近江での心理戦(大海人皇子視点)
※前話『近江の防衛会議』での大海人皇子視点によるお話です。
近江からの遣いがここ古京の中心、飛鳥岡本宮へやって来た。
東宮としての役目を仰せつかってから、私は飛鳥に居る事が多くなった。
要は大友皇子以下、大臣らに政権運営を任せ、私は閑職に追いやられたという事なのだ。
これまで私が担ってきた皇弟としての役目は、ほぼ全て太政大臣となった大友皇子に任されることになったのだ。
私は帝の座に執着するつもりは無い。
だがしかし、素直に命を差し出すつもりも全く無い。
かぐやによると、この先大きな戦が起こり国を二分する争いとなるのだそうだ。
かぐやは美濃に留まり、兵力増強を密かに行っている。
一度も会った事の無い私の舎人、村国男依という地方の助評の手を借りて、武器の開発から兵士の練兵などを一手に引き受けているのだ。
最近はだいぶ形になってきたと、報告が上がっている。
暗号による伝達のため詳細が分からないのがもどかしい。
だがもしも……、かぐやからの連絡がなければ私の心は耐えられなかったであろう。
神より授かったという兄上の持つ御技は、知っているものの未来が”視える”というものだ。
つかり私の行動が筒抜けであるという事なのだ。
四六時中監視され、少しでも反意が認められたのなら、それを口実に攻め込んでくるであろう。
故に何も出来ぬし、何ひとつ備えられぬ。
そして誰にも頼れぬし、相談すら出来ぬのだ。
鸕野が”平仮名”という暗号を使ってかぐやの無事を伝えてくれた時の喜びは今でも忘れぬ。
あれから八年。
従順な皇弟の仮面を被り続け、身の回りは清貧、多く舎人を従えるが宮には少数しか兵が居ない。
食料以外に何も備えはない。
周りから見れば、そこいらの評造の方がよほど屈強に見えるであろう。
その実、兄上の目の届かぬところで、帝との謁見の経験のない大伴吹負が中心となり、戦力を分散し、練兵しているのだ。
特にかぐやの国許である讃岐では兵の練兵が進んでおり、一国を攻め落とす事も可能ではないかと思われる水準に達しているのだそうだ。
それはそれで後の憂いとならぬか心配なのだが、かぐやの事だからやり過ぎてしまうのは今に始まった事ではない。
いざとなれば、この岡本宮の鉄壁の守りとなってくれるであろう。
◇◇◇◇◇
兄上からの遣いと称し、右大臣・蘇我赤兄がやって来た。
横には赤兄の従弟であたる蘇我安麻呂が居た。
安麻呂の父であり、赤兄の兄弟である蘇我連子には世話になった恩義がある。
まだ母上が存命だった時、空位だった右大臣に就いた連子は飛鳥で留守を預かる私の補佐を買って出てくれた。
それ以来の付き合いとなるが、赤兄と果安の兄弟に押される様に、政の中枢から締め出されているのは気の毒でならない。
一方、有間の一件以来、蘇我赤兄には悪感情しかない。
さして有能にも見えず、この様な俗物をどうして兄上が重用するのか?
これまでの兄上の強引な手段は多くの敵を作り出してきた故なのか?
この国はあまりに人の血が流れ過ぎた。
この様な忌まわしい争いは私の代で終わりにしたい。
そのために、私は人の心を捨てなければならない、のだが……。
「東宮様、帝より至急近江へと参られたいとの申し出に御座います」
赤兄が書簡を持って、兄上の言葉を代読した。
『長らく患っていた病は一向に改善の兆しがなく、日に日に酷くなる一方だ。
私は長くない故に今後の事を相談されたい』
要約すればそんな事を、赤兄の奴はくどくどと回りくどい言い回しで喚いていた。
「で、拝謁は何時なのだ?」
「この書簡の通り、帝の病状は芳しく御座いません。
拝謁ではなく見舞いにお越し下されば……これから」
つまり、呼び出しにすぐに応じろと言っているのか?
私は人を嫌うというのはあまりないが、此奴は別だ。
有間には同じ命を脅かされる者同士の共感を感じていたが、その有間を赤兄は無実の罪に貶めして、命を奪ったのだ。
その気になれば私にも同じ事を諮ったであろう。
成功するかどうかは別として……。
「分かった。では支度をしよう。
手筈は整っているであろうな?」
「は、つつがなく」
私の問いに赤兄の代わりに安麻呂が答えた。
ならば信用できよう。
近江までは三日掛かる。
つまり二泊せねばならないのだ。
その間に寝首を掻かされたのでは溜まったものではない。
念のため、馬来田を伴って行くとしよう。
こうして近江へと兄上の見舞いと称した茶番に付き合う事になった。
◇◇◇◇◇
無事近江の大津宮に着くと、その足で兄上の寝所へと通された。
そしてここまで案内した安麻呂が、聞こえるか聞こえないか小さな声でポツリと言った。
「発言には十分にお気をつけ下さい」
……やはり何かある様だ。
かぐやからの忠告を思い出しつつ、馬来田を伴い寝所へと向かった。
そこまでの短い回廊を進みながら、私は気持ちを切り替え自分を偽物の自分で上塗りした。
今の自分は……大局に疎く、兄想いで従順な弟なのだ。
そう自分に言い聞かせた。
「帝の具合は如何なのでしょうか?
腕の良い祈禱がおりますので、それを寄越します。
どうかお気を強くお持ち下さい」
寝所に入るなり、礼節をほっぽりだして兄上にすがった。
「大海人よ……余は長くない様だ。
鎌子が待つ黄泉の国へ旅立つ日は近い」
今すぐにでもそうなって頂きたことを口にする兄上は、やはり企んでいるに違いない。
「そんな! その様な弱気ではいけません。
兄上にはまだ為すべきことがあるはずです」
「残念だが、私の病は重い。
後を其方に任せたい。頼めるか?」
やはり、その言葉がでるのか?!
周りを見渡せば、蘇我赤兄、蘇我果安、巨勢人、紀大人らが身構えている。
少しは気配を隠せ! と言いたくなる。
期待に満ち溢れたその顔が、己が謀を隠しきれておらぬぞ。
兄上はここまで愚かな連中を頼らなければならないのか?
鎌足殿の存在の大きさが今になって更に感じるようになってきた。
「それはなりません。
兄上は忘れたのですか?
兄上が若かりし頃、叔父上に帝位を継いで頂いた結果、国が乱れ、兄上の政は停滞ました。
もしあの時に、母上がそのまま帝を続けていれば、近江令はあと五年は早く完成したでしょう。
ですので、兄上に万が一のことがあれば、その時は長子の大友皇子に委ねて欲しい。
しかし大友皇子はまだ若い。
なので母上の例に習い、帝の后である倭皇女にお授け下さい。
兄上と同じく諸政を行なうのが宜しいかと考えます」
「ならば、其方はどうするのだ?」
「私は出家して、仏道の道に進みます。
仏の道を通して国の安寧を祈ります」
私は準備をしていた言葉を一気に吐き出した。
かぐやから忠告を受けていたのだ。
兄上は私を有間の様に貶めすであろうと。
それが国を分ける騒乱の幕開けの合図となると。
これは自らに課した一つの賭けであった。
もし兄上がこのような謀をしないのであれば、私は素直に仏門の道に進み国の安寧を願おう。
しかし兄上が私を貶めすため謀をするようであれば、有間の仇を取らせてもらうと。
結果は御覧の通りだ。
私はこれまでに心に秘めてていた野心を解放した。
自分の中で、これまで自分自身を抑え込んでいたタガが外れた音がした。
「もし私が大友皇子の政の障害となりますのであれば、私は吉野に籠り一心に祈りましょう。
二心無き事を示すため、この場で出家いたします」
つまりは吉野を拠点として徹底して贖うという事だ。
必要であればこちらからも攻め込む。
「分かった。其方の言、確かに受け取った」
兄上は私が吉野の引っ込むことで譲歩した様である。
つまりはいつでも取り囲めると判断したのであろう。
「はっ、それでは私はこの場で頭を丸め、兄上を安心させたく」
私は自分の決意を示すため、外に控えさせていた馬来田を呼び寄せ小刀で髪を切り落とした。
落ちていく髪を見ながら、周りの者は謀の失敗を悟ったであろう。
もし鎌足殿が健在であれば、この様な無様な結末は無かったであろう。
しかし、これで後戻りはできなくなった。
目の前に散らばる我が髪を見て、いよいよ私は心の中にいる虎の心を解き放った。




