【閑話】近江令の完成と勅命(天智帝視点)
文中の1/3が辞令という、小説らしくないお話です。
しかしこの人事を元に、今後の騒乱が進んでいきますので、まとめて記載しました。
それらしい形にするため、令の規定を書き込んでおりますが、文中の詔は作者による100%創作です。
一応は、この年の前後にあった出来事をぶっこんだ文章ですので、虚偽ではない筈です。
鎌子が……この世を去った。
なんて心細いものなのか。
私にとって鎌子の存在がどれだけ大きかったのか。
その失った大きさが、自分の中で空虚となり、埋め難い大穴となっている。
その穴の大きさが、自分の予想を遥かに超えて大きなことに今更ながらに気付いた。
まるで幼い子供が母親からはぐれてしまったかの様な心細さだ。
これからどうすればいいのか?
何を頼ればいいのか?
これほどまでの不安を覚えたのは、鎌子に出会う前、蘇我に命を脅かされる日々を過ごしていたあの頃以来だ。
この先、ずっと鎌子が居ないことに恐怖すら覚える。
事あるごとに鎌子は私を励まし、自分が居なくなった後の心構えを説いてくれた。
だが心の奥底ではその様な事は無いと信じたかった。
例え鎌子の居る未来が視えずとも、何処かには居てくれるはずだ。
例え病床であろうとも……。
◇◇◇◇◇
鎌子が薨御した秋が過ぎ、冬となり、晦日を迎えても、私の嘆きが癒える事は無かった。
幸いというべきか、帝に必要な儀については中臣金が母上が帝であった頃から取り仕切っていたため、滞りなく行われている。
このままでは如何と新たな年があくる日、私は決意を新たにした。
私には焦らなくてはならない理由があるのだ。
それは騒乱の未来が視えた事だ。
大友に、中臣金に、そして麻呂の未来にだ。
何時なのかは分らぬが、視えた未来の中にいた大友が若い姿であったことを鑑みれば、遠くない未来なのであろう。
苦戦はしているが、負けてはおらぬ。
だが敵に見覚えが無かった。
蝦夷の兵を相手にしているかのような妙な兵士であった。
身に付けている武具が違うのだ。
そしてもう一つ。
それは私だ。
元から悪かった体調がさらに悪化しており、年を経るごとに衰えが激しく、最近は立つことも辛くなってきた。
もしかしたら、騒乱の未来が来る前に私が死ぬこともあるのかも知れぬのだ。
そうなったら、一体どうなるのだ……?
大王の一族で、継承権の高いものは皇弟である大海人だ。
いずれ奴が私に反意を持つであろうことが分かっている。
騒乱の未来が近づいているのは分かっている。
だが、その騒乱の主が誰なのかが分らぬため、慎重にすべきであろう。
大海人には反乱を実行する力はない。
多くの舎人を抱えてはいるが、武力を蓄えている様子は今のところ見受けられないので。
そこいらの評造と変わらないであろう。
万が一、大海人がその気になれば、帝の兵を以ていとも容易く滅ぼせよう。
しかし全てが思い通りという訳ではない。
油断できぬ事があるとすれば、大海人皇子の息子達だ。
最も年上の皇子の高市(皇子)がもうそろそろ成人する。
しかし母親は名も知らぬ筑紫の豪族の出の故、継承という点で優先されるのは八つの草壁(皇子)と七つになったばかりの大津(皇子)とであろう。
どちらも母親が私の娘、大田(皇女)と鵜野(皇女)なのだ。
つまり帝である私の孫だ。
いずれは帝に据えたい大友(皇子)は二十三、帝となるにはあと十年は待たねばならないが、母親は伊賀の評造の娘なのだ。
母親の位を考慮すると、草壁か大津、つまり大海人の息子達が次代の帝となる。
これだけは阻止したい。
それまで私が帝にいられれば、大海人を飛び越え、力ずくで譲位する事も考えられる。
しかし私が死ねば、大海人に次代を譲らねばならなくなる。
これまで徹底して私に反する武力勢力を摘み取ってきたが、帝になれば躊躇う事は無い。
早々に大友の芽が摘み取られるであろう。
だとすれば……
◇◇◇◇◇
小正月となる十五日に、詔と勅命を発した。
『昨年は政を担ってきた藤原内大臣が薨御するという痛ましい年であった。
余もその痛手から未だ立ち直る事叶わず。
遺された我々はこの悲しき出来事を乗り越え、藤原内大臣の目指す政を推し進めるもの也。
天智の大王の名の下に詔をここに発する。
一つ、藤原内大臣が主として編纂した近江令の発布をここに宣言す。
本日を以て数多の国はこの令に従い政を行うべし。
守らぬ国には令に従いこれを正す。
一つ、数多の国は令に従い、速やかに戸籍を作成せよ。
盗人、浮浪者を調べ、これを取り締まるべし。
一つ、令に従い朝廷における法度を定め、須らくこれに従うべし。
一つ、誣告、流言を発した者は、これを厳しく罰する
一つ、冠位の下の位の者は、冠位の上の位の者の歩行を妨げる事を禁ずる。
無冠の者は言うに及ばず。
一つ、皇弟・大海人皇子は、東宮太皇弟とし帝を補佐する。
以下、東宮太皇弟より勅を下す。
一つ、大友親王は、近江令による太政大臣に任ず。
一つ、蘇我赤兄を筑紫宰の職を解き、左大臣に任ずる。
一つ、中臣金を右大臣に任ず。
一つ、蘇我果安を御史大夫の職に任ず。
一つ、巨勢人を御史大夫の職に任ず。
一つ、紀大人を御史大夫の職に任ず。
一つ、栗隅王 (くるくまのおうきみ)を筑紫宰の職に任ず』
◇◇◇◇◇
打てる手はすべて打った。
朝廷を全て近しいものだけで固めた。
この中で大海人皇子は孤立するしかない。
孤立するのあれば、位だけをくれてやればいい。
何より大友を政の中枢へと据えられた。
反対する者がおったが今は居ない、排除した。
大友はまだ年若いが、私にしても十九で皇太子として政の中枢を担ったのだ。
早すぎるという事は無い。
補佐として、鎌子の肝入りの物部麻呂を据えた。
これで実績を積めば、周りからも認められよう。
私がそうであったように。
残るは、最後の憂いを取り除くのみだ……。




