鎌足の死(天智帝視点)・・・(1)
***** 天智帝視点によるお話です *****
「ご報告申し上げます。
中臣様の病状は改善の見込みがなく、今はもう憔悴が激しく、起き上がることも困難となっております。
最早……」
「馬鹿な事を言うな!
鎌子が余を置いて逝くはずが無かろう!
必ず快方へ向かう。
祈祷はしっかりとやっておるのか?!
足りぬのなら増員せい!」
「はっ!」
大津京で執務を取る私に、長らく病に臥せっていた鎌子が危篤だという知らせが入った。
もし鎌子が居なくなってしまえば……。
この二十五年間、あり得なかった事が差し迫っている事に背筋が凍る思いがした。
鎌子の事を軽んじたわけではない。
だが鎌子の厚意に甘え過ぎていたことは否定できぬ。
鎌子を遠ざけようとしたことは幾度かあった。
しかし排除しようとし訳ではない。
私もやり過ぎたと思わない訳ではないが、何時だって鎌子はその後始末を完璧にこなしてくれた。
鎌子が居るからこそ、私は存分に力を振るう事を躊躇わずにいられたのだ。
だが鎌子が居なくなってしまったら……。
居てもたっていられない私は、ほとんど準備をしないまま大津宮を発ち、小原の鎌子の屋敷へと向かった。
先ぶれは無い。
あったとしても鎌子はもう答えられる状態にないらしい。
とりあえず早馬で遣いを出しておいた。
私が到着するよりも一日前に着くであろう。
以前であれば私自身が馬に乗り駆けて行くのだが、今では身体がいう事を聞かぬのだ。
輿の中で何度も気が遠くなりそうな気分を味わいながら、それでも輿を持つ者らに急がせた。
◇◇◇◇◇
乃楽で一泊し、小原へは翌々日到着した。
屋敷の外にも祈祷をする者達が連なっていた。
早馬は昨日の内に着いていたらしく、舎人らが私を恭しく出迎えた。
しかし中へと入ると、外とは全く様相が異なり、香の匂いと静けさが充満している。
何度も訪れた鎌子の寝所へと通されると、鎌子は柔らかそうな寝床で静かに横たわっていた。
もし既に事切れていたと言われても信じるであろう。
よもやと思いつつ、そんなはずはないと信じて鎌子を覗き見ていると、ほんの僅かに胸が上下に動いているのが分かり、ようやく安堵した。
このまま帰るのには心残りではあるが、病床で臥せっている鎌子を起こしてまで話をして良いものなのか?
帝らしからぬ考え方だが、鎌子だけは別だ。
私にとって鎌子は、師であり、兄であり、友であり、そして父の様でもあった。
少なくとも会った事もない実父や、私の出生を謀った養父よりは、はるかに父らしい存在だった。
じっと座っていると、寝ているはずの鎌子の口が開いた。
「天智帝、ようこそお越し……下さいました。
体調が優れない……ため御持て成し出来ず、ご容赦願い……たい」
「何を言うか。横になっておれ。
私は派遣した祈祷の者らが確と働いておるのか見に来ただけだ。
其方はじきに良くなる。
安心しているが良い」
「ふ……、有難き事」
「なあ、鎌子よ。
聞いてくれぬか?
返事はせなくても良い。
ただ聞いて欲しいのだ」
「なん……なり」
「私がまだ”中”大兄であった頃、其方は私を見出し、導いてくれた。
明日に活路を見出せない私に味方しようなど考える者はいなかった。
如何せん蘇我は大きかった。
泥水を飲む覚悟で恭順を示して命乞いするか、それとも命を諦めるのか、その二つしか道は無かった。
其方は私に生きる道を示してくれたのだ。
大王の者として、皇子として、目指すべき道を教えてくれた。
其方は私にとって、この上の無い師匠であったよ」
「ふ……」
ずっと言いたかった事なのだ。
いつの頃からか鎌子と語り合う事が少なくなっていった。
たぶん私にその理由があるのだと思う。
今になって、これまで無駄にしてきた刻を惜しむとは……。
「あの頃は想像もしなかった。
蘇我を廃すことが出来るなどと誰が信じたであろうか?
其方はそれをやってくれたのだ。
しかしあれは始まりにしか過ぎなかった。
律も令もすぐに出来るであろうと思っていた。
何故故、反対する者、従わぬ者、邪魔をする者が多いのだ。
おかげで我々は、こんなにも年を取ってしまったよ。
一体どうせればよかったのであろうな?」
「………」
私は鎌子が耳を傾けてくれることを信じて思いの丈を口に出した。
これを逃すと、きっと、もう……。
「済まなかったな……鎌子よ。
もう少し私が其方の言に耳を傾けていたら……、其方はもっと楽だったであろう。
だが分かって欲しい。
そうせざるを得なかったのだ。
今は話せぬ。
いずれ解って貰えるだろう。
其方だけには……解って……」
「気に……せ……、下さい。
何か……ある……し……まし……た」
いつでも鎌子は文句は言うが最後には私を許してくれる。
これまでの事、そしてこれからの事、私がしなければならない事、その全てを。
実は分かっていたのだ。
その”時”は視えていない。
しかし私の視える未来の何処にも鎌子が居ないのだ。
脳裏に焼き付いた絵の何処を探しても見つかられぬ。
誰の未来にも鎌子の存在が無いのだ。
私は自分の力を嘆いた。
もしも私にかぐやの様な神の御技を授かっていたのなら……。
私はどのような事があっても鎌子を癒すであろう。
鎌子を苦しめる病を我が手で追い出してやるのに。
鎌子よ……。
「これまでご苦労だった。
ゆっくり休め。
其方の功績は未来永劫語り継ごう。
しかしその名が中臣であっては他の者に乗じられよう。
新しい氏を授ける。
其方に凡庸な冠位は似合わぬ。
十九ある冠位の最も上の冠位こそ其方に相応しい。
しかと受け取って欲しい」
「でき……ば、しっ……にたの……い。」
「構わぬ。早速用意しよう。
遣いの者を寄越す。
それまで養生してくれ。
なっ!」
「………は」
もう鎌子は限界の様だ。
これ以上、無理強いも出来ぬ。
私は涙を呑んで、小原の屋敷を後にした。
そしてその足で倭京(※飛鳥京のこと)へと向かったのだった。
◇◇◇◇◇
倭京の留守を預かるのは、皇太弟となった大海人だ。
本来なら私が直接持っていきたい。
だが帝が家臣の屋敷に赴き、冠を下賜する事は許されるものではない。
誰一人としていない高位の冠位を、位の劣る者に授ける事は出来ぬ。
ならば大海人に頼む以外、他に選択肢は無いのだ。
「大海人よ、其方は鎌子の元へと赴き、病床にある鎌子へと冠位を授けよ」
「承りました」
「只の冠位ではない。大織冠だ」
「なんと?
それは誠でしょうか?」
「どうしてだ? 異論でもあるのか?」
「い、いえ。帝の決定は絶対にごさいます。
しかし正式な役職ではない内臣の中臣殿が大織の冠を授かるのは、釣り合いが取れないのではないでしょうか?」
確かにそうかも知れぬ。
これまでの右大臣、左大臣の中でも、巨勢徳太が死後授かった大繡冠、上から三番目だ。
「ならば併せて、鎌子に内大臣の辞令を下そう。
そして、新しき姓を与える。『藤原』だ」
それは鎌子の居るあの屋敷の名、『藤原の第』にちなんだ名だ。
「それは宜しい事かと。
帝の勅命が下り次第、速やかに赴きましょう」
「頼むぞ、大海人よ」
これは単なる自己満足にしかすぎぬかもしれぬ。
しかしそうしなければならないという気持が逸る。
もう、私が鎌子にしてやれることは少ないのだ。
本作では、鎌足様の死因は胃炎から来る胃潰瘍としました。
胃潰瘍の原因は、言うまでもなく・・・ですね。




