真夜中の恋
【プロローグ】
八月の陽ざしは、今も昔も変わらず強い。
ふらりと故郷に帰ってきた私は、気づけば小学校の門の前に立っていた。
「来民小学校」──もう廃校になって久しいが、石造りの門柱だけは今も残っている。
門をくぐると、真っ先に目に飛び込んできたのは大楠だった。樹齢百年を超えるというその幹は、数人の大人が
腕を広げても到底抱えきれないほど太く、夏の空気を切り裂くように葉を繁らせている。
近づいて手を触れると、ざらりとした樹皮の感触と、樹液の甘い匂いが指先に残る。
耳を澄ませば、蝉の声が頭上で幾重にも重なり合い、遠い記憶を呼び覚ました。
──木造二階建ての校舎。
薄暗い階段の踊り場。
廊下を駆け抜ける足音と、床板のきしみ。
渡り廊下の先にある、昼なお暗いトイレ。
夏のプールから漂う塩素の匂い。
裏門脇の焼却炉。
目を閉じれば、すべてが鮮やかに浮かび上がる。
そして、その記憶の奥に──私は確かに「彼」に会っていた。
タケル。
私だけが知っている、あの夏の怪談の主。
胸の奥に、ひそやかなときめきと、苦いほどの切なさが蘇る。
六十歳になった今も、あの夏の声は消えていない。
──それは「焼却炉の泣き声」の噂だった。
裏門の横にある小さな焼却炉。
給食の残りや落ち葉を焼く場所で、いつも灰の匂いがしていた。
昼間でも煤の黒が残り、子どもには近づきにくい場所だった。
「夜になると、あそこで泣き声がするんだって」
クラスの男子がわざと声を低めて囁いたのは、七月の終わりだった。
泣いているのは、人じゃない。
不動岩の“鬼”の声だ、と続けられた。
不動岩。
校舎の裏手、幼稚園のさらに奥にそびえる巨岩の山。
山鹿の人々は古くから「不動さま」と呼んで畏れていた。
──昔、この村に鬼が出たという。
夜な夜な田畑を荒らし、子どもをさらっていく。
困り果てた村人は祈祷師を呼び、山の神に鬼を封じてもらった。
その鬼は泣きながら巨岩に飲み込まれたという。
だから、不動岩は「鬼を閉じ込めた岩」。
岩肌には、今も爪痕のような割れ目が残っている。
夏の祭りの夜──私は、その伝承の影を肌で感じたことがある。
盆踊りの輪の外れ、社殿の前では白装束の神主たちが松明を掲げ、古い祝詞を唱えていた。
笛と太鼓のお囃子が、ざんざんと闇を裂く。
けれど一瞬、その音がふっと途切れた。
沈黙の中、山の方から低いうなり声のような風が吹き下ろす。
提灯の火がいっせいに揺れ、子どもたちは悲鳴をあげて親の裾にしがみついた。
「振り向くな、決して不動の方を見るな」
大人たちはそう囁き、真顔のまま踊りを続けた。
その瞬間、幼い私の耳には、確かに聞こえたのだ。
──誰かが泣く声。
笛や太鼓の隙間から漏れるように、湿った嗚咽が祭り囃子に混じっていた。
それは鬼の声なのか、それとも鬼を鎮める者の声なのか。
ただひとつ言えるのは、あの夜、祭りは楽しい催しではなく、“鬼を封じ続けるための儀式”そのものに見えたということだ。
そしてその記憶は、私の心に「危険な匂い」を染み込ませた。
──焼却炉で泣いているのも、あの鬼の名残かもしれない。
放課後、噂を確かめたい数人で裏門へ向かった。
焼却炉は低いブロック塀に囲まれ、黒く口を開けていた。
プールの水面に赤紫の夕映えが反射し、妙に冷たい光があたりを包んでいた。
「ね、帰ろうよ……」
女の子の一人が泣きそうに袖を引っ張る。
「馬鹿、ちょっとだけだろ」
強がる男子も、声はわずかに震えていた。
耳を澄ますと──。
確かに、何かが聞こえた。
すすり泣くような、湿った音。
誰かが奥で息を詰めて泣いているような……。
「……っ!」
ひとりが短く叫び、駆け出して行った。
残された子らも次々と逃げ出す。
私だけが足を止め、焼却炉の口を凝視した。
胸は破裂しそうなほどに鳴り、背筋は氷のように冷たくなっていた。
闇の奥に──影があった。
少年の姿。
煤けた壁を背にして、はっきりとこちらを見ていた。
その瞳は、不動岩の割れ目の奥に潜む何かと同じ、冷たく深い光を宿していた。
「……君、見えるの?」
焼却炉の口から、少年の声がはっきりと響いた。
瞬間、心臓が跳ね、全身が熱と寒さに同時に襲われる。
選ばれてしまった──。
その直感が、恐怖と、ぞくりとした悦びを同時に突き刺してきた。
それが、タケル。
私だけが知る、怪談の主だった。
【第2章:秘密】
次の日の放課後、私はひとりで裏門へ向かった。
夏の陽射しはまだ残っているのに、プールの水面はどこか冷たげに光っていた。
焼却炉は昨日と同じように黒く口を開けていて、近づくほど胸がざわつく。
「──君、また来たんだ」
煤の奥から声がした。
昨日の幻ではなかった。
炉口の闇に目を凝らすと、煤けた壁を背にした少年の姿が浮かび上がる。
輪郭は夕陽に溶けるように揺れているのに、その瞳だけは冷たく深く、私を釘づけにした。
「どうして……ここにいるの?」
気づけば声が漏れていた。
「ここしか、僕の居場所はないんだ」
少年──タケルは、淡々と答えた。
煤がふっと舞い上がるとき、微かな風が私の頬を撫でた。
それは彼の声とともに炉の奥から吹き出す風のようだった。
「僕のことは、君だけが知っていればいい」
その言葉が胸に沁み込むと同時に、喉の奥が固まった。
友達に話そうとしたら、きっと声が詰まってしまうだろう。
“秘密”──その甘く危うい響きが、私を縛りつける。
それから私は、放課後になると焼却炉に足が向くようになった。
タケルは、校舎の見えない場所をよく知っていた。
「渡り廊下の下にはね、古い水路が流れてるんだ」
「旧講堂の太鼓は、夜になると勝手に鳴ることがあるよ」
彼の話を聞くたび、背筋は冷えるのに、不思議と心は温まった。
まるで、誰も知らない校舎の秘密を二人だけで共有しているようだった。
時折、タケルはふと遠くを見る目をした。
「……あそこは暗くて、狭くて、冷たい」
指さす先は、不動岩。
鬼が封じられたと伝わる巨岩だった。
その言葉が伝承と重なり、胸がざわついた。
けれど彼の瞳は、鬼よりもずっと孤独な少年のものに見えた。
ある日の夕暮れ、私は炉口の前にしゃがみ込んだ。
「タケル、今日は……もう帰らなきゃ」
声が震えているのは、怖さのせいか、それとも別の感情のせいか分からなかった。
「帰る前に……もう少しだけ、近くに来て」
囁きが耳の奥をくすぐった。
思わず炉口へ手を伸ばす。
闇の中で、冷たく湿った指先が私の指に触れた。
「……っ!」
全身が跳ねるように熱くなり、同時に氷水を浴びたみたいに震えた。
その一瞬が永遠に続く気がした。
「怖いのに、君は逃げないんだね」
耳元で囁かれたように響いた声。
鼓動は破裂しそうで、涙が出そうなのに、逃げ出すことはできなかった。
その日の帰り際、私は小さく呟いた。
「……また明日」
焼却炉の奥から、ほとんど風に溶けるような声が返ってきた。
「ありがとう」
胸の奥に、甘く切ない痛みが広がった。
それが友情なのか、恋なのか、幼い私には分からなかった。
ただ一つだけ確かだったのは、彼との秘密の時間が、何よりも大切になり始めていたということだった。
その夜。
布団に入っても、心臓の音が耳の奥で鳴りやまなかった。
瞼を閉じると、タケルの瞳と声が浮かび上がる。
「僕のことは、君だけが知っていればいい」
「怖いのに、君は逃げないんだね」
囁きが何度も反響し、耳の奥をくすぐる。
炉口に触れたときの冷たさが、まだ指先に残っている気がした。
背中には、あの煤の匂いと、夕暮れの風の冷たさが張りついていた。
布団をかぶっても眠れない。
まぶたの裏の闇の中で、私は何度も彼の声を追いかけた。
──そのとき、窓の外で風が鳴った。
木の葉がざわめき、月明かりが障子に揺れた。
ほんの一瞬、障子に人影のような影が浮かんだ気がして、私は息を呑んだ。
鼓動はさらに早まり、思わず布団を抱きしめる。
もう何もいないと分かっていても、眠りは遠のいていくばかりだった。
【第3章:兆し】
タケルと過ごす放課後が、私にとって何よりも待ち遠しいものになっていた。
けれど同時に、奇妙なことが学校のあちこちで起こり始めた。
昼休み、廊下の窓辺に立つと、校庭の向こうに人影が見えた。
プール脇のフェンスに凭れているように見えたが、瞬きをすると消えていた。
誰もそこにはいない。
「さっき、そこに……」
友達に言いかけて、言葉を飲み込む。
喉が固まって声にならない。
まるでタケルとの秘密を守らされているかのように。
その日の夜。
布団に入ると、耳の奥で微かな囁きが響いた。
「……ひとりじゃないよ」
はっとして起き上がると、窓の外で木の影が揺れた。
月明かりに映る障子の模様が、一瞬、人の輪郭を描いたように見えた。
風が吹いただけ──そう思おうとしても、鼓動は早まるばかりだった。
数日後、村では夏祭りの準備が始まった。
校庭に太鼓が運び込まれ、櫓が組まれていく。
その景色を見つめながら、私はふとタケルの言葉を思い出した。
「……あそこは暗くて、狭くて、冷たい」
指差していた不動岩。
その奥で泣いているものは、本当に鬼なのか、それとも……。
祭りの夜。
笛と太鼓のお囃子が鳴り響く中、社殿では神主たちが白装束で松明を掲げていた。
「決して不動の方を見るな」──子どもたちはそう教えられ、踊りの輪に組み込まれた。
だが私は、胸の奥で抗えない衝動を覚えた。
──あの闇の奥に、タケルがいる。
そう思わずにはいられなかった。
そのとき、笛の音がふっと途切れた。
太鼓の間から、湿った嗚咽のような声が混じった。
耳を塞いでも消えないその声に、私は全身を強張らせた。
「……ヒロミ」
囁きは、確かに私の名を呼んでいた。
あの焼却炉の奥で聞いた声と同じだった。
夏の夜の熱気に混じって、冷たいものが背筋を伝う。
タケルは私の特別な秘密であるはずなのに、その声は確実に日常を侵食し始めていた。
恋のときめきと恐怖の影が、ひとつに溶け合って胸の中で脈打つ。
【第4章:別れ】★
八月の終わり、夏休みも残りわずかになったころ。
タケルは、炉口に立つ私をじっと見つめていた。
その瞳は、これまでよりも深く、冷たく揺れていた。
「──もう、戻らなきゃならない」
声は、煤の奥からではなく、不動岩の裂け目から響くように聞こえた。
背筋を冷たいものが走る。
「どうして? まだ一緒に……」
言葉が震え、涙が込み上げる。
「長くここにいると、封じが揺らぐんだ」
「僕の声は、鬼の泣き声と重なってしまう」
かすかな嗚咽のような声が、炉口と山の方角から同時に響いた。
私の耳の奥で二重に反響し、心臓を締めつける。
その夜、祭りの祈祷が最高潮に達した。
社殿の奥で、神主たちが松明を掲げ、低く古い言葉を唱えている。
「──不動の岩、鎮まりたまえ。
泣きて出ずるものよ、再び田畑を荒らすな。
われら子らを奪うな」
真顔のまま繰り返される祝詞。
火の粉が闇に散り、太鼓が地を揺らす。
その響きの合間に、確かに“誰かのすすり泣き”が混じっていた。
神主のひとりが小声で呟く。
「……まだ若い声だな。あの子は、完全には鬼になりきれなんだ」
「ゆえにこそ、厄介なのだ。人と鬼のはざまは、村に災いを招く」
その囁きは子どもたちには届かず、
ただ踊りに組み込まれたヒロミの胸の奥で、不思議に共鳴していた。
私は輪を抜けて駆け出した。
焼却炉の前にたどり着き、闇に手を伸ばす。
「行かないで! 私をひとりにしないで!」
その瞬間、炉の奥から冷たい風が吹き出した。
煤と灰が舞い上がり、指先に触れたものはもう、あの柔らかな指ではなかった。
硬く、冷たく、岩のような感触。
「──ありがとう」
最後の囁きは、耳元で、けれど遠くから響いた。
気づけば炉口は静まり返り、ただ夕暮れの影が落ちているだけだった。
翌日から、焼却炉の中には誰もいなかった。
どれだけ覗いても、声はもう返ってこなかった。
だが、祭りの後もなお、大人たちは社殿で祝詞を続けていたという。
「鬼は泣く。泣き声はやがて恋の声に変わる。
そのとき封じを緩めるのは、人の心ぞ──」
村に古くから伝わるその言葉を、私は後年になって耳にした。
あの夏、私の恋は、鬼を呼び覚ますほどのものだったのかもしれない。
タケルは消えた。
私の恋は、あの岩の奥に封じられたまま、二度と戻ることはなかった。
【第5章:余韻】
校舎の取り壊しは、あまりに唐突だった。
理由は老朽化と危険性。誰もが納得する理屈だったが、心の奥では誰もがわかっていた。あの木造校舎には、まだ 子どもたちの声が染みついていることを。
ショベルカーの鉄の腕が振り下ろされるたび、窓ガラスが砕け、梁が軋んで悲鳴をあげた。
見慣れた教室の形は崩れ、廊下の影は空へと解き放たれた。
私は金網の外からそれを見つめていた。
瓦礫となった黒板の破片が陽にきらめき、舞い上がった埃が風に散っていく。
その風の匂いは、かつての夏の午後のように甘く、苦く、胸を刺した。
──タケル。
あの焼却炉も、裏門の横の狭いスペースも、すべてが掘り返され、ならされ、跡形もなく消えていった。
けれど、私の耳には確かに残っていた。
「君、見えるの?」と呼びかけてきた声。
煤けた壁の奥で、涙のような笑みを浮かべていた横顔。
取り壊しが終わると、そこにはただ広すぎる空き地が残った。
風が吹き抜けるたびに、草の芽がざわめき、砂埃が踊る。
誰もいないはずのその場所で──、私はふと立ち止まる。
耳元で、確かに声がした。
「ヒロミ」
あの時と同じ、震えるほど澄んだ声。
振り返っても、誰もいない。
ただ夏の風が頬を撫で、夕陽が長い影を私の背に伸ばす。
私はそっと目を閉じた。
タケルの瞳は、鬼の封印とつながる深淵そのものだった。
だが、その奥にあったものは恐怖だけではない。
友情と恋心が、確かにあった。
それは今も私の胸の奥で、消えぬ灯火のように揺れている。
──校舎はなくなっても、記憶は消えない。
風が吹くかぎり、声はまた蘇る。
静かな空き地に立ち尽くしながら、私はそう確信していた。
【エピローグ(今へのメッセージ)】
還暦を迎えた私は、あの場所を再び訪れていた。
校舎はとうになく、空き地には新しい住宅が並び、子どもたちの笑い声が響いていた。
だが、風は変わらない。
夏の名残を運び、草の匂いを混ぜ、耳の奥に遠い声を忍ばせる。
──ヒロミ。
胸が静かに疼く。
それは記憶か、幻か。
けれど私は微笑んだ。
声が風に重なるたびに、タケルとの日々は「恐怖」ではなく「贈り物」へと姿を変えていくのだから。
人は忘れる。
建物は壊れる。
しかし、心に触れた声と、あの夕暮れの色は、決して消えない。
読者への手紙
ここまで読んでくださったあなたへ。
もしかしたらあなたにも、心に残る声や景色があるかもしれません。
忘れようとしても忘れられないもの、怖さと同時に温かさを与えてくれるもの。
それはきっと、あなたを支える“風”となって、これからも背中を押し続けるでしょう。
この物語がそうであったように──
あなたの歩む道にも、友情と恋心と、そして恐れを超えた確かな希望が待っています。
だからどうか、顔を上げて。
風の音を聴いて。
その先にある“あなた自身の物語”を信じて。
私は空き地の真ん中で、深く息を吸った。
夕陽が影を長く伸ばし、風が頬を撫でる。
その瞬間、確かに聞こえた。
──ありがとう。
声は風に溶け、空へと消えていった。
けれど胸の奥で、永遠に灯火のように揺れている。
そうして物語は終わり、そして今を生きるあなたへと受け継がれる。