百済の滅亡
倭国に居た百済の王子、扶余豊璋と中臣鎌足が同一人物!? という説があります。
むろん本作はその説に則っておりません。
一報は突然やってきました。
「帝にご報告申し上げます。
百済の義慈王(ウイジャワン)が攻め込まれ、投降した模様。
詳細につきましては只今調査しておりますが、新羅に攻め込まれたものと思われます」
「馬鹿なっ!
新羅との戦ではむしろ圧していたはずだ」
皇太子様が声を荒げて、叫びます。
「余豊璋殿と話をしよう。
何か掴んでいるやも知れぬ」
「はっ、急いで」
帝の命で、報告していた官人さんが、百済の王子である扶余豊璋を呼びに行きました。
かなり時間が経った後、服装の違う外国人らしき方が入ってきました。
難波宮で見た覚えのある方です。
(※第185話『【幕間】鎌足の焦燥・・・(7)』に登場)
「お待たせした。私達も混乱しているところだ。
新羅が攻めてきただけとは考えられない。
本当か嘘か人を送って調べさせている」
やや片言な日本語を操り、要点だけを説明しましたが、まだ海の向こうで何が起こったのか把握していないみたいです。
おそらく歴史の通りならば、百済は唐と新羅の連合軍により攻め陥とされたハズです。
つまり、百済は滅亡したのです。
◇◇◇◇◇
八日後、早馬が到着しました。
筑紫国から出来たばかりの駅伝を使って馬を乗り継ぎ報せを持ってきました。
「報告いたします。
唐は水陸十万を超える兵が百済に攻め入りました。
唐と新羅の連合軍合わせて十五万の兵に対して、黄山之原において迎え撃ちましたが力及ばず。
義慈王の居城である泗沘城に迫り、義慈王は城を明け渡し、逃げたとのことです。
第二王子が城を守りましたが陥落。
逃れた義慈王は熊津城で降伏したとの事です。
その後、義慈王は囚われの身となりましたが、その後の行方は分かっておりません」
その場に居合わせた高官らは皆一様に厳しい表情です。
「王子らは皆、捕まったという事か?」
皇太子様が質問します。
「皆、囚われたとのことです」
「つまり百済の王子はここにおられる豊璋殿と禪廣殿だけという事か?」
「おそらくは……」
「豊璋殿。
この先、どうされるお積もりなのかお聞かせ願いたい」
「私は百済へと戻り、残った兵士らに合流するつもりだ。
私は百済の王を名乗る。
私がいる限り百済は存続する。
中大兄皇子様には援助をお願いしたい。
このようなときに助けを乞うために、十年以上私はここに居るのだ」
「……考えておこう」
「それでは私は筑紫国へと向かう。
弟の禪廣は連絡係としてここに残す」
そう言い残して、百済の王子は退室しました。
筑紫国には多くの百済からの移民がいるので、そこで情報収集をして海を渡るのだと思います。
重苦しい会議は終わり控え野間へ行くと、早速帝から声が掛かりました。
「そのようなことはあるまいと、心のどこかでは思っていた。
しかし其方の言う通りになってしもうたの」
「はい、私も外れて欲しいと願っておりました。
まさか目の前でそれを見ることになるとは思いもよらなかったことです」
「其方の言う通りだとすると、この先我らは兵を出して大勢の犠牲を出すのじゃな?」
「はい、私の知っている未来はそうなっております」
「では、ワシが派兵に反対すれば、それは回避できると?」
「申し訳ございません。
そうなった未来を私は存じませんので分かりません」
「そうか。
ワシとしても豊璋には悪いとは思うが、徒に我らが民の血を流させるわけにはいかぬ。
豊璋の顔を立てつつ、できれば回避したいのう」
「私もそう思います。
足掛かりを失うのは残念かもしれませんが、此度の報告を聞く限り用意周到に計画されていたと思われる節があります。
唐は戦力だけでなく、戦い慣れております。
長年に渡り蓄積された兵法の知識を元に、効率の良い兵の運用を心得ているはずです。
我々の二万五千の兵が、唐の四千の兵に翻弄されることもあり得ます。
兵法の知識とはそれほどに優れているものです」
【天の声】桶狭間か?!
「それほどまでに違うものなのか?」
「兵法につきましては私も聞きかじり程度の知識しか御座いません。
中臣様あたりは兵法の知識にも明るいかと思います」
「そうだな、聞いておこう。
それにしても何故、其方の知る未来のワシはその様な無謀なことをしたのじゃろう?」
「たとえ帝が反対されたとしても、戦を推し進める方が居られたのかも知れません。
そうなった場合に備えて、対案を考えておく必要があるかと」
「そうじゃな。考えておこう」
この時はまだ回避できると、私も帝も軽く考えておりました。
しかし、『歴史の修正力』は私が考えている以上に強大だったのです。
◇◇◇◇◇
「我々は豊璋殿を助ける責任がある。
百済は長い間、王の息子を我が国に置いた。
これは百済は我々を害する意思のない表れであり、代わりに危機が迫った時それを助ける。
それが約定だ」
「か……皇太子様。
我々に何も益をもたらさぬのではないのですか?」
百済が陥ちたという報告が入って以来、毎日のように御前会議が執り行われております。
皇太子様は百済救済の急先鋒となり、意見しております。
逆に中臣様はあまり前向きではない様子らしく、珍しく皇太子様の意見に否定的な見解を示しております。
「国と国との信頼こそが益だ。
我々の子孫の代に渡り財産となる。
一度失われれば、二度と取り返すことの出来ぬ財産だ」
「それは戦に勝てればの仮定での上です。
もし敗れれもしますと、新羅だけではなく唐とも敵対することになりかねません」
「鎌子よ、其方は蘇我と戦った際、敗れることを考えて戦っていたのか?」
「それは御座いません。
まず状況が違います。
我々は追い詰められておりました。
今はその様な状況ではございません」
「同じことだ。
ならば問うが豊璋殿から助けを求める書状が届いたら、其方は益がないから断ると返答するつもりか?」
「助けるにしましてもいくらでも方法は御座います。
海の向こうへは船の能力以上に兵士を送ることは出来ませぬ」
「ならば其方に命じる。
船を作れ!
3万の兵を送れるだけの船をだ」
完全に皇太子様のペースで会議が進んでおります。
「葛城よ。
戦とは数だけで決まるものではない。
それは分かっておろう」
帝が独善的になりつつある皇太子様に釘を刺します。
「無論です」
「ならば鎌子に聞く。
我が国の兵と将と唐の兵と将。
どちらの方が質が高いと考えるか?」
「申し上げ難いのですが、唐の方が優れていると言わざるを得ません。
兵士の持つ武器の質は断然に唐の武器の方が優れております。
我が国の将の知識は、唐の将の足元にも及ばぬでしょう。
字の読めぬ将が居るなど恥でしかありません」
身内に対して厳しい意見を言う中臣様。
「こちらには蝦夷を相手に負け知らずの阿倍引田比羅夫がおるだろう」
「確かに引田殿は名将です。
しかしその真髄は戦わずして勝つことを旨とする戦略でに御座います。
いざ合戦となりましたら、兵の質、武器の質、共に劣る状況では引田殿にとって厳しい戦いとなるかと思われます」
「ならば其方が将として出撃するか?」
「……皇太子様がお望みとあれば」
「分かった。
その様なことはあり得ぬが、其方がそこまでして反対するということはそれなりに根拠があるのであろう。
しかし私は国の責任ある立場ととして、不義理は許さぬ。
船の用意を忘れるな。
よいな!」
「御意」
海を渡っての戦争は攻める側が断然不利です。
圧倒的な戦力を誇る元軍と高麗軍との連合軍から編成されていた元寇も、最後まで博多を攻め落とすことが出来ませんでした。
現地の協力が得られるかどうか分からない状況であるのにも関わらず、皇太子様は開戦一直線なのは何故なのでしょう?
まさか、実は皇太子様は信義に厚い御方だった?!
……なんて事はないよね?
百済の滅亡について
百済は決して弱かったわけではなく、むしろ新羅を押し込んでいました。
その結果、百済の義慈王は増長してしまい、家臣のいうことを聞かなくなったとのことです。
唐から勧められた和平交渉にも決して首を縦に振らず、追い詰められた新羅は唐に泣きつきました。
新羅は真徳女王の代から十年以上掛けて、唐との関係を強固にしていたのです。
係争中の高句麗と仲の良い百済(※麗済同盟)が邪魔だった唐は『敵の敵は味方、敵の味方は敵』理論に基づき、660年3月に百済に派兵を決定しました。
※ちょうどこの頃、日本からの遣唐使は情報漏洩を恐れて幽閉されていたわけです。
唐と新羅が合流したのが6月。
最初の対戦となった黄山之原が7月9日。
義慈王は泗沘城を放棄して逃れた先の熊津城で降伏したのが7月18日。
その間、王子たちは唐の将軍に撤兵を懇願しましたが聞き入れられませんでした。
用意周到に準備され、電光石火で攻め込まれたみたいです。
情報も兵力もすべての面で相手が上だったのですから、叶うはずがありません。




