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額田王の思い出

久しぶりの額田様(39)です。

 ***** 額田王ぬかたのきみ視点によるお話です ******



 私が中大兄皇子の妃となり十五年の月日が流れました。

 別に数えたくて数える訳ではありません。

 十市が十七となり、”あの方”と離れ離れとなった月日の長さを改めて感じるだけです。


 この十五年の間、たくさんの事がありました。

 斉明帝……私にとりましては女孺めのわらわとして仕えました皇極帝としての思い出が強く残っております、は私に取りまして実の母親よりも母親の様なお方でした。


 十市と共に中大兄皇子の元に行った後も、斉明帝と行動を共にすることは多く、紀国きのくにや筑紫国までの長い船旅、そして最後の地となった筑紫国。

 斉明帝は山奥に建てられた朝倉宮で襲撃を受け亡くなられたと、中大兄皇子様は言っております。

 しかしその言葉をそのまま信じる程、私は愚かではありません。

 帝の護りが襲撃如きで攻め殺されてしまうのなら、最初から朝倉宮なんかに遷都しなければ良かったはずなのです。

 何故、私達が筑紫の長津宮にまで行かなければならなかったのかは未だに不明です。


 そしてもう一つ……紀国へ半年の間湯治に行った時も、中大兄皇子は裏ではかりごとを企てておりました。

 帝の目に触れぬ間に、有間皇子が国家転覆を計った罪人として処せられたのです。

 帝の甥であり、先帝の長子であり、継承権を持つ有間皇子が国家転覆を計ったのなら、斉明帝が何も知らないまま処せられるなんてあり得ない事です。

 それに、斉明帝がたけるの皇子様の絶望とも思えるご病状を案じて飛鳥へと帰ろうとするのを力づくで止めようとするなど、不可解な行動が目立ちました。


 結局、帝の葬送の儀のため、崩御された斉明帝の亡骸と共に私達は飛鳥へと戻されました。

 しかしかぐやさんは一緒ではありませんでした。

 中大兄皇子の話では襲撃してくる敵にあがない、帝に殉じたとの事です。

 少し後になり、かぐやさんがその愛情のすべてを捧げていたと言って良い、建皇子様の亡骸が斉明帝の陵墓に合葬されることになり、かぐやさんの生存は絶望となりました。


 あぁ……、私にとってかぐやさん程、心休まる存在はありませんでした。

 賢く、聡く、他人を思いやる心に溢れ、決して驕る事のない人柄、そして本人は認めようとしないけどとても美しい娘でした。

 ただ単に見目の良い娘なら、後宮にもたくさんおります。

 しかしかぐやさんの美しさは別格なのです。

 例えるのなら……月。

 名前の通り、暗い夜でも光(かがや)いて、明るく照らしてくれる存在でした。

 内に秘めた知性がその光の根源だったような気がします。


 天女、神卸しの巫女、そして残念な娘。

 人は様々な言葉でかぐやさんの事を呼びます。

 それが丸い月、欠けた月、半分だけの月、日に日にその姿を変える月の姿とかぐやさんが被ります。

 失ってからその存在の大きさを知る、かぐやさんは正にそんな人でした。


 ◇◇◇◇◇


 最愛の”あの方”と別れて中大兄皇子の妃となったのは、私の持つ人脈を譲って欲しいとの事でした。

 しかし私の人脈の半分はかぐやさんにありました。

 かぐやさんのもつ女性の美容に関わる知識は他の追随を許さず、特に三年前にお亡くなりになった間人はしひとの中皇命なかつすめらみこと様はその虜となっておりました。

 しかし、かぐやさんが采女として斉明帝に取り入れられたため、かぐやさんによる施術は受けられなくなりました。

 すると誰しもが出来る施術の内容に段々と人は離れていき、施術所はひっそりと運営を止めました。

 施術所のあったその場所は更地となり、かぐやさんが居た痕跡は全く見られません。

 母のように慕っていた斉明帝、私を友の様に親しく接して下さった中皇命なかつすめらみことが亡くなり、私には人脈と呼べるものはありません。


 先日、中大兄皇子はようやく帝に即位しました。

 十市が親王の大友皇子の后となれば、私は用済みのはず。

 それでなくても天智帝は、私の姉の鏡(王女)を娶ったと思えば、中臣様に下賜したのです。

 ならば私も同じように”あの方”に下賜して欲しい。

 ”あの方”の元へと帰りたい……、それだけを思うようになりました。


 しかし、その願いが叶う兆しのないまま、私と十市は近江に出来た新しい宮へと居を移しました。

 あの方との距離が離れていく事を嘆く歌しか浮かびません。


味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山あをによし 乃楽ならの山の山の()にい(かく)るまで 道の(くま)()もるまでに、つばらにも見つつ()かむを しばしばも()()けむ山を 心なく雲の(かく)さふべしや』

(訳:くねくねと曲がった道であっても、奈良の山々の山間に隠れるまで三輪の山をずっと見みていたいのに、何度も眺めやりたい山なのに、無情にも雲が隠すなんてことがあっていいものでしょうか?)


 ◇◇◇◇◇


 近江にできた大津宮では完成を祝って、何度も宴が設けられました。

 私としてはもう表に出る事は控えたいのですが、ただ一回だけ歌合せの席に加わりました。

 ”あの方”が来られると聞いたからです。


 私達が出会ったのはまだ二十前、もうすぐ四十路よそじを迎えるにはお互い歳を召しました。

 しかし、離れた場所におります”あの方”をみると、胸のときめきは若き日を思い起こさせます。

 私の中に忘れかけていた歌の情熱が湧き上がってきました。

 しかし帝の妃という立場は、私が歌いたい歌を詠むことを許しません。

 歌いたいのに歌えないなんて、生まれて初めての事です。


 周りの者達が拙い歌に興じている様を横目に見ながら、やはり参列しなければ良かったと後悔し始めた時でした。

 おもむろに”あの方”が歌を紡ぎました。


『紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも』

(訳:紫草のように美しさを漂わす恋しい人を忘れようとしたのなら、人妻だというのに今も恋焦がれるものでしょうか)


 あぁ……、”あの方”はあの時から全く変わっていない。

 周りにどんな風に思われようとも私の事を想ってくれる。


 今のこの気持ちをどう伝えれば?

 もちろん嬉しいと答えてしまえるはずもありません。

 だけど伝えたい。

 私の歌人としての全てを掛けて、私の気持ちを伝えたい。

 そう思いながら歌を紡ぎました。


あかねさす紫野むらさきの逝き 標野しめの行き 野守のもりは見ずや君が袖振る』

(訳:茜色にさす夕暮れ時の紫草の野を離れ、立ち入るべきでない野に勝手に入って、あなたが私に袖を振る姿を番人が見ているかも知れませんよ)


 上手く伝わったかしら?

 だけど今の私にはこれ以上の歌を歌う事は出来ないと思います。

 もし私の生涯を掛けて最も優れた歌を選ぶとしたら、この歌なのです。


 それを知ってか知らずか……いえ、全て知っていて”あの方”は優しく微笑みかけてくれました。

 今の一時だけ、私達は初めて出会ったあの時へと戻ったような気がしました。


 ◇◇◇◇◇


 近江大津宮とは言わば、天智帝の砦のようなものです。

 無謀ともいえる百済の役で、天智帝は多くの人々と敵対することになりました。

 多くの戦死者を出した筑紫や吉備の人々。

 新羅と唐という力を持った国。

 そして国の防波堤として筑紫へと防人を送る東国。

 有体に言えば、近江へと逃げたのです。


 天智帝は筑紫から帰ってて以来、まともに顔すら見ておりません。

 いつも扇子で顔を隠しているからです。

 何を隠しているのかは分かりませんが、それと同時に他人に対する疑念が深まったように見受けられます。

 多くの者が、帝の勘気に触れて追放されたと聞き及んでいます。

 それは十市の許嫁である大友皇子の側近にも及んでいます。

 昨日まで一緒に居た付きの者が突然居なくなることが相次いでいて、理由も居なくなった後の事も分かりません。

 噂では処されたとも……。

 いつしかこの大津宮は沈黙の館と化しておりました。

 誰もが帝に怯えているかのような重苦しい雰囲気に包まれ、十市も皇子様も塞ぎがちとなっておりました。


 しかし、ある日の事十市が楽しそうに私に話しかけてきました。


「今日は皇子様の新しいお付きの方が来られました。

 物部麻呂様という御方ですが、耳面刀自様のお知り合いだそうです。

 耳面刀自様のお母様、与志古様のご出産に立ち会って頂いた方のお知り合いなのだそうです」


 与志古様? 出産? ……もしかして?


「もしかしてその方はかぐやさんかも知れませんね。

 実は十市もそのかぐやさんが命を削ってこの世に産まれさせて下さったの。

 飛鳥では天女様と崇められる美しい方だったわ……」


「え? 本当に!?」


 こんなところにもかぐやさんの足跡があるなんて、世の中が狭いのかかぐやさんが規格外なのか?

 きっと両方かも知れませんね。

 私はかぐやさんとの思い出話を十市にしました。

 尽きる事のない話に、つい時を忘れいつまでもいつまでも……。


万葉集では、額田王が詠んだ歌『茜さす~』の返歌として、大海人皇子が「紫草の~」と読んだとありますが、作者の勝手な解釈で順番を入れ替えました。

そうするとより強い相思相愛の歌となるような気がするので……。

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