【幕間】萬田の後悔
男性諸君、視線に注意。
***** 萬田郎女の場合 *****
私が後宮にいたのは僅か半年間でした。
私が十六の時に後宮で氏女を募っていると話があり、忌部氏からは私が差し出された格好となった訳です。生まれて初めて見る京は見たこともないくらい栄えていて、家々が立ち並び、通りでは様々な食料や布が並べられ、米や銀粒、金粒と交換されていました。これから自分が生活する場になるのかと思うとワクワクしました。しかしそう思えたのは後宮に入るまでの僅かな間だけでした。
今の帝は女性です。男子禁制の後宮で妊娠した官人がいればその子は帝の皇子です。しかし、女帝にその様な事があるはずも無く、宮子はただ雑務を行うだけの存在です。
同じ毎日の繰り返しで、このまま老いていく自分を嘆く人も少なからずいました。
見目が美しければ、偶に後宮へと入る皇子や親族の方に見初められるかも知れません。しかし、後宮には百人を超える官人だけでなく、その官人のお付きの雑仕女を含めますと千人を超える大世帯です。
後宮は宛ら窮屈な鳥籠に閉じ込められた百舌鳥の巣の様なものです。
逃げ場のない籠の中、百舌鳥は何をするのか?
まるで共喰いの様な陰湿な虐めです。弱った同族を執拗に徹底的に攻撃するのです。
私は自分の身体に人一倍の劣等感を持っていました。
それは欠けた前歯です。
五年ほど前、歯に大きな穴が空き、死んでしまうかと思うくらい痛くて痛くて、それを治せるという祈祷所へと行きました。そして激痛の治療の後、痛みと供に歯が無くなりました。歯を失った自分を初めて鏡で見た時、歯が一本ないだけでここまで醜くなるのだと驚愕し、失望しました。
私が他人と話す時、チラチラと視線が自分の口に向くのがありありと分かります。ああ、この人は私の事を醜女とあざ笑っていると思うと、やり切れない思いになりました。
窮屈な鳥籠に閉じ込められた醜女がどうなるか、言うまでもありません。言葉で詰られ、汚れた水をぶっ掛けられ、部屋を空けている間に自分の物が無くなっていました。たった一本の歯が無いばかりに、です。
そのような日々が半年続き、身も心もボロボロになった私は、膳司を管理する尚膳の与志古郎女様に辞意を願い出ました。私の身なりを見て察した与志古郎女様は、女孺を管理する内侍司に話を通し、辞意が受理されました。
通常、後宮を出た采女、氏女は男性の憧れの対象になると聞いた事があります。後宮に入るためには条件があり、その一つが容姿なのです。
つまり後宮の官人は選ばれし女性で、帝でしか手をつける事が許されない高嶺の花として崇められるそうです。私も後宮に入れたという事は、口さえ開かなければ器量は悪くは無いはずなのです。しかし私に言い寄るどころか、近づく男すらいません。
たった一本の歯が無いばかりに、です。
社へと送り返される形で帰った私は、持てる情熱を全て舞に注ぎ込む事になります。口をキュッと閉じて舞っている時だけは、私は神に最も近い巫女として崇められるのです。これでしか私は私を保つ方法が無かったのです。
そんなある日、御室戸忌部秋田様より、讃岐の国造の元へ舞の指導をやってくれないかと頼まれました。
秋田様は本家筋でないためここでは客人に近い扱いの方です。良く言えば人当たりが良く、悪く言えば頼りない感じの方ですが、私の歯に不躾な視線をあまり向けない稀有な方です。もっとも視線はもう少し下に向く事が多いですが……。
何でも造麻呂様にもうすぐ八つになる姫がいて、新春の祝いに舞を披露したいとの事です。あまり人に物を教えた事が無いので自信はありませんが、幼子なら型を教えればすぐに済むでしょうと承諾しました。
讃岐国造のお屋敷は物凄くご立派な造りで、この様な辺鄙な場所にどうして? と訝しんでしまう程でした。そして造麻呂様と教え子となる娘に挨拶に行くと、そこには姫と呼ぶに相応しい幼子がいました。
今の私にとって全ての忠義を尽くす姫様、かぐや様です。
しかし愚かだった私は苦労などとは無縁そうで、将来が約束されたかの様なその幼子に、激しい嫉妬の情を覚えました。私の中に潜む禍津神が囁きます。
『この何不自由なさそうな娘にあの舞を教えてしまえ』と。
“あの舞”とは巫女が舞うのはあまりに色めかしい、天鈿女命様の舞です。幼児が舞えばさぞや滑稽な見た目になることでしょう。私だって舞いたくありません。あの舞は胸の膨らみが大きな郎女が踊れば男どもは喜ぶでしょうが、左程でない私には屈辱の舞なのです。
そして姫様に踊らせました。そうしたら色めかしいどころか、単に可愛らしかったのです。憤まんやるせない気持ちは、姫様に対して暴力という形で出てしまいました。今思えば、私は何という事をしてしまったのか、と思い出しただけで今でも頭を抱えてしまいます。
次の日、暴力がなかったかの様に振る舞う姫様に心の何処かで慄きながら講習してました。
姫様の年に似合わぬ聡明さに驚き、私を諭すかの道理、当時の私のとっては様に綺麗事、を言う姫様に対して、私の中に住む醜い嫉妬心が湧き上がり、姫様にその醜い嫉妬を醜い言葉でぶつけてしまいました。
そんな私を姫様は呆れた様な、憐れむ様な、目で見て一言。
「じゃあ治す」
立ち上がった姫様の前に見たことのない綺麗な光が浮かんでいます。
これは何? 何故光が? 何が起こるの?
頭の中をぐるぐると回ります。
そして一つの結論に至りました。
『私はこの子に殺される!?』
そう思った瞬間、光は私へと向かってきました。
私の頭を狙い撃ちしたんだ! と、思った時には光は目の前です。
思いっきり目を瞑り、四散する自分の姿を想像して一時は死を覚悟しました。
しかし、何事もなく自分は無事だと分かり安堵した次の瞬間でした。
口の中が蠢くのを感じました。
そして脳天を貫く様な痛みがズキーーーーン!と走り、私は悶え苦しみました。
口の中を牛馬が駆け回っているのではないかと思うほど、次から次へと痛みが歯の数だけズキン、ズキン、ズキンと激しく痛み、声は言葉にならず獣の様な唸り声しか絞り出せません。声を出せばこの苦痛から少しでも和らぐのでは無いかと声を張り上げていたのかもしれませんが、あの時の自分はひたすら痛くて痛くて堪らず、この痛みから逃れたいというその一心でした。
永遠に続くかもしれない責め苦がようやく止み、私は自分を支えることも出来ずへたり込んだまま憔悴していました。
「はあはあはあ」
何なんでしょうこの娘は!
こんな目に合わせた娘への怒り、またあの痛みを味あわせられるかも知れないと思うという畏怖、得体の知れない娘への恐怖が心の中をグルグルと周ります。私は股間に尻尾を丸めて怯えた犬の様に喚くことしかできません。
そんな私に姫様は私が2度と見たくなかった鏡を目の前に持ってきて
「自分の顔、見て」と言ってきます。
私にとってこの上ない屈辱です。
瞬時にして頭に血が上った私は先ほどのことも忘れ、叫びました。
「嫌味はやめろって言ってるんだろ! 見たくもないモノ見せて何が楽しいんだ!」
いえ、叫ぼうとしたのですが鏡に映る自分を見て、最後まで言葉が続きませんでした。失った歯がある自分がそこにはあるのです。
嘘! 何故? どうして?
何が何だか訳が分からず、頭は真っ白になった私に姫様の声が私に響きました。
「萬田様、醜女じゃない。でも怒りいぽいの良くない」
私は頭を激しく打ち突かれた感じがしました。私が苦しいと思っていた心の葛藤の正体、それは私自身にあるのだと。
姫様はこんな私を許し、萬田先生と呼んで下さいます。
一度は人生のどん底にあった私が生まれ変わった日。それは姫様にお会いした日なのです。
その後のお話はまたいづれの日に。
幕間、もう一話続きます。