私を追放した皆様、国が滅んでも知りませんよ?
新作短編です。
「ふぅ……これで根の張りが良くなるはずだわ」
王国の中心に聳え立つ『大聖樹セフィロト』の根元に広がる庭園で、私、フローラ・ヴェルデは、今日も黙々と土を掘り返していた。
額の汗を拭うと、ふわりと土の匂いがする。
日焼けした肌に、泥の跳ねた作業着。この姿を見て、誰が伯爵令嬢だと信じるだろう。ましてや、この国の第二王子ライオネル殿下の婚約者だなんて。
「……でも、これが私の仕事だから」
私はぽつりと呟いた。
誰に褒められずとも構わない。私はこの国でただ一人、聖樹の声を聞くことができる『庭師』として、十年もこの木に仕えてきた。貴族の令嬢とは思えないほど荒れたこの手。でも私は、この手に誇りを持っている。大聖樹が元気であれば国は豊作になり、民が飢えることはないのだから。
「あらあら、フローラ様。また泥遊びですか?」
声のした方へ顔を上げると、そこには豪奢なドレスを纏った男爵令嬢、ロザリアが立っていた。彼女の周囲には、むせ返るような薔薇の香水の匂いが漂っている。
「ロザリア様、これは泥遊びではありません。聖樹様の根に、新しい土と魔力を混ぜているのです」
「ふふっ、そんな汚い作業は下働きの庭師にやらせればよろしいのに。だから、殿下に嫌われるのですわよ?」
「っ……」
彼女の言葉は、私の胸の痛いところを突いた。
最近、ライオネル殿下は、私と目を合わせようともしない。公務の後、私が急いでお茶会に向かっても、「臭い」と言って、鼻を覆われることが増えていた。
「おい、ロザリア。そんな汚い場所に近づくと、君の美しいドレスが汚れてしまう」
不機嫌そうな声と共に、ライオネル殿下が現れた。
私は慌てて立ち上がり、ドレスの土を払って淑女の礼をする。
「ごきげんよう、殿下」
「……フローラ、何度言ったら分かるんだ?」
殿下は私を見下ろし、露骨に顔をしかめてハンカチで鼻と口を覆った。
「その貧乏臭い土の匂いをどうにかしろと言っているんだ。王族の庭園が土臭くては他国の賓客など呼べないだろう」
「申し訳ありません……。ですが、今は聖樹様が芽吹く大切な時期なのです。私が直接触れて魔力の波長を合わせないと……」
「言い訳など聞きたくない! 大体、お前は『聖樹の加護』だの、『土の声』だの、薄気味悪いことばかり言う。この国が豊かなのは、我が王家の政策が優秀だからだ。ただの木に媚びへつらう、お前の姿は見てるだけで不愉快極まりないのだ!」
殿下は、私の荒れた手を軽蔑の眼差しで見ると、隣のロザリアの腰を抱き寄せた。
「見ろ、このロザリアを。彼女からはいつも極上の香水の香りがする。肌は白く滑らかで、指先まで手入れが行き届いている。これこそが次期王妃にふさわしい『華』というものだ」
「うふふ、殿下ったら。フローラ様が可哀想ですわ」
ロザリアが勝ち誇ったように私を見る。
彼女は懐から小瓶を取り出すと、「お清めですわ」と言って聖樹の根元にバシャバシャと液体を振りかけた。
強烈なアルコールと香料の匂いが鼻をつく。
「な、なんてことをするのですか!?」
「あら、臭い消しですわ。最高級の香水ですのよ?」
「やめてください! 聖樹様は人工的な香りを嫌います! そのようなものでは根が腐ってしまいます!」
私が止めようとロザリアに手を伸ばした、その時だった。
バチンッ!
乾いた音が響き、私の手が乱暴に払いのけられた。
「気安く近づくな! その汚い手でロザリアに触れるんじゃない!」
殿下が叫ぶ。私を睨みつけるその瞳に、婚約者へ向ける情愛など欠片もない。あるのはただ、汚物を見るような生理的な嫌悪だけだった。
「……もう限界だ。フローラ、お前との婚約を破棄する」
「え……?」
時が止まったようだった。
風の音だけが虚しく耳元を通り過ぎていく。
「こ、婚約破棄ですか……?」
「そうだ。そして新たな婚約者として、ロザリアを迎える。彼女こそが『聖樹の巫女』にふさわしい」
「え……? 聖樹の管理もロザリア様が?」
「当然だ。ロザリアは言っていたぞ。『私なら泥に触れなくても、歌と香りで聖樹様を癒やせます』とな。これこそが洗練された管理だ」
私は呆然とロザリアを見た。彼女は「ええ、そうですわ」と悪びれもせずに微笑んでいる。
――不可能だ。大聖樹はそんな甘い存在ではない。毎日、土の状態を確認し、害虫を手で取り除き、枯れそうな根には魔力を注ぎ込む。そうやって献身的に尽くして、ようやく機嫌を保ってくれる、気難しい精霊の宿る木だ。香水をかけるなんて、もっての他。人ならば、傷口に塩を塗り込むようなものだ。
「殿下、それだけはおやめください! 婚約破棄されるのは構いません。ですが、聖樹様の管理は、私でなければこの国が……!」
「黙れ! 自分の地位を守るために国を口実にするな! 今日中に荷物をまとめて出て行け。二度と、その薄汚い顔を僕に見せるな」
……ああ、もう届かない。何を言っても、殿下に私の言葉は雑音にしか聞こえないのだ。
私は深々と頭を下げる。不思議と涙は出なかったが、胸に穴が空いたような喪失感だけがあった。
「……承知いたしました。今まで、お世話になりました」
私は立ち上がり、最後に一度だけ聖樹を見上げた。
巨木が悲しげに枝を揺らしている気がする。
「ごめんなさい。もう、あなたを守ってあげられない。……さようなら」
私は背を向け、走り出した。
背後でロザリアの高笑いと、殿下の「やっと清々した」という声が聞こえたが、私は耳を塞いだ。
◇
実家の伯爵家に戻った私を待っていたのは、父の激怒だった。
「王家に泥を塗った愚か者め! 土いじりにかまけて王子に愛想を尽かされるなど、恥さらしもいいところだ!」
父は話を聞いてくれるどころか、私を「一族の面汚し」と罵るばかり。どうやらロザリアの実家が、あることないことを吹き込んだらしい。
「フローラが嫉妬に狂ってロザリアを突き飛ばした」「わざと土をつけて嫌がらせをした」
そんなありもしない罪が、すでに真実としてまかり通っていた。
「出て行け! お前のような娘は勘当だ!」
私は着の身着のまま屋敷を追い出された。手元にあるのは使い古した園芸用の鞄と、わずかな小銭だけ。
空には厚い雲が垂れ込め、冷たい雨が降り始めた。
「……行こう」
私は雨に打たれながら歩き出した。この国に私の居場所はない。聖樹の恩恵を受けられないのであれば、この国は近いうちに衰退するだろう。私が何を言っても信じてもらえない以上、ここに留まって一緒に滅びる義理はない。
目指すは北。険しい山脈を越えた先にある、『冬の帝国』。一年中雪に閉ざされ、作物が育たないと言われる過酷な土地。
だが、噂で聞いたことがある。帝国の皇帝は冷酷だが、能力のある者は身分を問わず重用すると。
(私の『庭師』の力がどこまで通用するかは分からないけど……)
私は自分の手を見た。泥と傷だらけの手。殿下に「汚い」と罵られた手。でも、この手だけが知っている。土の温かさと、生命の芽吹く力強さを。
「……この手を信じる」
私は雨を拭い、北へと続く街道を一人歩き始めた。
それが運命を変える出会いに繋がっているとは知らずに。
◇
国境の峠を越えると、世界は一変した。
視界を埋め尽くすのは、白一色の雪原。
頬を切り裂くような冷たい風。
ここが大陸の北に位置する『冬の帝国』。
「はぁ……はぁ……」
私は膝まで積もった雪をかき分けながら、重い足を前に進めていた。王国を出てから十日。持っていた食料は底をつき、体力は限界を超えていた。南国育ちの私にとって、この寒さは凶器そのものだ。
寒い。指先の感覚がない。手袋代わりにした布切れはすでに濡れて凍りつき、私の商売道具である『手』が紫に変色し始めている。それでも、私は歩みを止めるわけにはいかなかった。戻る場所などない。ここで行き倒れれば、私はただの「野垂れ死んだ愚か者」として処理されるだけ。
「生きなきゃ……。私の手で、また花を咲かせるまでは……」
薄れゆく意識の中で、自分を奮い立たせる。だが、体は正直だ。
ヒュオオオオオッ!
横殴りの吹雪が襲った。足元の雪が崩れ、私はバランスを失う。
「あっ……」
抵抗する力もなく、私は雪原に倒れ込む。頬に触れる雪は冷たく、全身の熱が瞬く間に奪われていく。
(あぁ……私、死ぬんだ……)
思い出すのは元婚約者ライオネル殿下の冷たい視線と、「君からは土の匂いがする」という蔑みの言葉だった。
私は汚れたまま終わる。瞼が重くなり、意識が闇に沈もうとする、その時だった。
……ザッ、ザッ、ザッ。
雪を踏みしめる音が聞こえた。
幻聴だろうか? こんな吹雪の中を歩く者は私ぐらいだ。
「……ん? 死体かと思えば、まだ息があるな」
吹き荒れる風の音を切り裂いて、冷徹な声が聞こえた。私は最後の力を振り絞って、うっすらと目を開ける。
――そこにいたのは、美しい青年だった。
月光を紡いだような銀色の髪。
雪のように透き通った青い瞳。
漆黒の毛皮の外套を纏い、私を見下ろしている。
その圧倒的な威圧感に、私は本能で悟った。
この人こそが、北の支配者。冷酷無比と恐れられる『氷の皇帝』、アレクセイ陛下だ。
「娘か? なぜこのようなところで倒れている?」
その声と瞳に感情の色はない。ただ、邪魔な氷塊を見るような冷徹な眼差しだ。
「助けて」と言おうとしたが、声が出ない。
「……チッ、捨て置くわけにもいかんか」
彼は舌打ちをすると、膝をついて私の体を抱き起こそうとする。
彼が顔を近づけた瞬間、私は反射的に身を縮めて顔を背けた。恐怖からではない。『匂い』を嗅がれるのが怖かった。
私からは土の匂いがする。それに何日もお風呂に入っていない。泥と汗と、枯れ草の匂いが染み付いているはずだ。ライオネル殿下は、ハンカチで鼻を覆って私を拒絶した。高貴な皇帝陛下なら、尚さら不快に思うに違いない。
「臭い」と言われて捨てられるくらいなら、このまま雪に埋もれて死んだ方がマシだ。
「っ……も、申し訳ありません……」
かすれた声で謝罪し、彼を突き放そうとした。
しかし、「待て」と、アレクセイ陛下の手が止まる。
「……いい匂いだ」
「え……?」
耳に届いたのは、予想もしない言葉だった。
至近距離にあるアレクセイ陛下の瞳が、微かに揺れていた。先ほどまでの氷のような冷たさが消え、どこか陶酔したような安らぎの色が浮かんでいる。
「これは……春の匂いか? 日だまりのような懐かしくて温かい匂いだ」
「あ、あの……それは土の匂いです。汚い、泥の……」
「汚い? 何を言っている。この極寒の地では決して感じることのできない尊い『豊穣』の香りではないか」
その声には切実な響きがあった。『氷の皇帝』と呼ばれ、自身も強力な冷気を纏い続ける孤独な王。
彼はずっと温もりを求めていたのだろうか。
ライオネルが「悪臭」だと断じた私の全てを、この人は「春」だと言ってくれた。その事実が、凍りついた私の心を内側から溶かしていく。
ポロリ、と目から涙がこぼれ落ちた。
「……泣いているのか?」
「いいえ……温かくて……嬉しくて……」
アレクセイ陛下は、ふっと優しく微笑んだ。
「名は?」
「フ、フローラです……」
「フローラ……花の女神か。名は体を表すとはこのことだな」
陛下は私を軽々と抱き上げ、漆黒の毛皮に包まれる。
「近衛隊! 馬車を回せ!」
陛下の鋭い命令が飛ぶと、数名の騎士たちが姿を現した。
「へ、陛下、その女性は……?」
「遭難者だ。だが、ただの遭難者ではない」
陛下は腕の中の私を宝物のように抱き直すと、力強く宣言する。
「この方は、私の『春』となる女性だ。国賓として……いや、未来の皇妃として丁重に迎え入れろ。指一本でも凍らせた者は、私が直々に氷像にしてやる!」
「「は、はいっ!」」
騎士たちが慌てて敬礼する。
私は陛下の腕の中で、安堵のため息をつくと、意識が遠のいていく。だが、それは死への誘いではない。温かくて深い安らぎの眠りだった。
(ああ……この人の腕の中なら、きっと大丈夫……)
私は最後に、彼の胸に顔を埋めた。
◇
「ん……?」
目が覚めると、そこは暖炉の火が温かい寝室だった。私はゆっくりと体を起こすと、ふわりと甘い香りがした。湯気を立てるスープと、美しくカットされた果物がテーブルに置かれている。
「目が覚めたか、フローラ」
バルコニーの窓辺に、その人は立っていた。
銀髪の皇帝、アレクセイ陛下。
窓から差し込む雪明かりを背負った姿は、氷の彫像のように美しいが、私に向けられた眼差しは驚くほど柔らかかった。
「気分はどうだ? 医者に見せたが、酷い栄養失調と凍傷だと言っていた。……今まで、どのような扱いを受けていたんだ?」
痛ましげな声。
私は布団を握りしめた。
私の手が包帯で巻かれている。あかぎれだらけで、節くれだった私の手。
「私は……国を追い出された身です。元婚約者には、『汚い』と言われました」
「汚い?」
「はい、私からは土の匂いがすると。王族の妻にはふさわしくないと……」
うつむいて答えると、コツ、コツ、と足音が近づいて来る。陛下が私の隣に腰をかけ、ベッドの縁が沈み込む。包帯の巻かれた私の手を両手でそっと包み込んだ。
「……その男は愚かだな。この手は働き者の手だ。大地を愛し、大地に愛された者だけが持つ誇り高い手だ。私には宝石よりも美しく見える」
その言葉は、凍っていた私の心に染み渡った。
「少し外の空気を吸うか? 見せたいものがあるんだ」
◇
アレクセイ陛下に案内されたのは城の中庭。
そこは、一面の銀世界。かつては美しい庭園だったであろう枯れ果てた噴水、葉の落ちた木々、そして霜に覆われた花壇。すべてが分厚い氷に閉ざされ、色彩というものが存在しなかった。
「ここは『氷の庭』。……私の心の象徴だ。我が帝国は、初代皇帝が精霊と契約して以来、強大な冷気の魔力を受け継いできた。だが、その代償として、この国では植物が育ちにくい。特に私は魔力が強すぎてな、触れるものすべてを凍らせてしまう」
陛下は手を伸ばし、近くにあった枯れ木に触れると「パキパキッ」と音がして、木の表面が一瞬で真っ白な霜に覆われた。
「私が愛でようとすればするほど、命は凍りつき、死に絶える。私は春を招くことのできない『冬の王』なのだ」
その横顔はあまりにも孤独だった。温もりを求めているのに、自らの力がそれを拒絶してしまう哀しみ。この人はあの大聖樹と同じだ。強大すぎる力ゆえに孤独で誰かの助けを必要としている。
私は気付けば、陛下の手を取っていた。
「どうした、フローラ?」
「陛下、私にやらせていただけませんか?」
私は雪の積もった花壇の前に跪き、包帯を解いて素手を露出させる。あかぎれだらけの指先が、冷たい空気に触れた。
「やめろ! 素手で雪に触れれば、また凍傷になるぞ!」
「大丈夫です。……聞こえるんです。雪の下で眠る土の声が」
私はそっと、雪を掘り返した。
カチカチに凍った土。
だが、その奥深くには微かな命の脈動があった。
「寒かったでしょう、痛かったでしょう」
土に掌を押し当て、目を閉じる。魔力を体温と共に土へ注ぎ込む。それは王国で毎日、大聖樹に行っていたことと同じ。土と対話し、根を温め、眠っている生命力を呼び覚ます『庭師』の技。
「起きて。ここはもう寒くないわ」
ドクンと、土が脈を打った瞬間、私の掌の下から淡い光が溢れ出した。
「なっ……!?」
陛下が息を呑む。
氷の大地に亀裂が走る。そこから顔を出したのは、瑞々しい緑の芽だった。芽は見る見るうちに茎を伸ばし、葉を広げ、そして一輪の花が開いた。
雪のような白さと、空のような青さを併せ持つ、可憐な『雪割草』。
それを合図にするように、次々と蕾が開き始めた。
黄色い福寿草、紫のクロッカス、そして真っ赤な寒椿。
白銀だった世界に、鮮やかな色彩が瞬く間に広がった。
「馬鹿な……私の『氷の呪い』の中で、花が咲くなど、あり得ない……」
陛下はその場に膝をつき、震える手で花びらに触れた。
凍らない。枯れない。私の魔力が守っているからだ。
「陛下の冷気は命を奪うものではありません」
私は花の隣で微笑んだ。
「これは命を腐らせずに保存する清らかな『守り』の氷です。ただ少し、閉ざす力が強すぎただけ。こうして誰かが扉を開けてあげれば、この国はこんなにも美しく花開くのです」
陛下は花を見つめ、そして私を見つめた。
その瞳から一筋の雫がこぼれ落ちる。氷の皇帝が流した熱い涙だった。
「……フローラ、君は……君は、私の『春』だ」
彼は私を強く抱きしめると、耳元で静かに告げる。
「ずっと待っていた。凍てつく孤独の中で私を溶かしてくれる人を。……君だったんだな、フローラ」
「陛下……」
「フローラ、君が泥まみれになろうとも、その手は私にとって魔法の杖だ。どうか、ずっと私のそばにいてくれないか?」
「……はい。私でよければ喜んで」
彼が顔を寄せる。
触れ合った唇は雪解け水のように温かかった。
◇
数ヶ月後、私は氷の皇帝の最愛の妻となった。
私が歩く場所には花が咲き、作物が実る。国民たちは、私を『春の女神』と呼び、陛下は私を片時も離そうとしなくなった。
「フローラ、今日の公務は終わりだ。一緒に庭を散歩しよう」
「陛下、ですが、まだ書類が……」
「書類より君が大事だ。ほら、君の好きな焼き菓子も用意させた。……あ〜ん、してやろうか?」
「陛下……人前です……」
『氷の皇帝』と恐れられた人が、今では私に溺れる愛妻家。幸せすぎて困ってしまう毎日。
だが、そんな私たちの元へ、不穏な風の噂が届き始めていた。かつて私がいた南の王国が、深刻な飢饉に見舞われているという噂が。
◇
私がアレクセイ陛下と愛を育んでいた頃。南の王国は異様な熱気と腐臭に包まれていた。季節は春だというのに、空はどんよりと重く、雨が一滴も降らない。
かつて「豊穣の国」と謳われた面影は消え失せ、畑の作物は枯れ、井戸の水位は日に日に下がっていた。
その原因が、王宮の庭園にあることは誰の目にも明らかだった。
「……くそっ、臭い! なんだこの匂いは!」
第二王子ライオネル殿下は、ハンカチで口元を押さえながら罵声を上げた。
目の前にあるのは、かつて国の守り神だった『大聖樹セフィロト』。
だが、その姿は今や見る影もない。青々と茂っていた葉は枯れ落ち、太い幹はどす黒いシミが浮き出ている。そして何より、根元から漂う腐敗臭と、むせ返るような香水が、庭園全体に充満していた。
「ロザリア! これはどういうことだ! お前が管理を始めてから聖樹がどんどん弱っているではないか!」
殿下が怒鳴ると、聖樹の陰からロザリアが姿を現した。彼女もまた、顔色が悪く、ドレスの裾は泥ではなく謎の液体で汚れている。
「ひどいですわ、殿下! わたくしは毎日、必死にお世話をしておりますのよ?」
「世話だと? それならば、なぜ木が腐り始めているんだ!」
「ですから、それは聖樹様が少しご機嫌斜めなだけですわ。ほら、今日もこうして『最高級の薔薇の香水』をたっぷりと……」
ロザリアは手にした大瓶を傾け、ドボドボと赤い液体を根元に注ぐと、ジュワッと白い泡が立つ。
「やめろ! ……待て、その匂い……」
殿下は顔をしかめた。
腐った木の匂いを誤魔化すために撒かれた大量の香水。それが混ざり合い、吐き気を催すような異臭を放っている。
「フローラの時は、こんな匂いはしなかったぞ……」
ふと、追放した元婚約者の顔がよぎった。
フローラからは、いつも土の匂いがした。地味で洗練されていない、湿った土の匂い。だが、それは決して不快な匂いではなかった。今思えば、それは雨上がりの森のような、清浄な生命の息吹だった。
「殿下、もっと予算をくださいな。この悪臭を消すには東方の高価な麝香が必要なんですの」
「まだ金を使う気か! お前が聖女になってから、香水代だけで国庫が傾きかけているんだぞ!」
「だって、わたくしは泥遊びなんてできませんもの」
ロザリアは悪びれもせず唇を尖らせる。
その時、バキバキと不穏な音が響き、巨大な枝の一つが折れて地面に落下した。
ドスーン! と地響きが鳴る。
「ヒッ!?」
「せ、聖樹が崩れていく……」
聖樹の死は国の死を意味する。現に、地方からは悲痛な報告が相次いでいた。
『北部の麦畑、全滅』。
『水源の枯渇により、暴動発生』。
『正体不明の疫病が蔓延中』。
「殿下! 大変です!」
青ざめた顔の宰相が駆け込んできた。
「国王陛下がお呼びです! 『聖樹を枯らした無能な王子などいらん。今すぐ廃嫡し、ロザリア共々地下牢へぶち込め』と……!」
「なっ、廃嫡だと!?」
殿下の顔から血の気が引いていく。
王位継承権を剥奪されれば、待っているのは処刑か、生涯幽閉の未来。
「ど、どうすれば……? な、何か聖樹を治す方法は……」
殿下は爪を噛みながら、必死に記憶をたぐり寄せた。かつて、この庭園が緑に溢れていた頃のことを。
『殿下、今は聖樹様が芽吹く大切な時期なのです。私が直接触れて魔力の波長を合わせないと……』
フローラの言葉が蘇る。
彼女は毎日、泥だらけになって働いていた。あれは趣味でも、遊びでもなかった。彼女の特異な魔力と、献身的な手入れがあったからこそ、この国の繁栄は保たれていたのだ。
「フローラ……あいつだ。あいつがいなければ駄目なんだ!」
自分の過ちを認めるよりも先に、「あいつさえ連れ戻せば助かる」という利己的な思考が頭を支配する。
「宰相! フローラの行方は!? あいつはどこへ行った!」
「そ、それが……国境を越え、北の『冬の帝国』へ向かったとの目撃情報が……」
「北だと? なぜ、あんな不毛の地に?」
殿下は鼻で笑った。南国育ちのフローラが、極寒の地でまともに暮らせるはずがない。きっと野垂れ死にかけているか、奴隷のような扱いを受けているに違いない。
「殿下、奇妙な噂も届いております。万年雪に閉ざされていた帝国で、最近『奇跡の花』が咲き乱れていると。……なんでも『春の女神』と呼ばれる聖女が現れたとか」
「春の女神……?」
点と点が繋がった。間違いない、フローラだ。彼女の力が帝国で発揮されているのだ。
「ははっ、なんだ。あいつも苦労しているようだな」
ライオネルの口元に、卑しい笑みが戻った。
「帝国の野蛮人どもにこき使われて、必死に花を咲かせているのだろう。僕が迎えに行ってやれば、泣いて喜ぶに決まっている。そうであれば、ロザリア。お前はここで待機してろ。……いや、お前はもう用済みだ」
「えっ? 殿下、な、何を……」
「僕は『本物』の聖女を迎えに行く。偽物の香水女など必要ない!」
呆然とするロザリアを置き去りにし、殿下は騎士団長を呼んだ。
「直ちに馬車の用意を! 帝国で行われる次回の舞踏会に乗り込むぞ!」
「し、しかし殿下、帝国とは国交があまり……」
「構わん! 国の存亡がかかっているんだ! フローラを連れ戻し、聖樹を復活させれば父上も僕を認めるはずだ。……待っていろ、フローラ。僕が許してやる。僕の隣に戻る栄誉を、もう一度与えてやるからな……!」
◇
その夜、帝国の皇城では春の到来を祝う大舞踏会が開かれていた。シャンデリアの輝きの下、色取り取りのドレスを纏った貴族たちが談笑している。
会場には、私が咲かせた季節外れの薔薇や百合が飾られ、芳しい香りが漂う。
「緊張するか?」
耳元で甘く囁かれ、私は隣を見上げる。
正装に身を包んだアレクセイ陛下。銀の髪を流し、氷の瞳を細めて私を見つめるその姿は、息を呑むほど美しい。
「はい、少しだけ。南の田舎娘が、こんな晴れ舞台に立っていいのかと……」
「何を言うか。君はこの国の『春』そのものだ。胸を張っていい」
陛下は私の手を取り、甲に口づけをした。
その指先には、もう泥もあかぎれもない。陛下が毎日、最高級の香油を塗り込み、大切にケアしてくれたおかげで、白く滑らかな手に戻っている。
「さあ、行こうか。私の愛しい皇妃よ」
楽団のファンファーレが鳴り響く。
私たちがホールへ足を踏み入れた瞬間、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こる。
「「「春の女神、フローラ様に栄光あれ!」」」
誰も私を蔑まない。誰も私を「臭い」と言わない。
ここに在るのは温かな祝福だけ。私は幸せを噛み締めながら、愛する夫と共にワルツを踊り始める――その時だった。
「フローラはいるか!」
優雅な音楽を切り裂くような、場違いな大声が響いた。入り口の衛兵たちが突き飛ばされ、一人の男が近付いてきた。
ボサボサの髪に、旅の汚れで薄汚れた服。目は血走り、汗だくで息を切らしている。
――ライオネル殿下だった。
「……ライオネル様?」
「はぁ、はぁ……やっと、やっと見つけたぞ、フローラ!」
会場が騒然となる中、アレクセイ陛下が私を背に庇い、冷ややかな視線を向けた。
「……何者だ? 私の舞踏会にどこの浮浪者が迷い込んだ?」
「ふ、浮浪者だと!? 無礼な! 僕は南の王国の第二王子、ライオネルだ!」
殿下は叫びながら、私に向かって手を伸ばした。
「フローラ、迎えに来てやったぞ! 辛かっただろう? こんな野蛮な北国でこき使われて!」
殿下は周囲の美しい花々を見て、勝手に頷いた。
「見ろ、この花を! お前はまた泥まみれになって働かされていたんだな。可哀想に……。僕の国では『汚い』と叱ってやったが、ここでは奴隷のような扱いを受けていたとは!」
「……え?」
あまりの認識のズレに、私は言葉を失った。
殿下は私が不幸であると信じて疑っていない。
「だが、もう大丈夫だ! 僕が許してやる! ロザリアとは別れた。やはり聖樹には、お前が必要なんだ。さあ、一緒に帰ろう。僕の慈悲に感謝して、またあの庭で働くんだ!」
殿下はニタリと笑った。それが私にとって、最高の救済だと信じている顔だ。
(……ああ。この人は本当に何も見ていなかったんだ)
私の中にあったわずかな情も、完全に冷え切った。
アレクセイ陛下の背から一歩踏み出し、元婚約者を真っ直ぐに見据えた。
「お断りします」
静かに、しかしはっきりとした拒絶。
殿下の笑顔が凍りついた。
「は……? な、何を言っているんだ? 王族の僕が頭を下げて迎えに来てやったんだぞ? お前の大好きな土いじりを、またさせてやると言っているんだぞ?」
「ライオネル様、貴方は私に『君からは土の匂いがする』と言いましたね?」
「ああ、そうだ! だから戻ってこい! 僕がその悪臭すら我慢してやると言っているんだ!」
「その言葉は私にとって呪いでした。自分の誇りを、存在そのものを否定される呪い……でも」
私は隣に立つアレクセイ陛下を見上げる。陛下は優しく頷いてくれた。
「この方は違いました。私の匂いを『春の匂いだ』と言って抱きしめてくれました。私の泥だらけの手を、『宝石よりも美しい』と言って愛してくれました」
「なっ……正気か!? 土の匂いだぞ!? 貧乏くさい泥の匂いだぞ!?」
殿下が喚き散らすと、パキィィィィン……!
会場の空気が一瞬にして凍りついた。
床が、壁が、シャンデリアが、霜に覆われていく。
アレクセイ陛下の身体から、凄まじい魔力が流れ出る。
「貴様……」
地獄の底から響くような声。アレクセイ陛下の瞳は怒りに満ちていた。
「私の最愛の妻を二度と侮辱するな」
陛下が一歩踏み出すと、床に氷が走り、殿下の足元を凍りつかせた。
「ひいっ!?」
「『土の匂い』だと? 笑わせるな。それは大地が育む生命の香りだ。生きとし生けるものが最も尊ぶべき豊穣の証だ」
アレクセイ陛下は、腰の剣に手をかけず、ただ圧倒的な威圧感だけで殿下を見下ろした。
「貴様はその価値に気づけず、泥の中に宝石を投げ捨てた。……そして今、その宝石を私が拾い上げ、私が磨き上げた。彼女はもう私の『春』だ。貴様ごときが触れていい存在ではない!」
「う、うわぁぁぁ……! こ、殺される……!」
殿下は腰を抜かし、凍りついた床の上を無様に這いずった。
「聞いたぞ。貴様の国では聖樹が枯れ、疫病が蔓延しているそうだな。自業自得というものだ。女神を追い出し、香水まみれの偽物を崇めた報いだ。……帰れ。そして、腐りゆく国と共に滅びるがいい」
「ま、待ってくれ! フローラ! 頼む、助けてくれ! お前がいないと僕は……父上に殺されるんだ!」
殿下が私に縋ろうと手を伸ばす。
だが、その手は届かなかった。私が咲かせた薔薇の蔦が、意思を持ったように伸びて、殿下の足元を遮ったからだ。花々は棘を逆立て、殿下を拒絶していた。
「……さようなら、ライオネル様。貴方の国には戻りません。私はここで、私を愛してくれる人のために花を咲かせます」
それが私の最後通告。殿下は絶望の悲鳴を上げながら、衛兵たちによって引きずり出されていく。その背中は、あまりに小さく、憐れだった。
会場に静寂が戻ると、陛下が心配そうに私の顔を見つめた。
「フローラ、大丈夫か?」
「はい。……不思議ですね。あんなに怖かった人なのに今は何も感じません」
私は陛下の手を握り返した。
「だって私の手は今、こんなにも温かいのですから」
陛下は安堵したように微笑むと、皆が見ている前で、私を抱き寄せた。
「愛している。君が私の国に春を運んできてくれた。これからは私が君の人生を永遠の春にしよう」
陛下は私の唇に誓いのキスを落とした。
会場中から再び祝福の拍手が降り注ぐ。舞い散る花びらの中で、私は世界で一番幸せな庭師として笑っていた。
◇
その後。
南の王国は聖樹の枯死と共に急速に衰退した。
食糧難と疫病により王家は求心力を失い、最後は民衆の蜂起によって転覆したという。
ライオネル王子とロザリア嬢がどうなったのか、それを知る者はいない。
一方、北の帝国はかつてない繁栄の時代を迎えていた。雪と氷の大地には花が咲き乱れ、豊かな実りが民の生活を潤している。
「あなた、お茶が入りましたよ」
「ああ、ありがとう。……いい匂いだ」
今日も、アレクセイ様は仕事を放り出して、私の髪に顔を埋めてくる。
「ハーブティーの香りですか?」
「いや、私の愛おしい土の香りだ」
かつて呪いだったその言葉は、今では私にとって、最愛の言葉になっていた。
窓の外には、見渡す限りの花畑。
冬の時代は終わり、私たちの国には、今日も優しい春風が吹いている。
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