溺れる水精たち_①
大きな洋館の外れにある、小屋のような建物。鍵のついていないドアを開けると、出迎えたのは壁一面の大きな水槽だった。床の上には絵の具やキャンバス。壁際には水道がある。
ここがアトリエか。
「見て碧波。でっかい壁画」
「見てる。…あ、壁画か」
手袋をはめながら、隣の朝賀大紫も壁を見上げる。一面青々としながらも透き通った水で満たされている壁には、シュモクザメやら鱗を光らせた鰯の群れやらが悠々と泳いでいた。
「さすがは『水精の画家』だね。水そのものだ」
すたすたと近付いていき、手のひらで表面をぺちぺち叩く大紫兄。私よりは常識人なくせに、気になるものは容赦なく『調べる』のだ。ゴミ箱に顔突っ込むくらいならいいとして、仮にも美術品だぞ。
「何ぶつぶつ言ってるの。碧波も来なよ、気になるんでしょ」
「…気になる」
二人して壁画に貼り付き、質感がああだとか色合いがどうだとか素人の感想を述べ合う。吸い込まれるような深い青色が綺麗だ。この距離で見ないと、とても絵とは思えない。間近で見る芸術がこんなにも壮大だとは…
「朝賀さんに深月さん…何してらっしゃるんですか?」
振り向くと、この上ない戸惑い顔で首を傾げる小太りの刑事が一人。大紫兄が陽気に手招きをする。
「小園くんも見た?すごい絵だよこれ、水族館かと思っちゃうな」
「仮にも美術品ですよ…」
至極まともなツッコミを入れつつ、どこか決まり悪そうな様子を見せる小園くん。ニヤニヤしながら、大紫兄が小園くんの後ろを指差す。
「龍馬もやったんだろ」
「当たり前だ。折角の機会だぞ」
部屋に入ってきた遼山龍馬は、悪びれる素振りもなく小園くんの肩に手を置いた。
「小園も見て来い。俺の現場じゃないとできないぞ?遠慮するな、ほら手袋はめて行け」
小園くんのポケットから出した手袋をぴらぴら振る龍馬くん。悪魔…もとい警視の囁きに、小園くんは負けてしまったらしい。大きく頷くと、龍馬くんから受け取った手袋をいそいそはめ出した。
「小園、行きまぁぁす!」
「行って来い行って来い」
一目散に駆けていく小園くんを見送り、龍馬くんが床に目をやった。白いテープが作っているのは、大の字になった人の形。壁画に続く床アートなわけではない。
今朝八時十分頃、ここには一人の男性が倒れていた。
男性の名前は水無月千斗。背景のない、キャンバスいっぱいに水を満たしたような画風が特徴である。ムラのない繊細な色遣いと光沢の表現に長けており、まるで本物のような水の絵を自在に生み出す様から、ついた二つ名は『水精の画家』。
四十路を迎えるとともに弟子を一人受け入れ、自らも腕を極めんとした日々は、二年経った今朝強制的に幕を下ろしたのである。
「第一発見者は弟子の富澤春奈。師匠に作品を見て貰うため、このアトリエに来たところ…水無月がこの絵の傍に倒れていた」
龍馬くんが目線を移す。傍には木製の、キャンバスを置くやつ…名前なんだっけ?そこには一枚のキャンバスが立て掛けられており、透明の水でいっぱいに満たしたような絵が描かれている。こういう絵を描くには薄緑を使うのか。私には描けないけど。大紫兄が裏返すと、鉛筆で『湧き水 M・Sento』の文字が。
「水彩画がメインの画家なんだよな。これ本当に水無月の絵?」
「だろうな。未発表の作品だが、展示や売りに出ている他の作品に書かれたものと、筆跡は完全に一致している」
腕を組んだ龍馬くんが腕時計を見た。現時刻は十時。心肺停止状態で救急車に乗せられた水無月は、ついさっき搬送先の病院で死亡が確認された。
「死亡推定時刻もまだ出てないんだよね?」
「もうすぐ司法解剖が行われるだろうな。俺たちが取り掛かるべきは…」
「これだな」
大紫兄の手にはタブレット。二つの記事をスクラップした画像を出した。作業が細かいな。
記事の内容はどちらも、この一ヶ月以内に起こった殺人事件だ。歴史画を中心に描いていた画家が本人の所蔵する刀でざっくり斬られていた事件と、植物の絵を得意とする画家の絞死体が花壇の上で発見された事件。そして、今回の水無月の変死体。
「死因がわからない以上、何とも言えないが…」
「自然死とは到底思えない。…ちょっと碧波、これ持ってて」
タブレットを手放し、次に大紫兄が取り出したひみつ道具はペンライト。と言ってもコンサート用のではなく、医者が使うようなペン型のライトである。
「何するの?」
「小園くんの足元の壁が浮いてる」
それだけ言うと、壁画の方へ歩を進める大紫兄。小園くんの横に膝をつき、壁を撫で始めた。血の気が引いた小園くんが、わなわなと震える。
「…僕、もしかして壊しちゃいましたか?」
「どうだろね」
「龍馬さ…」
「俺は知らん」
「薄情!」
「『折角だから見て来い』とは言ったが『責任を取る』とは言ってない。大事に扱えよ、仮にも美術品だぞ」
「龍馬さんには言われたくありませんッ!」
言い合う二人を横目に、大紫兄の隣に屈む。ライトに照らされた壁画の表面は、不自然に四角く浮いていた。浮いていると言っても一ミリもないくらい。これは普通に見るんじゃ気付かないな。
「遠目からよくわかったね」
「遠目だからこそかもね。上ばっかり目が行って気にしないし…これ、どう見る?」
「足元すぎて見てなかったけど、元からこういうものなんじゃない?絵自体に割れも傷も無いし、大きさ的にも引き出しって感じに見える」
「俺も同じ意見だ。じゃ開けちゃうか」
壁画は建物の壁に直接描かれているわけではなく、絵を描くために厚さ五センチほどの板が貼られているようだ。大紫兄は浮き上がった部分の底面を探り、指を掛けると手前に引いた。壁の一角はスムーズに引き出され、三十センチほどでコツンと止まった。完全に引き出しだ。ただの壁画じゃなかったらしい。
「小園くん、朗報だよ〜」
「そんなとこ開くんですか⁉良かった、僕が壊したんじゃないんですねッ」
「通帳と認印が入ってる。水無月の名前だよ」
中身を取り出し、龍馬くんに見せる。自分の作品を金庫にしていたというのか。お洒落だが防犯面では心配だな。まぁ壁画が開くなんて誰も思わないし、絶好の隠し場所なのかも知れないけど。
引き出しを閉めると、ぴったりと壁画の表面に溶け込んだ。切り出された線も全く気にならない。これでは誰も収納の存在には気付かないだろう。
「この辺は後で富澤春奈に聞いてみるか。事情聴取、同席するだろ」
「いいのか」
「同じことを何度も聞くよりいいだろ。通報と依頼、同時だったそうだしな」
まだ死因も不明な段階で私たちが現場にいるのには理由がある。第一発見者の富澤春奈、警察を呼ぶと同時にうちの事務所にも依頼をしたのだ。
なんでも、先日の事件で知り合った新人作家である伊瀬克己の二作目の表紙を描いたのが富澤で、伊瀬から私たちの話が伝わっていたとか。一応まだ事件かどうかもわからないのに、警察と一緒に呼ぶのは早くないか?さては探偵の存在を面白がってるな…というぼやきは置いておいて。
「今のうちに現場見ておこうか。この前みたいに氷が溶けちゃうかも知れないからね。早く見るに限る」
「もう真冬だよ。溶けない溶けない」
「例えですッ。時間が経ったら証拠が消えちゃうかもだろ」
「現場にも賞味期限があるってことだな。隅々まで調べるか。出した家財は元の位置に戻せ。現場保存が俺のポリシーだからな」
「保存になってるのかなそれ…」




