与志古郎女の思惑
ふと気がつくと、最近お爺さんの影が薄い……。
水無月、太陽暦では夏至を過ぎて7月です。
讃岐が農業試験場兼、お偉い様の離宮となって一ヶ月ほど経ちました。
そして私がこの世界に来て二年が経ちました。でも気分的には五年以上経った気がするのは、ネタまみれの生活ばかり送ってきたせいでしょうか?
飛鳥時代って娯楽も刺激も何もない退屈な時代のはずなのに……。
私は平穏無事な毎日を送りたいだけなのに……。
託児所状態で賑やかだった我が家は、御主人クンと物部宇麻乃様が帰った以外殆ど変わりがありません。
麻呂クンは宇麻乃様に付いて行くとギャン泣きしてゴネました。
ですが、行き先の難波宮が遠いのと、讃岐に滞在して真人クンと一緒に居るよう鎌足様から口添えがあったようです。
物部パパにしても中臣氏のご嫡男の幼馴染ポジションゲットできる恰好の機会ですから断るという選択肢はありません。
私としては将来求婚者になる可能性のある麻呂クンとは距離を取りたいのですが、大好きな父親に置いてけぼりを食らわされた彼を邪険に扱えないし、少し困っています。
そんな時は真人クンに丸投げしますけどね。
真人クンはと言うと、ここを動く気配が微塵も見られず、昨年ここへ避難した衣通姫みたいな状態です。ここが本拠地みたいになっています。
そんなある日、与志古様がいらっしゃいました。
◇◇◇◇◇
「こちらに来てひと月経つのに、まともにお話しするのが今になってしまってごめんなさいね」
相変わらずお綺麗な方です。
現代に生まれていたら、ショートカットヘアがよく似合う意識高い系なバリバリのキャリアウーマンになっていただろうと想像してしまいます。
「いえ、こちらこそご挨拶が出来ず申し訳ございませんでした」
正直言って、即位前の帝の夫人だった与志古様が中臣様の奥様になられた経緯もよく分からないし、野次馬根性丸出しで根掘り葉掘り聞くのはテレビ番組ですら苦手でした。
なのでどうしても足が遠のいてしまっていたのです。
「ふふふ、かぐやさんは聡い方ですので、きっと私達に何を言って良いのか分からなかったのでしょう?」
ギクリ!
「気を使わせてしまって、本当にごめんなさいね。
でも、それほど落ち込んでも、気にもしてないのよ。帝や皇子の嬪や采女が下賜されるのはそれほど珍しいことではないの。まして鎌足様は出自が新興氏族であるので、帝との強い繋がりを示すためにもその必要があったの」
「そう……なんですか」
この時代の倫理観というものは今ひとつ理解できないので頭がついていけません。
本当にそれでいいのか?と。
「それに昨年。ここに来た時、鎌足様とお話をする機会があったでしょ?
鎌足様に決して悪い印象は無いのよ」
「つまり良い印象もなかったと?」
すると与志古様は大きな声で笑い出しました。
「あははははははは。まったく貴女は子供っぽくないですね。まるで同じ歳の采女達とお喋りしているみたい」
ごめんなさい。中身アラサーなので。
「そうね。高官としては優秀なのだけど、女に対してはまるでなっていない方ね。歌は詠わないし、女子を子供を産む道具くらいにしか思っていないし、頭の中はいつも政のことばかり。貴女の舞を観て感動していた鎌足様はきっと別の人だったと思うわ」
いえ、ぶっちゃけられても肯定し難いですから。
「私にとって中臣様は怖い方だと思っております。女であるとか、子供であるとか、そんなことは関係無しに、私の存在が災いであると判断されたら、命すら無いだろうと思います。その様な恐れ多い方を男性として見ることは、私には出来ません」
「鎌足様って冷酷に人を切り捨てそうな印象を持たれているし、合わない方や使えない人を遠ざけるのは珍しくないみたいね。だけど去年、あれだけの神がかりな舞を披露した貴女をどうにかしようなんて考えるかしら?」
「空が光った程度では夜道が明るくて歩き易いくらいにしか役に立ちません。中臣様が考える『役に立つ』というのはもっと違う物であると思います。そうなければあっさりと切り捨てられるのではないでしょうか?
いえ、私は切り捨てられて、相手にされない方が気楽で宜しいのですが……」
「率直に言って、鎌足様は貴女を切り捨てるなんて微塵も考えていないでしょう。私だって、後宮に居たのなら貴女を部下に欲しいと思います。この短い会話だけでもそう思うわ。
それにね、私たちがここに留まる理由が貴女なのです。」
「ほえっ?」
いけない、いけない。意外過ぎて舌と唇が上手く動きません。
「私? ですか?」
「貴女、本当に思い至ってなかったの?
他に理由なんて見当たる?」
「いえ……以前、『息子ができたら求婚させる』とは言われましたが、本気ではないと思ってました。それに真人様とは仲良くさせて頂いておりますが、まだ四つですよ」
「それを言ったら貴女はまだ九つではないの?
それにね、鎌足様は貴女が倉梯様の御嫡男と仲良さげだと聞い及んで焦っているのかもね。ふふふふ」
「それこそ、とんでも御座いません!
倉梯様は私のような口煩い女子を煙たがっておいでのハズです。凹ませた覚えは山ほど御座いますが、仲良さげだった事は御座いません!」
私のこつこつと丁寧に御主人クンのプライドを叩き潰してきた成果を否定されては溜まりません。
つい声が大きくなってしまいました。
「貴女……本当に気付いてませんの?
一月前の歌合わせで倉梯様の御嫡男が詠われた歌。あれは貴女の事を詠っていたの、分かってませんでしたの?」
「ほえっ?」
本日二度目のほえっ? です。
うそうそうそ、なんで?
あんなに御主人クンのプライドをゴリゴリ粉々に粉砕したはずなのに、あれじゃ足りなかったの?
ひょっとして御主人クンは叩かれて貶されて虐められて悦ぶタイプ?
ドMってジャンル?
どうしましょ。
守備範囲じゃないし。
私が本気で困惑している様子を見た与志古様はまたまた大笑いします。
「あはははははははは……」
大笑いした与志古様は笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いて話を続けます。
「ごめんなさいね。大人顔負けの聡明な貴女が男女の機微に関しては年相応どころか真人並なんて可笑しくて。でも安心したわ。真人にも勝機があるって分かりましたから」
「勝機、ですか?」
「ええ。私はいずれ鎌足様の子を産みます。産まなければならないのです。
鎌足様もそう思っています。帝の命で下賜された女がお手付きもしていないなんて思われる訳には参りませんもの。男の子が生まれたらその子が鎌足様の本当の嫡男でしょう。
だけど鎌足様の血を引かない真人はどうなるのか?
それを考えると例えコマ扱いにせよ讃岐へ婿として入れれば少なくとも消されることは無いわ」
「消されるだなんて。そんな!」
「別に珍しいことではないの。もし真人が皇子のままでしたら、それこそ成人を迎えられなかったと思うわ。この十年で親王や王は少なくとも五人は不慮の死を遂げているの。全部が全部、謀とは言いませんが、明らかに政敵に殺された親王はいます」
確かにその通りです。この時代では命はとても軽い。
でも……。
「その様に言われてしまっては、見放すことも出来ないではありませんか」
「そう、その通りよ。貴女はとても優しい娘ですので、それに縋りたいと言うのが本音。だからと言って真人が嫌がることは押し付けないし、貴女にとって真人が相応しい男性でないのなら諦めるつもりです。
中臣の力を以ってしても、倉梯様や皇子様には勝てませんから」
さすが、飛鳥時代のキャリアウーマン。
片や、こちらは令和のいち事務員。敵いっこありません。
「私も真人様には生きて欲しいと思っています。
しかし同じ生きるのであっても、囚われの身で生きながらえるのと、自分がやりたい事目指したい物があるとではまるっきり違います。私は真人様に本当の意味で生きて欲しいと願います。」
「貴女って本当に変わった子なのね。見方によって真人は面倒ごとなのに、その様な心配をするなんて……」
「先日、真人様は国博士の高向様の様になりたいと仰ってました。
私は目標を持って毎進する男性を好ましく思います。もし私の伴侶に、とお考えならば真人様にはその目標を見失わせないであげて下さい。
お願いします」
私の頭を下げてのお願いにヨシコ様はポカンと口を開けて、驚いています。
少しして、いつものキリッとした与志古様に戻り、こう答えたのです。
「あの子がそんな事を……。貴女は本当に優しい娘ね。
後宮を去った萬田郎女が再会した時に驚くほど活き活きしていましたが、何故なのかよく分かった様な気がします。
精一杯やって見るわ。真人には貴女が他の男性を見向きもしないくらい素敵な男性になってもらうから、貴女も覚悟してなさいね」
「お手柔らかにお願いします」
単なる面倒ごとだと思っていた求婚者問題が、生存を掛けたサバイバルの様相を呈してきた事に、私は今後の困難と波乱の予感を感じずにはいられませんでした。
明日からしばらく幕間に入ります。
主人公は衣通姫です。
その後のストーリーにつきましては、幕間の終わりにてご報告します。