ、二人で見ていたかった。


   *


 オリアーヌさまがオーレリアンさまのもとを去ったのは、それから半月ほどあとのことだと聞いた。


 あの婚礼の夜の荒れは、それからずっと彼に残った。使用人に向かい、客に向かい、やがてオリアーヌさまにも向かった。オリアーヌさまは、わたしが欲しかったのはこういう荒れではない、と言って、自分から帯盃の蓋を返したそうだ。


 オーレリアンさまは、家の凪薬を飲むようになった。社交界では今、彼のことを「黒い若君」と呼ぶ。夜会で彼が盃の蓋を開けて差し出しても、覗く人はいないという。


 サルヴィーユ家のことは、噂でしか知らない。


 ただ、一度だけ、見たことがある。


 ある新月の前の日、王都の凪の社の汲み場で、ソレーヌさまが乳母の手を引いて立っていた。何か気に入らないことがあったのか、大きな声で泣いていた。乳母が困った顔で何か言うと、ソレーヌさまは泣き顔のまま、急に声を上げて笑い出した。


 わたしは、七歩よりずっと遠くから、それを見ていた。


 ソレーヌさまは、わたしに気づかなかった。それで、よかった。


 わたしは今、東の漁村の近くで、ガエルと暮らしている。本山から人が来ることもある。遠い町の、荒れた家や病人のところへ行ってほしい、と。行くと決めたときだけ、わたしは行く。


 夕方、ガエルの舟が浜に戻ってくると、わたしは汲み場の石段から、彼のほうへ歩いていく。


 歩数は、もう数えない。

お読みいただき、ありがとうございました。


七歩は、わたしたちが人と話すとき、なんとなく取っている距離より少しだけ遠い距離です。

近づくか、離れるか。その一歩を、自分で決められますように。

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― 新着の感想 ―
精神安定剤飲み続けて薬の大切さを忘れて飲み忘れたみたいな感じですね。 その薬が人であることを忘れた父子は暫く苦労しそう。
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