デッドロック_①
会社から出た足で公園に向かった。ベンチに腰を下ろし、しばらくぼうっとする。時刻は午後十一時。公園に子どもの姿はなく、時折犬の散歩をする人が通るだけだ。よれたスーツの襟に汗が染みるのが、なんとも気持ち悪い。
夏が始まりつつある六月の終わり。俺─朝賀大紫は今日、入社してまだ三年しか経っていない会社を解雇された。勤務に問題があったわけではなく、経営難によって起こったひずみに巻き込まれたのである。勤務年数だけが長い上司たちに振り回され、何十時間と残業を強いられた職場。そんな場所でも仕事内容には満足しているからと辞めなかった。実際、それなりに会社の戦力になっていた。それなのに、こんなに呆気なく切り捨てられてしまうものなのか。もはや涙もでないほど俺は呆然としていた。
上京しているため家に帰っても一人。実家になんて惨めすぎて帰れない。あと何ヶ月、収入なしで暮らせるだろう。あんなに就活が大変だったのに、また仕事を探さなくてはならないのか。そもそもこの先、自分は生きていけるのだろうか。何より…こうなるのがわかっていたら、調子に乗って車買ったりしなかったのに。
「しばらくは主食、もやしかな…」
思いつく限りのもやし料理を挙げてみる。もやしのバター炒め、もやしの味噌汁、もやしのナムル。うんうん、結構いけそうだ。あれ、でも調味料を買えなくなったら?茹でもやし、焼きもやし…おいしいのか、それ?じゃあガスが止まったら生もやしか?
「バイト…バイト探さないと…」
「あれ、大紫兄」
声がした方を見て、俺は慌てて背筋を伸ばした。
前髪のない長めのボブヘアに、ぱっちりした猫目。ブラウスとスラックスを着込んだ姿が暑苦しい(人のこと言えないけど)。
「碧波?今帰り?」
「そっちこそ、今帰り?八時出勤って言ってなかった?うわぁ、なんか社畜みたい…」
「社畜なの。人のこと言えないだろ」
深月碧波は四つ年下の幼馴染。高卒で俺と同じ会社の勤めになった同期でもある。仕事はかなりできる方で、事業の企画なんかでも重要な位置にいる。…のだが、そんな彼女には変な一面があった。
「顔色悪いしクマも目立つ。着てるシャツにアイロンをかける余裕もない、つまり家にいる時間が極端に少ないか家に帰ってから細かい家事をする気力がない状態。仕事の場面でだけは身なりに気を遣う大紫兄の性格と変な時間にここにいることからして、考えられるのは両者とも。ちゃんとみなし超過分貰ってる?お金貰えればいいってものでもないけど」
「……」
「お。当たってた?」
「当たってる。当たってるけど…そうだよ当たってるよ」
顔の疲れには自分でも気付けていなかった。相当きてたのか。指摘してくれるのはありがたいけど、シャツがしわしわとか言われるの結構恥ずかしいぞ。
「あんまり勿体ぶることでもないけどね。頭ぼさぼさでシャツよれよれだったら、誰でも疲れてると思うって」
「えぇ、頭も…?まぁひどいんだな、俺の見た目」
「早く帰って寝なよ。ここ、ちょっと暑すぎるし」
小さい手に握られたハンディファンの風量が一段階上がる。自分の背中を汗がつたうのがわかった。
「碧波は、このあとどうするの」
「何もしないよ。…今日、会社辞めたの」
「……そっか」
ベンチの半分を譲ると、碧波はすとんと腰を下ろした。そのまま持っていた買い物袋を渡してくる。
「ん?何、これ」
「塩おにぎりだと思って買ったら鮭だったんだよね。ご飯まだだったら食べて」
袋を覗くと、おにぎりが一つ。パッケージには大きく『鮭』の文字。びちびちと踊る魚の絵が描いてある。
「食べたらいいのに…折角買ったんじゃないの?」
「薄味が好みだからねぇ」
隣に座る碧波に目をやる。…反撃してみようか。
「顔が白い。メイクで血色を出そうとしてるけど、目の粘膜の白さと表情の強張りは誤魔化しようがないね。ベンチに座る直前、少しふらついた。出社するときはいつもパンプスを履いているのに今日はペタ靴。普段通りに振舞っているつもりみたいだけど、声に気力がない。できるだけ軽い食事をとろうと買い物をしたものの、商品ラベルに書かれている文字が目に入らないほど注意力が低下している。貧血は放っておかない方がいいよ。…また眠れてないの」
答えはない。図星かどうかの確認は、緩く上がった口角を見れば十分だった。
「…帰るよ」
立ち上がった俺を碧波が見上げる。こっちを見ているのか見ていないのかわからないような、無気力な視線。
「おー。ばいばい」
「碧波も来るの!今日なんも食べないつもりだろ」
「大紫兄の家?わ、行く行く~」
「軽ッ⁉いつか変な奴に攫われるって…」
あっさりとついてきた碧波を部屋に入れ、雑炊を作る。はむはむ言いながらスプーンを口に運ぶ碧波を見て、苦笑がこみ上げた。なんだかんだ空腹ではないか。
「仕事辞めた後はどうするの?…実家帰る?」
「絶対嫌。色々言われるの、わかってるもん」
碧波が肩をすくめながら空になった器を置く。
「結局は自己都合退職だし、私もあれの関係者だし、人に話せるような出来事でもないしね」
「…そうだね」
「大紫兄は?仕事どうなってるの」
大紫が一瞬顔を歪めたのを見て、碧波は首を振った。
「あ、無理に言わなくても」
「いや。俺も辞めたよ。厳しかったみたい」
「あ、……そう。ごめん」
顔を強張らせた碧波の器に雑炊を注ぎながら、また苦い笑みがこぼれた。そこまで気を遣わせるつもりではなかったのだけど。
「謝ることないって。碧波の後始末がなかったらもっと早くに破産してたらしいし。それに、碧波は何もしていない。違う?」
「……違わない。たぶん」
「だから気にしなくていいの。もっと食べな」
沈黙が少し続いた。雑炊をつつきながらそれぞれ物思いに耽っていた中、碧波が口を開いた。
「自営業、しようと思う」
「自営業?」
「今、すごく自由な状態でしょ。実家にさえ帰らなかったら、何しても否定されない。…やってみたかった仕事があるの。たぶん、大紫兄も興味あること」
微かに笑みがこみ上げた。今度のは苦くない、純粋なやつだ。仕事をなくした虚無感を、楽しみが上回り始めている。
「わかった。…探偵業だ」
碧波と俺は、ミステリ小説が好きだった。社会人になる前は互いに作品を薦め合ったり、道行く人の持ち物や表情を観察して遊んだりしたものだ。上手くいけば、ちゃんと仕事になるかも。上手くいかなくても、就活よりこっちの方が断然魅力的だ。
「今の家、もう出ていくつもりなんだけど」
「それでいいと思う。自宅兼事務所になる所、どこかに借りて」
「いくつか探してみたよ。どこがいいと思う?」
それまでの空気が一転し、部屋が活気づく。仕事をなくしたその日、俺は大袈裟でなく生きる希望を見つけていた。
それから、少しの安心感を。
数週間のうちに、事務所兼二人の自宅は構えられた。入り組んだ住宅地に見つけた一軒家は、下見の際に迷子になったり家具の搬入を頼んだ業者がたどり着けなかったりと少々厄介な立地にある。建物の見た目が気に入ったのだが、もうちょっと他のことにもこだわった方が良かったかも知れない。そんなこんなで事務所は設立された。インターホンの上に設置された看板を見て、幾度目かの満足感に浸る。
「まだニヤニヤしてんの」
「するだろ。見てよこれ、『探偵事務所 Deadlock』。いかにもって感じ」
「……うふ」
「ほら、ニヤニヤした」
デッドロック。コンピュータシステム上の、情報処理の行き詰まりを表す言葉だ。
探偵に事件を依頼するとき、依頼人は大抵その事件の解決に行き詰まっている。それを解決するのが探偵の役割であり、存在意義でもある。
依頼そのものを表す行き詰まり。
仕事をなくした俺たちの現状を表す行き詰まり。
やや自虐めいてもいるが、俺たちにぴったりだ。
「見てこれ、ホームページ作ってみたの」
「どんなの?」
碧波のノートパソコンを覗き込む。そこには、見やすいフォントでこう書かれていた。
探偵事務所 Deadlock
そのデッドロック、解除します。
人探しや事件解決など、私たちにご依頼ください。
行き詰まった案件は、ぜひこちらへ。
「おぉ、いい!」
「でしょ~。依頼来るかな、っと」
サイトに依頼のメールが届いたのは、碧波の指がエンターキーを叩いた僅か数分後のことだった。