溺れる水精たち_⑦
「別に俺、女装が楽しみだったわけじゃないからね?捕物ごっこが楽しみだったんだからねッ」
「その格好で言われても。いつまで着てんの」
サイレンの音とともに走り去るパトカーを見送った。今回は龍馬くん主催の外食は無理そうだ。伸びをする大紫兄につられ、腕を目一杯真上に伸ばす。
雲はすべて雨に洗われ、空は真っ暗。にも関わらず、街頭のせいで星はあまり見えない。
「…アトリエに鍵があったら」
「ん?」
「アトリエに鍵があったら、水無月は生きてたかも知れない?」
視界の端で、大紫兄の目がほんの少し見開かれた。何故そんなことが気になるのかは、自分でもわからない。
「…どうだろうね。粟野が先に警察に捕まれば助かったかも知れないし、そうはならずに別の場面を狙われたかも知れない。過程を踏んで出来上がった殺意もあれば、単純で身勝手な殺意もある。…後者なら防ぎようがないよ。理不尽だけどね」
「…うん」
取り敢えず相槌を打った。やたらと喉が乾いている。隣から伸びた手が、ぐしゃぐしゃと私の頭をかき回した。いつもなら抵抗するところだ。今日はもう疲れた。
「人の中で生きてる以上、ずっと幸せでいるのは難しいよ。でも、だからこそ誰かと一緒にいようとするんじゃないかな。矛盾してるけど、それで得た幸せは強固だと思う。ひとつくらいは確約された幸せがあったらいいよね」
「…そうだね」
呟くと頭から手が離れた。ぼさぼさになった私の髪を直しながら、大紫兄が微笑む。
「テイクアウトにしようか。何がいい?」
「お寿司。着替えは?」
「いけるでしょ。俺かわいいし」
「いけるけど」
「じゃ決まりだ」
スカートのまま運転席に腰掛ける大紫兄。シートベルトを着けながら辺りを見回した。もう誰もいないが、真っ暗な路地がかえって落ち着く。そういえば、と隣に目をやった。
「龍馬くんたちは何食べるのかな」
「カツ丼じゃない?」と、返ってきたのはありきたりな答え。薄暗い部屋でカツ丼をがっつく警察と容疑者を想像すると、少し笑いが込み上げた。ありきたりすぎて、むしろなさそう。そもそも一緒に食べないだろうし。
「ほんとにカツ丼が出る取調室なんてあるの?」
「あったら贅沢だなぁって思う」
肩をすくめて笑いながら、大紫兄がギアを入れる。私たちを乗せた小さな車は、夕食を求めて軽快な走り出しで街へと繰り出した。
事件から一週間。生前の水無月の意向により、アトリエは富澤に譲られた。富澤は何よりも先にアトリエに鍵を設置したらしい。美術品を多数保管しているのだから…というよりあの建物の壁一枚が美術品なのだから、それが賢明だと思う。
水無月の死は美術界に大きな驚きと悲しみをもたらした。しかしそれらの衝撃も、富澤という新しい水精によってじきに薄れていくのだろう。
「え!何これ」
玄関で郵便物を受け取った大紫兄が、送り主を見て驚きの声を上げた。ソファーに腰掛ける私の目の前には山盛りのみかん。ひとつ取って、報酬で買ったこたつに足を突っ込んだ。冬のリビングはこうでなくっちゃ。
「爆弾でも届いた?」
「そうなったらもっと焦ってるよ」
嬉々として大きな箱をリビングに持って来る大紫兄。不審物の存在がそんなに嬉しいか。取り敢えず、剥こうとしたみかんを机に置いた。
「不審物じゃないってば。富澤から送られてきたんだよ」
箱を開け、取り出したのは大きめの額縁。一枚の絵が入っている。描かれているのは碧い海の上を飛ぶオオムラサキ。富澤らしい、壮大ながら繊細なタッチだ。大紫兄が添えられていた手紙を開ける。
「今回のお礼だってさ。どこに飾ろうね」
「絵ってどこに飾るものなんだろ。鍵付きの安全な所がいいな」
「うちはどこも安全だよ。事務所とリビングどっちがいい?」
「事務所」
「だね」
絵を持ってリビングを出る。ドアを閉める直前、机に置いていたタブレットから通知音が聞こえた。
新しい依頼が来たようだ。




