讃岐の地の決戦・・・(3)
(※決戦の地・讃岐にて、第三者視点によるお話)
大野果安という将は毛野(※上毛野(群馬)と下毛野(栃木)を合せた地域)出身とする名家の一つであり、東国出身でありながら畿内でも優秀な人材として遇される……はずだった。
藤原鎌足の妃・与志古の実家である車持氏が東国六腹の一角である事からも察せられよう。
また、同じく東国の雄である上毛野稚子が白村江で将として出征したことからも、帝の信任が厚いと目されていた。
しかし、百済の役の後、東国の豪族達に不遇の刻が続いた。
帝となった天智帝は畿内の有力者を重用し、東国の豪族とは軋轢が生じていた。
決定的だったのは、東国の反対を押し切って庚午年籍を導入した事だった。
地方豪族の持つ徴税の既得権益を侵され、亀裂は決定的なものとなった。
そして今回の戦だ。
無能の世話に神経をすり減らし碌な援護を得られぬまま讃岐まで来てしまった。
当初、一部の暴徒が暴れたのを鎮圧するだけの楽な仕事だと思っていたが、とんだ大誤算だった。
そしてもう一つの大誤算は、敵軍勢が見せた戦術がほれぼれする代物であり、これまで果安が学んできた兵法の具体例が目の前に展開されていた事だった。
本心では勝ち目がないと思いつつ、近江軍二千を率いる将として逃げ出す訳にはいかぬ我が身の不運を呪うのであった。
しかし彼は知らない。
此度の善戦が敵の目に留まり、弾正台の長官として重用される未来が待つ事を。
◇◇◇◇◇
近江軍は各国からの援軍の到着まで、讃岐評造の屋敷に籠城する敵軍を鼠一匹として逃さず、なおかつ総攻撃を受けても押し返す体制作りに着手した。
まずは塀だ。
辺りに生い茂る竹藪から竹を調達し、束ねて立て掛けた。
変に固定すると、燃やされた時に被害が拡大するため、竹束を並べて立て掛けてあるだけだ。
敵の動向をいち早く知るための櫓も組んだ。
十年来の戦に慣れぬ兵士達は皆で知恵を寄せ合いながら、拠点作りに励むうちに数日が過ぎた。
小競り合いはあるものの、刻は自分達の味方だと信じ、いつか来るはずの援軍を待った。
そして四日目、ついに変化が訪れた。
援軍と思しき軍勢が集結しつつあると連絡が入ったのだ。
その軍勢は敵軍のような見慣れぬ恰好をしていない、”ごく普通の格好”の兵士達だ。
いよいよ、ようやく、やっと、光明が見えてきた。
果安らにとって苦難に満ちたこの戦の終結が目に前にあった。
しかし……。
集結するはずの兵士達がなかなか来ない。
いや、来ないではなく近ずかないのだ。
使いを出したが返答はない。
何処の兵なのか?
何人なのか?
首領はだれなのか?
さっぱり分からなかった。
◇◇◇◇◇
翌朝、空が明るくなると屋敷をぐるりと取り囲んだ近江軍を、更に大外を大軍が取り囲んでいた。
そして後方から声がした。
「我は当麻氏の頭首、当麻豊浜の嫡男、当麻国見也!
帝に寄生する奸臣共は、帝の勅を偽り、吉備国司・当麻広島を容赦無用で切り捨てた!
ここに逆賊を打つべく彼の地に参集した!」
果安は知らなかったが、御史大夫である紀大人は知っていた。
近隣の国司らに出兵を強要し、少しでも協力しない素振りを見せた者を切り捨てたという事を。
つい先日、河内国司が使いの手により殺されたばかりだ。
この土壇場にきて、強引なやり方が手痛い失策だった事を痛感した。
しかし、帝の血統たる当麻氏を知っていたが、これほどまで兵士を集めるほど力は無いはず。
大軍がどこからやって来たのかが、紀にとって不可思議だっだ。
すると別の場所から別の声が上がった。
またまた若い声だ。
「我は阿部倉梯氏頭首、阿部倉梯御主人也!
讃岐の地は我が第二の故郷にして、この地を踏みにじる事は我は許さぬ!
この戦、義は高市皇子にあり!」
阿部……左大臣だった阿部内麻呂殿の嫡男だったはず。
何故、阿部氏が? まさか、阿部比羅夫もか?
本来ないはずの疑心暗鬼が紀らに芽生える。
またまた別の場所から声が上がった。
「我が名は三輪子首、伊勢国司にして大神神社の祭祀也!
臣下の手による勅命に従わざるは当然の事!
さらにここ讃岐は我らにとって神聖にして侵すべからず聖地である。
聖地を守るべく、我らはここに立ち上がった!」
当てにしていた伊賀国司まで!?
紀も果安も最悪の事態が起こっている事をハッキリと感じた。
だが、最悪というにはまだ生温く、次々と名乗りが上がった。
その殆どが飛鳥一円に氏神を祀る氏上達だった。
そう。
この十年、彼らはかぐやに頼まれ役小角が募った信頼のおける同志達であり、そして奇しくも『神降しの巫女』の推し活の同志でもある。(※『伝言ゲーム・・・(3)』参照)
まだ斉明帝の采女であったかぐやが、自分の興味が赴くまま神社関係者らに調査し、高嶺の花であるはずの『神降しの巫女』の神対応に感激した熱烈な支持者を増殖させた。
十年やそこら姿を見せなくても、飛鳥京で魅せた奇跡をそう簡単に忘れられるはずが無かった。
この十年、讃岐巡礼は推し活の一環として定着していたのだ。
そして危機に瀕した聖地を守るため、かぐや推し達が集結したのだった。
少ない者でも百人、多い者もは千以上の兵を引き連れ、集まった人数は総勢一万六千。
大和(奈良県)最大のコンサートホール、奈良県文化会館・国際ホール(1313席)なんて目ではない。
そこから近鉄線に乗って30分、大阪環状線に乗り換え5分離れた大阪城ホール(16000席)を満杯にする程の戦士達が、ここ讃岐へと集結したのだった。
ここに至って反乱軍は反乱軍では無くなり、神降しの巫女への冒涜を許さぬ正義の使徒として近江軍と相対しているのだ。
大軍が全て自分達に敵対する事を知った紀は敗北を覚悟した。
しかし、近江軍の全員がそう思っている訳ではない。
伊賀は駄目でも、他の国からの援軍があるのかも知れない。
さらに多くの援軍が来れば……。
蜘蛛の糸よりもか細い頼みの綱にすがるしかなかった。
さもなければ自分の命が危ういのだ。
紀が逡巡していると、屋敷に籠城していた敵に変化が現れた。
門が開き、馬に乗った二人の将らしき男が出てきたのだ。
背中には大きな白い幟。
おそらくは敵対行動をしない事を示す印なのであろう。
その男は真っ直ぐこちらへとカッポカッポと馬を軽やかに弾ませて近づいてきた。
「我が名は大伴吹負。
大伴氏氏上・大伴馬来田の弟にして、先の左大臣・大伴長徳に連なる者なり。
我が主、高市皇子に代わり話し合いを望む!」
これまで謎だった、敵の将が初めて名乗りを上げた。
まさか大伴の者だったとは……。
しかしこの状況で自分には拒否権がない事は明らかだ。
すぐさま会談の場を設けた。
◇◇◇◇◇
簡易的な陣に床几が並べられ、代表者がずらりと並んだ。
本来であれば最も位の高いはずの紀大人はすこぶる肩身が狭い。
心の底では自分が敗軍の将である事を自覚しているのであろう。
それに引き換え、鎧に身を包んだ大伴吹負は威風堂々と床几に腰かけ、まるで戦国武将のような風貌であった。
この場で一番強い立場にある事は誰に目にも明らかであった。
「まずは其方たちの目的を知りたい」
分かってはいるが、話を滞りなく進めるため、紀は吹負に語り掛けた。
「我が主、高市皇子は、今の近江朝の大臣達が帝を蔑ろにしている事を憂いている。
皇子様は大臣らの排斥を目指し立ち上がった。
我々は皇子様の志を尊び、行動を同じくしたのだ」
「つまりは我々の処分か?」
「然り。
とりわけ太政大臣、左大臣、右大臣の専横は許し難きものがある」
「それにより高市皇子は何を得ようとしているのだ?」
「政を正す。それ以外に何も求めていない。
それは今から二十七年前、乙巳の年(※西暦645年)に若き日の親王であった天智帝が目指したものと同じだ」
「では帝を廃するつもりは無いのか?」
「我々は帝位の簒奪を企む逆賊ではない。
心は常に帝と共にある」
いけしゃあしゃあとはこの事を言うのであろう。
誰に目から見ても、後ろで東宮こと大海人皇子が後ろで糸を引いている様にしか見えない。
しかし、それを指摘したところで、敗戦が覆る訳ではない。
喉から出掛かった言葉を飲み込み、紀は言葉を続けた。
「其方はそう言っているが、帝は全国の国司に便りを出し、造反する其方たちの掃討を命じている。
帝に遵従するのであれば、素直に我々に降るのが筋ではないのか?」
「それは違う!」
横から声がした。
伊勢国司である三輪子首が意見した。
「これを見られよ。
これが紀殿の仰る勅の事か?
臣下の手により書かれたこれは勅ではない」
差し出されたのは太政大臣、大友皇子が代筆した勅命だった。
大臣の命は官符であり、勅を偽ったと言われても仕方がない。
「それだけではない。
少しでも従わぬ者は問答無用で斬られた。
我が弟、当麻広島は使いの者により斬られた。
まるで帝のご威光を嵩に着た蛮行ではないか!」
当麻国見が激昂する。
「我々は帝がご病気で臥せっていると聞いている。
そして今後を担う時代について、穏やかな譲位がなされると思っていた。
東宮様より文を頂いていたのだ」
紀にとって初耳だった。
「それがこれだ。
『帝は病の床につき、東宮である私への禅譲を仰った。
しかし私は国家が再び乱れる事を良しとせず、今後は吉野に籠り経を読みながら国家の安寧を願う事とした。
今後は速やかに帝位の譲位が行われるであろう。
それまでの間、各地の者達には静かに見守る事を望む』
つまり東宮様は、此度の件には全く関与していない。
にも拘らず、其方らは古京に兵を置き、東宮様を害そうとしていたであろう」
一見、東宮が政から一切手を引くという敗北宣言にも近い文である。
しかし、この文の存在は東宮の立場の正統性を主張している。
この事は紀にとっては耳の痛い指摘だった。
天智帝が自らハッキリと、東宮が敵であると明言していたのだ。
『敵になりうる相手がいる。東宮・大海人皇子だ』と
更に蘇我赤兄は東宮を罠に嵌めるため、芝居まで打ったのだ。
つまり非は帝にあり、それに追従した太政大臣・大友皇子らにその責があるのだ。
(つづきます)




