大海人皇子と鸕野皇女
何だかんだで、大海人皇子と鸕野様は良い関係を築かれております。
∽∽∽ 大海人皇子視点によるお話 ∽∽∽
兄上が母上と大王の親族を引き連れて筑紫へと渡り、半年以上が経った。
筑紫への遷都などと強引過ぎるやり方は、何かを隠しているとみて間違いないであろう。
それにしても今回は規模が大き過ぎる。
筑紫への遷都と百済の救済。
唐と新羅を敵にまわしかねない危険な賭けだ。
一歩間違えば、国が滅びかねない。
鎌足殿に真意を正したいが、その行動自体が兄上からの離叛を疑われるかも知れぬと思うと、それも出来ぬ。
兄上の真意を見抜けぬと言う事は、判断するだけの情報が足りていないのだ。
兄上を出し抜こうとするのなら、兄上の居ないこの期間にこそ人望を広げ、情報網を広げなければならない。
そう思いながら、日々母上の名代を務めている。
鎌足殿といえば、毎日顔を合わせるがやはり彼は有能だ。
いや、有能という言葉では足らないな。
師事したくなる卓越した人物だ。
これまでの兄上が苦難を乗り切れたのは、鎌足殿によるところが大きいという事をつくづく感じた。
なのに兄上はその鎌足殿を置いて筑紫へと渡った。
有間の時もそうだが、謀をする時に限って鎌足殿の手助けを借りない様だ。
……違うな。
鎌足殿に謀を止められているのだろう。
謀とは諸刃の剣なのだ。
敵を屠ることが出来るが、強大な敵を作り出す結果をもたらすこともあるのだ。
……私がそうなったように。
そしてもう一人、飛鳥に残った鸕野と共に過ごす時が増えた。
最近の鸕野は子供らしさがすっかりと影を潜め、妙齢の女性らしさが日々増してきている。
しかしそれ以上に元からあったであろう聡明さに加えて、かぐやの教育を受けただけあって考え方が実に面白い。
言い合いになると鸕野には必ず言い負かされる。
だが、それを心地良いと感じるのは鸕野の考えには筋が通っているからだろう。
鸕野は鎌足殿と馬が合うらしく、話をしている姿をよく見る。
それを見て少々落ち着かない気持ちになるのは他の妃にはない感情だな。
思えば、最近妙にかぐやの事を思い返す事が増えてきた。
私は鸕野にかぐやの面影を重ねているのかも知れない。
かぐやは額田とも仲が良く、三人で何気ない話をしていたあの頃があんなにも幸せな事だったとは……。
後になってしみじみと分かるものなのだな。
当のかぐやと額田は母上と共に筑紫国へと行った。
母もご高齢なので無理をして欲しくはないが、かぐやがいればそれなりに安心できる。
筑紫からの便りが届くまではそう思っていた……
『帝が崩御された。
詳細については口に出来ぬため、取り急ぎ筑紫へと参られたい。
大戦の最中につき、葬送の儀その他一切について大海人に託したい』
母上が亡くなっただと!?
口に出来ぬ詳細とは何なのだ!
悪しき予感が次から次へと湧き出てくる。
だが、兄上がこの様な重大事を軽々に言う方ではないのは私がよく知っている。
私は鎌足殿に後を任せて、すぐさま筑紫へと向かった。
母上に懐いていた鸕野も付いて来ると言う事を聞かないので共に行く事にした。
残念な事に、鸕野は頭脳と体力は足手まといになり得ない。
断る理由が思いつかないのだ。
移動は陸路は馬を多用し、吉備沖は潮の流れに乗り一気に駆け抜けた。
風にも恵まれ、おかげで四日後には筑紫の地を踏む事ができた。
◇◇◇◇◇
「これが……母上なのか?
何かの間違いではないのでしょうか?」
筑紫に着いた早々、長津宮へと向かった。
そこには真っ白な白骨となった母上があった。
面影などまるで無い。
「残念だが間違いない。
すまぬがここでは人の耳がある。
場所を変えて話そう」
「お父上様、私もご同行させて下さい」
横に居た鸕野が兄上に嘆願した。
「其方は母上には特に可愛がられていたな。
良かろう、来るが良い」
特に渋る事なく鸕野の同行を許してくれたのが何故か意外に思えた。
奥の間へ行くと、兄上は自身の御簾に座り私たちを前に座らせた。
そして付きの者たちを下がらせた。
「あまり公に出来ぬ事ゆえ、この様に仰々しい形になってしまうのだ。
大海人の事だから口は堅いと思うが、決して外へは漏らすな」
「はっ、兄上の仰る事に否は御座いません」
今は従順な弟なのだ。
徹底して従順な態度で接するのが当たり前となっている。
「ふ……む。
結論から言えば、母上は筑紫の者の手により殺されたのだ」
「「!!!!!!」」
思い掛け無い事実に言葉が浮かばない。
「驚くのも無理はない。
筑紫殿とは話をした。
国として我々と対峙するつもりはないらしい。
此度の件は一部の暴徒がしでかした事だと言っている」
「その言葉は信じて宜しいのでしょうか?」
「信じるも信じないもない。
私とて戦準備の最中に国を割って争う事など望んではおらぬ。
筑紫殿も我が意を汲み、非を認めた上でこちらからの提案を呑むことで手を打った」
「提案とは、一体?」
「二度とこの様なことを起こさせぬための方策だ。
だが話がついた以上、このことを公にしないことが重要なのだ」
「もっともです」
「故に母上は朝倉宮で急病により亡くなった。
それでいいな?」
「は、承りました。
それにしましても母上が襲撃を受けた言う事は被害は相当に甚大なのでは?」
「いや、母上はごく限られた供を引き連れて朝倉宮へと引き籠り、祈祷を行っていたところを狙われたのだ」
「もしかして建とかぐやもか?」
鸕野が声を荒げて兄上に問いただした。
あまり褒められた行動ではないが、已むを得まい。
「残念だが焼死体のいずれかが建とかぐやだと思われる、と報告を受けた」
「まだ遺体を回収しておらんのかや?」
「していないのではなく、出来ぬのだ」
少し兄上がいら立っている。
宜しくないな。
「鸕野よ、気持ちは分かる。
だが兄上は全力を尽くしておられるのだ。
事情を知らずにまくし立ててはならぬ」
「うっ……、お父上様、取り乱しまして大変申し訳ございませんでした」
「鸕野よ、大海人と仲睦まじい事を私は喜ばしく思う。
遺体が回収できぬのは、襲撃の直後に豊国の山が火を噴き、溶岩と共に漏れ出た毒が朝倉一帯を覆っているのだ。
母上と連絡が取れなくなってから、連絡を取ろうとした者、調査しようとした者らが尽く毒を吸って死んだ」
「なんと……」
「ようやく調査が出来たのが半月後、その焼け跡から母上の焼死体を見つけたのだ。
装飾品が無ければ誰の遺体化は分からなかったであろう。
建もかぐやも宮の焼け跡に転がっている焼死体のどれかだろうが、区別がつかなかったそうだ」
「では妾は朝倉へ行って確認をさせて貰えぬでしょうか?」
「残念だが許可は出来ぬ。
毒の気が蔓延する中、命がけの調査でようやく母上のご遺体を回収できたのだ。
今も尚、毒の気は晴れておらぬ様だ。
幸か不幸か毒の気は山の獣も全滅させた故、喰われることは無い。
しかし風雨にさらされ朽ちていくことは止められぬ。
遺体の回収は難しかろう。
それに数百人の者が毒で死んだのだ。
辺り一体は阿鼻叫喚の様相を呈しているだろう」
何てことだ……。
まさかこのような形でかぐやが死んでしまうとは。
「残念です。
まさか神卸しの巫女ともあろう者がこのような形で命を落とすとは……」
「周りには、かぐやは帝に殉じたと申しておくつもりだ。
そうゆう事で大海人よ。
葬送の儀一切を任せるぞ」
「承りました。
しかしそうなりますと、兄上は即位の儀を執り行わなければならないのでは?」
「いや、暫くは即位はせぬ。
称制(※)の形をとるつもりだ。
今は帝のご遺志に従い、百済の再興に注力すべきだと考えている」
(※即位はしないけど同等の権力はあるよ、という政治形態)
……?
「承りました。
兄上のお考えの通りに。
それでは葬送の儀につきまして、祭祀の者共を集め、準備に取り掛かります。
陵墓の場所、形式などにつきましては私の方で決めて宜しいでしょうか?」
「其方に一任する。
頼むぞ」
「はっ、兄上のご期待に添えますよう励みます」
こうして兄上との話は終わった。
「旦那様、後ほどお話を致したいのですが宜しいでしょうか?」
「奇遇だな。私もそう思っていた」
鸕野はかぐやから教わったという『旦那様』という呼び方が甚く気に入っている。
呼ばれる私もまんざらではないが……。
私達は仮の屋敷へと向かった。
(つづきます)
以前にも触れましたが、中大兄皇子がなかなか即位しなかった理由は諸説あり、いまだ不明です。
本作品では、そのアンサーとしてこのようなストーリーを考えてみました。




